国難の時こそ政府の力が問われる――『総理になった男』中山七里/第5回
「もしあなたが、突然総理になったら……」
そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。インバウンド消費の向上によって景気回復を実現した慎策。しかし喜びも束の間、その政策を嘲笑うかのように、日本だけでなく世界中を巻き込む未曾有の事態が――
*第1回から読む方はこちらです。
二 VS感染症
1
『東京都は二十日、都内で新たに百二人が新型コロナウイルスに感染していることを確認したと発表し、これで都内で感染が確認された人は合わせて三千百八十四人になりました。また、これまでに感染が確認されていた六人が死亡したことを明らかにしました』
テレビ画面の中で、NHKのキャスターは深刻そうにニュースを読んでいた。
次いで全国の感染状況の説明に入る。日々の数値は統計局が報告してくれるので、既に慎策は詳細を知っている。他に注目されているニュースはないかとチャンネルを替えてみたが、どの局でも扱っているのは感染症の話題だった。
当然だろうと思う。今や国民の最大の興味はパンデミック(感染爆発)の現在だ。どの県が危険なのか、死者が一番多いのはどこなのか。自分の住んでいる地域が安全だと思いたいがために、他所の感染者数との比較に一喜一憂する。結局はこの国にウイルスが蔓延していくのは分かりきっているのに、遠い恐怖よりも身近な安心を求めてしまう。
「テレビ、切りましょうか」
横で慎策の様子を見ていた円谷がリモコンを手にした。拒まなかったのでそのまま切られたが、どのみちテレビに齧りついているヒマもない。
「まさか、こんな事態になるとは。しかもコロナ対策分科会の予測では更なる感染拡大を示しています」
自分でも抑えきれないのだろう。円谷は言わずもがなを口にする。慎策に不安を洩らすのは、やはり一国の首相に対する期待の表れなのだろう。
だが未だ慎策は期待に応える術を知らない。パンデミックは医療分野の大事件であり、国内政治や外交に特化された政治家には不慣れな事案だ。
昨年の暮れ、中国湖北省武漢市から世界中に広まった新型コロナウイルス感染症は四月になっても終息どころか鎮静化の兆しさえ見えない。はじめのうちこそ対岸の火事のように捉えていた国民も、国内で最初の感染者が確認されたのをきっかけにじわじわと恐慌状態に陥った。今では戦々恐々と日々の感染者数を眺めている。
戦々恐々としているのは政府も同様だ。当初、海外からの感染者を水際で食い止めようと空港でのPCR検査を強化しようとしたが時すでに遅しで、感染者は全国に散らばった後だった。専門家会議は人と人との接触で爆発的に感染することを指摘している。言い換えれば、感染拡大防止のためには人間同士の接触を必要最小限にしなければならない。狭い空間、密閉された空間に集まってはいけない。催事は控えるべきであり、不特定多数が飲食をともにするなど以ての外だ。当面の間は「密閉」「密集」「密接」を避けなければならない。
だがそれは消費行動の極端な制限でもある。
「PCR検査や外来患者の殺到で、医療現場からは悲鳴が上がり始めています」
円谷がテレビを切ったのは報告をするためだったか。
「このまま感染拡大が進めばコロナ以外の患者の診療に支障が出て、医療崩壊の危険性すらあります」
「槙田厚労相から直接聞いています。海外で開発されたワクチンの認可を早めてほしいと要請されました」
「しかし現行法では認可に時間がかかります」
「ええ。それで槙田さんからは緊急承認制度の創設を盛り込んだ医薬品医療機器法(薬機法)の改正案を提出したいと申し入れがありました」
普段は厚労族からの要求に倦んでいる印象の槙田が、今回は顔色を変えて陳情にやってきた。自身が議員になる前は医師をしていた事情もあるのだろうが、陳情にも必死さが窺えた。まるで親の死に目に訪れたような切実な態度だったのだ。
