大澤真幸 連載「真に新しい〈始まり〉のために──コロナ時代の連帯──」第6回(最終回) 人新世のコロナ禍〔後編〕
コロナ禍のもと、身体的接触がタブーとなるなか孤立した人々の間には亀裂が生じ、社会の分断が進行している。米中をはじめとする大国は露骨な国益を主張し、私たちは国家という枠組みに否も応もなく囚われていく。このような息苦しい時代だからこそ、階級的格差を克服する平等性の実現や、国家という枠を超えた普遍的連帯の可能性というビジョンを、私たちはいま一度真剣に追究するべきではないか――。
「コロナ時代の連帯」の可能性と、そのための思想的・実践的課題に鋭く迫る、著者渾身の論考!
※連載第1回から読む方はこちらです。
IV 交換価値か、使用価値か
1 交換価値よりも使用価値を重視する
逆方向から考えてみよう。つまり、到達目標の方から遡るように、考え直してみよう。連載第5回目のII-4で述べたように、斎藤幸平によれば、脱成長コミュニズムに向けて具体的になすべきことは五つある。いずれも難しそうなことだ。どのひとつをとっても、たやすく実現できるとは思えない。
たとえば、分業を廃止せよ、とされる。現在の分業体制の中では、しばしば労働は画一的で単調な作業になる。労働を創造的で魅力的なものにするには、生産現場が、誰もが多種多様な労働に従事できるように設計されていることが望ましい。そうすれば、たとえば「精神労働と肉体労働の対立」のようなものも克服される。……このように言われるわけだが、小規模で単純な社会であればともかく、大規模で複雑な社会で、つまり専門化が極端に進捗している社会で、こんなことは可能なのか。
五つの事項のいずれも容易には実現できないだろう。とはいえ難易度は一律ではない。これら五つの中で最も困難なことは、一見、最も簡単そうなことである。そして、その最も困難なひとつのことさえ実現すれば、困難そうに見える他の四つも自然と現実のものとなるだろう。最難関な一事とは、最初に挙げられていること、「交換価値」よりも「使用価値」を重視するような経済への転換ということだ。
なんだ、そのくらいのことならばさして難しくはない、と思うだろう。交換価値(貨幣)よりも、使用価値(商品)の方が大事なことは明らかだからだ。もともと、われわれが貨幣を用いるのは、それによって得られる商品の使用価値が目当てだ。心がけ次第で、いくらでも交換価値ではなく、使用価値に重きをおいて生きることができるように思える。
だが、そうはいかないのだ。人は皆、ほんとうに大事なものは、使用価値だということはわかっている。貨幣(交換価値)には、まさに貨幣として使いうるということ以外には、いかなる実質的な価値(使用価値)もないのだから。貨幣は、使用価値を得るための手段でしかない。……といったことは誰もが分かっている。にもかかわらず、人は、使用価値ではなく、交換価値の方を――厳密には交換価値の増殖を――目的として行動するようになる。これこそが、資本主義という現象である。使用価値が大事だ、と人々が理解すれば、資本主義から脱することができるのであれば、とうの昔にそうなっていただろう。いや、そもそも資本主義など生まれなかっただろう。資本主義の頑強性は、使用価値に対する交換価値の優位がどうしても崩れないことに由来する。
2 W-G-W’からG-W-G’へ
マルクスの流通の公式を使えば、次のように表現することができる。端緒にあるのは、W-G-W’という循環である。Wが商品(Ware)を、Gが貨幣(Geld)を表している。ある商品W’を得るために、自らが所有する物Wを売って、貨幣Gを得る。その貨幣Gによって、欲しかった物W’を獲得する。この循環は、資本以前のものである。
この循環が、G-W-G’に反転したとき、資本が誕生する。今や、目標は、使用価値Wではなく、価値増殖、増殖した貨幣G’=G+ΔGとなる。ΔGが剰余価値である。一方の当事者で、W-G-W’ の転態が生じているとき、他方の当事者では、G-W-G’の転態が生じているのだから、両者は同じことだと思うかもしれないが、そうではない。前者を基軸として展開しているのか、後者を基軸にして展開しているのかでは、経済はまったく異なった様相を呈する。
W-G-W’と違って、G-W-G’の運動には、終わりがない。いったん終極G’を迎えても、それがすぐに、次の循環の起点となる。貨幣Gを投資して、労働力を含む商品Wを購入し、最終的に剰余価値ΔGをともなったかたちで貨幣G’を回収する。このようにして還流してきた貨幣G’は、すぐに再び投資される。こうして同じ形式の循環G-W-G’がくり返される。これが終わりのない価値増殖であり、資本蓄積の無限化である。資本主義とは、このG-W-G’の循環を基軸として経済が展開している社会システムである[1]。
循環公式G-W-G’は、人の欲望のあり方そのものの変化を表現している。その変化は、概念の特殊性と普遍性の間の関係として記述することができる。
本来、普遍性とは、実在する、それぞれに特殊な事物の有する属性にすぎず、それ自体は実在ではない。その事物の有する性質が、他の諸事物の性質と共通しているとき、「普遍的」として性格づけられるのだ。普遍性がこのように位置づけられている限りは、それは、それぞれに特殊な事物への付属品のようなものである。これは、流通が、使用価値(特殊な事物)を中心にして展開している状態に、つまりW-G-W’に対応している。
しかし、特殊性と普遍性の間の論理的なプライオリティの関係に逆転が生ずる。すなわち、特殊性が、抽象的な普遍性のひとつの表現として位置づけられるようになる。こうなると、普遍性がそれ自体として欲望の対象となり、実在する実体性を獲得する。実体化した普遍性こそが貨幣である。貨幣は、任意の特殊な商品に転換できるからだ。この段階こそ、G-W-G’の公式に対応している。この循環を通じて、抽象的な普遍性(価値)は、さまざまな具体的な商品(使用価値)として受肉しつつ、そのたびに自分自身へと回帰する。マルクスが「商品の物神性」と呼んだのは、このような事態である。それぞれの特殊な商品は、抽象的な普遍性の具体化としてのみ欲望の対象になっている。
