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サボる哲学 リターンズ! 第3回 愛でしょ ~一六〇〇キロ、われ歩くがゆえに歩く

我々はなぜ心身を消耗させながら、やりたくない仕事、クソどうでもいい仕事をし、生きるためのカネを稼ぐのか? 当たり前だと思わされてきた労働の未来から、どうすれば身体をズラせるか? 気鋭のアナキスト文人・栗原康さんの『サボる哲学』(NHK出版新書)がWEB連載としてカムバック。万国の大人たちよ、駄々をこねろ!



無職は無敵なのだ

 さて、たのしかった一八〇日連休もついにおしまい。きょうから週二日のハードワークでございます。休みが恋しい。ということで、ひとつ連休中に感動したはなしなどをさせていただきたいとおもいます。どうぞ!

 プルルル。ひさしぶりに名古屋の友人から電話があった。なんだろう? 電話をとってみると汚染水のはなしだった。今年の八月、日本政府は福島第一原発の汚染水を海に放出。それに抗議して、韓国の活動家のおっちゃんが東京にやってくるのだという。
 ついては、東電と国会に抗議文をとどけにいくから、きみもいっしょにどうかという。もちろんだ。しかしどこで知り合ったひとなのだろう。聞いてみると、名古屋まで歩いてきたからいっしょに歩いたのだという。うん?

 じつはこのおっちゃん、ずっと歩いているのだ。日本だけじゃない。六月一八日にソウルを出発。プサンまで歩いて、フェリーにのって山口に上陸。そこからまた歩いて、列島縦断。九月一一日、ゴールの東京に到着する。総距離にして一六〇〇キロ。この四〇度をこえる猛暑のなか、八六日間、ぶっとおしで歩いてきたのだ。マジかよ。

 しかしそんなすごいことをやっているのに、ぜんぜん知らなかった。どうもあまり宣伝ができていないのだという。なぜか。どうも行く先々に支援者はいるのだが、おっちゃんの歩く姿をみて大感動。もう支援するとかされるじゃなくなって、とにかくいっしょに歩いちゃうのだ。ヘトヘトになって宣伝できない。
 ということは世論に訴えていない? じゃあ、なんのために歩くのか。理由なんてない。歩くがゆえに歩くのだ。なぜという問いなしに。なんか尊い。宗教者みたいだ。実際、同行者にはお坊さんもいるという。

 ちなみに友人は三日間、名古屋で同行。もっと歩きたかったらしいのだが、熱中症で倒れて、やむなくリタイア。高熱をだして数日、寝こんだという。友人がうれしそうに「狂ってるでしょう?」というので、わたしも「はい、最高っス」とこたえた。ぼくもいっしょに歩きたい。
 当日、集合場所にいくと、ほとばしる熱気。おおくは七〇代、八〇代の女性たちだ。もともと少人数で出発したおっちゃん。歩くたびに同行者が増えていく。倒れても倒れても、復活してついてくる。東京に着くまでには、一〇〇人をこえる大行列だ。しかもこの猛暑のなか、死線をこえてきたという自負があるのだろう。みんな目がギラギラしている。あたらしい健康なのだ。

 さて、この日は二時間歩いて、ラストは衆議院議員会館前。ワイワイ、ガヤガヤしながら近くまでくると、警官が「静かにしろ」とつっかかってくる。でもそんないじわるをされたら、逆にこっちもテンションぶちあがりだ。これみよがしにコールがはじまる。「汚染水流すな!」。よし、到着だ。

 議員会館から事務員がでてきて、外で抗議文をうけとろうとすると、おっちゃんが激怒。「それが一六〇〇キロ歩いてきた人間にたいする礼儀ですか。せめて中にいれてくださいよ」。そう、無礼なのだ。
 しかし予定にないことはできないと拒否する事務員。ならばとみんなで押し入ろうとするが、警官隊が阻止。ふざけんなとヤジがとぶ。「このままいれないと、とんでもないことになっちゃうよ。もうバッタバタだよ」。ど迫力だ。なにせ、捕まって困るひとのほうが少ないのだから。無職は無敵なのだ。

 けっきょく、おっちゃんがひとり中へ。そのかん、道端で八八歳の女性がハンドマイクをもち、演説をはじめる。「わたしにはもう先がありません。いましかない。いま死ぬつもりでなんだってやってやりますよ」。うおおー。これがほんとのノーフューチャーだ。