いずれにしても早急に対策を打たなければならない。まるで蠟燭を両側から燃やされるような切羽詰まった感覚だった。
「総理、そろそろ会合の時間です」
「そうでしたね」
慎策は居住まいを正し、その場で待つ。やがて執務室に現れたのは洒落たマスクで口を覆った女性だった。
「こんばんは、総理」
一国の総理を前に物怖じ一つしない。彼女こそ東京都知事、大海日南子だった。
立ち居振る舞いも堂々としたもので、首相官邸を勝手知ったる庭のように闊歩する。それもそのはず、大海は以前防衛大臣まで務め上げた国民党の中堅議員だった。そのまま要職を歴任すればいずれは総理との声もあったが、何を思ったか議員を辞職して知事選に出馬し見事当選して現在の地位を手に入れた。それだけではなく、野党まで立ち上げようとしたのだから恐れ入る。議員時代から今に至るまでニックネームは〈最後の女傑〉だ。
「お忙しいのに貴重な時間を割いていただきありがとうございます」
「お相手が都知事ならいつでも歓迎ですよ。しかしコロナ禍の折、マスクを着用してわざわざ世間話ではないでしょう」
「そうですね。お互い忙しい身なので単刀直入に用件を申しましょう。明日の都の定例会見で、東京都は〈三密〉を回避する目的で都内の大規模施設の運営事業者及びテナント事業者等に対し休業要請をする予定です」
慎策の横に控えていた円谷がぴくりと肩を上下させた。
「それから一都三県の人の行き来を必要最小限のものに留めます」
慎策は生唾を飲み込んでから口を開く。
「埼玉県と千葉県、神奈川県もですか」
「既に各知事とはテレビ会議で合意を得ています。三知事も同刻の会見で同じ内容を発表する手筈になっています」
「それにしても大海都知事」
少し上擦った声で円谷が間に割って入る。
「あまりに突然ですね。せめて一週間前にお話しいただきたかったです」
「一週間」
大海は小馬鹿にするように繰り返す。
「その一週間でどれだけの都民がコロナに感染するとお思いですか。おそらく千人二千人では足りませんよ」
「都が休業要請に踏み込んだ今、政府も何らかの対応を迫られることになります」
円谷の焦りは分かるが、これも言わずもがなだった。一都三県が事業者に休業要請を出すなら、政府が静観を決め込む余地はなくなる。
大海は政府に決断せよと刃を突きつけにきたのだ。
「わたしはもちろん、これで充分とは考えていません。我々一都三県の取り決めだけでは限界があります」
「東京は人の流入が多い都市ですからね。一都三県が纏まっても限界があるのは分かりきっています」
緊急事態宣言。大海は明言しないものの、明らかに宣言の発出を政府に求めている。
「ええ、その通りです。日本全体が人の動き、延いては経済活動を制限しなければ感染は拡大する一方です。現に中国の武漢をはじめイタリアやフランスもロックダウンを行っており、必要不可欠な場合を除いて外出が禁止されています」
「都知事は日本でもそれくらいの荒療治が必要と考えているのでしょうか」
「それはわたしではなく、総理がお決めになることです」
そう言い放つと、用は済んだとばかり大海は席を立つ。
「もうお帰りですか」
「申し上げたようにわたしも総理も忙しい身ですからね。いえ、わたしなんかより総理の方がずっと大変でしたね。背負うものの量が桁外れですから」
大海は執務室から出る際、一度だけこちらを振り返った。
「甚だ僭越ですが、総理。これは国難です」
慎策の怯懦を射貫く、まるで殺意のような視線だった。
「ここで舵取りを誤れば、日本は失われた三十年どころか半世紀以上も停滞するでしょう。その昔、ペストやスペイン風邪に見舞われた都市や国家が立ち直るのに半世紀近くを要したようにです」
権力者ではなく為政者の目だった。
「国難の時にこそ政府の力が問われます。よろしくお願いしますよ、総理」
大海が立ち去ると、室内は一気に空虚さが漂う。まるで台風のような人間だと思った。