3 貨幣による使用価値の締め出し
W-G-W’からG-W-G’への転換は、倫理学者が、行動経済学の実験をもとに「市場による道徳の締め出し」と呼んでいる現象と関係がある[2]。「市場による道徳の締め出し」が何を意味しているのか、具体的な実験例で解説しよう。障害児援助等の有意義な事業に必要な資金を得るために、家々をまわって寄付を募る高校生を三つのグループに分ける。第一のグループは、寄付の重要性を説くスピーチを聞かされた後、すぐに募金活動に送り出された。第二、第三のグループも同じスピーチを聞かされるのだが、同時に、集めた金額に応じた金銭的報酬が出ると告げられる。それぞれのグループに与えられる報酬は、集めた金額の1%、10%という歩合だった(報酬の財源は、集めた寄付金とは別である)。
どのグループが最も多くの寄付を集めるのに成功したのか。貨幣による報酬――経済学者が言う金銭的なインセンティヴ――が大きい第三グループが最大の寄付を集めるだろうと予想されるところだ。実際、第三グループの成績は第二グループよりもよかった。しかし、最も多くの寄付を集められたのは、第三グループではなく、金銭の面では無報酬の第一グループだったのだ。つまり、最も熱心に寄付集めの活動を行ったのは、第一グループだったのである。第三グループが第二グループよりも成績優秀だった理由はすぐに理解できる。だが、その同じ理由が作用しているならば、第一グループが最下位になるはずだが、まったく逆の結果となっている。どうしてなのか。
貨幣という報酬が与えられることで、善行の性質が根本的に変わってしまったからである。高校生は、善い目的への使命感をもって募金活動にとりくもうとしていた。しかし、貨幣的な報酬が提供される設定になったとたんに、それは善行ではなく、一種の賃労働――自分自身の利益のための労働――に変質してしまったのだ。実験から、公共的な善のための使命感の方が、貨幣的な報酬よりも高校生を強く動機づけていたことがわかる(第一グループが第三グループより好成績)。これが、「市場(貨幣的インセンティヴによって行為を商品や賃労働にすること)による道徳(善なる目的への奉仕という行為の意味)の締め出し」という現象である。
貨幣という報酬が得られることで締め出されるのは、行為の倫理的な意味(道徳)だけではない。このことは、次のような実験からわかる[3]。ちょっとした創意工夫や認知的なひらめきのようなものが必要となるパズルやゲームを被験者にやらせる。その際、被験者を次のようにグループ分けする。まず、課題を単に解くだけで、いかなる報酬もないグループがある。他のグループでは、成績優秀者には――他の人より速くパズル等を解けた優秀者には――金銭的な報酬が与えられる。優秀者に与えられる報酬も、低額のグループと高額のグループの二段階に分けておく。
その結果は、まったく驚くべきものである。無報酬のグループが最も成績がよい(課題を解くまでの平均時間が最も短い)。そして、優秀者(勝者)が得る報酬が大きい方が、そのグループの成績が悪くなる傾向がある。金銭的な報酬を得ようとがんばっているグループの方が、成績が悪いのだ[4]。
こうした実験結果をどのように解釈すればよいのか。行為には、その具体的な特殊性に応じた、直接的な、それ自体としての価値がある。寄付集めの行為は、障害児支援に役立っており公共善に貢献している。あるいは、パズルを解くことはそれ自体で十分におもしろい遊びである。ところが、貨幣という報酬が与えられたとき、貨幣に示される価値によって、具体的な行為のもつ特殊な価値が締め出されるのだ。パズルを解くゲームに報酬が入ると、パズル解き自体がもつ楽しさが半減し、なんと――本人はまったく自覚がないはずだが――インスピレーションすらわきにくくなるのだ。実験結果は、純粋に楽しんでいるときには出てくるような発想やひらめきが、金銭的な報酬が大きくなればかえって出にくくなっていることを示している[5]。
「(交換)価値よりも使用価値に重きをおけ」という提案は、このような貨幣的な価値による、行為の具体的で特殊な価値の締め出しに抵抗すべきだという提案に等しい。
4 手段と目的の反転
だが、この現象の、つまり「貨幣において示される抽象的な価値による、行為の特殊で具体的な価値の締め出しという現象」の奇妙さを、十分に踏みとどまって考えておく必要がある。報酬として貨幣が得られるようにしたことで、価値が行為に加算されるわけではない。つまりそのことで行為の価値が高まるわけではない。募金活動にアルバイト料を支払うようにすると、その行為は、公共善に奉仕する価値をもち、その上で、募金者の利益にもつながるわけだから、一石二鳥であって、無報酬の募金活動よりも行為としての価値が高まりそうに思えるが、そうはなってはいない。あるいは、それ自体でも十分におもしろいパズル解きに、金銭的な報酬が加われば、このパズル解きは、ますます価値が高まり、被験者の「やる気」を高めるのではないか、……こう推測したいところだが、実験結果は、そのような推測が誤っていることを示唆している。
行為それ自体がもっていた特殊で具体的な価値に貨幣的価値を重ねたときには、必ず後者が勝ってしまう。後者だけが活き、前者が締め出されるのだ。驚きは、行為者当人には、前者の方がより魅力的に見えているはずであるにもかかわらず、そうなるということである。純粋な善行として募金活動をしているときの方が、賃金を得ることができる労働として同じことをやっているときよりも、人は強く動機づけられ、熱心にその行為にコミットしている。貨幣という報酬が与えられたとたんに、その行動は、当人にとっては主として賃労働となって、善行としての意味は失われる。そして同時に、本人の熱意も低下する。客観的には、その募金活動が公共善に貢献しているという事実は失われてはいないにもかかわらず、である。
