NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で仏教美術考証を務める塩澤寬樹さんの新連載『運慶の風景』! 第1回は伊豆の願成就院からはじまります
日本の彫刻史の集大成の時代と呼ばれてきた鎌倉時代。それを牽引したのが昨今の仏像ブームのなかで絶大な人気を誇る仏師運慶です。運慶が造る仏像は写実的で「まるで生きているようだ」としばしばいわれます。仏像における写実とは何でしょうか。鎌倉時代の仏像は本当に運慶による日本彫刻史の集大成・終結点なのでしょうか。その事情をひもといていきます。筆者は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で仏教美術考証を務める塩澤寬樹さん。運慶人気の秘密を探り、日本の美術史研究の道筋もふりかえりながら、運慶の時代を豊かに見渡す新連載です。
第1回 「鎌倉殿」の時代の仏像
はじめに
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第21回(5月29日放送)では、北条時政の建立した願成就院において、最後の仕上げを残してほぼ完成している阿弥陀如来坐像を前に、北条時政、義時が仏師の運慶と会話する場面が映し出されました。この日のタイトルは「仏の眼差し」。運慶の登場でも話題になったこの放送回は、番組の仏教美術考証を担っている立場からすると、阿弥陀如来坐像のCG制作で苦労をした回でもありました。現存する願成就院の国宝の阿弥陀如来坐像は、指の先をはじめいくつか欠けてしまっているところがありますので、それを補わなくてはいけません。また現在の阿弥陀如来坐像の顔の目のまわりは、のちの時代に修復されたものであることがわかっていますので、当初の姿を想像復元する必要がありましたし、完成時には全身にほどこされていたはずの金箔もきちんと再現したい……。いずれもかなりの難題でした。
後世天才仏師と謳われることになる運慶の造像を中心に、鎌倉時代に生まれた仏像彫刻の諸相をひもといていく連載の第1回は、「鎌倉殿の13人」にも登場したこの願成就院からスタートします。
願成就院と北条時政
願成就院という寺院は、現在の静岡県伊豆の国市に建っていますが、このあたりは、かつては伊豆国田方郡北条と呼ばれた場所でした。寺院の場所は当時からほとんど動いていないことが発掘などでわかっています。背後の山(守山)をはさんだ向こう側(北西側)には北条氏の居館跡(国指定史跡)が確認されています。つまり、北条氏の本拠地に建てられた寺院です。
願成就院の建立事情は、『吾妻鏡』(鎌倉幕府の公式記録)によってある程度判明します。文治5年(1189)6月6日条には、抜粋して現代語訳すると、次のように書かれています。
いま願成就院には阿弥陀如来坐像、不動明王とそれに随う二童子像(矜羯羅童子と制吒迦童子)、毘沙門天立像の五軀が残され、いずれもこの時に造られた像とみられています。阿弥陀如来の脇侍の観音・勢至菩薩像はいまは残っていません。二童子像のことは『吾妻鏡』には記されていませんが、「不動・多聞等の仏像」の「等」が二童子像のことを示していると考えられますので、なかなか細かく正確性が期されているようです。
同様に正確なのは、これらの像が「かねてより造られていた」と書かれていることで、このことは不動・二童子・毘沙門の各像の胎内から発見された木札(銘札)によって明らかになります。銘札には、「文治二年五月三日奉始之」(文治2年[1186]5月3日にこれを始め奉る)と書かれていることから、供養の3年余り前には造像が始められていたことがわかります。
そして、銘札にはこれに続けて、檀越(注文主)が平時政(北条時政)、仏師が運慶であることが明記されています。像の胎内に収められた銘札の記録は、13世紀後半の編纂である『吾妻鏡』以上の価値をもつものといえますので、願成就院の仏像は、注文主が北条時政で、仏師が運慶であることが明らかです。願成就院の仏像は、像内の銘札と『吾妻鏡』という、性格の異なる二つの史料から造像の年次や事情を知ることができるのですが、こうしたケースは珍しく、像自体の魅力もさることながら、これも願成就院の像の重要性を一段と高めています。
仏は中世社会の中でどんな役割だったのか