「色々と好き勝手なことを言ってくれましたね」
いいように振り回されたのが口惜しいらしく、円谷は珍しく悪態を吐く。
「しかし官房長官、彼女の言説は間違っていませんよ。早いタイミングでロックダウンなり何なりしなければ取り返しのつかないことになる」
「易々と知事の口車に乗るのは危険です。そもそも東京都と日本全国では事情が大きく異なります」
円谷は慌てた様子で言葉を続ける。
「同じロックダウンでも東京都単独であれば、休業要請した企業への補償も賄えるでしょう。自治体の中では最大の予算を誇っていますからね。多くの大企業を抱え、財源にも困らない。しかし全国となれば赤字財政の自治体の方が多いのが実状です。緊急事態宣言をしたはいいが、その後の休業補償が果たされなければ政府は野党の猛批判に晒されます」
当然、慎策にもその懸念はある。何事も始めるのは簡単だが終わらせるのが難しい。緊急事態宣言も同様で、解除後の対応如何で国の経済が大きく様変わりするだろうことは目に見えている。
「都知事が今夜乗り込んできたのは、明後日の臨時国会を見据えての行動に相違ありません。総理、大海氏は都知事選圧勝の勢いを借りて野党を作ろうとした人物です。この機に乗じて政府延いては国民党の勢力を殺ぐ計略かもしれません」
円谷には古巣の国民党に反旗を翻した大海の印象が根強く残っているのだろう。だが慎策が真垣総理の替え玉を務め始めた頃には、既に彼女が都知事に当選した後だったから円谷ほどの悪印象はない。
「確かに女傑というのは当たっていますね。抜け目のなさも感じます。しかし、だからと言って彼女のやること為すこと全てが権謀術数と考えるのは少し虚しくありませんか」
「虚しい、ですか」
円谷は意外だという口調で返してくる。
「いみじくも大海都知事が言われたように、今は国難です。国難が迫れば小異を捨ててこれにあたる。それが議員たる者じゃありませんか」
「総理は性善説なんですね」
「時によりけりです」
「感染拡大で人心は疑心暗鬼を生じています」
「だからこそ、わたしは他人を信じたいと思うのです」
国会には大きく分けて「常会(通常国会)」「特別会(特別国会)」「臨時会(臨時国会)」の三つがある。常会は年一回、一月中に召集され、主に次年度の予算などを審議する。会期は百五十日間で、両議院の一致した議決により一回だけ会期を延長することができる。
特別会は衆議院が解散した後の総選挙の日から三十日以内に召集され、 内閣総理大臣の指名などを行う。会期は両議院の一致した議決により決められ、二回まで延長することができる。
臨時会は内閣が必要と認めた時、または衆参いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があった時に臨時に召集される。特別会と同じく会期は両議院の一致した議決により決められ、二回まで延長することができる。主に補正予算や外交といった国政において緊急を要する議事を審議する。今回の新型コロナウイルス感染症の拡大防止に関する審議がこれに当たる。
慎策は閣僚とともに議場への回廊を進む。既に内閣からは新型コロナ対応の特別措置法が提出されている。細部を詰め、修正案が出たら後は議決を取るだけだ。現状、衆議院において与党国民党は過半数の議席を獲得しているため、採決に持ち込めれば可決できる。その後は参議院本会議で可決されれば、無事に特別措置法は成立する見込みだ。
特別措置法には緊急事態宣言を首相の管掌事項にする旨が明記されている。従ってこの法案が成立しない限り、慎策は緊急事態宣言を出すことができない。
「問題は民生党をはじめとした野党がどの程度反対に回るかですね」
後ろについた円谷が心配そうに声を掛けてくる。
「国難にもかかわらず、ですか」
「わたしは残念ながら諸手を挙げて性善説を信じることができません。ご承知でしょうが、野党の中には国難よりも党利党益を優先する者もおり、そういうのに限って目立つ振る舞いをする。多くの議員がそうした輩のパフォーマンスに踊らされないよう祈るばかりです」