どうして、より魅力的で、高尚にも見える具体的な価値が、市場的・貨幣的な価値に呑み込まれ、締め出されてしまうのか。これこそ、先に述べた普遍性と特殊性との間の独特の関係によって、つまりマルクスがいうところの商品の物神性によって説明されることだ。どのような論理によって、物神性が生まれるか、あらためて解説しておこう。
もともと、貨幣は、任意の使用価値を得ることができる普遍的な媒介、普遍的な手段である。言い換えると、貨幣は、任意の特殊な目的に――任意の具体的な使用価値の獲得に――奉仕することができる。そうであるとすれば――貨幣さえ獲得すれば、それを任意の使用価値へと転化することもでき、どのような特殊な目的の実現へも繫げ得るのだから――逆に貨幣的な価値の獲得は、任意の使用価値の獲得や任意の特殊で具体的な目的を、その内部に手段として包摂するような、普遍的な高次の目的へと転化しうる。貨幣は、普遍的な手段であるがゆえに逆に、すべての使用価値を自らの手段として下属させる高次の目的へと転化するのだ。
貨幣によって表示される価値は、特定の内容をもたない抽象的なものだが、述べてきたような機序を通じて、任意の使用価値がそれの具体化であるような普遍的な目的として位置づけられるようになる。G-W-G’という循環は、こうした関係の端的な表現になっている。交換価値Gは、さまざまな具体的な使用価値(具体的な目的)Wへと受肉しながら、循環し続けるのである。本来、普遍的な手段であった貨幣が高次の目的へと転換すると、個々の具体的な使用価値やそれぞれの具体的な行為の価値は、色あせた、魅力のないものへと変容する。一般に価値が高貴さを帯びるのは、それが終極的な目的として位置づけられているときだからだ。使用価値Wが、普遍的な交換価値Gを得るための手段へと転化したときには、目的としての終極性を失い、その意義は相対化される。(公共善に貢献する)倫理的な行為や(それ自体で快楽をもたらす創造的な遊びのような)審美的な行為が、貨幣的な報酬を与えられたとたんに、魅力を失うのはそのためである。
V 科学知の運動
1 ヘーゲルへ
資本主義は、普遍性(交換価値)と特殊性(使用価値)の間に転倒した関係が生じたときに生まれる。この転倒は、ちょっとした心がけで正すことができるものではない。とすれば、われわれは次のように問題を設定するほかない。内側からこの転倒を破ることはできるか、と。この問いは、ずっと問い続けてきていること、すなわちキューブラー=ロスの第五ステージに到達することは可能かという問題の変形でもある。資本主義の内側から、第五ステージに行くことはできるのか。
ここでわれわれの考察の助けになるのはヘーゲルである。マルクスは、見てきたように、資本に固有の循環を、普遍性/特殊性という概念の間の関係として捉えうるとしたわけだが、それは、彼が資本を、ヘーゲルの論理で説明しようとしているからである。マルクスの直観は、資本の運動は、ヘーゲルが「精神」や「概念」に見出した論理に基づいてこそ説明可能だ、という点にある。ヘーゲルの哲学にあっては、精神や概念は、自己運動していく。それと同じように、貨幣や資本は説明できる。
ヘーゲルの『精神現象学』を貫く基本的な着想は、その序文にある有名な宣言に表明されている。「真なるものを実体としてではなく、同時に主体として把握し表現する」[6]。この宣言にそうかたちで、マルクスは、価値という実体=貨幣は、同時に主体でもあるとみなした。主体化した貨幣こそが、さまざまな特殊な使用価値へと具体化しながら増殖し、循環する資本である。
資本がヘーゲルの論理にそうかたちで運動しているのだとすれば、マルクスからさらにヘーゲルにまで遡って考え直してみよう。もっとも、現代社会を分析しようとしているわれわれにとっては、ヘーゲルのテクストを細かく解釈し、強引に現代的な現象と対応づけるというような牽強付会は無意味である。あくまで、ヘーゲルの基本的な見方が、資本主義なるものの総合的な理解に有効であることを確認すれば十分だ。
2 増殖する知
資本は、実体であると同時に主体である。ヘーゲルの見方を継承すれば、次のように言えるはずだ。同じように、近代的な知も実体=主体の運動性の現実化である、と。この命題は、実際、近代科学を見ると、実に正確に成り立つ。
このことは、近代科学の知には、それ以前の知の体系――そして西洋以外の文明圏において生まれた知の体系――にはない、特別な性質が備わっていることに気づけば理解できる。特別な性質とは、無限の蓄積性である。近代科学は、知を増殖し、どこまでも積み重ねようとする。今やわれわれは、知とは基本的には科学のことなので、知がどんどん蓄積されていくことを自明のことのように思っているが、近代科学以前の知にあっては、蓄積とか変化とかはきわめて緩慢であった。それに対して、近代科学においては、知は持続的に蓄積されており、蓄積が進捗していない瞬間はまったくない。
するとすぐに、科学的な知と資本主義的な価値との間の類似性に気づくだろう。資本は回転する中で剰余価値を生み出す。これと似て、科学は常に「剰余知識」を生み出している――新知見を付け加えている。資本主義的な(価値の)生産様式と近代科学的な知の生産様式とは、同じような衝動が共有されているように見える。
近代科学は、西洋で、科学革命とともに生まれた。つまりガリレイやニュートンが活躍した17世紀に生まれた。科学革命の期間は、フェルナン・ブローデルが、資本主義の揺籃期と見なした「長い16世紀」の後半と重なっている[7]。近代科学と近代的な資本主義はほぼ同じ時期に生まれたと言ってよい。
