NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で仏教美術考証を務める塩澤寛樹さんの連載『運慶の風景』! 第4回は「奈良と鎌倉の二つの大仏」に注目します。
大仏といえば、日本では多くの人が奈良・東大寺の盧舎那仏を思い浮かべるでしょうか。関東では鎌倉大仏を思い出す人も多いはずです。そもそも大仏とは、仏の偉大さを大きさで表したものとされています。造形物において、大きさというのは最もわかりやすい表現の一つですから、仏を大きくつくるという表現方法は、国や地域、民族や言葉の違いを越えて、その偉大さをあらわすには相応しいといえましょう。今回は、奈良と鎌倉の二つの大仏を通して、鎌倉時代における社会と仏像のかかわりや、王法と仏法の関係などを考えてみたいと思います。
*第1回から読む方はこちらです。
第4回 鎌倉時代の二つの大仏
東大寺の復興と三回の供養
鎌倉時代には、奈良と鎌倉で大仏がつくられています。
奈良・東大寺の大仏(銅造盧舎那仏坐像)が最初に造像されたのは奈良時代でしたが、治承4年(1180)の暮れに兵火(平重衡らの官軍による南都僧兵追討)に巻き込まれ、大仏殿は焼け落ち、大仏も熱で大損傷を受けたため、鎌倉時代に復興されたのです。なお鎌倉時代に造像(補鋳)された東大寺大仏は、再び永禄10年(1567)に兵火にあって焼損し、現在の大仏の大半は江戸時代に再興されたものです。一方、鎌倉大仏(銅造阿弥陀如来坐像)は、鎌倉時代に鎌倉の地に新たに造立された大仏です。
二つの大仏は、中世という時代において仏像が社会のなかでどんな存在であったのかを考える上で格好の作例です。鎌倉時代という時代を象徴する存在だったのです。
まず、東大寺の復興について、節目に際しておこなわれた大規模な式典(供養)に注目して眺めてゆくこととします。
奈良時代に東大寺でおこなわれた大規模な供養は、天平勝宝4年(752)の最初の大仏開眼供養が知られていますが、鎌倉時代の復興に際して東大寺では、大きな供養が三度おこなわれました。
最初は、文治元年(1185)8月28日の大仏開眼供養です。養和元年(1181)10月に着手された大仏の修復は、元暦元年(1184)6月までには終了し、開眼供養に向けて顔に鍍金(めっき)が施されました。おおむね順調に進んできた復興でしたが、開眼供養の準備にさしかかった文治元年の7月9日、京で大地震が起こりました。この地震の被害は相当なものだったようで、鴨長明は『方丈記』で「山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水涌き出で、巌割れて谷にまろび入る」と記しています。その後も余震が続き、大仏開眼供養当日の午前中にも地震がありましたが、奈良の南都七大寺から千人の僧が集められ、予定通り供養は盛大におこなわれました。この供養における中心人物は、間違いなく後白河法皇でした。開眼供養の日、法皇はあいにくの雨の中、大地震から続く余震にもひるまず、階を昇り、かつて天平勝宝4年(752)の大仏開眼供養の際に婆羅門僧の菩提遷那が使った開眼筆を用いて入眼をおこないました。公卿の中山忠親の日記『山塊記』によれば、法皇は開眼にあたって地震で階が壊れて命を失っても悔いはないと語った、といいます。この開眼供養には多くの民衆が集まり、その様子を熱狂しながら見つめていたと伝えられています。開眼供養の段階ではまだ大仏殿は建てられていなかったため、かなり離れていても法皇の入眼のさまが見て取れたことと思います。