みんな唯一者だよ

 なにがおこっていたのか。このことを考えるのにピッタリの本がアナキズムの古典、マックス・シュティルナー『唯一者とその所有』(一八四四年)だ。せっかくなので、簡単にご紹介してみよう。かれの思想がいちばんよくあらわれているのが、本の冒頭にでてくるつぎの一文だ。

私の事柄を、無の上に、私はすえた

マックス・シュティルナー『唯一者とその所有(上)』(片岡啓治訳、現代思潮社、一九六七年)五頁。

 わかりやすい。自分をいかなる価値のもとにもおかないということだ。道徳も絶対正義もクソくらえ。汝、かくあるべし。どんなに立派なことをいっていたとしても、その正しさのもとにひとはひとを服従させる。支配かよ。
 だからシュティルナーはいう。これまであたりまえだとおもっていた自分を無のなかに放りこめ。虚無にむかってとびこむのだ。そうしてなんにもなくなったとき、ひとははじめてだれにもなんにも縛られない、他人と比べられることのない、唯一者としての自分を手にするのだと。

 もうすこし具体的なはなしにしてみよう。この資本主義では、カネが価値尺度。どれだけたくさんカネを稼げるか。そのための将来をおもいえがいて生きるのが道徳だ。もっと稼げるようになるために、もっと安定した生活を送るために。いまは我慢だといって奴隷のようにはたらかされる。屈従の人生だ。

 三・一一直後をおもいだそう。福島の原発が爆発して放射能がとびちっても、経済をまわすことが優先された。もしここで被曝は危険だとさわいだら、経済がとまる。約束された将来が閉ざされてしまう。だから国も企業もこれみよがしにいっていた。死んでもはたらけ。それが道徳だ。つかえる人間になるということだ。
 逆に、我慢できずに声をあげたらヒステリー、放射脳あつかいだ。不道徳だとみなされる。社会的につかえないやつだといわれてしまう。今回、汚染水がたれ流されてもおなじことだ。問われているのは、安全か危険かではない。たとえ危険でも、国や企業に命じられたらはたらけるかどうかだ。おっかない。

 だけど、そこに韓国のおっちゃん登場だ。海は生命の宝庫。生きとし生けるものをたすけたい。ぼくが世界を救うんだ。がんばらなくっちゃ。そういって行動しはじめると、どんどんわたしが消えていく。いまここで、自分の命を燃やし尽くす。みずからすすんで死の裂け目にむかって突っこんでゆく。
 もはやカネのため、将来のため、どんな価値も通用しない。そのために生きろといわれてきた自分をまるごと無に帰してしまう。歩けばあるくほど、将来がなくなっていく。目的がなくなっていく。わたしのなかのなぜが消える。損得じゃない、損しかしない。だれになにをいわれても、どんな妨害をうけても絶対に歩く。

 たとえ死んでもすすんでしまう。むしろ、よろこびいさんで虚無のなかに自分を投げこむのだ。そこまでしちゃいけない。わかっちゃいるけど、やめられない。制御できない力がある。自分にも他人にも決してわがものにすることができない力がある。いうこときかないやつがいる。

 おっちゃんが唯一者になった。一人ではない。いっしょに歩いていると、もう自分かおっちゃんかわからなくなってしまう。あとさきなんて考えない。いま、いま、いま。おのれの命を焚き木にくべて、虚無の炎を燃えあがらせろ。
 ゼロになれ、もっとゼロになれ。あなたもわたしも、きみもぼくも。だれ一人としていうことをきかなくなっていく。そんな黒い炎に包まれていたからこそ、おっちゃんも一六〇〇キロ歩けたのだとおもう。みんな唯一者だよ。

自律とは、律することのできない自分を手にすることにほかならない

 ちなみに、この唯一者。なにものにも支配されない自分を手にすることであり、ある意味、自律を意味しているのだが、注意しないといけないのは、ちゃんと自分を律するとかコントロールするというものではないということだ。むしろ真逆。だって、いちど無になって自分なんてなくなっているのだから。
 自分のことなのに、ぜんぜん自分では制御できない。自分のものとして所有することができない。一見矛盾しているようにおもえるかもしれないが、そんな力にふれたとき、ひとはこのうえないほど自分を感じてしまう。ほかのことなんてどうでもいい。ただ自分のことだけに夢中になっているのだ。

