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サボる哲学 リターンズ! 第2回 注文できない料理店

我々はなぜ心身を消耗させながら、やりたくない仕事、クソどうでもいい仕事をし、生きるためのカネを稼ぐのか? 当たり前だと思わされてきた労働の未来から、どうすれば身体をズラせるか? 気鋭のアナキスト文人・栗原康さんの『サボる哲学』(NHK出版新書)がWEB連載としてカムバック。万国の大人たちよ、駄々をこねろ!



一八〇日連休のまっただなか

 さて、たのしいゴールデンウィークももうおしまい。といいたいところだが、わたしは目下、一八〇日連休のまっただなか。せっかくなので、お休み気分になるようなおはなしでもさせていただきましょう。
 あれは今年三月の終わりのことだ。三泊四日、仲のいい友だちと三人で沖縄旅行にいってきた。一〇年前からつづけている恒例行事。でも、去年は予定があわなくて中止になっていたので二年ぶりになる。わくわくだ。

 だが、那覇についてみると、おもったよりも寒かった。前日までは夏日だったのに、ドンピシャで気温が下がってしまったのだ。埼玉にいるみたい。天気もわるくてくもり、のち雨。風もびゅうびゅう。それでも友だちといればたのしいのだが、どうしても解放感がたりないのだ。太陽、だいじ。
 しかし、そんな重苦しい空気をふっとばしてくれたのが三日目の夜、ラストディナーだ。おいしいものを食べにゆこう。すると友だちのひとりがこういった。おさかなが食べたい。決定だ。

 そこからは怒濤のネット検索。わたしが友だちのパソコンをつかって、いくつか海鮮居酒屋を提案したのだが、すべて却下。合意がとれない。ヘトヘトになってダウンして、もうひとりの友だちがひきついだ。そしてついにみつけてしまったのだ。しるひとぞしる、究極の魚料理店を。
 当日一五時から予約可とかいてあったので、友だちが電話をかける。オッケーだ。電話をきったあと、友だちが真顔でこういった。「少しはなしただけで、ここの店主は魚に情熱をもっていると確信しました」。はやく食べたい。

 一九時に予約していたのだが、いてもたってもいられず、一八時にホテルを出発。あるいていこう。最近、友だちがスマホを購入して、これが超便利。なんと、地図がはいっているのだ。
 雨もふっていたけどヘッチャラだ。どしゃぶりの雨のなかで、傘もささずにあるいてた、俺は最後のたばこを、いま明日にたたきつけた♪ 鼻歌をうたいながら、店にむかってあるいてゆく。一八時五〇分、お店に到着。ドアをあけると店主が笑顔でむかえてくれた。客はうちら三人のみ。カウンターにとおされた。

 とりあえず、席にすわってビールを注文。そのかんにお品書きを手にとった。だが、ここで度肝をぬかれる。達筆すぎて読めないのだ。文字に慣れてきて、ちょっと読めるようになってきたらまた仰天。一匹たりともしっている魚の名前がない。うーん、わかる料理でもたのもうか。野菜の天ぷら、地魚のみそたたき。
 ちらっと友だちをみると、やっぱり悩んでいる。ひとりが「煮魚が食べたい」というので、それならおすすめの魚でもきいてみよう。ちょうど、ビールをもってきた店主が「なににしますか?」ときいてくれた。

 「煮魚が食べたいんですけど、おすすめはありますか?」。すると店主は「はあ?」と不機嫌そうな顔つきになる。「うち魚屋なんで、おすすめの魚しかおいてないですわ」。三人、絶句。それをみて店主が問いかける。「どんな魚が好きなんですか」。友だちのひとりが「白身魚」というと、「白身魚のどんなのが好みなの?」。友だちもがんばってかえす。「臭みのすくないほうが好きです」。
 すると店主はこういった。「臭いのは腐っているから食っちゃダメだよ」。「・・・」。「お客さんのいう臭みがないって、スーパーで売っている味のしないやつでしょう。魚独特の臭いもなにもないスッカスカのね」。

 うつむく三人。それをみて、店主がいう。「とりあえず、お客さんの好みをしるために適当に刺身をつくってみましょうか」。メニューにある刺身三点盛りだろうか。とおもったら、「三点じゃわからないので五点にしよう。あとおもしろいから、もずくもつけとくね」。もはやメニューなど関係ない。われわれがいうべきことはただひとつだ。よろしくお願いいたします!

