日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔マダムと黒猫〕 新井見枝香
※当記事はエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第22回です。第1回から読む方はこちらです。
旅先の温泉街で喫茶店に入った。急勾配な坂の途中にあり、ともすれば看板に気付かず通り過ぎてしまう、ひっそりとした佇まいだ。趣味の合う知人の勧めがなければ、薄暗い地下へ降りるのを躊躇ったかもしれない。背筋の伸びたマダムにコーヒーを注文し、サンドイッチを待つ。ひとり客の私は、マダムとのちょっとした世間話が嬉しく、聞かれたことに答えたり、常連客を交えた話題に口を挟んだりした。本当は、店名の由来を訊ねたかったが、せっかくの歓迎ムードを壊したくはない。ただでさえ緊急事態宣言が発令されたばかりの時期で、〈県外の客は入店お断り〉と入り口に掲示する飲食店が多かった。観光客に人気の店は、軒並み休業している。そんな中でマダムは、東京から来た私に「気にしなくていいのよ」と言ってくれたのだ。
入り口の看板には、黄色い帽子を被った黒人のイラストがあった。どうしても、トラがぐるぐる回ってバターになる外国の絵本が思い浮かぶ。『ちびくろサンボ』は決して黒人を差別するような内容ではなかったが、「サンボ(Sambo)」が黒人に対する蔑称だとアメリカで抗議を受け、日本でも絶版になったことは、書店員ならずとも有名な話だろう。しかしマダムがここで喫茶店「くろんぼ」を始めたのは、四半世紀も前のことだ。時代が違う。店内には、ジャズが流れていた。マダムの恋人が黒人だったのかもしれない。陽気に見えるマダムにも、忘れられない恋があって、彼との思い出を胸に、海の見えるこの町で喫茶店を営んでいるのだ。
『教養としてのアメリカ短篇小説』は、アメリカ文学研究者である都甲幸司が、アメリカの歴史や文化、作品が書かれた当時の社会的背景などを踏まえて、作品を読み解く方法を教えてくれる。そこには、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、サリンジャーと、村上春樹ファンには馴染み深い作者が取り上げられている。しかしポーだけは異色に思えた。エドガー・アラン・ポーの『黒猫』は、10代の頃にホラー小説として読んだが、およそ教養とはほど遠いイメージがある。
主人公の男は酒癖が悪く、かわいがっていたはずの黒猫を殺してしまう。しかしその夜、男の家は原因不明の火事で全焼し、焼け残った壁には殺された猫の影がくっきりと浮かび上がった――。
黒人の歴史と黒猫がどうかかわるのかは、「本がひらく」で掲載中の一部紹介も読んでもらいたい。
男はなぜ、大切にしていた黒猫の片目をえぐったのか。なぜ黒猫の報復と思われる怪奇現象が起きたのか。そこに拘るのは、ホラー小説としての楽しみ方ではない。エンタテンイメントのために、男は動物を虐待する人間であり、猫は黒くある必要があったのだ。
しかし作品が書かれた頃のアメリカ社会に目を向けると、そこに理由が浮かび上がってくる。文学ばかりでなく、歴史や背景にも興味を向けることで、海外文学の「ピンとこない」感じは、だいぶ解決されるだろう。
ところで「くろんぼ」という店名の由来だが、ネットで検索するとあっさり判明した。1960年代にブームを起こした、腕に抱きつくビニール人形にちなんで、みんなに愛されるお店にしたいという思いがあったらしい。私の妄想は、いささか文学的教養に偏りすぎている。
プロフィール
新井見枝香(あらい・みえか)
書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。
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