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またね、と言って別れるとき――「マイナーノートで #03〔おひとりさまのつきあい〕」上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。
※#01から読む方はこちらです。

おひとりさまのつきあい

 髙橋千鶴子さんが亡くなった。
 清水焼人形作家。京は東山、清水寺に上る参道の途中にある清水焼の老舗の長女。店は弟夫婦に任せて、清水焼とはひと味ちがう人形をお店に出していたおひとりさま。若い時、店先に飾ってあった愛らしい土人形のブローチを、一目見て魅了された。
 学生時代には、祇園から二年坂、三年坂を歩いて清水寺まで散歩、帰り道にその店に立ち寄るのが楽しみになった。貧乏な学生だったので、大物の人形は買えないが、小物がひとつ、ふたつと増えていった。

 あるとき、その作家が髙橋千鶴子さんという名前で、わたしが出入りしていた現代風俗研究会の会員であることを知った。現代風俗研究会とは、京のおもろいもん好きが京都大学の内外から集って、一見なんの役にも立たないことを研究するあつまりである。創ったのは人文科学研究所にいらした仏文学者の桑原武夫さん。そこに鶴見俊輔さんや多田道太郎さんなど、京都学派のリベラルな先生たちが集っておられた。ここから生まれた成果には、熊谷真菜さんの『たこやき』(リブロポート、1993年)や、永井良和さんの『社交ダンスと日本人』(晶文社、1991年)などがある。「タコヤキスト」を名乗る熊谷さんは、その後、日本コナモン協会を設立した。たこやきについて蘊蓄(うんちく)を傾けたからといって、それが何になる? なんにもならん、なんにもならんが、おもろいやないか、といういちびり精神にあふれていた。しろうとくろうと入り交じって談論風発、権威主義のかけらもない、楽しい知的サロンだった。

 ちなみにわたしはこの会で、研究中だった春画をスライド付きで報告したことがある。まだ春画公開のタブーが解けず、場合によっては「わいせつ物陳列罪」でお縄、という可能性もあったから、部外秘のクローズドなあつまりである。会場は法然院の講堂、お寺の境内で春画をお見せするというのも、乙な趣向だった。その場におられた多田さんが、「若い女性のレクチャーで春画を見る時代が来るとはねえ…」(わたしはまだその頃、若かった)と感に堪えない様子で感想を漏らされたのを、覚えている。

 わたしたちは現代風俗研究会のことをゲンプーケンと呼んでいた。そのゲンプーケンの会長に、いつのまにか髙橋さんが就いていた。めんどうなだけで一文のトクにもならない会長職を、気のいい髙橋さんは、きっと断れなかったのだろうと思う。その頃、わたしはすでに京都を離れていて、ゲンプーケンの会合にも総会にも出席できる状況ではなかったから、退きどきかと思ったが、髙橋さんが会長職にあるあいだは、応援のつもりで会員を続けようと決めた。
 髙橋さんには、同じ千鶴子つながりで、親しみを感じていた。髙橋さんも親しみを感じていてくださったのだと思う。清水寺へ行った帰りには、お店に立ち寄って、立ち話をするのが楽しみだった。

 その髙橋さんから、新年に干支(えと)の土人形が送られてくるようになったのは、いつの頃からだったろうか。小箱をぎっしりと埋めた詰め物をていねいにはがしていくと、なんとまあ、手びねりの味のある愛らしい動物たちが次々に出てきた。それも1匹ではなく、親子、カップル、家族など大小とりまぜて出るわ、出るわ。酉年には、金色のとさかを立てた雄鶏に、ひよこを連れた雌鶏がいた。亥年には、親猪の傍に、ちびのうりぼうが何匹も。巳年にはねじりん棒みたいなぐるぐる巻きのちっとも怖くない蛇のカップルが。辰年には、ロールケーキみたいに粘土板を巻いた愉快な龍が届いた。彼女はスキーも好きで、手紙のやりとりには、互いのスキー情報を書き送ったが、子年には、スキー板をはいたねずみがやってきた。子年はわたしの干支、年女だった。一緒にスキーに行きたいね、と言い交わしていたのに、それもできなくなった。
 毎年、工夫のある干支の動物人形が送られてくるのを心待ちにしていたが、干支が一巡した後、次はどうするんだろう、と思った。今度はどんなアイディアが、髙橋さんの手びねりのなかから生まれるのだろう?
 そう思った矢先の訃報だった。ゲンプーケンの案内を見て、愕然とした。闘病中とは聞いていなかった。死因も逝去の日付けも書いてなかった。部屋にある干支人形の動物たちのコーナーを見つめて、もうこの先、この動物たちは1点も増えないのだ……と断ち切られた時間を思った。