どうして近代科学にだけ、このような性質、無限の蓄積性があるのか。言い換えれば、どうして、他の知の体系には、同じような蓄積性や増殖性がないのか。答えは、近代科学は、厳密には真理の集合ではない、ということに関係している。普通、知の体系は、真理(の集合)である――と自ら主張する。近代科学だけは違う。科学という知の体系の中に収められている命題は、すべて「仮説」、つまり真理のせいぜい候補に過ぎない。
普通、科学革命は、斬新な発見(たとえば地動説)によって生じた、と説明されるが、そうではない。近代科学をもたらしたものは、――ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』で述べているように――「われわれは知らない」ということの自覚、自らの無知についての知である。科学革命は、知の革命である前に、無知(の知)の革命である[8]。近代科学が仮説の集合にしかならないのは、それが真理であるかどうかを、われわれは知らないからである。
近代以前の知の伝統はいずれも、この世界において知るに値する重要なこと──有意味な真理──については、すでにすべて知られている、という前提をもっていた。誰もが知っている、というわけではない。しかし、「われわれ」の中の誰かが、賢者とか、預言者とか、ブッダとか、君子とか、とにかく誰かが、つまり少なくとも一人が、大事なことをすべてすでに知っているのである。ユダヤ教でも、古代や中世の西洋哲学でも、キリスト教やイスラーム教でも、そして仏教やヒンドゥー教、あるいは儒教でも、この点は変わらない。そして、賢者や知者が知らないことは、そもそも重要ではないことだ。伝統的な知の体系の中では、真理へのアクセスが、権威あるテクスト――古典や聖典――を読むという形式をとるのは、このためである。テクストには、その特権的な賢者が知っていること、知っていたことが書かれているのだ。このような前提であれば、原理的には、知は増殖しない――増殖してはならないはずだ。
近代科学は、まったく異なった前提から始まっている。われわれは(未だ)知らない、知るべきことをすべて知っている人は誰もいない、という前提から、である。この前提から、価値を増殖させる資本と類比的なやり方で、不断に真理候補を改訂しつつ蓄積していく知が生まれる。
3 帰納法と予定説
剰余価値は労働者の労働を通じて生まれる。剰余知識(新発見)は経験を通じて見出される。真理(候補)の源泉が、「言葉(聖なるテクスト)の権威」から「事物をめぐる経験」に置き換わったところに、近代科学の革新があった、と言われる。それ以前は、知性(真理の認識)と普通の人々の経験とは何の関係もなかった。それに対して、科学革命は、認識と経験とを結びつけた。が、ここには独特のひねりが入っている。
経験は不確実であって、真理とは結びつかない、とかつては考えられていたが、近代科学においては、知性と経験の間の壁が取り払われ、経験が真理の認識のための最も重要な手がかりになった。とすると、経験への信頼が高まり、経験されたことは確実だと思われるようになった……と考えたくなるところだが、そうではない。ジョルジョ・アガンベンは、近代科学は経験に対する、かつてなかったほどの不信から生まれている、と述べている[9]。この主張は通説を根本からひっくり返すものなので人を驚かせるが、しかし、デカルトのことを思えば、ただちに納得がいく。デカルトは、科学革命の同時代人で、彼自身、この革命の担い手のひとりだが、経験を異様なまでに疑っている。彼は、感覚をあざむくことを専門とする邪霊がいるかもしれない、などということまで心配して、経験を精査しているのだ。
すると近代科学は、経験をまったく信じていないのに、経験から真理の手がかりを得ようとしていることになる。だから、近代科学が依拠したのは、経験のすべてではなく、独特のやり方で改造され、編成された経験である。つまり「実験」や「観察」となった経験だ。実験・観察は、経験らしさが抜き取られた経験である。経験の特徴は、人によってさまざまだということ、個人ごとに多様だということにある。それに対して、実験・観察は、経験の構成要素をできるだけ道具や数値に置き換えることで、「誰が実施しても同じ」「誰が観測しても同じ」という状況を確立しようとする。
実験・観察(として編成された経験)と真理――厳密には真理の有力候補としての仮説――とを結びつけるのが帰納法である。しかし、ここで困難が生ずる。実験や観察がいかに厳密に統制されていたとしても、完全に同一の経験を保証するものではない。またいかに実験や観察を繰り返しても、なお真理に対して要請されている「普遍性」を確証させるものではない。帰納的な一般化と真理の普遍性の間には乗り越えられないギャップがある。どうして、帰納法によって真理に近づきうるという確信をもちえたのか。
ある暗黙の前提があるのだ。先ほど述べたように、近代科学は、人間が真理を知らない、ということから始める。が、同時に、「真理をすべて知っている主体」の存在が前提にもなっているのだ。その主体は、具体的な誰彼、経験的な個人ではない。純粋に理念的な存在である。実際には決して出現しないし、その境地には誰も到達できないが、しかし、真理を知っている主体が理念的には存在することが科学的な営みにとっての前提になっている。帰納的に一般化されたことがらは、その「真理を知っているはずの主体」が実際に知っていることと合致している(かもしれない)と想定できるために、真理(の候補)としての資格を得るのだ。もし、「真理を知っているはずの主体」の理念的な存在をあてにできなければ、帰納を通じて――つまり経験(実験や観察)の繰り返しを通じて――真理に漸近することはできない。
ここで注目しておきたいことがある。今述べた構成は、(一部の)プロテスタントの予定説とまったく同じである[10]。予定説との対応が重要なのは、連載の第2回目で述べたように、予定説こそが「資本主義の精神」の最も重要な源泉だからだ。