この銘札によって判明した、供養の3年以上前から造像がはじまっていたという事実は、別の問題にも波及します。願成就院は、『吾妻鏡』に記されているような、奥州征伐祈願のために建てられたわけではなかったことを意味しているのです。造像開始が文治2年5月であれば、建立の計画自体はさらに遡るはずです。その時点では奥州征伐は具体化しておらず、それを祈願するために寺院を建立するとは考えられません。
では、願成就院はどのような目的で建てられたのでしょうか。結論から言えば、北条氏の本拠地において、彼らの信仰の拠りどころとして建てられた、いわば北条氏の氏寺(氏族一門が祈願するための寺院)であったと考えられます。おそらくは、完成の時期がちょうど奥州征伐への出発が迫った時期にあたっていたため、時政は来る合戦の戦勝祈願として寺を建てたと公言したのではないかと思われます。もともとは、自らの、そして一族の信仰の拠点、また結束の場所として、立派な本尊像を安置した氏寺が建てられたのです。
ところで、願成就院の仏像に限らず、古代・中世に造られた多くの仏像は、社会の中でどんな存在だったのでしょうか。仏像はもちろん、仏教信仰の対象として造られました。ただし、一口に信仰といっても一人ひとりの心の中で行われる個人的な信仰ばかりではなく、国家的あるいは社会的な信仰も存在していて、この両者ではかなり意味が異なります。では、国家的・社会的信仰とはどういったものでしょうか。たとえば、奈良時代には仏教の力によって国家は護り鎮められ、社会の安泰と国家の発展がもたらされると考えられました。鎮護国家の仏教です。仏教の興隆は国家を護り、発展させることにつながると信じられていたのです。東大寺の大仏建立はこの思想のもとに行われました。
国家が仏教と一体となり、仏教の興隆によって国家の安寧と発展を実現するという思想は、平安時代後期以降、王法と仏法という言葉によって語られるようになりました。王法とは俗世の国王が定めた法・制度や王の執るべき正しい道、すなわち世俗的な政治権力を指し、政治そのものや為政者を意味することもありました。また、仏法は狭い意味では釈迦の崇高な教え、すなわち仏教教理を意味しますが、具体的な存在としての寺院や教団なども指す場合があります。平安後期においては、王法と仏法は車の両輪、鳥の二つの翼のように相携えながら発展する、仏法の栄えるところは王法も栄える、という意識が生み出され、この思想に「王法と仏法の相依」という言葉が用いられたのです。この思想のもとでは、仏法の繁栄は正しい政治の証となり、逆に、政治を正しく行うためには、仏法が繁栄していることが必須条件であり、もし衰退していたならば、それを発展に導かなければなりません。平安時代後期以降も、為政者は大きな寺院を建て、仏像を造って、仏教の発展を導くべくさまざまな施策が講じられ、それが王法を司る者の責務と理解されていました。こうして造られた寺院や仏像は単なる個人の信仰によるものとはいえず、国家的・社会的に大きな意味を持つ存在だったといえましょう。
仏像は礼拝対象として仏教信仰の中心的存在です。そして、信仰がこのように個人的なものだけではなく、国家的・社会的なものであるならば、仏像もまた、社会において国家的・社会的な存在であったということになります。中世社会において仏像は社会に欠くことのできない存在だったのです。
北条氏の氏寺と考えられる願成就院の5体の本尊像は、個人的色合いの強い像のように見えますが、そうとばかりもいえず、北条氏の一族全体にとっての信仰の拠りどころであり、また地域社会においてその守護が期待される存在でもあり、単なる私的な仏像ではなかったと考えられます。
運慶登場
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第21回では、運慶は伊豆にやってきて、注文主である時政たちと顔を合わせました。私はかねてより願成就院の仏像は現地の伊豆ではなく、この時点の運慶の本拠地であった畿内で造られたと考えてきました。大河ドラマもそうした設定で演出されていますが、当時、畿内と関東は1か月ほどで往復できたわけですから、ほぼ完成という段階まで造られたあと伊豆に運び込まれ、最後の仕上げなどのために短期間現地に赴くことはあり得たでしょう。第21回はそのような想定です。