 だが、でてきたものをみておったまげた。山盛りのもずく。そして、とんでもなく分厚い刺身がテンコもりだ。ほかの料理にたとえて恐縮だが、一枚がトンカツくらいの厚みなのだ。うわああ。三人で歓声をあげる。食べてみると、うまい、うますぎる。なかなか嚙みきれないのだが、嚙めば嚙むほど味と臭いがしぼりだされる。

 「この臭み、たまらないですね」。友だちがいう。すると店主は満面の笑み。「お客さんは、けっこう魚、いけるほうだね」。調子にのったわたしも「肉みたいっすね」というと、店主は「いや、肉だから」と言い捨てた。うっ。余計なことをいいやがってと、友だちふたりがわたしをみる。どうもすみませんでした。

俺は一匹たりとも選別しない

 そのあと店主が魚の解説をしてくれたのだが、一匹も名前をおぼえていない。そのくらいきいたことのない魚なのだ。店主はいう。わたしたちがいただいたこの地魚たち。地元のひとも食べないのだと。
 どういうことか。これらの魚。値段がつかなくて、市場やスーパーの店頭にならんでいない。だけどそれは食べられないとか、まずいということではない。たんに値段がつかないだけなのだ。

 ふだんお店で売られている魚たち。おいしいから値段がついているのではない。定期的にまとまった量がとれる。それがわかっているから、仕入れと販売のルートが確立して、商品として値段をつけられる。
 逆に、どんなにおいしくても、たまにしかとれない見知らぬ魚には値段がつかないのだ。だから漁師も捨てるしかない。そんな魚たちを友だちの漁師にたのんで、すべてもってきてもらう。

 おおくは店主もしらない魚たち。それをパソコンや図鑑でしらべて、それでもわからなければ、しりあいの研究者におしえてもらう。しかしそれじゃ手間がかかってしかたがないんじゃないだろうか。どうやって選別しているのか。きいてみると、店主はこういった。「俺は一匹たりとも選別しない」。かっこいい。

 よく魚の目利きとかいうけれども、そんなの商品になるかどうかの選別でしかない。魚なんてみていない。売れるかどうか、人間しかみていないのだ。それに慣れると、漁師は売れる魚しかとらなくなる。おなじ魚しか店頭にならばなくなる。それしかみんな食べなくなる。いつしかそれが「おいしい」になる。
 でも、そんなの人間の感覚をとてつもなく狭めていないか。売れるのとおいしいのはイコールじゃない。ムダな魚なんて一匹もいない。むしろあたらしい魚に出会えばであうほど、未知の味がひらけてゆく。おいしいの領域がひろがっていく。

 そうおもって、値のつかない魚だけでお店をやっているという店主。とうぜん、魚がはいってこない日もある。どのくらいあるのだろう。きいてみると「今月、店をひらいたのはきょうで三日目だ」という。マジかよ、いま月末だぞ。
 それでやっていけるのか。そうきくと、ケラケラわらいながら、もうけはでないという。じゃあ、なんのためにやっているのか。「だって、おもしろい味に出会いたいじゃん」。自分だけじゃない、お客とともにおいしいの限界を突破してゆきたいのだ。それが店主のおもしろいだ。尊い。

 さて、はなしをききながら泡盛もたくさんいただいていて、三人はベロベロ。すると店主がスッと地魚のみそたたきをつくってくれた。それをのりで巻いて食べる。バカうまだ。あまったものを雑炊にしてくれて、これまた絶品。
 むさぼり食らうぼくらをみて、店主がニコニコしながら語りだす。「こんなのうまいにきまってんだよ。みそで和えてるんだから。味の想像がつくでしょう。だから俺、これを最初にたのむ客がいたら心のシャッターを閉ざしちゃうの」。あ、あぶなかった。わたしひとりだったら、はじめから注文するところだったよ。ありがとう、友よ。