次の大規模な供養は、建久6年(1195)3月12日におこなわれました。この供養は大仏殿落慶供養と呼ばれることもありますが、大仏殿が完成した日時は明らかではありませんし、日程調整をみてゆくと、大仏殿完成に基づいて日時を設定したとは考えにくく、大仏殿落慶供養と呼ぶのは適切ではありません。ここでは「建久の東大寺供養」としておきます。この供養当日にも地震があり、しかもかなりの雨で、西からの烈風が吹きつける厳しい条件でしたが、南都七大寺や京中の主要寺院から千人の僧が参列し、都からは後鳥羽天皇以下、文武百官といわれる多数の官人が参加しました。この「建久の東大寺供養」の主役は、源頼朝と鎌倉幕府です。開眼供養以後、最大の支援者だった後白河法皇が崩御すると、頼朝と幕府は大仏殿用の材木調達など、さまざまな協力をおこなってきましたが、その仕上げとして、供養の場に数万の大軍を率いてやってきたのです。供養の前日に頼朝は米一万石、黄金千両、上絹千疋、馬千匹という莫大な寄進をおこなっています。そしてこの「建久の東大寺供養」で特筆すべきは、前回の開眼供養では多数の庶民が熱心に参加したのと違って、幕府の武士数万人が東大寺およびその周囲はもとより、一帯の辻々を厳重に警護し、庶民を寄せ付けなかったことでした。かなり異様な光景だったでしょう。どこからどう見ても、このたびの供養の主役は頼朝でした。
三度目は、建仁3年(1203)11月30日におこなわれた供養で、「東大寺惣(総)供養」と呼ばれることもありますが、実際には東大寺復興はまだまだ続いており、工事は終わってはいませんでした。やや性格の見えにくい供養ですが、ここでは「建仁の東大寺供養」としておきます。このときもまたもや荒天で霙が降る空模様でしたが、これまでと同様に千人の僧侶が呼ばれ、後鳥羽上皇を迎えて盛大におこなわれています。この供養の主役は、後鳥羽上皇であったと考えられます。それについては後で説明します。
この「建仁の東大寺供養」の直前に完成したのが、教科書でもよく知られる南大門の阿吽の金剛力士像です。東大寺の鎌倉期復興で造られた巨像のうち、唯一残った一組で、平成の大修理によって、運慶・快慶・定覚・湛慶を大仏師として造られたことがはっきりしました。しかし運慶・快慶の役割や四人の大仏師の分担などについては、多くの議論がなされていますが、まだ定説には至っていません。
鎌倉時代の社会構造と東大寺供養
このように、鎌倉時代の東大寺復興では、奈良時代の創建時にはおこなわれなかった二度目、三度目の大規模な供養がおこなわれ、かつ、それぞれの供養における主役が異なっていたところに特色があります。これには東大寺というお寺の特別な性格と、「王法と仏法の相依」という思想や鎌倉時代の社会構造が絡んでいます。
東大寺は聖武天皇が願いを立てて天平勝宝4年(752)に開眼供養された大仏を本尊とし、全国の国分寺を束ねる総国分寺として建てられました。大仏はいわば国家鎮護の根本本尊のような存在で、東大寺は国内でただ一つの特別なお寺でした。
東大寺が天皇・貴族から民衆にまで尊崇されていたのは、「王法と仏法の相依」という思想と大いに関わりがあります。連載の第1回でも説明しましたが、この思想は中世の社会でかなりの広がりをみせていました。王法とは俗世の国王が定めた法・制度や王の執るべき正しい道、つまり世俗的な政治権力を指し、政治そのものや為政者を含むこともあります。仏法は狭い意味では釈迦の教え、仏教教理を示しますが、広く寺院や教団などを指し示すこともあります。この思想のもとでは、国家が仏教と一体となり、仏教の加護により国家の安寧と発展を実現すると考えられていました。平安後期以降、王法と仏法は鳥の両の翼のように相携えながら発展し、仏法の栄えるところは王法も栄える、と意識されていました。政治を正しくおこなうためには、仏法が繁栄していることは必須条件であり、もし衰退していたならば、発展に導かなければなりません。それゆえ、為政者は仏教の発展を導くために、大きな寺院を建て、仏像を造ってきました。それが王法を司る者の責務と理解されていたのです。
このことを踏まえて、改めて鎌倉時代の三度の東大寺供養を見直すと、朝廷の頂点であった後白河法皇と後鳥羽上皇、鎌倉幕府の頂点であった源頼朝がそれぞれ主役を務めた意味合いが読み解けると思います。
