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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で仏教美術考証を務める塩澤寛樹さんの連載『運慶の風景』! 第2回は美術史における運慶の位置を考えます。

 第1回で紹介したがんじょう就院じゅいん阿弥陀あみだ如来にょらいぞうをはじめとする5を含め、運慶うんけいが残した数多くの仏像を私たちはいま鎌倉彫刻と呼び、そして鎌倉彫刻は日本の彫刻史上の集大成の時代といわれますが、そもそもそうした評価はどのように形成されてきたのでしょうか。運慶仏の制作の経緯やすぐれた持ち味の吟味から一旦離れ、第2回では日本の美術史・彫刻史の中で運慶の時代の仏像がどのように位置づけられてきたのかについて振り返っていきます。話題の時世は、運慶仏がつくられた中世からおよそ700年後の近代・明治時代に飛びます。
*第1回から読む方はこちらです。


第2回 「彫刻」と「仏像」

「美術」の成立と美術史のはじまり

 日本で「美術」の用語が初めて使われたのは、明治6年(1873)開催のウィーン万国博覧会への出品を呼びかけるじょうかん布告(明治5年[1872]1月14日)に添えられた博覧会規約だとされています。ただし、その頃の「美術」は絵画・彫刻に加えて音楽や詩を含んでいて、今日の「芸術」の意味に近い言葉でした。美術が絵画、彫刻、工芸などの造形芸術を指す言葉となるのは、明治20年代(1887-96)頃と考えられています。
 美術の歴史的な体系としての日本美術史の構築や研究も、明治20年代からはじまります。高等教育で「日本美術史」の講義が初めて行われたのは明治23年(1890)。同年に東京美術学校(東京藝術大学美術学部の前身)の校長に就いた岡倉天心おかくらてんしんによるものでした。その内容は、受講生たちがまとめた文章により知ることができます(『岡倉天心全集 第4巻』[平凡社、1980年]所収)。
 ところで、日本美術史の形成は一つの国家制度であったという認識がこの30年ほどの研究で明らかにされています。「美術の制度化」といわれる議論で、1989年の北澤憲昭きたざわのりあき氏の『眼の神殿―「美術」受容史ノート』(美術出版社/ちくま学芸文庫、2020年)を端緒に、1996年のとう道信どうしん氏の『〈日本美術〉誕生―近代日本の「ことば」と戦略』(講談社選書メチエ/ちくま学芸文庫、2021年)などによって進められてきました。それを極力単純化していえば、明治に形成された「日本美術史」とは、歴史研究における皇国史観の形成と軌を一に博覧会や展覧会、博物館、美術学校(美術教育)などともセットになって、近代国家整備の一環として創り出されたものであるということになります。この原稿の内容も両氏の研究成果に拠るところが大きいです。

国宝 せい吒迦たか童子像(運慶作、願成就院蔵)[画像提供:願成就院]。
制吒迦童子は不動明王の脇侍。運慶作のこの童子はいまにも動き出しそうな姿だ。
運慶仏は、明治時代以降の近代的な価値観の中で高く評価されてきた