 気づけば、すでに深夜の一二時。もう胸いっぱい、おなかいっぱいだ。会計をたのむと、あれだけ飲んで食って、ひとり三〇〇〇円。安すぎだ。「またきます」というと、「やっているかわからないけどね」といって、笑っている店主。最後までかっこよすぎだ。さようなら。またやーさい。

あらゆるパーティは革命的である

 わたしは店主のはなしをききながら、デヴィッド・グレーバーの『価値論』(以文社)をおもいだしていた。わたしたちがいまあたりまえだとおもっているこの資本主義。どれだけ稼げるのか、どれだけ消費できるのか。それが人間の行為のよしあしをきめる。そのひとの価値をきめるのだ。
 貨幣そのものが生きる目的になる。利益をあげて評価されたい。そのために合理的な選択をしたい。いつしかそれが人間の本性であるかのように考えられる。ひとは生まれながらにして、利己的な個人なのだと。

 さっきの店主のはなしでいうと、もうかる魚をとれるのがよい漁師であり、その魚でもうけられるのがよい料理人であり、高い魚を食べられるのがおいしいということになる。生きるために稼ぐんじゃない。稼ぐために生きるのだ。

 しかし資本主義ってそんなにすごいのか。グレーバーはいう。そもそも資本主義は人間の行為にさきだって存在するような抽象的システムではない。人間から独立して、それ自体が意思をもってうごいているわけがないのである。
 もしそんなものがあって、人間を上から支配しているのだとしたら神くらいなものだろう。みんな貨幣がそういうものだとおもいがちだけど、それは物神でしかない。モノはものを考えないよ。

 資本主義の価値はそれ自体で力をもっているわけではない。もっとほしい。もっと稼ぎたい。それがのぞましいとおもって生きる。そうねがって、みんなで足並みをそろえて、おなじ道をあゆんでゆく。労働者としてのわたし。消費者としてのわたし。その主観を経由して、その行為をとおして、はじめて価値は力をもつのだ。

 注意しないといけないのは、がんばって資本主義を批判するひとほど、それがどえらい巨大な怪物のようにみなしてしまいがちということだ。その秩序からは逃れられない。その外側にでて思考することなどできないと。批判しているうちに、資本主義が絶対的なものになってしまう。いけない。
 だからグレーバーはこの点がだいじなのだという。人間は建物でも社会でも、なにかをつくろうとするとき、はじめから全体を想像することができる。想像上の全体性だ。その想像を生きることで、たえずあらたに社会の全体性がつくりだされていく。逆に、完成された全体性など存在しないのだ。

 ということは、ひとはつねに革命的な潜在力を手にしている。だれもが社会的想像力をもっているのだ。ふと足並みをみだし、横道に逸れた瞬間にその力はうまれている。どんなにちっぽけな力だったとしても、そこにはあらたな価値をつくりだす創造的なエネルギーが秘められている。

 だいじなのは、この創造的なエネルギーは個人の力でうみだせるものではないということだ。かりにそのひとが平等な社会をめざしていたとしても、あれかこれかと損得を考えて、よりよい社会を合理的に選択するというのであれば、そういう利己的な個人が再生産されてしまうだけだろう。

 こういうのを疑似資本主義的といってもいいだろうか。もじどおりカネをもうけるんじゃなくても、なんでもかんでも、どれだけ利益になるかで行動してしまう。すみません、しあわせはおいくらですか。
 あらたな価値がうまれるとき、かならずその「個人」が突破される。なにが自分でなにが利益なのかもわからなくなるような集団的な力がうまれている。グレーバーは、マルクスとモースというふたりの思想家をつかってこういっている。

 マルクスは、疎外されていない労働の概念に関して書いたときに、創造に喜びを感じるか、それを苦痛と感じるかの違いは、それが埋め込まれている社会関係の性質による、と示唆している。モースは「美的なものへ気前よく出費する喜び……客人を歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」を強調している。このいずれかから出発する快楽の理論を想像してみるだけで、市場理論家がつくる人間の行動のモデルがどれほど根本的に孤独なものであるかがあきらかになるだろう。市場理論家が快い、喜ばしい経験について考えるとき、彼らの頭にある根本的なイメージは食べること(consumption=食物摂取/消費)であり――それも公の宴会でも私的な宴会でもなく、一人でする食事のようなのである 。