大仏開眼供養における後白河法皇の熱意は、「王法と仏法の相依」という思想を抜きには考えられません。この時期の王法を司っていた法皇にとって、聖武天皇以来、我が国の仏法の根本とされてきた大仏を復活させることは、当然の責務だったのでしょう。と同時に、仏法の象徴たる大仏が焼け崩れたままであったならば、それは仏法の衰退を意味し、仏法の衰退は、自分と自らが執りおこなう王法の衰退をも意味します。強烈な個性とエネルギーによって君臨していた法皇にとって、それはどうしても受け入れるわけにはいかなかったでしょう。熱狂する多くの民衆の見守る中でおこなわれた大仏開眼は、天下に仏法の復活を高らかに宣言する瞬間であり、文武百官を率いて供養会を主催し、自ら筆を執って、階を昇って開眼をおこなった法皇の姿は、仏法と相携える王法の存在を体現して余りあったことでしょう。「王法と仏法の相依」をこれほど象徴する場面は他にはありません。大仏とともに国家を護り導く法皇の姿は人々の目に強烈に焼き付いたことと思われます。法皇にとっては、何人たりともこの役割を絶対に譲るわけにはいかなかったはずです。
「建久の東大寺供養」での源頼朝はどうでしょうか。開眼供養の際にも寄進をおこなっていた頼朝は、さらに建久の供養の折には前述したような莫大な寄進をおこなっています(追記するとすれば、たとえば大仏光背に金箔を貼るための砂金を二度に分けて計三三〇両寄進しています)。こうした東大寺のための熱心な働きかけのクライマックスが、大軍勢を動員した供養当日の警護でした。頼朝による東大寺復興支援については、しばしば東大寺供養という舞台を使って、それを仕切り、大檀越(パトロン)と称されることによって、天下にその威光ないし権力を見せつけたと説かれることがあります。しかし、筆者はそうではないと考えています。頼朝が天下に示したかったのは、権威や権力ではなく、為政者としての資格だったのではないでしょうか。これも「王法と仏法の相依」という思想から説明でききます。東大寺という日本仏法の根本本山ともいえる寺院を復興させることは王法の務めであり、逆に仏法を復活させる者こそ王法を担うにふさわしいという言い方もできます。だからこそ後白河法皇はあれほどの熱意を注いだのでしょう。それならば、頼朝の行動も同じ考え方で説明できるでしょう。頼朝が示したかったのは、王法を司ることのできる資格であったと考えられるのです。
後鳥羽上皇についても同じように考えることができます。歴史学者の上横手雅敬氏は、後鳥羽上皇は「すべての貴族が治天の君である自分を支持する態勢を作り上げ、さらに鎌倉殿である実朝とも友好関係を形成し、幕府をも配下に編入し、治天の君の絶対的地位を確立しようとしていた」と述べ、その象徴が鎌倉時代末期成立の『東大寺縁起』が伝える平賀朝雅による供養の警固であるとしています(「東大寺復興と政治的背景」/『龍谷大学論集』453、1999年)。平賀朝雅は北条時政とその後妻・牧の方の娘婿で、京都における幕府の最も重要な役割を担う人物でした。後鳥羽上皇はその朝雅に建仁の東大寺供養において自らを警固する随兵を務めさせたのですから、自らが朝廷だけでなく、幕府の上にも立つ立場であることを示したことになります。上皇もやはり、東大寺供養の場において、王法を司る者であることを誇示したものと思われます。
このように、朝廷と幕府の代表者が代わる代わる東大寺供養の主役を務めたという状況は、鎌倉時代の社会構造を象徴しているといえます。鎌倉時代を単純に鎌倉幕府が日本を治めた時代とみるわけにはいきません。少なくとも承久3年(1221)の承久の乱までは、朝廷と幕府の力は拮抗していて、京都の朝廷と鎌倉の幕府という二つの政権が日本全国にそれぞれに支配を及ぼしていた時代とみるべきでしょう。つまり、為政者が大きく二つに分かれていた、二元的支配の時代だったのです。いわば、王法を司る者が、京都と鎌倉にそれぞれ存在したのです。朝廷と幕府を代表する三人がそれぞれ主役を務めた三度の東大寺供養は、鎌倉時代の社会構造を象徴的に示しています。