近代的価値観の導入

 ところで、いうまでもなく、明治期には美術のみならず、政治、産業、思想・学問、文化などのあらゆる面で西欧から多くが導入されました。そして、それらは単に技術や考え方だけではない、近代の西欧において成立した価値観を伴っていました。そうした価値観は、政治的には市民革命によって生まれた市民社会や、産業革命を経た社会状況を背景にして生まれたものです。たとえば美術に関係深いものとしては、独創性、独自性の重視が挙げられます。市民社会において市民は基本的人権を持ち、個人として一人ひとりが尊重され、個人の個性が重視されたのです。市民社会における個人の尊重は、同時に独創性を発揮して制作した作家を重視することにもつながります。また、近代社会は人間個人だけでなく、国家レベルでの自国らしさの追求も行われました。19世紀に成立したヨーロッパの民族国家では盛んにこの動きが見られ、自国や自民族の個性を見出し、その優秀性の礼賛も行われたのです。これも独創性、独自性の重視に拍車をかけます。
 独創性と似た概念ですが、新しいこと、変化することも肯定的に捉えられます。他人とは異なる個性も大切ですが、すでにあるものと同じではなく、別の新しい価値を提示することが評価されるようになります。ここには、変化を肯定的に捉える進歩史観やダーウィンの進化論も関係しているといわれます。特に前者は、人類は常によりよい方向に変化=進化してきたし、これからもそうあるべきだという考え方であり、変化を求めないことは進化の放棄として否定的に扱われるようになります。
 これらに連動して、模倣や写しという行為は独創性や独自性、変化・進化の対極として位置づけられることになりました。前近代においては、優れたものと同じものをつくれることは賞賛されるべきことでした。しかし、それは新しい価値観の中では独創性も変化もないものとみられ、大きく価値を下げたのです。
 また、独創性、独自性の重視は産業革命によって生まれた市場経済の原理の成立も関係しています。前近代における作品は基本的には注文制作でした。あらかじめ作品の対価は決まっており、その了解のうえで制作が行われました。ところが、近代以降、市場原理は美術の世界にも及び、作品は市場の中で商品として売買されることとなりました。すると、作品は市場での売買により、作家に利益をもたらしますが、誰かが同じようなものを制作すると、そちらを購入する人が出てきて、もともとの作家の利益を侵害します。そこで、利益を侵害しないよう、著作権も成立します。著作権は作家の独創性の保護ともいえます。別のいい方をすると、近代的価値観の成立前の社会では著作権もなく、それを侵害した盗作の概念もないことになります。
 このような価値観が定着すると、いくら優れた技術を発揮しても、すでに存在しているものと同じ、または似たようなものをつくるだけでは評価されないことになります。つくり手は常に新しいものを発表しなくてはなりません。
 このように、「作品」とはつくり手が独創性、独自性を発揮して、新しい価値を提示して制作したものと理解されるようになります。「作品」という言葉にはそのような近代的価値観が染みこんでいるといえます。同時につくり手である作家は、他人とは違う、自分だけの独創性を発揮し、常に新しいものを生み出して制作する人を指すこととなり、今までと同じものをつくるだけでは作家と呼ばれる資格がないことになったのです。ふだん、何気なく使っているこうした言葉にも、実は近代的価値観が染みこんでいます。
 明治期には、「美術」だけでなく、美術関係の記述に用いられる用語の多くが訳語として誕生しました。絵画、彫刻、工芸、写真などもそうですし、ジャンルを細分化した日本画、洋画、仏画、美人画なども明治にできた用語です。そして、つい見過ごされがちですが重要なことは、これらの明治期に生まれた叙述用語にも近代的な価値観が内包されているということです。たとえば、「彫刻」をつくる「作家」である「彫刻家」とは、ただ立体物を制作する人ではなく、自らの独創性を発揮して立体作品を制作する人を指すという意味や価値観が含まれていると考えられます。従って、近代以降の人物が対象とされるべきであり、それゆえ前近代の仏師は、本来は彫刻家には含まれないことになります。

