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連載 シン・アナキズム 第4章「ポランニーとグレーバー」(その4)

「機能的社会主義」について(1)

重田園江さんによる、ポップかつ本格的な好評連載「アナキスト思想家列伝」第13回! カール・ポランニーの「アナキスト的心性」を探求しながら、彼の「機能的社会主義」というアイデアの歴史的背景を明らかにします。
※これまでの各シリーズは下記よりお読みいただけます。
「序 私はいかにして心配するのをやめ、アナキストについて書くことにしたか」
「ジェイン・ジェイコブズ編」の第1回
「ヴァンダナ・シヴァ編」の第1回
「ねこと森政稔」の第1回
「ポランニーとグレーバー」の第1回

 またしてもご無沙汰になってしまった。恒例の「最近何をしていたか話」を手短にしておこう。まず塩漬けられていた本がやっと出版の運びとなった(自分におめでとう!)。また、研究会や講演などで話をすると、たいていそれが後始末で活字になるので、その手入れなど細々とした作業に追われていた。他にも、実はこれが大変な時間を取られるのだが、所属大学でここには書けないような仕事をさせられている。誰もやりたがらない役割というのはやりたがらないだけあって、労苦labourそのものだ。

 そんな話はこのくらいにして、今回からポランニーの「機能的社会主義」論を取り上げることにする。これは前回予告しておいたとおり、ポランニーが絶望の市場社会、「悪魔のひき臼」からの出口を示した試みである。市場社会の外部として彼が名指したもののうち、「内部から出てきた外部」と書いておいた方だ。つまり、当時(1920年代)のヨーロッパに現れた新たな経済的社会的オルタナティヴについて、ポランニーの視点からその可能性を検討したものということになる。

「社会主義経済計算論争」の背景

 ポランニーが機能的社会主義についての論考を発表した直接のきっかけは、このころ主にドイツ語圏で盛んになっていた「社会主義経済計算論争」だった。この論争は、ヨーゼフ・シュンペーターやフリードリヒ・ハイエクが論争史として取り上げていることもあり、経済学史の世界ではよく知られているようだ[※1]。日本でも、前回取り上げた西部忠『市場像の系譜学』は、この論争の中で立ち上がってきた多様な市場像を検討したものだ。また、桑田学『経済的思考の転回』は、この論争の思想史的な意義と現在ふりかえった場合の重要な点について、変人オットー・ノイラートを起点にポスト近代経済学の観点から捉え返すという、独創的な試みである[※2]。

 だがここで論争の中身に立ち入ると一冊の本になってしまうので、簡単に争点や注目点を挙げることにする。1920年代というのは、ロシア革命がヨーロッパに激震を起こした後の時期である。そのこともあり、第一次大戦で疲弊するヨーロッパ各国で、労働者たちによる社会主義運動が勢いを増していた。

 たとえば1922年のイギリス総選挙では、分裂を回避できなかった自由党に代わって、労働党がはじめて保守党に次ぐ第二党となった。ドイツでは第一次大戦前からすでに社会民主党が第一党の地位にあった。フランスをはじめ他国でも、この時期一定の政治的ポジションを確保していた社会主義者たちは、内部分裂や主導権争いをくり広げていた。ある意味すでにその余裕があったということになる。

 こうしたなか、ウィーンでは1918年から社会民主党が絶対多数の下で政権を掌握し、「赤いウィーン」と呼ばれる斬新な社会改革を次々と行っていた。当時のウィーンは、オーストリア共和国の希望を牽引する、未来志向の実験場だったといえる。

経済計算が問題なのか?

 たしかにこの時期、ソ連体制や赤いウィーンは社会主義の躍進を世界に示したが、そのことによって「社会主義はどのような合理性に従って経済運営を行うのか」という問題が急浮上することになった。というのも、社会主義体制において財や資源の最適配分を行うためのやり方は、明確には示されたことがなかったからだ。

 市場主義者たちは、司令塔不在の市場だけが最適な資源配分を「見えざる手」によって行えると信じて疑わなかった。この延長上に、当時市場に代わるものとされた「計画」は、経済計算を行う能力が不十分であるため、合理的な経済運営ができないという批判が起こる。こうした批判のはじまりは、1920年に『社会科学・社会政策雑誌』に掲載されたルードヴィヒ・フォン・ミーゼスの論考「社会主義的共同体における経済計算」[※3]で、これが社会主義経済計算論争の口火を切ることになった。