近代科学は、ほんとうは経験に対して不信感を抱いており、経験されたことが確実なことなのか、それを真理と見なしうるのかということについてとことんまで疑っている。同じように、予定説を信じるキリスト者は、自分が(最後の審判の日に)ほんとうに救済されるのかどうかということについて、自分が現にこの世界で経験しているどのようなことからも確証を得ることはできず、懐疑を払拭できない。近代科学は、経験を疑っているのに、まさにその経験から真理(の候補)を導き出す。プロテスタントも、原理的には(救済についての)確証を得られないはずなのに、自分が来るべき終末の日に救済されているはずだという想定で――救済をいわばひとつの仮説として前提にして――行動する。プロテスタントがそんなふうに行動できるのは、全知の神の存在を絶対的に信じているからである。科学が、真理を知っているはずの理念的な主体を暗黙の――しかし絶対に譲れない強固な――前提としているのと同じである。
VI 絶対知の逆説
1 「しるし」を受け取るためには……
ヘーゲルからヒントを得ながら、近代的な知のダイナミズムが、資本の循環と類比的だということを見てきた。なぜそんなことを見てきたのかというと、ここから、あのキューブラー=ロスの第五のステージに対応するような認知的な態度が出てくるかを検討するためである。人新世を生きるわれわれが現在、普通に可能であると見なしていることをそのまま持続するならば、生態学的な破局は必然であることを直視し、あえて不可能を――たとえば脱成長コミュニズムを――選択できるようなそんな認知的な態度が、ここから出てくるだろうか。
われわれが前節の探究の過程で見出したのは、近代科学の知である。科学知は、われわれが求めている認知的な態度と見なすことができるだろうか。科学的知見が重要なことは確かである。破局が迫っているという予測はすべて、気象学をはじめとする経験科学の蓄積してきたデータとそれにもとづく科学的に合理性のある推論に基づいている。科学知がなければ、来るべき破局について云々することは百パーセント無意味である。そして、迫っている破局に対して警鐘を鳴らし、何らかの対策をうつべきだと主張している者は常に、破局を否認したり、それを小さく見積もっている者たちに対して、科学の客観的なデータと推測を無視している、と批判する。
科学知は必要条件だとして、ではそれで十分なのか。科学が提供してくる事実と予想を虚心に受け取るだけで、われわれはあの第五のステージに達するのか。そうではない。科学知だけでは明らかに不十分である。破局の可能性を否認したり、その大きさを過小評価する者たちもまた、まさに科学的な知見を根拠にしてそれを主張しているからである。しばしば依拠しているのは少数説ではある。しかし彼らも科学の知見を拒否したり、無視したりしているわけではない。持続可能な成長や気象ケインズ主義を唱える者、あるいは左派加速主義者は、科学知を否認しているのではなく、逆に科学知に過度な期待を寄せているとさえいえる。パリ協定からの離脱を宣言したトランプ米大統領でさえも、大規模な気象変動が起きつつあることを疑う(マイナーな)学説に訴えて、自らの判断を正当化している。
科学が提案していることは、前節で述べたように、真理ではなく仮説である。それは、常に懐疑に対して開かれている。科学知は、どのような行動を支持するときにも活用可能だ。科学知だけでは不十分だし、これは、われわれが求めている第五ステージの態度そのものを構成することはない。
新約聖書の福音書によれば、イエス・キリストは、数々の奇蹟を起こす。死者を蘇らせたり、盲人の目を開かせたり、水の上を歩いたり、と。それらは、人々に、イエスが神の子であること、そして神の国が迫っていること、そうしたことを納得させるためである。イエスが行った奇蹟は、神の国がすぐ近くにあること等を示す「しるし」だ。実際、信者たちは、奇蹟を、そのような「しるし」として受け取る。だがイエスを憎む者たちは、そのようには受け取らない。彼らもまた、イエスが行ったことを、たとえば彼の立会いによって墓に入っていたラザロが生きて出てきたことを知っている。しかし、信仰がなければ、それは、何か特別なことを意味する「しるし」にはならない。イエスへの憎悪がますます深まるだけである。
同じことは気候変動にも言える。異常に大きな台風の到来や新型コロナウイルスのパンデミックが、来るべき破局を予告する「しるし」になるためには、ある種の「信仰」が必要になる。「信仰」がなければ、それらは、ときどきある、いくぶんか平均値を外した出来事でしかない。この「信仰」はいかにしてもたらされるのか。それは、(いかにして)可能なのか。
2 絶対知と神の知
ところで、精神のダイナミズムは科学知(悟性や理性)で終わるわけではない。ヘーゲルによれば、精神は成長し、最終的に「絶対知absolutes Wissen」に至る。『精神現象学』では、意識は、感覚から始まって、悟性や理性等を経由し、宗教も通過し、最終的には絶対知に至るのだ。絶対知とは何であろうか[11]。
絶対知は、普通、すべてのことを知っている状態、超越的な神に帰属するような知であると考えられている。予定説の神の知、あるいは近代科学がその探究において――絶対に到達しないが統制的な理念として――前提にしている知、これらが現実になったものが絶対知である、とするのが一般的な理解である。
だが、もし絶対知がそのようなものだとすると、ヘーゲルは誇大妄想を抱いているようにも見えるし、そもそも、彼は単純に混乱している。絶対知が、神の全知のようなものだとすると、それは歴史の終わりに属する知である。歴史の中で起きたこと、起きうることをすべて知ってしまっているような主体がもつのが、絶対知だということになるだろう。しかし、ヘーゲルは、いたるところで、すべての個人は時代の子であって、哲学も時代を超越することはない、と明言している。たとえば、最もよく知られた部分としては、『法の哲学』の序文で、何らかの哲学がそれが属する現在世界を超越しうると空想することは、ロドス島で跳ぶがごとくに愚かしいことだ、とまで述べている[12]。