「彫刻」という概念による仏教彫刻史

 現在「彫刻」として認識されるカテゴリーが、この言葉によって表された最初は明治9年(1876)に開設された官立のこう美術学校での学科名であったといいます。日本の彫刻史も、日本美術史の一部として明治20年代には大枠が示されていました。前述の岡倉天心による「日本美術史」は絵画にウエイトがあったものの、彫刻、工芸も含めて総括的に論じられており、彫刻部分だけを抜き出せば彫刻史の通史にもなっていました。
 一般論としてはこのとおりなのですが、実は、ここに少々のねじれが存在していたことに注意しておきたいと思います。岡倉天心が論じた日本彫刻史の主たる対象は、実は飛鳥あすか時代以降の、つまり前近代につくられた像だったのです。厳密にいえば、彫刻という言葉が明治期に誕生した言葉である以上、その定義の中には近代的価値観が含まれているわけですから、彫刻のはんちゅうには前近代の仏像は含まれないはずです。彫刻が近代用語であるならば、本来はそれに見合う近代の「作品」の歴史が彫刻史の対象にされるべきです。しかし、実際には飛鳥時代以来の仏像を中心とする歴史が日本彫刻史として明治以来今日まで語られてきているのです。
 ここには、19世紀のヨーロッパで、古代ギリシア・ローマの彫刻を理想的古典として仰ぐ新古典主義が流行していたことを背景に説かれた西洋美術史の考え方が影響を与えているとみられています。仏像という宗教造形から宗教性を取り去り、近代における美術の観点から「作品」として扱い、その上で「彫刻」史として構築したわけです。その際、てんぴょう(奈良時代)の像を古代ギリシア彫刻になぞらえて古典とみなし、その発展的展開は鎌倉時代までで終わったとされました。
 加えて、明治20年代以降の日本の社会状況も影響していると考えられます。明治初頭以来、諸方面において西欧に学び、追いつこうとすることが国策であったことは、誰もが学んできたことです。殖産興業、富国強兵、文明開化などはすべてこの方向で行われてきました。しかし、その反動ともいえる動きが明治20年代頃から起こってきます。軽工業を中心に殖産興業は一定の成果を挙げつつあり、天皇を中心とする国家制度を定めた大日本帝国憲法が明治23年(1890)に施行され、4年後にはじまった日清戦争とその勝利は、列強に加わるという国家意識と自信を国民にもたらしました。そうした社会状況を背景に国粋主義的思想も高まります。美術面では、やとい外国人の指導の下に西欧美術を学ぶ学校として明治9年(1876)に設置された工部美術学校は明治15年(1883)に廃校となり、一方、明治20年(1887)に設立された東京美術学校(開校は2年後)は伝統美術の学科のみが設置され、西欧美術はまったく扱わずにスタートしました。歴史学研究では皇国史観が展開され、日本美術史が大日本国帝国の優秀な文化的伝統を語るものとしてつくられたのです。日本美術史構築を支えたのは、岡倉天心やフェノロサがかかわった明治13年(1880)頃からの古社寺宝物調査でした。この成果が日本彫刻史をつくる上でも基礎になり、やがて明治30年(1897)の古社寺保存法へと展開し、美術としての仏像が国家の宝=国宝に指定されてゆきます。
 こうして、仏像は「彫刻」として近代的な価値を持つとともに、国家的な宝としても認識され、その歴史を編んだものとして日本彫刻史は書かれました。その枠組みはその後長く継承され、基本的には現在に至っています。その中で、鎌倉彫刻は高い評価を与えられ、また終着点ともされたのです。

国宝 沙門天しゃもんてん立像(運慶作、願成就院蔵)[画像提供:願成就院]。毘沙門天はしょうしょうふくの仏像。
運慶に代表される鎌倉時代の仏像は、武を重んずる近代の空気感のなかで賞賛された

鎌倉彫刻の語られ方

 研究史における鎌倉彫刻の語られ方は、おおむね次の3点に集約されます。

①鎌倉彫刻の表現的特質として、まず写実性が挙げられ、しばしば実在感、力強さなども加わる。また、復古主義や宋風(中国の宋の時代の影響を受けた表現)摂取も指摘される。
②鎌倉彫刻は、運慶によって完成に導かれ、彼の創り上げた表現に代表され、それゆえ彼の系統が主流となる。
③日本の彫刻は鎌倉時代の前期をもって終わり、以後の自律的発展はみられない、あるいは鎌倉時代がそれまでの彫刻史の集大成・総決算の時代ともされる。同時に運慶の様式そのものが日本彫刻史の総決算とされることもある。