 一般的には、この論争は中央指令型の社会主義と市場資本主義とのいずれの経済体制が優れているかを、資源配分の合理性と効率性の観点から論じたものと理解されている。そして論争は、社会主義が市場参加者全員にとって、また市場全体にとって最適な資源配分を実現するただ一つの「解」を見出せるかどうか、あるいはたとえ解が一つに定まったとしても、果たしてそれは現実的に計算可能かといった論争を生み出していく。こうした議論を経て、そもそも市場は均衡=静止によって捉えられるべきではなく、ダイナミックに変化(進化)しつづけるところにその強みがあるという新しい市場像が提示され、社会主義経済計算論争は一応の決着を見たことになっている。

 ところがこの見方では、ポランニーがミーゼスへの返答として『社会科学・社会政策雑誌』に書いた「社会主義経済計算」(1922)と、それへのミーゼスの反論にさらに応答した「機能的社会主義と社会主義の計算問題」(1924)で行った「機能的社会主義」の擁護は位置づけ不能になる[※4]。ポランニーははじめから、中央指令経済における経済計算の可能/不可能という、どちらが正解かを探すタイプの問題設定には興味を持っていなかったからだ。彼のこの論争への関わりのユニークな点は、市場資本主義でも中央指令型の社会主義でもない、第三の政治経済的な社会プランを提示したところにある。それが機能的社会主義だった。

 社会主義の一類型としての機能的社会主義は、もちろんポランニーが突然言いはじめたものではない。彼自身が言及しているとおり、イギリスのギルド社会主義者G・D・H・コールと、「赤いウィーン」を率いた社会運動家で政治家のオットー・バウアーから、当時のポランニーは大きな影響を受けていた。つまり、ポランニーの機能的社会主義の擁護には、もっと広いヨーロッパ大の知的背景があったということになる。これは世紀転換期以降のヨーロッパにおける「アナキズム的」契機と関係しているので、少し詳しく見ておこう。

議会制民主主義でもソヴィエトでもない“第三の道”

 まずはオットー・バウアーOtto Bauer(1881―1938)について。この人は「オーストロ・マルクス主義者」と呼ばれてきた。だがこの呼称は、「マルクス主義」の語がソヴィエト型の社会主義をイメージさせるとするならミスリードなところがある。日本で数少ないオーストロ・マルクス主義研究者の上条勇は次のように述べている。

 「オーストロ・マルクス主義」というこの言葉をこの世に初めて広めたのは、アメリカの社会主義者バウディン(Boudin)で第一次大戦前のことであったという。……ルドルフ・ヒルファディング(Rudolf Hilferding)、カール・レンナー(Karl Renner)、オットー・バウアー(Otto Bauer)、マックス・アドラー(Max Adler)が、その代表的人物であった。彼らは、マッハ主義や新カント派の感化を受けながらも、修正主義論争後、様々な分野でマルクス主義を現代風に発展しようと努め、独自の学風を築いていったのであった。そして、戦間期には、オーストリアの社会主義運動を背負ってたつ代表的な指導者に育っていった。レンナーは社会民主党……右派、バウアーは中央派、アドラーは左派を代表する政治家であった。……彼〔バウアー――引用者〕の指導下に進められた公共住宅建設などを中心としたウィーンの自治体政策は、「赤いウィーン」の名で有名となった[※5]。

 バウアーはこの時代の社会主義者の多くと同じく悲劇の政治家である。1918年のオーストリア革命は、オーストリア=ハンガリー二重帝国による帝政を終焉させた。革命後の1920年から1934年まで、バウアーは社会民主党選出の国民議会議員として、党の指導的立場にあった。彼は有名な「リンツ綱領」(1926)起草の中心人物でもある。しかし世界恐慌後の不穏な時代は、オーストロ・ファシズムを台頭させる。1933年に議会を閉鎖してファシズム政治をはじめたドルフースは社会民主党を挑発し、1934年の二月蜂起で市街戦に挑んだバウアーらは敗北を喫して亡命を余儀なくされた(ドルフース自身も同年オーストリア・ナチス党員に暗殺されている)[※6]。バウアーはチェコスロバキアに亡命するが、1938年にはここもナチの支配下となり、パリに亡命する。同年パリにて56歳で客死した。

