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センチメンタルですがなにか~大杉栄の監獄体験――「サボる哲学 リターンズ!」#1 栗原康

我々はなぜ心身を消耗させながら、やりたくない仕事、クソどうでもいい仕事をし、生きるためのカネを稼ぐのか? 当たり前だと思わされてきた労働の未来から、どうすれば身体をズラせるか? 気鋭のアナキスト文人・栗原康さんの『サボる哲学』(NHK出版新書)がWEB連載としてカムバック。万国の大人たちよ、駄々をこねろ!


社会の歯車から解放されました

 こんにちは。ごぶさたしております。みなさま、お元気でしょうか。『サボる哲学』を刊行してから、はや一年半。ふたたび、「リターンズ」と銘うってもどってまいりました。末永く、よろしくお願いいたします。

 まずは近況報告。わたくし現在、四三歳。はれて無職とあいなりました。バンザイ。これまで九年ほど、山形の大学で非常勤講師をしてきたのですが、いったんクビ。大学の内規で非常勤は一〇年未満しかはたらけないことになっていたらしく、雇い止めになったのだ。後期からまた新米講師として復帰する予定ですが、いまはかんぜんにフリー。社会の歯車から解放されました。
 ということで、エンジン全開。好き放題、かかせていただきたいとおもいます。これがほんとの無職転生じゃあ。いくぜ!

どうする日本酒

 さて、わたしはビールが好きだ。ムダにビールばかりを飲んでいる。そう公言していると、よいこともある。担当編集者の田中さんが金の延べ棒のようなエビスビールの山を送ってくれたり、ちょっとしたつどいのときに、友だちが「麦とホップ〈黒〉」を用意してくれたりする。うれしい。だけど、やっちまったなあというときもある。

 あれは去年の夏のことだ。はじめて参加する会合、そしてまっていました懇親会。コロナ禍ということで、事務所で飲み会になったのだが、わたしともうひとりが初参加ということもあって、めちゃくちゃ歓待してもらった。
テーブルには、のんべえ好みのつまみがズラリ。ふだん高くて手のでないエビの天ぷらなんかもならんでいる。うまそうだ。そしてパッと目にはいってきたのが日本酒。大吟醸とかいてある。ひゃあ。「これ、うちの地元の酒で、すっごくおいしいんですよ」。そうきくと、ますますおいしそうにみえてくる。この数年、山形で日本酒の味もおぼえたのだ。「雪漫々」がいちばん好き。

 さらに目をうつすと、カゴにビールがわんさかはいっている。おおっ。「栗原さんがビール好きってきいたんで、買いこんできましたよ。たらふくめしあがってください」。「ありがとうございます!」。でも日本酒が飲みたい。とはいえ、まずは一杯目だ。飲み会がはじまると、プシュッとビールをあけてゴクゴク、ゴックンゴクリ。プヒャア。季節は夏。最高である。一瞬で飲みほした。

 よし、つぎは日本酒だ。そうおもったまさにそのときのことだ。プシュッ。「さすがビール好きですね。きもちがいい。さあ、もう一杯」。「ありがとうございます!」。しまった。でもおいしい。まあ、もう一杯くらいはね。ゴクゴク、ゴックンゴクリ。うめえ、さすがビールだぜ。そうおもって日本酒をみると、また横から音がきこえるのだ。プシュッ。ああ。「たくさんあるので、いくらでも飲んでください」。「ありがとうございます!」。ゴクゴク、ゴックンゴクリ。プシュッ。あゝ。

 気づけば、もうベロベロだ。天ぷらをいただくのもわすれて、ビールをむさぼり食った。なにが日本酒だよ。ビール!ビール! あれよ、あれよと夜も更けて、終電まぢか。帰り支度をしていると、せっかくなのでとおみやげをもたせてくれた。「どうぞ、どうぞ」といって、日本酒のビンをもってくる。やったぜ。とおもいきや、そのビンが隣のもうひとかたにわたされた。あれ? 「栗原さんもどうぞ」。わーい、……。ビールだ。「ありがとうございます!」。どうする日本酒。