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 こういうときは、どうしたらいいのだろう?
 ご親族は存じ上げないし、葬儀はとっくに終わっている。せめて自分ひとりで喪に服したいが、何をよすがにすればいいのだろう、と途方に暮れる。
 おひとりさまの友人の訃報に接したとき。そのひとの家族や親族について何も知らないことに驚かされる。いや、おひとりさまだけではない。家族持ちのひとでも、家族ぐるみでつきあったりしていないので、夫にも子どもにも面識がなく、連絡先を知らない。
 もう若くない友人とふたりでいるとき。たったいまこのひとが目の前で倒れたら、いったい誰に連絡すればいいのだろう、と不安になる。救急車を呼んだり、病院にかつぎこむぐらいはできるが、親族でないわたしは、「ご関係は?」と聞かれたら何と答えたらいいのだろう。
 それに日本の制度では、入院や手術のときの同意書も家族でなければ書けないし、そもそも死亡届も原則家族でなければ提出することができず、それがなければ火葬もできない。最近では家族に代わって身元保証をしてくれる団体も生まれたが、それだって事前に契約しておかなければならない。

 年上のおひとりさまの友人からは、ときどき今年の正月は妹一家と過ごすとか、妹と一緒に旅行に行く、とかの連絡が届く。とすれば、彼女と妹さんの関係は悪くないことがわかるが、その妹さんと会ったこともなければ連絡先も知らない。
 母が存命中は、実家に帰ると母の話題は、親族縁者の近況だった。姪のだれそれが結婚し、甥の家に第二子が生まれ、大伯母が亡くなり、その孫息子が有名大学に入った……と。顔も思い出せない親族のだれそれの動向には何の興味も持てず、うわの空で聞いて、母の声は耳をすり抜けた。母の世代の女たちは、地縁・血縁の網の目のなかにしっかりと編み込まれて生きていたから、その世界の出来事が関心事だった。

 そう思えば、わたしの友人たちとは地縁も血縁も離れて、個としてつきあってきた。夫やパートナーの話題も出てこない。40年もつきあってきた女性が、最近夫を亡くしたと聞いて、彼女が既婚者だったことを初めて知った。彼女の話題に夫の影が差さないので、おひとりさまだとばかり思っていた。彼女の人生によほど夫の影が薄かったのか、それとも夫や子の話題を避けたのは、おひとりさまのわたしに対する彼女の配慮だったのだろうか。
 こういうとき。日本がカップル文化でなくてよかった、と胸をなでおろす。わたしはあなたと友だちになりたいけれど、あなたの夫と友だちになりたいわけではない。あなたの夫がいるところでは話せないことも、話したくないこともある。それに男がいるところでは、場を仕切りたがる男の習性がつい出るのも、まっぴらごめんだ。

 夫や子どもの話題が出なくても、話したいことはやまのようにある。そういうつきあいをやってきた女友だちが、しだいに年老いる。またね、と言って別れるときに、その「またね」がほんとうにあるだろうか、という気分がふとよぎる。そういうときだ、あなたの身近なひとの連絡先のリストを、わたしに教えておいてね、と口にするのは。そのリストはまだ届かない。

(撮影・筆者)

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プロフィール
上野千鶴子(うえの・ちづこ)

1948年、富山県生まれ。社会学者。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長、東京大学名誉教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、現在は高齢者の介護とケアの問題についても研究している。主な著書に『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)、『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『おひとりさまの老後』(文春文庫)、『ひとりの午後に』(NHK出版/文春文庫)、『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』(岩波ジュニア新書)、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)などがある。

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