議場に近づくにつれ、慎策の心拍数が上がっていく。いざ舞台に立てばクソ度胸で何とかなるが、寸前までは不安と緊張で心臓が口から溢れ出そうになる。売れない役者の頃からその傾向があったが、総理の替え玉になってから拍車がかかった。
緊急事態宣言は国民の生命や健康、生活を守るために、内閣総理大臣から都道府県知事に対策を取るよう依頼するためのものだが、「いつ」「どこで」「何をするか」を明示しなくてはならない。つまり都道府県知事の介在があるものの、総理大臣が全国の経済と流通と医療について権力を発動する格好になっている。
自分が強権を発動するだと。馬鹿馬鹿しい。
いったい何の冗談かと思う。こんな人間に強大な権力を与えるな。
だが内心の怯懦は視界が開かれると同時に雲散霧消した。
衆議院本会議場、ここが自分に与えられた舞台だ。役者なら加納慎策という一般市民を忘れ、真垣統一郎を全力で演じきるしかない。
イッツ・ショータイム。
国民党議員の拍手に迎えられて慎策は議長席左側前列、議長に一番近い席に座る。本来であれば任命したばかりのコロナ対策大臣の座る位置だが、今回ばかりは総理大臣の専管となる。
それにしても異様な風景だと思った。
議場内にひしめく四百六十五名の議員と事務局職員、加えて演壇下の速記者や出入口を固める警備員全員がマスクを着用している。コロナウイルスが感染を広げている現在では当然の光景かもしれないが、頭を冷やして再見するとこの世の終わりのような気がしてしまう。
議長により開会が宣言され慎策が演壇に立つと、国民党議員から盛大な拍手が贈られた。
慎策が軽く一礼した瞬間、議場が静まり返った。
「本日お集まりいただいたのは、今世界を、そして我が国を覆っている災疫から国民の健康を護るための法案について審議するためです。こうして演壇から皆さんのマスク姿を見るにつけ、これが途轍もない異常事態であることがひしひしと感じられます」
その時、どこかで咳が聞こえた。静まり返っているので音の出処はすぐに分かる。当の本人は慌てて下を向いている。
「今、どなたかが軽い咳をしました。以前は野次で聞きづらかった答弁を思うと隔世の感があります。野次は国会の華という言葉もありますが、今は咳一つ憚られる世の中です。異常としか申し上げられません。昨日、一都三県は各事業者に対し休業要請を出しました。今後、夜の繁華街はゴーストタウン状態が続くでしょう。常時利用客の絶えなかった東京駅でさえ人影はまばらとなっています。これも異常事態です。我々は国民の健康を護るとともに経済も回していかなければなりません。その第一歩として緊急事態宣言を含む新型コロナ対応の特別措置法を成立させていただきたい」
「では審議に移ります。佐保太郎くん」
指名されて立ち上がったのは国民党の佐保だ。最大派閥須郷派次代のホープと謳われ、党内での存在感も日増しに大きくなっている。
「総理におかれましては連日のコロナ対応と関係各所への対応でご多忙と存じます。しかし決して多忙を理由にPCR検査を厭わないでください。今、日本で一番コロナに倒れたらいけないのはあなたなのですから」
質問内容は二日前から通告され、答える側も事前レクを重ねている。しかも身内からの質問は半ば応援のようなものだ。
「今しがた緊急事態宣言の話が出ましたが、同宣言を発出する条件は、国民の生命や健康に著しく重大な被害を与える惧れがある場合と、全国的かつ急速なウイルス蔓延により国民生活と経済に甚大な影響を及ぼす惧れがある場合、この二つの要件をいずれも満たす必要があると法案にあります。二つの条件を満たしていると判断する根拠は何でしょうか」
「内閣総理大臣、真垣統一郎くん」