『歴史哲学講義』の中でも繰り返し、自分自身の認識は、現在時に制約されていて、最終的なところはわからない、という趣旨のことを述べている。アメリカは未来の国であって、その世界史的な意義は目下のところはわからない等、と。もし絶対知が超越神に属する知のようなものだとすると、任意の知の――ヘーゲル自身の知を含むすべての知の――歴史的な被制約性についてのこうした主張と、知は絶対知に到達しうる――少なくともヘーゲルは到達している――という主張とは、まったく矛盾していることになる[13]。
意識の最終的な到達地点となる絶対知は、だから、神の全知とはまったく異なるものなのだ。では、それは何か。
3 絶対知とは何か
絶対知は、「私たちにとって(Für-uns, For-us)」と「それ自体として(An-sich, In-itself)」の間の緊張関係の極限に現れる知の様態である。どういうことか。
われわれは、事物についての何らかの体験をもつとき常に、ある区別を行っている。私たちにとってFür-uns1*その事物がどのように現れているのかということと、その事物がそれ自体としてAn-sich1*どのようであるのか――私たちとの関係から離れてどのようであるのか――、ということを区別しているのだ。たとえば、私たちの位置からはとても小さく見えるあの像は、ほんとうはとても大きいのだ、といった具合にである。あるいは私たちには黒く見えるが、ほんとうはあれは赤いのだとか、私たちには正面しか見えていないが、ほんとうは裏面もあるのだとか、といった具合にである。
*太字の数字、アルファベット、記号は下添字を表します(以下同)
ところで、「それ自体としてAn-sich1」の事物のあり方もまた、やはり私たちにとってFür-uns2の現れ方であると捉え返すことができる。たとえば「あれは私たちにはFür-uns1とても小さく見えるが、ほんとうはそれ自体としてはAn-sich1大きいのだ」というとき、私たちがそれをはるか遠くからではなく、典型的で適度な距離から見たときには大きく見えるということであって、その事物のAn-sich1のあり方も、やはり(その事物から適切な位置にいる)私たちにとってのFür-uns2の現れのひとつであると反省的に捉え返すことができる。「私たちにはFür-uns1黒く見えるあれは、それ自体としてはAn-sich1赤い」というときも、その事物が、暗い部屋ではなく、自然光が入っている普通の明るさの環境の中にいる者には赤く見えるということであり、やはり、An-sich1のあり方は、Für-uns2に置き換えられる。
Für-uns2としての事物の現れ方に対応しても、An-sich2な事物のあり方が想定されている。たとえば「普通の距離からは(Für-uns2)大きく見えるあの像は、ほんとうは――それ自体としては(An-sich2)――20mの高さだ」とか、「自然光のもとでは(Für-uns2)赤く見えるあの物体の表面は、ほんとうは――それ自体としては(An-sich2)――これこれの波長の光を反射する性質をもっている」とか、といわれるだろう。
整理すると、次のようなことが起きている。私たちは事物を認識するとき常に、その事物が私たちにとってどのように現れているか(Für-uns n)と、その事物がそれ自体としてどうであるか(An-sich n)とを区別している。後者は、さらに一段階上の、私たちにとっての現れ方(Für-uns n+1)として捉え返され、それとの相関で、事物がそれ自体においてどうであるか(An-sich n+1)ということも措定されている。
Für-uns n/An-sich n → An-sich n=Für-uns n+1/An-sich n+1 → …… (*)
ここで次の点に留意しておこう。Für-uns nとFür-uns n+1を比べたとき、後者の「私たちuns」の範囲は、前者よりも包括的である。つまりFür-uns nに対してFür-uns n+1は、普遍化の程度がより高いということになる[14]。Für-uns nの現れ方は、An-sich nのあり方との関係で相対化されているわけだが(「私たちの視点にはこのように見えているがほんとうは……」という形式で相対化されているわけだが)、それは、Für-uns nの「私たちuns n」が、Für-uns n+1の「私たちuns n+1」の中の部分的契機として相対化されているということでもある。なぜならば、「An-sich n=Für-uns n+1」だからである。
ジョン・ロックは、物の性質を、第一性質と第二性質とに分類した[15]。第二性質には、色や味等が含まれ、第一性質には、形や数や固さ等が入る。第二性質は、Für-unsに現れる性質であり、第一性質は、物それ自体にAn-sich帰属する性質だ。だが、ここに述べてきたことから明らかなように、性質をこのように固定的に分類するのは適切とはいえない。あるレベルでAn-sichと見なされることも、上位のレベルではFür-unsだからである。言い換えれば、第一性質もすべてFür-unsに還元することができる。ただ、第一性質の方に分類される性質がたち現れるときに参照される「私たちuns」の範囲が、第二性質がそれに対して現れる「私たちuns」の範囲よりも圧倒的に広く包括的だというだけの違いだ。
さて、ここで先の(*)の歩みを最後まで進めていくとどうなるだろうか。それ以上に包括的な私たちunsが積極的には想定できない水準のFür-uns∞にまで到達するはずだ。それは、同時の究極のAn-sich∞でもあるはずだ。すなわち、(*)の極限は、