デヴィッド・グレーバー『価値論』(藤倉達郎訳、以文社、二〇二二年)四〇七頁。

 市場理論家にとって、喜びのイメージは個人である。ひとりでカネをはらって食事する。消費なのだ。そしたらカネがすべてだ。高いものを食べることがおいしいものを食べたことになるだろう。

 しかし、マルクスとモースはいう。きほん、ひとが喜びをかんじるのは集団になるときだ。客人を歓待、祭宴を催す。友だちや、みしらぬだれかといっしょになってどんちゃん騒ぎ。パリピ・マルクス。モースと酒が飲みたい。
 そうしてだれかと夢中になって騒いでいるとき、ひとはわれをみうしなう。自己喪失をおこしている。たのしんでいるのはわたしなのか、あなたなのか、どちらなのかよくわからなくなっている。グレーバーいわく。

 自分の手が誰かの肌に触れているとき、その他者の肌を感じている限りにおいて、自分は快楽を経験している。そのときに自分自身の手しか感じないのであれば、それは痛みと同じである 。

デヴィッド・グレーバー『価値論』(藤倉達郎訳、以文社、二〇二二年)四〇八頁。

 わたしが「個人」に閉じこもっているかぎり、わたしの生きる力はわたしの利益にとらわれている。なにをやっても、わたしが喜んでいるのではない。その利益が喜びといわれているだけなのだ。痛みでしかない。
 だけど、わたしが自分を他者にひらき、いままでの自分では想像もしなかったような喜びをかんじとったとき、わたしの生きる力は予測不可能なものに変化している。損得にすらとらわれない。むしろ自分なんて消えて、あなたを喜ばせるためだったら、なんだってしてやりたいとおもってしまう。うれしい。

 そのかぎりで、わたしはわたしの快楽を経験しているのだ。その力を、その喜びを、もっともっとひろげていきたい。どうやって? グレーバーは北アメリカの先住民、イロコイ族がヒントをくれるといっている。

 イロコイ文化において、美と快楽は、なによりも、自己を開き、周囲の世界へと拡張させ、他者とのコミュニケーションに入ることを妨げる障害を乗り越えることだと捉えられていたからだ 。

デヴィッド・グレーバー『価値論』(藤倉達郎訳、以文社、二〇二二年)四〇八頁。

 やっぱり沖縄の店主とおなじことをいっている。店主が自己を魚にひらく。どれ一匹としておなじ魚はいない。人間が魚を選別するんじゃない。魚が人間を考えさせているのだ。魚をなめるな。

 わけのわからぬおいしさに出会う。その魚を味わうためだったら、なんでもしてやりたいとおもってしまう。われをみうしなう。もうけなんてどうでもよくなる。生きる力が拡張してゆく。
 その力が客としておとずれたわたしたちの自己もひらいてしまう。自分ひとりでは決して予想もしなかったようなおいしさに出会う。もう自分がしゃべっているのか、店主がしゃべっているのかわからない。ただ、こういってしまうのだ。だって、おもしろい味に出会いたいじゃん。

 ほんのささいな出来事だ。でもそういうところにグレーバーのいう革命的な想像力が宿っているのだとおもう。自己をひらき、周囲にむかって拡張すること。他者に没入することを妨げるあらゆる障害をのりこえてゆくこと。それを商品でも購入するかのように、あれかこれかと選択できるとおもったら大まちがいだ。注文できない料理店。想像力は必然なのだ。あらゆるパーティは革命的である。

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栗原康(くりはら・やすし)
1979年埼玉県生まれ。政治哲学者。専門はアナキズム研究。著書に『サボる哲学――労働の未来から逃散せよ』(NHK出版新書)『大杉栄伝――永遠のアナキズム』(角川ソフィア文庫)『はたらかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』(ちくま文庫)『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』『アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ』(岩波書店)『死してなお踊れ――一遍上人伝』(河出文庫)などがある。趣味はビール、ドラマ鑑賞、詩吟、河内音頭、長渕剛。

題字・イラスト 福田玲子

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