 これらの3点はいずれも近代的価値観によくかなっています。また、①の表現特質としての写実性や③の彫刻史の集大成などの事柄をも含め、運慶の果たした役割の大きさが強調されたことをみると、鎌倉彫刻を考えるにはまず運慶を理解することが前提となり、その存在の大きさを知ることができます。ただし、最初の通史である岡倉天心の「日本美術史」では鎌倉時代の美術について「写実」ではなく、「剛健」の語が使われているところには留意しておきたいと思います。
 運慶への高い評価と連動する形で、当然ながら鎌倉彫刻も肯定的に評価されてきました。戦前の1940年に発表されたまるしょう三郎ざぶろうの論文(文部省教学局編『大佛師運慶』[内閣印刷局]所収)は、平安後期の仏師定朝じょうちょうと比べながら端的にその理由を述べていて、その後に与えた影響も大きいと思われます。丸尾は、定朝の彫刻はその時代の貴族文化の中に現われたので、その様式は庶民の生活感情とはかけ離れ、普遍的でなく、次第に類型化し、芸術的価値ははなはだ稀薄となるが、鎌倉時代のものは新興活力が前の時代の衰退を盛り返して新様式が樹立されたので、庶民的な方向に転向し、一般に理解され易く、その作風は写実的であり、現実性に富んでいる、と述べました。
 この論文には、鎌倉彫刻が肯定的に受け止められたいくつかの理由が示されています。第1に、平安後期の定朝様が類型化し、価値が希薄になったところに新しい様式が生まれたことを理由としています。定朝は11世紀に藤原道長ふじわらみちなが・頼通よりみちや朝廷の周辺で活躍した仏師で、彼の作風は京都・宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像に示されています。定朝以後の平安後期では彼の仏像が理想の仏と仰がれ、それにならった仏像(定朝じょうちょうよう)が12世紀末に至るまで全国で数多くつくられたことがわかっています。しかし、独創性や新しい価値を生み出すことを崇高なものとし、模倣の価値を低く見る近代の価値観からすれば、定朝仏の模倣が繰り返されたことへの評価は低く、批判的に論じることが繰り返されてきました。丸尾説もその典型的な例で、定朝様を批判的に論じることによって、対比として新しい鎌倉彫刻を浮上させ、これを高く評価するという構図です。
 第2の理由としては、定朝様は貴族文化から生まれたもので庶民の生活感情とはかけ離れているが、鎌倉時代の像は庶民的であり、一般に理解されやすいという点です。定朝様は理解しにくいが、鎌倉彫刻はわかりやすいというのは、はたして本当なのか、この点をここで即断するのは難しいですが、少なくとも次の点は確実にいえます。それは、定朝様が貴族文化の中に生まれたのは事実ですが、鎌倉彫刻が庶民的とはいえないということです。なぜならば、今日の理解では鎌倉彫刻の萌芽は12世紀後半の朝廷周辺の造像できざしていたこと、新しい鎌倉彫刻は貴族社会でも受け入れられていたこと、鎌倉時代の武家は平安時代以来のいわゆる貴族とは性格が異なりますが、彼らもまた支配階級に属しており、決して庶民ではないことなどの事実があるからです。こう考えると、鎌倉彫刻は庶民的という見方は成り立たちません。
 とはいえ、丸尾がこれを書いた1940年代においては、歴史学でも鎌倉時代は民衆の時代だとみられていました。日本の古代史や中世史の研究に偉大な足跡を残したいし母田もだしょうは、1946年の『中世的世界の形成』(伊藤書店)において、新興武士階級が古代的貴族階級を倒し、武士の領主に率いられた一般農民層が新興勢力として成長して、自由な活動を行った時代として中世をとらえました。この著作は大戦中の1944年に完成していたことが知られています。現在ではこの見方は行われていませんが、戦前から戦後にかけて、鎌倉時代は新しい民衆の時代という理解があり、このイメージを前提に、鎌倉彫刻の新しい表現は大いに評価されたという側面があったようです。

