「日記の本番」 6月 くどうれいん
小説、エッセイ、短歌、俳句とさまざまな文芸ジャンルで活躍する作家、くどうれいんさん。くどうさんの6月の「日記の練習」をもとにしたエッセイ、「日記の本番」です。
耳というのはふしぎな部位だと思う。顔のいちばん外側にくっついていて、ひらひらしていて、強くつまむと、ほっぺをつままれるよりは痛くなくて、咲いているみたいなのに自力で閉じることはできなくて、絵で描けと言われても「3」か「6」しか思い出せなくて、穴があって、その穴が暗くて。わたしたちは耳の穴に栓をして音楽を聴き、耳の上に眼鏡をかけて、さらにそこにマスクをかけて暮らす。からだの部位として、耳を重宝しすぎているのではないだろうか。あるいはもっと、このからだに「取っ手」があってもいいのではないか。
難聴、と言うと、人によっては「えええ」と仰けぞり、本当に心配してくださる人がいるから、黙っておくか「体調を壊している」と言うようにしている。「体調を壊している」よりも「耳が壊れている」と言うほうが深刻に思われるのはなんだかふしぎなことだ。難聴、と言ってもわたしの場合は耳の中にひとつ分厚い鼓膜が増えたような感覚、山の上で耳がほーん、と鈍くなる、あの感覚の弱いのが常時いるという感じなので、まったく聞こえないとか、大きな声で話してもらわないと困るとか、そういうものではない。いつもイヤホンで聴いているラジオや音楽を、できるだけ音量を絞るか、遠くのスピーカーから流すようにさえすれば、日常生活にはそんなに支障がない。ほんとうに初期で病院にかかったから症状はとても軽度だし、調子がよければまったくもっていつもどおりだ。おそらく耳に来るのは遺伝で、母も三半規管系に弱い。ずっと昔に眩暈と耳の不調に悩まされ、皿を洗う音にも耐えられなくなったようなときのことを知っているから、自分のいまの耳の状況がどれだけ浅瀬の症状であるかわたしにはわかる(し、そういう母を見ているからこそぜったいに浅瀬でこの症状を食い止めねばならぬと思っている)。
この世の中にどれだけの、働きすぎて耳がエラーを起こしているひとがいることだろうと思う。「ご自愛」とか「がんばりすぎ」とか「まじめ」とか、そういう言葉はすべてわたしには響かない。わたしがいまちょっと耳を気遣って暮らすのは、わたしがまじめだからでもがんばりすぎだからでもなく、ただこの蝶が、耳鼻科に行けば「耳」と呼ばれるこの蝶が、あたらしい花を見つけてちょっと飛び立ちたくなっているんだろう、だから見守っておこう。そのくらいのきもちで思っている。雨は虹のためではなく紫陽花のために降る。必要だから降る。雨は苦難ではない。だからこれは不調ではなく、ただ、そういう季節。
すべての手書きの文字を信じる。わたしの作ることができる木陰には限りがある。スマホと財布だけ持って、足りないものがあればドラッグストアで買えばいい。捨てるための書がないからずっと街に出ている。おなじようでぜんぶちがうマンション、ちがうようでぜんぶおなじ夏。わたしを舐めるんじゃないよって、舐められていないのにそう思う。
書籍はこちら
タイトルデザイン:ナカムラグラフ
「日記の練習」序文
プロフィール
くどうれいん
作家。1994年生まれ。著書にエッセイ集『わたしを空腹にしないほうがいい』(BOOKNERD)、『虎のたましい人魚の涙』(講談社)、絵本『あんまりすてきだったから』(ほるぷ出版)など。初の中編小説『氷柱の声』で第165回芥川賞候補に。現在講談社「群像」にてエッセイ「日日是目分量」、小説新潮にてエッセイ「くどうのいどう」連載中。2作目の食エッセイ集『桃を煮るひと』が発売中。