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他人という謎へ向かうのが社会学者――「マイナーノートで #02〔自己への関心・他者への関心〕」上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。
※#01から読む方はこちらです。

自己への関心・他者への関心

「社会学者は他人に興味を持つ人、アーティストは自分にしか興味を持たない人」というわたしの発言に、写真家の長島有里枝さんからクレームをもらった。
 長島有里枝さん、90年代のはじめにセルフヌードとファミリーヌードのポートレートで写真界に鮮烈なデビューを果たし、「女の子写真家」としてブームをつくったひとりだ。あれから20年余、もう若くなくなった彼女は、あのときのあれは、いったい何だったのか、と問い返して、『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』(大福書林、2020年)という本を書いた。
 アラフォーになってから大学院で社会学を学び、武蔵大学へ提出した修士論文を単著にしたものだ。冒頭に「異議を申し立てます」とあるとおり、全編、怒りの書である。若かったころ、オジサン支配の写真界で、「女の子写真」ともてはやすそぶりのなかで貶められ、無理解と誤解にさんざん苦しめられた記憶に、20年後に理論武装してリベンジした告発の書である。この怒りは、わたしにも身に覚えがある。
 もちろん冒頭のわたしの発言は乱暴な一般化である。他人に関心を持たずに生きられるひとはいないし、もちろんアーティストだって他人に関心を持っている。だがアーティストと社会学者を比べると、ちがいは程度の差、相対的にそれくらいの一般化をしても許されるだろう、というのが、長島さんより長生きしたわたしの観察である。
「でないと、あんなにセルフポートレートが撮れるわけがないでしょ」というのが、わたしの経験的なエビデンスである。いや、自分と距離があるからこそ、あるいは自分を客観視できるからこそ、セルフポートレートが撮れるのだという説もあるが、それにしても自分を被写体にしようというまなざし自体が、自分とは何者か、というつよい関心をもとにしている。自分が他人の目にどう映るかだけでなく、自分が自分自身にとって何者であるか。たしかにそれは巨大な謎には違いない。 
 自分史を何度も書くひとを知っているが、あるいは自分の一族のルーツを辿る作家も多いが、いずれの場合も、自分は何者で、どこから来てどこへ行くのか、という問いに答えようとするものだろう。だが世の中に厖大にあふれる自分史や自伝の類いを見ると、あんたの人生に他人は関心なんか持っちゃいないよ、と毒づきたくなる。自分史はせいぜい家族や親族、わけても子や孫たち、縁のあった者たちにとってのみ意味があり、他人に読ませるものではないと思えてくる。だが縁のないひとたちにも読んでもらいたいと思うのは、それが自分の生きた証、紙の碑だと思えるからだろうか。
 その時、その場で、自分が何をどんなふうに感じたり、経験したりしたか。それを細部にわたって執拗に表現する人たちがいる。自分の経験が意味のあるもので、他者に伝える価値があると、確信していられるからだろう。必要があってシモーヌ・ド・ボーヴォワールの著作を読みあさっているが、自分のどんな経験や感情も細大もらさず記録しておこう、それは記憶に値するから、という熱量の大きさに圧倒される。そして自分の経験や感情が、他者にとっても意味のあるものだという確信に、正直言って辟易する。
 この確信が、わたしにはない。たしかに自分とは何者かは巨大な謎だが、そこに踏みこむには含羞と禁忌とがある。そういうわたしにとっては、他人のほうがつねに想像を裏切る底なしの謎である。この人は何者で、なぜこんなふるまいや考え方をするのか、そのひとの不可解さに触手を伸ばしたくなる。
 そんなわたしにとって、対談は放っておくとすぐにインタビューになる。あなたは、なぜ、どうして、どんなふうに――と。そしてすぐにわかることがある。人は自分について語ることが好きだということと、同時に、他人にあまり関心を持たない生きものだ、というふたつの事実である。
 わたしの新刊が出たときの、ある著名な作家との対談がそうだった。そのひとの作品についてあらかじめ知っていたわたしには、聞きたいことがたくさんあった。結果、わたしの新刊を扱うはずの対談は、もっぱらわたしが聞き手になるインタビューとなったことは、文字起こしをしてみると一目瞭然だった。担当の編集者はバランスの悪さに困惑したが、わたしの言い分はひと言だった。
「だって、相手がわたしに聞き返さなかったからよ」
 聞かれれば、答えた。わたしだって、他人が自分に示してくれる関心がうれしくないわけではない。自分語りだって、人並みには好きだ。想定外の問いかけで、見たこともない自分自身を発見するスリリングさだって、味わったことがある。だが、それ以上に、わたしの他人への関心が凌駕する。そして相手からはこのひと言が返って来ないことを、しばしば経験した。
「で、あなたはどうなの?」
 散々しゃべりまくったあとで、相手がこうつぶやく。
「あなたって、自分のことを言わないのね」
 聞き返さなかったのはあなたのほうだろう、ということばは呑み込む。
 人は自分には関心を持つが他人には関心を持たないものだ、と痛感するのは、こんなときだ。

 他人に対する関心とは、もしかしたら、やさしさよりは暴力かもしれない。不可解な他者を理解したいとは、言語で世界を支配し尽くしたい欲望と同じかもしれない。あるいは他者に対する関心が自分に対する関心を凌駕するとき、それは自分という謎に蓋をして迂回路を辿る防衛的な身ぶりかもしれない。
 社会学者は、自分という謎より他人という謎へと向かう。社会学者に限らず、研究者や批評家と呼ばれる人々は、迂回路を辿って他人の口を借りてしゃべるという、制約が多くて不自由な道を選んだ人々だ。それがいやなら研究者を選ばないほうがよい。
 文学者と文学研究者はちがう。作家と批評家はちがう。そのちがいを命題化するなら、「前者は自分にしか興味を持たない人、後者は他人に興味を持つ人」と一般化するぐらいは許されると思うが。
 長島さんは、セルフポートレートを撮る女性アーティストが「自分にしか興味がない=ナルシスト」と取られることに引っかかっているのだという。「なぜなら『女の子』性みたいなものはずっと、鏡の中の自分にうっとりしながら化粧をするとか、自己中心的だとかの、いわゆるナルシシズムとして揶揄されてきましたから」と。
 それに対してわたしが返したのが、こんなせりふだ。
「クリエイターは、鏡をのぞいてうっとり、なんて中途半端なものじゃなくて、度はずれたナルシシズムを持てばいいんです。『オレサマ/ワタシの作るものが世界でいちばんよい、わからないオマエがバカだ』っていうぐらいの」
 そしてわたしに欠けているのは、このナルシシズムである。

(タイトルビジュアル撮影・筆者)

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プロフィール
上野千鶴子(うえの・ちづこ)

1948年、富山県生まれ。社会学者。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長、東京大学名誉教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、現在は高齢者の介護とケアの問題についても研究している。主な著書に『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)、『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『おひとりさまの老後』(文春文庫)、『ひとりの午後に』(NHK出版/文春文庫)、『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』(岩波ジュニア新書)、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)などがある。

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