尚武の時代

 平安後期のことが貶めて語られるのは定朝様に限ったことではありません。前述した岡倉天心の東京美術学校の講義録「日本美術史」は平安後期の美術が衰頽すいたいした理由として(現在ではそう見られていませんが)、第1に社会が「容儀的」(形式的、形ばかりという意味か)に流れたこと、第2に気力の衰え、第3にすべて貴族的で国民的ではなかったことを挙げています。何かと藤原氏批判を強く行い、優美であっても、男子の気骨はまったく消滅したと語気を強め、気力の衰えとして院政期から外戚の権威を失い、国の乱れに対しても兵力を卑しんだ結果、武力を持たず、源氏、平氏に頼った結果、ついに権力を奪われたと書かれています。
 この中には、今日から見て言いがかりのような内容も並んでいますし、政権が近代でいうところの国民的ではなかったのは他の時代も同じなのですが(これが書かれた時を含めて)、ともかく藤原氏の堕落ぶりを強調し、平安後期は悪しき時代だったと言いたいのであろうと思われます。執拗なまでの藤原氏批判には、藤原氏が天皇をないがしろにして摂関政治を行ったことへの批判もあったでしょう。そこには大日本帝国憲法(明治23年施行)という形で天皇中心の社会の仕組みができあがった明治20年代の時代性が色濃くにじんでいます。このような「悪しき風潮」が蔓延した平安後期の貴族社会は、武士によって刷新されたわけですから、当然、鎌倉時代のイメージは肯定的なものとなります。
 加えて、鎌倉時代と鎌倉彫刻への好感は、明治20年代以降、太平洋戦争敗戦までの社会状況もかかわっているように思われます。明治27-28年(1894-95)の日清戦争に勝利した日本は、日露戦争(1904-05年)、第一次世界大戦(1914-18)を経て、やがて日中戦争、太平洋戦争へと突入します。国民は戦勝に酔い、軍部の力は拡大を続けました。こうした世相においては、軍事を尊ぶ尚武の思想が高まってゆくのは当然のことで、歴史学においても国粋主義的な発想や主張が行われ、武士の時代としての鎌倉時代は好意的にみられたのです。例えば、源頼朝については、しげ安繹やすつぐや大森金五郎など、当時の著名な歴史家により、彼は皇室に対して決して反逆的ではなく、忠義の人物であったと論じられました。
 総じて、平安後期の社会や文化は停滞、堕落、無気力などの悪いイメージで扱われ、これに対して鎌倉時代は新鮮で、活力にあふれ、民衆の時代、あるいは尚武の思想から武士による活力溢れる時代であるとして、よいイメージを抱かれていたようです。

国宝 毘沙門天立像(運慶作、願成就院蔵)[画像提供:願成就院]。
岡倉天心による最初の「日本美術史」で、鎌倉時代の美術は「剛健」と評された

高い評価が残った

 鎌倉時代や鎌倉文化の中でも、とりわけ賞賛されたのが運慶であったことは上に述べたとおりです。前記「日本美術史」が「剛健」の語を用いていることや、昭和初期に、みなもと豊宗とよむねが運慶を「正に彫刻史上の頼朝と称すべきであろう」(『日本美術史図録』[1932年、星野書店])と述べ、頼朝と並べて英雄視したりしているのは、このような時代性を示しています。
 しかし戦後の歴史学の研究において、とらえ方に大転換が起こりました。平安の古代貴族は武士階級に打ち倒されたわけではないし、鎌倉時代は武士を指導者とする民衆の時代でもありません。現在では、そもそも平安後期は古代ではなく、中世のはじまる時期に位置づけられています。しかしこうした転換が起きた中にあっても、実は日本美術史、日本彫刻史の枠組みは驚くほど変わっていません。この点について佐藤道信氏は『〈日本美術〉誕生―近代日本の「ことば」と戦略』の“終章「日本美術史」の創出”で、明治以来の国家による古美術保護が日本美術史構築と深くかかわっており、戦後に国家主義や皇国史観が取り除かれても、古美術保護は新しい文化財保護法下で継続され、作品は「皇国の遺産」から美の遺産に転換したことや、科学的調査による基礎調査の進展などが明治以来の体系を補強してきたためだと述べています。国宝や重文への指定は国家による権威づけともいえる側面を持っていますが、戦前に指定された対象文化財の多くは戦後においても指定が継続され、これも枠組みの維持につながったのでしょう。文化財として残り、評価も維持されたことで、美術史、彫刻史では転換が起こりにくかったのです。
 そして、もう一つ、鎌倉彫刻への評価の高さについては、運慶の人気が温存され、あるいは増大していることが支えていると思われます。この観点から、次回は運慶や鎌倉彫刻の主な表現特質として説かれてきた「写実性」について考えてみたいと思います。

第3回(10月上旬公開予定)につづく

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プロフィール
塩澤寛樹(しおざわ・ひろき)

1958年、愛知県生まれ、1982年、慶應義塾大学文学部哲学科美学美術史学専攻卒業。現在、群馬県立女子大学教授。博士(美学、慶應義塾大学)。専門は日本美術史、日本彫刻史。主な著書に『鎌倉時代造像論』(吉川弘文館、2009年)、『鎌倉大仏の謎』(吉川弘文館、2010年)、『仏師たちの南都復興――鎌倉時代彫刻史を見なおす』(吉川弘文館、2016年)、『大仏師運慶――工房と発願主そして「写実」とは』(講談社選書メチエ、2020年)など。2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の仏教美術考証を担当。

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