Für-uns∞=An-sich∞
である[16]。こうして、最終的ななまの客観的実在An-sichが、主観的な現れFür-unsと直接に合致することになる。これこそが、ヘーゲルが言うところの「絶対知」ではないか。絶対知とは、もうこれ以上の相対化が不可能なレベルの「私たちuns」に対する現れを、客観的な実在として認知することである。
最終的な客観的実在に到達するまでに、Für-unsのレベルを何重にも重ねてきたということは、「それ自体として存在している客観的な実在」に到達するためには、主体の側の操作がいくつも必要になる、ということである。「主体から独立した実在」を認識するために、最も多くの主体による媒介を必要とする、という逆説がここにはある。前節で、近代科学の「実験」ということに関して述べたことを思い起こすと、この点がよく理解できるだろう。近代科学は、経験に対して強い不信感をもっていると述べたが、それは、経験が客体として捉えていることが、客体の実相ではなく主観的な現れ(Für-uns)ではないかとの疑いをもっているということだ。そこで、科学は、経験を実験として編成することで、Für-unsとしての側面を極小化し、An-sichを捉えようとする。つまり、特殊な装置によって観測したり、数値化したり、作為的な概念で把握したりする。直接のAn-sichを認識するためには、主体的操作によって多重に媒介されていなくてはならない、というのは、たとえばこうした状況を指している[17]。
一般には、物自体(An-sich)は、主観=主体の外部の実在だと考えられている。ヘーゲルの絶対知の概念のポイントは、物自体を、主観的なアスペクト(Für-uns)と客観的なアスペクト(An-sich)の間の緊張関係の中に位置づけた点にある。
4 終わりと始まり
こうした考察が、われわれの本来の主題とどう関係しているのか。まったく関係がないことではあるまいか。とんでもない! ここに論じてきたことは、われわれが連載第5回の最初にかかげた問題と直結している。結論を先に述べておけば、絶対知こそは、キューブラー=ロスの第五のステージに対応する認知的な態度にほかならない。われわれが求めてきたものは、絶対知である。この点を納得してもらうためには、もう少し説明を重ねなくてはならない。
絶対知に対しては、その外がなく、それを相対化できるようなメタレベルのFür-unsもない。だから、それは「絶対」知と呼ばれる。何から何まで知っているすごい知性だから絶対知だ、というわけではないのだ。絶対知よりも前のレベルFür-uns nに関しては常に、事物がそれに対して現れているところの「私たちuns n」の主観的な視点を相対化し、それを外部から捉えるメタレベルの視点Für-uns n+1を想定することができる。しかし、絶対知に対しては、定義上、そのようなメタレベルの視点が存在しない。絶対知は、自らを相対化するための視点を、自らの視野の外部に設定することができない。これがポイントである。
それゆえ、絶対知は、最も徹底した意味において閉じている。絶対知に対して見えている視野を相対化するような外部は、原理的に存在しないからだ。しかし、同時に、まさにこの根源的な閉鎖性のゆえにこそ、絶対知は、自らが認識していることがすべてではない、これでは尽きない、とも直観するはずだ。ここは理解の難所なので比喩を用いて説明しよう。
地平線というものを考えてみるとよい。地平線の内側は、根源的に閉じている。われわれは、地平線のこちら側しか見ることができないからだ。地平線の向こうにある何かは絶対に見えず、われわれにとっては存在していないに等しい。にもかかわらず――というより地平線によって閉じられているがゆえにこそ――、地平線の内側に見えているものだけではすべてではない、ともわれわれは思うはずだ。地平線の向こう側に何かが積極的に見えているから、そう思うわけではない。地平線の内側と外側の両方を視野におさめる、メタレベルの視点も存在しない。われわれは、地平線によって閉じられていればこそ、その内側では尽くされないとも直観するのだ。
絶対知の認識が及ぶ範囲は、この「地平線の内側」に見立てられる。地平線の場合と同じように、その認識は、閉じられていればこそ、まさに開かれてもいるのだ。そうだとすると、この絶対知こそ、キューブラー=ロスが見出した第五ステージの態度――死の受け入れ――と同じ形式をもっていることがわかる。
一方で、絶対知は、完全に閉じられており、それを相対化しうる外部の参照点は存在しない。この意味では、絶対知は、死や終末、あるいは破局が必然であるということを見ているのと同じである。なぜならば、絶対知が知りうる内在的な可能性はもう「そこまで」で完全に尽きてしまっていて、「それより先」というものは何もないのだから。
しかし他方で、絶対知は、自らが認識しているもので尽きるわけではない、これらですべではないとも直観するのであった。ということは、絶対知は、すべてが終わったところで、それらに尽きない新しいものの始まりの可能性が開かれていることも直観していることになる。終末のあとに新しいものが始まるのだとすれば、その終末は真の終わりではなく――つまり終末は必然ではなく――、なお回避しうる偶有的なものであったことになる。
キューブラー=ロスによれば、死の宣告を受けた後、第五ステージに至った患者は、死に対して奇妙な両義的な態度をとる。患者は、一方で、死は避けられないことをはっきりと受け入れている。しかし、他方で、その死とともに何かが始まるかのように、その患者は死に対して前向きでもある。このとき、死は必然でありかつ偶有的だ。
第五ステージの患者の死に対する態度と同じ構えで、われわれが、生態系の破局に対することができれば、脱成長コミュニズムのような、(ほとんど)不可能なことへの歩みを始めることができるだろう。このような構えで世界に対することは可能だ、というのが、ここまでの考察の結論だ。そうした構えを、ヘーゲルは「絶対知」として概念化した。