必要性にとらわれるな

 いったいなんのはなしをしているのか。相互扶助だよ。アナキストが好んでもちいることばだ。支配関係のないひととのかかわり。上も下もない、右も左もない、ただまっすぐにたすけあって生きてゆきたい。それだけだ。
その根っこにあるのは無償性。自分のためでも、他人のためですらない。逆になにかの利益のために、損得にとらわれた瞬間に、かならずヒエラルキーがうまれてしまう。どれだけうまくできたのか。こいつはつかえるかどうか。自分のおこないが優劣のはかりにかけられるのだ。

 バイトでもなんでも、労働をおもいうかべるとわかりやすいだろうか。他人のために。消費者のために、顧客のために、利用者のために。そのことばがキラーフレーズとなって、労働者が奴隷化されていく。お客さまが必要としているから。そういわれるとどんなムリでもやらざるをえない。体を酷使して、超過勤務でサービス、サービス。しかもそういうひとにかぎって低賃金なのだ。やりがいはかならず搾取される。

 それで不満がつのれば、きまってでてくるこのことば。お客さまに迷惑がかかりますよ。そういわれたらストライキどころか、サボることも文句をいうこともできやしない。他人の利益のために。必要とされていることのために、どれだけ自己を犠牲にできるのか。もっとムチをくださいませ。それがわたしの商品価値だ。

 おもえば、わたしも大学で非常勤講師をしていたので、よく当局から「授業評価アンケート」をとるようにもとめられた。学生に授業の改善点をかかせるというものだ。わすれたふりをしてとらなければいいだけなのだが、このアンケートの意図はあきらかだ。お客さまを意識しろ。犠牲と献身。労働は懲罰だよ。

 はなしをもどすと、おもいやりとはそんなもんじゃないぞということだ。相手が必要としていることをするわけじゃない。のぞんでいることをするわけじゃない。相手の利益なんてしったことか。こいつはビールが好きなんだ。うれしいだろう。そうおもったら、われしらず手をだしてしまう。

 逆もそうだ。プシュッ。その音をきいてしまったら、わたしもわれをみうしなう。ビール!ビール! もう自分の感情なのか、相手の感情なのかもわからない。三度の飯よりビールが好き。いったんまとめておこう。必要性にとらわれるな。もとめられていなくても、全力で手をさしのべる。犠牲なき献身。それが相互扶助の神髄だ。

センチメンタルですがなにか

 もうすこし掘りさげてみよう。今年で没後一〇〇年、大杉栄のはなしがしたい。大杉はアナキズムの理論家としてしられているのだが、おもしろいのはその思想を監獄で身につけたといっていることだ。

 とくに一九〇八年に赤旗事件で逮捕され、二年半ほど千葉監獄にいれられたときは、いわゆるアナキズムの理論書にかぎらず、哲学から文学、歴史、社会学、生物学、人類学にいたるまで、とにかくいろんな本を読みまくった。監獄学校だ。本人いわく。「僕は自分が監獄で出来あがった人間だということを明らかに自覚している 」(注1)。

 だけど、勉強になったのは本ばかりではない。肌で感じた監獄体験だ。その体験談をつづったのが「獄中記」「続獄中記」である。ひとつ、エピソードを紹介してみよう。千葉監獄でのできごとだ。

 ある日、とつぜん窓からトンボがはいってきた。えいっ。すかさずとらえた大杉。しばらく、こいつを飼ってやろう。とりあえず本のあいだにハネをはさんでおいて、そのかんに手元にあった帯から丈夫そうなヒモを一本ぬいていく。そのヒモをトンボにくくりつけて、わーいと遊ぼうとおもったのだ。
 だが、そのときのことだ。ふと、電気にでもうたれたかのようにぞっと身震いがしてきた。そしてなぜかわからないけど、窓のほうにいってトンボを外へ放してしまったのだ。いったい、ぼくはなにをやっているのだろう。ミステリー。

 僕は再び自分の席に帰ってからも、しばらくの間は、自分が今何をしたのか分からなかった。そのときの電気にでも打たれたような感じが何であったか、ということにすらも思い及ばなかった。僕はただ、急に沈みこんで、ぼんやりと何か考えているようだった。そしてそのぼんやりとしていたのがだんだんはっきりして来るにつれて、何んでも糸を抜いている間に、「俺は捕えられているんだ」という考えがほんのちょっとした閃きのように自分の頭を通過したことを思い出した。それで何にもかもすっかり分った。この閃きが僕にある電気を与えて、僕のからだを窓の下まで動かして、あのトンボを放しにやらかしたのだ 。