「ウイルス蔓延の実態把握については全国医療機関の報告を受けて。国民生活と経済に対する影響については実質国内総生産(GDP)成長率をはじめとした各種指標と就業者数の増減を判断基準とします。重要なのはこれらの判断を週毎ではなく日毎で行うことです。一週間も待っていたら対策よりも感染拡大が先行して実効力が減衰してしまうからです」
「ありがとうございました」
同党からの質問はセレモニーのようなものだ。実質的な審議はここから始まる。
次の質問者は民生党代表、如月継夫だった。
「総理にお伺いします。内閣の原案によれば、緊急事態宣言対象地域の都道府県知事は学校の休校や百貨店や映画館など多くの人が集まる施設に対して使用制限などの要請や指示を行える他、特に必要がある場合は臨時の医療施設を整備するために土地や建物を所有者の同意を得ずして使用できるようになると明記されています。更に緊急の場合、運送事業者に対し医薬品や医療機器の配送の要請や指示ができる他、必要な場合は医薬品などの収用を行うともあります」
如月の声はマスクに邪魔をされてくぐもって聞こえる。本人はマスクを外したいようだが、質問中では叶わないので顔を顰めている。鼻から上だけで読み取れるのだ。マスクを外せば尚更だろう。
「これらの付帯条項は即座に緊急事態を宣言できる、つまり過去に国民党が出した改憲草案に酷似したものであります。いかにコロナ禍で国民全体が冷静な判断力を失くしているからとは言え、後の改憲草案に直結するような条項を特別措置法に盛り込むのは姑息な手段ではありませんか」
「内閣総理大臣、真垣統一郎くん」
「衆議院内閣委員会では緊急事態宣言に基づく措置は国民生活に重大な影響を与える可能性があり、宣言を出す要件に該当するかどうかは多方面からの専門的な知見に基づいて慎重に判断するとともに予め感染症の専門家などの意見を聴くとしています」
ここまで慎策は用意された原稿を読むだけだった。原稿自体は各府省等で作成された案文なので説明的に過ぎ、読んでいても生硬な感触しかない。
これでは国民に上手く伝わらない。慎策は原稿から目を上げた。
「緊急事態宣言の発出にあたっては、可能な限り国会で事前に報告します。政府与党が火事場泥棒よろしく改憲を進めているとお考えなら、その都度チェックすればよろしいでしょう」
「如月継夫くん」
「そうはいってもですね、いったん緊急事態宣言が発出されてしまえば行政機関に強大な権限が与えられてしまいます。それこそ国民の自由と権利を甚だしく脅かすものです」
「内閣総理大臣、真垣統一郎くん」
「では各小委員会で使用制限について付帯決議を出していただければいい。今は枝葉末節よりも先にアウトラインを決めるべきです」
「如月継夫くん」
「更に原案では経済への影響を踏まえ、消費と雇用に重点を置いた万全の金融・財政政策を講じることや一定以上の減収があった中小企業や個人事業主などには事業が継続できるよう配慮することとあります。打撃を受けるであろう中小の事業者に目配りされた素晴らしい内容ですが」
マスク越しでも嫌みな口調と視線は丸分かりだ。審議がテレビ中継されているのを知っての立ち居振る舞いなら、視聴者に悪印象を与えてでも目立ちたいのだろうか。
「ところが肝心な説明が意図的に省略されています。休業補償に充てる予算についてであります」
くそ。
事前に通告された質問では予算について触れられていない。土壇場で慎策を狼狽させるため、昨日のうちに差し込んだに違いない。
財源について訊かれるのは痛かった。従来であれば財政法に則り特別会計を設置するか、もしくは国債の発行で補うという答弁で済ませただろう。だが、ただでさえ赤字財政の上に国債を発行すれば財務省が反発するのは目に見えている。如月の執拗さを考えれば財源不足を突いてくるのも必至だった。
「政府は消費税増税を進めていますが、裏を返せばそれだけ税収入が枯渇している証左であります。つまり空っぽの財布を見せつけながらお前に払うカネはあると言っているようなもので、まるで説得力はありません。まさか赤字国債に頼るつもりなら、それは債務を子ども世代に先送りするだけであり、本末転倒でしかありません。財源をどのように捻出するのかお答えいただきたい」