絶対知は、われわれの未来が時間的な地平線によって閉じられているのを見ている。その意味で、破局は必然だ、と。しかし同時に、絶対知は、この時間的な地平線の内側で、すべてが尽きないことも直観する。時間的な地平線の向こう側からやってくる者、それこそ未来の他者にほかなるまい。絶対知は、このような仕方で未来の他者と出会い、未来の他者に応答する。
絶対知は、超人的な悟りのようなものとして獲得するものではない。むしろ、われわれは皆、絶対知へと運命づけられており、絶対知から逃げることはできない。われわれにとって希望は、絶対知が、資本の運動と類比的な仕方で変動する精神の成長の最終段階だということである。なぜこれが希望なのかというと、このヘーゲルの洞察は、資本主義の内側からこそ絶対知の境地に達し得るということを含意しているからだ。
* * * * *
[1] 連載第2回目のV、VIで述べたことをもあわせて参照されたい。
[2] マイケル・サンデル『それをお金で買いますか──市場主義の限界』鬼澤忍訳、早川書房、2012年。
[3] ダニエル・ピンク『モチベーション3.0──持続する「やる気!」をいかに引き出すか』大前研一訳、講談社、2010年。
[4] さらに興味深いことがある。与えられている課題が、何の創意工夫も必要のない単純作業のようなものだった場合には、逆に、金銭的報酬が高いグループほど好成績になる。
[5] 前注で指摘したように、つまらない作業であれば、金銭的報酬の高さに比例して、被験者の成績が高まる。もともとの行為に何の価値もないということは、貨幣によって締め出される価値がない、ということでもある。この場合は、貨幣が与えられれば、少なくともその分だけは、行為に価値が加わる。
[6] ヘーゲル『精神現象学』上、熊野純彦訳、ちくま学芸文庫、2018年。
[7] フェルナン・ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀』全3巻、村上光彦訳、みすず書房、1985-1999。
[8] ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史──文明の構造と人類の幸福』下、柴田裕之訳、河出書房新社、2016年(原著2011年)、第4部第14章。
[9] ジョルジョ・アガンベン『幼児期と歴史――経験と破壊と歴史の起源』上村忠男訳、岩波書店、2007年、27頁。
[10] 帰納法が予定説的な設定を暗黙の前提にしているというこの論点に関して、柴田悠からヒントを得た。柴田悠「プラグマティズムの成立過程」(未発表)。
[11] 以下に示す絶対知についての理解は、スラヴォイ・ジジェクのヘーゲル解釈に負っている。S. Žižek, Less Than Nothing: Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism, London, New York: Verso, 2012, pp.387-394.
[12] 「ここがロドスだと思って、ここで跳べ」は、イソップ物語から来ている。ある人物が、ロドス島の競技会で大跳躍をして勝利したと大言壮語して自慢しているので、人々は、彼に、「ならばここがロドス島だと思って跳んでみよ」と言ったところ、くだんの人物は逃げて行ってしまった、というわけである。ヘーゲルは、「ロドスで跳ぶ」という故事を、できるはずのない妄想だというような意味で、引いている。
[13] ヘーゲルの哲学体系の歴史性は、カトリーヌ・マラブーのヘーゲル論の主題のひとつでもある。『ヘーゲルの未来──可塑性・時間性・弁証法』西山雄二訳、未來社、2005年。
[14] ここでは複雑になるので論じないが、このことは、実は「資本主義」という文脈との関連で重要な意味をもつ。交換価値と使用価値との関係を論ずる中で暗示しておいたが、資本とは、特殊性を普遍性のうちに包摂していく運動と結びついているからである。
[15] ジョン・ロック『人間悟性論』加藤卯一郎訳、岩波文庫、1950年。
[16] Für-uns∞は、Für-uns nで「n→∞」としたときに導かれる極限である。つまり、Für-unsのメタレベルへと向かう階梯を無限段登ったときに得られるのがFür-uns∞である。これよりも一段下のレベルのAn-sichもまた、An-sich∞となる。可算無限集合からひとつの要素を除去しても、やはり可算無限集合になるからだ。つまり「0以上の自然数の集合」と「1以上の自然数の集合」は、完全に濃度(要素の数)が等しいからだ。
[17] 究極のケースは量子力学である。量子力学的には、客観的な物自体は、数学的にしか実在していない。つまり、数学による形式化という主体の側の観念的な操作から独立しては、客観的な物自体は定義できない。
これまで当連載をご愛読いただきありがとうございました。「真に新しい〈始まり〉のために」は、加筆のうえ、2021年春にNHK出版新書として刊行予定です。
プロフィール
大澤真幸(おおさわ・まさち)
1958年、長野県生まれ。社会学者。専攻は理論社会学。個人思想誌「THINKING「O」」主宰。『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞を受賞。『自由という牢獄』で河合隼雄学芸賞を受賞。ほかの著書に、『身体の比較社会学』『<世界史>の哲学』『不可能性の時代』『<自由>の条件』『社会学史』など。共著に『ふしぎなキリスト教』『憲法の条件』など。
*大澤真幸さんのHPはこちら
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