大杉栄「続獄中記」(『大杉栄全集 第四巻』ぱる出版、二〇一四年)四三一頁。

 大杉栄がトンボになった。憑依しているのだ。なにせ、「俺は捕えられているんだ」だからね。すくなくとも、オレがトンボをとらえている、支配しているという一方的な関係ではなくなっている。監獄にとらえられているオレ。オレにとらえられているトンボ。トンボ、オレ、オレ、トンボ、オーレイ!

 どっちがどっちだかわからなくなってくる。自他の区別が消失していく。自分では想像することもなかったような他者の感情へと没入していく。わたしのなかのトンボがさけぶ。脱出せよ。
 おのずと身体がうごいてしまう。窓からトンボを放してしまう。わたしのためじゃない。わたしがトンボのためにしたのでもない。そもそも、そのわたしがわけのわからないものになっている。

 これまで虫けらなんてためらいもなく殺していたこのわたし。強くて残忍だともおもっていたわたしの身体に激震がはしる。バラバラ、ガラガラ、ドシンと砕けてしまう。まったく別のなにかに変化していく。オレはなんて弱いんだ。逃げたい。

 もはや、わたしがトンボを逃がしているのではない。トンボになったわたしがトンボを放しているのだ。外へ外へととびたっていくのだ。だれのため、なんのため。理由などない。逃げるから逃げる。たとえそれで劇的に損をしたとしても放してしまう。ああ、とんでいった。だって、トンボだもの。

 その後僕は、いつもこのことを思い出すたびに、僕のそのときのセンティメンタリズムを笑う。しかし又翻っては思う。僕のセンティメンタリズムこそは本当の人間の心ではあるまいか。そして僕は、この本当の人間の心を、囚われ人であったばかりに、自分のからだの中に本当に見ることができたのではあるまいか 。

大杉栄「続獄中記」(『大杉栄全集 第四巻』ぱる出版、二〇一四年)四三三頁。

 わたしのなかにトンボを感じる。そうおもった瞬間に、あたらしい血液が溢れだす。大杉はそれをセンチメンタリズムとよんだ。「俺は捕えられているんだ」。大杉にとっては、繊細すぎてこっぱずかしい感情だったのだろう。あなたへ、あなたへ。自分をみうしなうほどあなたをおもう。ぼくはそのときのセンチメンタリズムを笑う。だけど、それこそがほんとうの人間の心だ。そしてアナキズムの核心だったのだとおもう。監獄のなかから飛翔せよ。しあわせのトンボが舌をだして笑ってる。センチメンタルですがなにか。

横にズレろ

 しかしなぜこんな神秘体験みたいなはなしをしているのか。こたえはシンプルだ。支配をぶちぬいている。この世の支配の根底にある文明的な認識のありかたを突きぬけているからだ (注2)。

 この文明社会では、なにをするにも主体と客体をわけて考えることになっている。自他の区別をはっきりとさせる。たとえば、わたしってなに? 自分をとらえるにしても、精神と肉体をわけて考える。

 わたしの本体である精神がただの物質である肉体をうごかしている。自分の体を客体とみなして、モノとして所有するのだ。わたしはわたしの体をいかようにでも処すことができる。セルフコントロール。自律した個人だ。

 所有というとまだあいまいさがのこるので、はっきりさせておこう。所有とは、自分の身のまわりのものを自分だけのものにすることだ。排他的に独占することだ。自分だけはなにをしてもかまわない。どんなに酷使しても、破壊してもかまわない。いいかえてみようか。支配だろ。

 この考えかたがあらゆるものに適用される。もともと自然界の一部でしかなかった人間が自然や動物をモノとみなして支配していく。精神の宿らぬ物質ならば、いくら所有してもよいのである。あげくのはてに、おなじ人間の肉体すらも所有していく。奴隷だ。いちど所有権を主張すると、なにをしてもかまわない。
 環境破壊でまわりがどうなろうとしったこっちゃない。動物を工場で製造するみたいに大量生産してもおかまいなし。奴隷たちがムチをうたれ、悲鳴をあげてもイッツオーライ。どれだけたくさん所有できるのか。それが優劣の尺度なのだ。