 もうちょっと展開するよ。さいきん、哲学者のジョルジョ・アガンベン『身体の使用』を読んでいたのだが、おなじようなはなしがでてきた。ひとがほんとうに自分の身体に親しみを感じているのはどういうときか。
たとえば、吐き気。二日酔いのときをおもいうかべてほしい。ウゲエ、ウゲエ。吐いても、吐いてもとまらない。あたりまえだけど、吐きたくなんてないのだ。苦しい、悔しい、恥ずかしい。それでもまた吐いてしまう。
あきらかに自分の身体を制御できなくなっている。自分のものとして所有できなくなっている。だけどそういうときほど、ひとはおのずと自分の身体のことに釘づけになってしまうのだ。これがわたしだと実感してしまうのだ。

 わたしの身体はわたしに根源的に最も固有のものとして与えられているが、ただし、それはその身体が絶対的に自分のものとして所有することのできないものであることが露わになるかぎりにおいてのことなのである。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』(上村忠男訳、みすず書房)一五〇~一五一頁。

 たぶん、唯一者の制御できない力もおなじことだ。絶対に自分のものとして所有することができない。それがあきらかになったからこそ、わたしにとって最も根源的で、固有な力になっている。こういいかえてもいいだろうか。自律とは、律することのできない自分を手にすることにほかならない。

 さらにだ。アガンベンはいう。そういう身体の使用法を考えていけば、近代的な人間観を覆すことになるのではないかと。ぼくらはふだん自分で自分をコントロールできるとおもわされている。自分にとっていちばん身近な自分の身体を、自分だけのものとして支配することができる、所有することができる。それができるから、まわりのものもおなじように所有していくことができるのだと。
 この資本主義ではカネがものをいうわけだから、カネを手にすればするほど、いくらでも自分のことをよりよい自分にしていくことができるし、まわりの人間や物を支配していくことができる。どんどん所有権を強力なものにしていくことができる。そういう将来をおもいえがくことがよいことだといわれてきた。

でも、それが支配につぐ支配をうみだしてきたのはさっきいったとおりだ。だったら、もういちど根底から人間観を考えなおしてみたらどうだろうか。むしろ、唯一者から出発してみたらどうだろうか。

 なく、、自分、、もの、、して、、所有、、する、、こと、、できない、、、、もの、、だけ、、共同、、もの、、。この自分のものとして所有することのできないものの分有は愛である 。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』(上村忠男訳、みすず書房)一六三頁。

 そもそも、ひとが身体を使用するということは、自分の身体を自分で所有することができなくなるということだ。ならば、まわりのひとや物とのかかわりだっておなじこと。決して所有できない、支配できない。
 まわりとかかわればかかわるほど、自分が制御できなくなっていく。そういう共同の生をいきていく。韓国のおっちゃんの影響をうけて、みんなとんでもない力を発動していく。それをうけて、おっちゃんもまたさらに命の炎を燃えあがらせる。そんな力をぼくらはいったいなんと呼べばよいのだろうか。愛でしょ。

 よし、終わりにしよう。おっちゃんは、ぶじに抗議文を提出。それを見届けて、わたしは帰途についた。だが、電車にのってしばらくしてのことだ。とつぜん体が重くなってうごけなくなってしまった。這うようにしてなんとか帰宅。熱をはかると三九度だ。あれ、熱中症かな? とうとう、このぼくもあたらしい健康を手にしてしまったか。そうおもって検査したら、なんとコロナでした。こうして、わたしの一八〇日連休は終わりをむかえたのでございます。あじゃぱー。

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栗原康(くりはら・やすし)
1979年埼玉県生まれ。政治哲学者。専門はアナキズム研究。著書に『サボる哲学――労働の未来から逃散せよ』(NHK出版新書)『大杉栄伝――永遠のアナキズム』(角川ソフィア文庫)『はたらかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』(ちくま文庫)『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』『アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ』(岩波書店)『死してなお踊れ――一遍上人伝』(河出文庫)などがある。趣味はビール、ドラマ鑑賞、詩吟、河内音頭、長渕剛。

題字・イラスト 福田玲子

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