鎌倉大仏の造立と鎌倉幕府
次に、鎌倉大仏について考えてみます。
現在、鎌倉市長谷の浄土宗寺院・高徳院の本尊である鎌倉大仏は、東大寺大仏のような根本史料がなく、謎の多い大仏ともいわれていますが、次のようなことはわかっています。現在の銅造の大仏の前に木造の大仏が存在したこと、木造大仏は暦仁元年(1238)の3月23日から造立がはじめられ、寛元元年(1243)6月16日に大仏殿の落慶供養がおこなわれたこと、現大仏は建長4年(1252)8月17日に鋳造が始められ、遅くとも大仏は文永元年(1264)に、大仏殿は文永5年(1268)までには完成したと考えられること、などです。
鎌倉大仏は誰が何のために造ったのかは、最大の難問の一つで、諸説あって必ずしも意見の一致を見ていませんが、筆者は鎌倉幕府がその主体者であると考えています(拙著『鎌倉大仏の謎』2010年、吉川弘文館)。ここでは詳しく紹介する余裕はありませんが、これは単なる推測ではなく、いくつもの文献史料から導いたものです。鎌倉幕府が全国的支配を強化しつつあったこの時期において、新しい大仏を最も必要としていたのは鎌倉幕府だったと考えられるのです。
東大寺の大仏は奈良時代に聖武天皇が造立して以来、常に仏法の象徴でした。そして、平安時代までは王法たる朝廷と相携えるべき仏法の象徴でもありました。しかし、時代は変わって、いまや全国支配を強め、新しく王法を司ることとなったのは鎌倉幕府です。その幕府にとって、仏法の象徴は東大寺大仏がふさわしいのでしょうか。幕府と相携えるべき仏法の象徴は、幕府の地である鎌倉に新たに生み出されるべきと考えられたのではないでしょうか。
鎌倉大仏には、当初、寺としての名前(寺号)は付いていなかったと考えられています。「新大仏」「鎌倉新大仏」などと呼ばれていたようです。寺号がないというのは大変異例ですが、その意図は、単に新大仏と呼ぶことにより、東大寺大仏に替わる新たな大仏という意義を端的に表現し、人びとに印象づけようとしていたのではないでしょうか。そこには、東大寺に替わって、新たな都である鎌倉に、文字通りの「新大仏」を創り出し、自らが相携えるべき仏法の象徴としたのではないかと筆者は考えています。
鎌倉時代と大仏
鎌倉時代は、ある意味で大仏の時代ともいえるのではないかと思います。大仏という存在は、奈良時代以来、日本社会の中で、鎮護国家あるいは王法と仏法の象徴として、広く人々にも浸透してきました。その奈良の大仏は、治承4年(1180)の暮れに焼け落ち、しばらくの間、大仏は不在でしたが、文治元年(1185)に復活を遂げます。そして、13世紀の中葉、鎌倉に新たな大仏が誕生します。わずか半世紀余りの間に二つの大仏が誕生したのです。
二つの大仏は、朝廷と幕府それぞれが自らと相携えるべき仏法の象徴として造立した存在でした。つまり、両大仏は王法と仏法の相依という思想の最大の産物であるとともに、京都の朝廷と鎌倉の幕府という、二元的構造をもった鎌倉時代の社会の状況を端的に示しています。社会構造さながら、大仏も東西のそれぞれの本拠地に一つずつ存在することとなったのです。
筆者プロフィール
塩澤寛樹(しおざわ・ひろき)
1958年、愛知県生まれ、1982年、慶應義塾大学文学部哲学科美学美術史学専攻卒業。現在、群馬県立女子大学教授。博士(美学、慶應義塾大学)。専門は日本美術史、日本彫刻史。主な著書に『鎌倉時代造像論』(吉川弘文館、2009年)、『鎌倉大仏の謎』(吉川弘文館、2010年)、『仏師たちの南都復興――鎌倉時代彫刻史を見なおす』(吉川弘文館、2016年)、『大仏師運慶――工房と発願主そして「写実」とは』(講談社選書メチエ、2020年)など。2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の仏教美術考証を担当。