やはり、そうきたか。
内心で舌打ちをした瞬間、慎策は上手い切り抜け方を思いついた。
「内閣総理大臣、真垣統一郎くん」
「全国津々浦々、事業者には様々な形態と様々な規模があります。一年を通じて営業している業者もあれば、特定の期間だけ働く業者もいます。まだ実際に休業していない現時点で、必要な補償額を算出することは困難ではありませんか」
問い返された如月の顔が歪む。よし、相手の意表を突いたらしい。
「必要な額が分からないまま財源を確保するというのも本末転倒であると申し上げるしかありません。無論、補償額が決まってからあたふたとタンス預金の残高を検めるような愚行は論外として、今はまず枠組みを決めることが先決です」
この答弁に対し、如月が挙手して再度質問の意思を示す。
「総理、思い出していただきたい」
そう切り出してから、如月は目で嗤っていた。
「今回のコロナ禍ですが、そもそもは中国武漢に端を発しています。中国本国は武漢をロックダウンさせたというのに、日本では水際対策が遅れに遅れ、春節の観光客を多く迎え入れてしまいました。これは先に政府が打ち出したインバウンド政策の影響だったのではありませんか」
喉の奥が詰まった。
口惜しいが、如月の指摘は正鵠を射ているとは言いがたいものの、間違ってもいない。インバウンド政策を展開する以前の訪日客数は惨憺たる有様だった。ビザの発給自体に規制が掛かっていたのだから当然なのだが、もし訪日客を制限したままであったら春節に中国人観光客が日本に押し寄せる可能性も低かった。
どれだけの中国人観光客が新型コロナウイルスを国内に持ち込んだのか検証する術もないが、国民の疑心暗鬼に訴えかける効力は絶大だ。
「自らの失策で招いた惨事を赤字国債の発行で糊塗しようとする。これは甚だ無責任かつ姑息な行為であると言わざるを得ません」
途端に野党の面々から盛大な拍手が沸き起こり、慎策は言葉を失う。訪日客を爆発的に増やし相応の結果を出して評価されたはずの政策が、まるでオセロの駒のように白から黒に反転してしまった。
「内閣総理大臣、真垣統一郎くん」
完全に意表を突かれたかたちだが答弁しない訳にはいかない。
「政府としてはその都度最適解と考え得る政策を打ち出してきました。言い訳になるかもしれませんが、今回のような新型コロナウイルスのような災厄をいったい誰が予測し得たでしょうか。ウイルスの感染爆発は政府の失策ではなく、まさに天災と言って然るべきでした」
「それは論点のすり替えです。インバウンド政策の強行がなければ、これほど国内で感染が拡大することはなかった。それは確実です」
断言した後、如月は満足そうだった。慎策と与党議員の反応から論破を確認したからだろう。慎策は泥に塗れたような気分で着席する。一敗地に塗れるとは、このことだろう。
事態が事態であり、緊急事態宣言を含む新型コロナ対応の特別措置法案は数日間の審議を経て、賛成多数で可決、直ちに参議院本会議に送られてここでも可決された。
こうして予定通り特別措置法は施行される運びとなったが、政府与党の払った代償も決して小さくなかった。世間やマスコミには真垣政権による、数にモノを言わせた強行的採決との印象を払拭しきれず、報道各社が行った世論調査では支持率を一気に五ポイントも下げる結果となった。インバウンド政策の成功で積み重ねた支持率が、同じ政策による悪影響で同程度の下げになったのは皮肉としか言いようがなかった。
慎策は心中で歯嚙みするより他なかった。
プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。
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