運慶はいうまでもなく、鎌倉時代を代表する仏師です。彼も関わった東大寺南大門金剛力士像は、中学校の歴史の教科書にも取り上げられるなど、知名度は抜群で、その人気も日本のほかの仏師に比べて格段に高い人物です。運慶は、仏師康慶の子として生まれました。生年は不明ですが、銘文によって安元元年(1175)に造ったことがわかる奈良・圓成寺の大日如来坐像が現在までに知られる最も早い事績です。没年は貞応2年(1223)12月11日とされます(『東寺諸堂縁起抄』所収「仏師系図」)。その間、奈良の大寺院である東大寺や興福寺、京都の古刹東寺や神護寺、鎌倉や関東の有力寺院など、新旧の都や新しい政治の中心地鎌倉に関係する造像を行いました。同時に、それらの造像を主導したのは、朝廷、摂関家、鎌倉幕府や北条氏、主要寺家といった、当時の社会を構成するほぼすべての主要勢力であり、このような横断的な支持を集めたことが運慶の事績の最大の特徴であると考えられます。
運慶という仏師は、鎌倉時代の仏像について述べるとき、決して欠かすことのできない大きな存在といえるでしょう。運慶に対しては、「天才仏師」を冠して呼ぶことが頻繁に行われ、その作例に対してもさまざまな形で称賛が行われてきました。運慶が非常に優れた能力を持つ仏師であったことは確かですが、手放しでもてはやすことや、運慶の造像を天才ゆえと片付けてしまうことには危うさが伴うと思います。
高校の日本史教科書における鎌倉時代の文化の項では、名前の出される仏師は運慶・湛慶父子と快慶だけであり、日本美術の代表的な概説書である『日本美術史』(1991年、美術出版社)は、「鎌倉彫刻は運慶・湛慶父子、および、快慶という3人の慶派の仏師によって代表させることができるであろう」(各人の生没年表記は省略)と書かれ、極論すれば「鎌倉彫刻=運慶」という見方が広く示されています。実はここには、戦前からの長期にわたる鎌倉彫刻に関する研究史が反映されています。そこでは運慶は圧倒的な主役であり、運慶を理解することは鎌倉彫刻を理解することにつながり、また鎌倉彫刻を完成させた人物は運慶であるとも語られてきました。とはいえ、鎌倉彫刻史研究上での評価または巷間語られる世評は、本当に等身大の運慶なのでしょうか。運慶が非常に重要な仏師であることは間違いなく、その評価が揺らぐことは基本的にはないでしょうが、従来の研究史が描いてきた運慶像には、少し誇張されたり、その当時の価値観に則っていなかったりする面や、逆にこれまで触れられてこなかった新たに評価すべき点もあるように思えます。そして、明治以降の研究史において運慶が英雄的な評価を受けてきたことには、相応の理由があるようにも思えます。これらの点は第2回で述べたいと思います。
運慶の造った仏像は、群を抜く実在感を示しています。表情は生き生きとして、強い実在感を放ち、肉体ははち切れるような膨らみや深い奥行きによって、太く、大きな量感をもってあらわされながら、体軀は引き締まり、鈍重さは微塵も感じさせません。生きているような存在感、強さ、逞しさ、これらが一体となってあらわされたその表現は、運慶に近いほかの仏師の像は決して及ばない、運慶だけの持ち味といえるかもしれません。
こうした彼の持ち味は、しばしば「写実」と評されます。「写実」という語は、運慶作例に限らず、鎌倉時代の仏像や肖像に広く、そして頻繁に用いられます。この言葉は、直接的には19世紀にフランスで起こった美術運動に名付けられたフランス語の「レアリスム」の訳語として、明治中頃から使われはじめますが、現在においては、その意味するところが非常にわかりにくい言葉になっています。この点については、第3回で考えてみたいと思います。そして、鎌倉彫刻には運慶以外にも多様な観点があります。そのひろがりについてもこの連載の中で取り上げたいと考えています。
プロフィール
塩澤寬樹(しおざわ・ひろき)
1958年、愛知県生まれ、1982年、慶應義塾大学文学部哲学科美学美術史学専攻卒業。現在、群馬県立女子大学教授。博士(美学、慶應義塾大学)。専門は日本美術史、日本彫刻史。主な著書に『鎌倉時代造像論』(吉川弘文館、2009年)、『鎌倉大仏の謎』(吉川弘文館、2010年)、『仏師たちの南都復興――鎌倉時代彫刻史を見なおす』(吉川弘文館、2016年)、『大仏師運慶――工房と発願主そして「写実」とは』(講談社選書メチエ、2020年)など。2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の仏教美術考証を担当。
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