「おもしろいから書くのではない、書いているからどんどんおもしろいことが増える」——くどうれいんさんによる「日記の練習」がはじまります
小説、エッセイ、短歌、俳句とさまざまな文芸ジャンルで活躍する作家、くどうれいんさん。自身が創作する上でとても大切な要素になっているのが「日記」です。そんなくどうさんにとって日記とは何なのでしょうか。
「日記の練習」をはじめます
十代後半、すべての歌がわたしのことを歌っているように感じた時期があった。風が吹いても魚が跳ねても自転車からへんな音がしても同級生が捻挫しても、それがわたしの人生のとびきりの出来事だと本気で思った。毎日書き留めておきたいことがありすぎて、それなのに、書き留めている間のわたしのことは書き留めることができない。その途方もなさにマウスを放り投げたくなるようなきもちがした。わたしはそういう日、とにかく日記を書いた。日記を書いて、書いて書いて書いて、まだ、書いている。十代の頃よりも「書かなければ」と心臓がばくばく鳴ってどうしようもないような日は随分減ったけれど、それでも「書き残しておきたい」と思うことは、一日のうちにいくつもある。
日記を書き続けるようになると、大事でないことから書き残されることが増えておもしろい。どこかへ行ったとか、何を食べたとか、他人から「きのうはどんな日だった?」と尋ねられて答えるようなことをわたしはあまり日記に書かない。覚えていられることは書かなくていい、だって覚えているのだから! それよりも、いつもより鳶が低く飛んでいたとか、ささくれが薬指の両側に出来てクワガタみたいでかっこいいとか、そういうくだらないことばかり書いている。日記を書きはじめると、生活の中で(あ、これは日記だ)と思う瞬間が来るようになる。読者の方に「くどうさんはおもしろいことがたくさんあってたくさん書けていいですね」と言われて、あれは悲しかった。たくさん書いていると、たくさんおもしろいことが見つかるだけなのに。おもしろいから書くのではない、書いているからどんどんおもしろいことが増えるのだ。
「十代からずっと日記を書いています」と言うと「すごいですね、わたしはぜんぜん続かなくて」と言われてしまう。そのたびに(この人は日記を「続けるもの」と思っているのだな)と思って、(続く日記なんてなにもおもしろくないのに)と思う。
わたしは日記を書いていると得意げに言うわりに、毎日欠かさずに書こうと思ったことは一度もない。一文字も書かない日が数週間続くこともあれば、思い立ったように連日四千字くらい書くこともある。ブログサイトを構えて書くこともあれば、ワードを開いて書いたり、ツイッターの下書きにとにかく長文で下書き保存しておいたりしている。だから消えたりなくしたりもする。わたしの十年以上の日記はもう一本化して読み直すことはできない。
そう考えると、わたしは「十代からずっと日記を書いています」ではなくて「十代から日記をつけたりやめたりを繰り返しているが、日記を書きたいと思うきもちは持ち続けています」と言うべきなのかもしれない。最初こそ書けない日が続くと「さぼってしまった」と思ったものだが、次第に「わたしのような人間の日記が毎日律儀に同じように続くわけがないだろう」と思うようになって楽になった。
わたしにとって日記は「日々の記録」ではない。「日々を記録しようと思った自分の記録」だ。できる日とできない日があり、その緩急がわたしらしいと思う。
毎日欠かさず決まったノートに日記を書いている人の日記と自分の「日記」を同じものだと思えない。そんなに継続して毎日同じことができる人に、日記って本当に必要なのだろうか、とすら思う。日記を毎日書ける人はきっとたんすの中の靴下もきれいに整頓されているんだと思う。わたしはそうではない。たんすの中では靴下がとりあえず靴下であるというだけで押し込められていて、履こうと思うたびに神経衰弱のようにもう片方を探す。でも、それでいいじゃないか。わたしは、むらがある日記ほどいい日記だと思っている。うまくいきすぎてあっという間だったりうまくいかなすぎてあっという間だったりして押し流される日々の中で、杭を打つようにせめて書くから日記は味わい深い。
だから、「日記に挫折する」というのがわたしにはよくわからない。ノートがなくても、ブログがなくても、日記は死ぬまで勝手に続くものだと思っているからだ。書けなくても書かなくても、あなたの人生の空白のページは一日分捲られる。
「日記をはじめようとして挫折した」と言う人ほど、立派な日記帳を用意して続かない日記帳が余白ばかりであることを後悔しているように見える。日記を書くことは継続力の修行ではない。日記を書こうとするあなたのことを、そのずっと先のあなた自身が一文でも見返すことができればそれでいい。余白が多い日記帳のまま死んでも、そういう人間でした、へへへ。と愉快に思えばいいだけの話なのだ。
もしかしたら、日記に挫折すれば日記を書く人生から抜けられるとでも思っているのかもしれないが違う。生きている限り、日記に挫折した人生は続いている。あなたの日記は挫折したまま、もしくは一度も書かれないまま続く。もし余白が本当にいやなら自分で書くしかない。あなたの日記はすでに開かれている。
「日記を書きたいと思うきもちを持ち続けている」それだけでもう、ほとんどあなたの日記は上出来だ。きょうも書きたかったけれど書けませんでした、という一文が透明な文字であなたの肋骨の裏に浮かぶようになれば、それはもう日記なのだ。だから、ふてぶてしく「書きたい」というきもちをわたしといっしょに持っていてほしい。そして、できればむらのある日記をわたしといっしょに書いてほしい。
書くと生活はおもしろくなるということをひとりでも多くの人にわかってほしい。そういう話をたまたま担当さんとしていて、それでこんな連載をはじめることになった。わたしと同じように日記と向き合えば、日記に挫折することはきっともうない。(その代わり、残念ながらたぶん継続力もたいして身につかない。)
日記に対する新しい指南書になれば、と担当さんに言われたけれど、正直そうするつもりはあまりない。わたしのこれは日記。あなたのそれも日記。日記と言い張ることができればどんなものでも日記なのだから、だれかに教わる必要はない。けれどもしかすると「これが自分の日記だ」と言い張ることがいちばんむずかしいのかもしれない。だから、「日記の練習」をはじめることにした。
わたしの日記を公開することで、なんだこれでいいのか、こんなんでいいならわたしだって書ける、わたしのこれだって立派な日記だ!と思ってもらって、そうしていろんな人の日記が読めるようになったらいいなと思う。
日記の断片がたまに姿を変えて作品の一部になることもある。わたしは仕事としてしゃんとしたエッセイを書くときに、日記をがしゃんがしゃんとくっつけて書くような作りかたをすることがあるので、せっかくなので月に一度はひと月の日記を振り返ったすこし長めの「日記の本番」も書いてみようと思う。
あなたの日記はもうはじまっている。「これが自分の日記だ」と胸を張って言うことができるように。わたしといっしょに、「日記の練習」をはじめましょう。
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タイトルデザイン:ナカムラグラフ
プロフィール
くどうれいん
作家。1994年生まれ。著書にエッセイ集『わたしを空腹にしないほうがいい』(BOOKNERD)、『虎のたましい人魚の涙』(講談社)、絵本『あんまりすてきだったから』(ほるぷ出版)など。初の中編小説『氷柱の声』で第165回芥川賞候補に。現在講談社「群像」にてエッセイ「日日是目分量」、小説新潮にてエッセイ「くどうのいどう」連載中。
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