 こんなクソみたいなことを前提としているかぎり、いつまでたっても所有するのかされるのか、支配するのかされるのか、上か下か、どちらかでしかありえない。いまの資本主義もおなじことだ。労働者は会社に食わせてもらう代わりに、自分の肉体とそのはたらきをモノとみなしてはたらかされる。賃金奴隷だ。会社に所有されるのだ。資本家が労働者を一方的に支配している。
 だいたい、なんでもかんでも所有物とみなして、自分のため、だれかのために役にたつかどうかで判断するなんておかしいじゃないか。会社のために役にたつかどうか。人間が目的のための手段になる。道具になる。人間をなめるな。

 どうしたらいいか。大杉はトンボになった。ついさっきまで虫けらとして飼おうとしていた相手と一体化している。人間と虫。自己と他者。そんな区別はとびこえて、どちらでもないなにかに変化していく。
 わたしはわたしを所有できない。文明人としての自己も、囚人としての自己も、アナキストとしての自己も、自分がもっているとおもっていたアイデンティティがすべて消えさった。おのずと虫人間に転生していく。自己や他者を所有するのではなく、ただ共に生きてゆきたい。

 ある日、とつぜんあなたと溶けあう。徹頭徹尾、依存しあう。強調しておくよ。セルフコントロールができる自律した個人などではない。自分もなければ制御もない。いまこの場にいながらにして、どこにもない場所へと羽ばたいてゆく。予測できないなにかへと変化していく。そういう力を自分の身体にやどすことが、ほんとうの意味での「自律」なのだとおもう。

 さて、そろそろながくなってきたので、まとめにしよう。さきほどの千葉監獄から出獄後、大杉は労働運動にのりだしていくのだが、だいじなのはこの「自律」だと考えていた。とめられない力がある。いいよ。たとえば、友だちが会社でひどいハラスメントにあっている。がまんできない。
 だが、まもってやるのではない。庇護してやるのではない。そういう上から目線にたっていると、かならず指導者がうまれてしまう。そいつがまわりの人間を自分の駒のようにつかいはじめる。組織ができる、指揮系統ができる。たとえそれで強力な労働組合ができたとしても、あたらしい支配がうまれるだけだ。

 目のまえで、友だちが上司に怒鳴られている。ウキャー。おもわず奇声を発してしまう。気づけば、だれかがあばれだす。窓ガラスをたたきわる。パソコンがとんでいる。火をつけろ。わたしもそいつになりきって、なりふりかまわずモノをたたく。こんどはだれかがわたしになって、いままできいたこともないようなひどいことばで上司を罵る。おまえが死ぬまでファックといいたい。

 大杉いわく。ストライキはケンカであり、労働運動は気分である。ようするに、センチメンタリズムなのだ。もうだれがだれになっているのかわからない。つぎからつぎへと、自分のなかのだれかが発動していく。あなたへ、あなたへ。その感情がどんどんどんどん横にひろがっていく。変化につぐ変化。手におえない。だれのため、なんのため、役にたつからやっているのではない。ひとはだれの道具でもない。目的なき手段を生きろ。その起動スイッチはどこにあるのか。とんぼ。横にズレろ。


注1 大杉栄「続獄中記」(『大杉栄全集 第四巻』ぱる出版、二〇一四年)四二三頁。

注2 以下の記述については、岩野卓司『贈与をめぐる冒険 ――新しい社会をつくるには』(ヘウレーカ、近刊)を参考にした。

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栗原康(くりはら・やすし)
1979年埼玉県生まれ。政治哲学者。専門はアナキズム研究。著書に『サボる哲学――労働の未来から逃散せよ』(NHK出版新書)『大杉栄伝――永遠のアナキズム』(角川ソフィア文庫)『はたらかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』(ちくま文庫)『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』『アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ』(岩波書店)『死してなお踊れ――一遍上人伝』(河出文庫)などがある。趣味はビール、ドラマ鑑賞、詩吟、河内音頭、長渕剛。

題字・イラスト 福田玲子

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