 そのバウアーは、著書『オーストリア革命』(1923)の中で、社会民主党指導者としての自らの立場を「機能的民主主義」と呼んでいる[※7]。これは議会に政治的な代表を送ることで成立する議会制民主主義とは異なり、直接生産に携わる労働者の組織、また彼らの意見や交渉を重視する、調整型の民主主義を意味する。このような発想は、ソヴィエトの集産主義とも既存の議会制を所与とする改良主義とも異なる「第三の道」であるとバウアーは宣言し、オーストリア社会民主党が1926年に採択した「リンツ綱領」にもこの立場が明記された。

 現代では第三の道というと、おっちょこちょいのイギリス政治家トニー・ブレアと、彼に影響を与えたとされるアンソニー・ギデンズを思い浮かべるかもしれない。だが、行き詰まった福祉国家に市場の言語をブレンドして活力を与えるという、いま考えると新自由主義との違いが曖昧なブレアの第三の道とは異なり、こちらは本家本元だ。ソヴィエト型社会主義の恐ろしさにいち早く気づいていた当時の社会主義者の一部は、他方で「改良主義」的な志向が、労働者をブルジョア資本主義に順応させ、内部に取り込んでしまうことにも、強い危惧を抱いていた。労働者に貯金をさせて家庭菜園を与え、勤勉な小さな所有者だと信じ込ませることで、経営の主導権は与えずに体制内に飼い慣らす改良主義のやり方は、社会主義者の一部(言い換えれば「アナキスト的心性」を持った社会主義者)にとっては許しがたい欺瞞だったからだ。

労働者が自ら経営するための「経営評議会」

 バウアーの機能的民主主義において特徴的なのが、「経営評議会」の存在である。1919年に成立したオーストリアの経営評議会法について、バウアーは「ソヴィエト・ロシアをのぞき、ドイツ・オーストリアは経営評議会立法を達成した最初の国家であった」と述べている[※8]。これは実際、労働者集団が産業経営に参画することを法定する画期的な立法であった。

 経営評議会はさまざまな経営において異なって発展した。昔から安定した労働組合組織がすでにあった工業や手工業では、労働組合の経験のある職場委員が経営評議会の機能を引きついだ。職場委員は、この法律を利用することをすぐに理解した。この法律の意義は、かつては企業家の意志次第であった職場委員の承認を企業家に義務づけた点、職場委員を彼らの活動を理由とした処分から保護する点および職場委員の活動範囲をさらに労働組合の直接的な任務以上に拡張した点にあった[※9]。

 こうして新生オーストリア共和国において、「病院や劇場、料理店や商店、営林所や採石場」などあらゆる種類の産業に経営評議会制度が導入された。バウアーはこの制度を通じて、労働者が自己管理を学び、共同決定の主体となることで、「働く場所を共同して統治」することの重要性を強調した[※10]。それによって、労働者や職員を含めた、実際に働く人々による経営参加という民主主義的産業経営が現れる。「〔ソヴィエト政権を樹立した――引用者〕一〇月革命後、初めて試みられた民主的経営制度が、官僚主義的国家資本主義に急速に屈服せざるを得なかったロシアの例は、労働者が、自己の労働過程において自己統治の能力を習得しない限り、企業家の専制主義をたんに官僚主義者の専制主義にかえただけの官僚主義的国家社会主義しか、実現できないことを明らかにしている」[※11]。そのため経営評議会制度は、バウアーにとって「機能的民主主義」を支える核となる制度であった。

「ポランニーとグレーバー」(その5)を読む

*   *   *   *   *

※1 ヨーゼフ・シュンペーター、大野一訳『資本主義・社会主義・民主主義』Ⅰ(第3部)日経BP、2016、F・A・ハイエク、嘉治元郎・嘉治佐代訳『個人主義と経済秩序』(ハイエク全集3)春秋社、1990、VII―IX.
※2 桑田学『経済的思考の転回――世紀転換期の統治と科学をめぐる知の系譜』以文社、2014.
※3 F・A・ハイエク編『集産主義計画経済の理論――社会主義の可能性に関する批判的研究』実業之日本社、1950、p.99―143. この論集にはハイエクによる論争の紹介と総括、N.G.ピアソン、ゲオルグ・ハルム、そして論争に先立って社会主義に経済計算が可能であることを示していたエンリコ・バローネの論考(初出は‘Ministro della Produzione nello stato Collecttivista,’ in Giornale degli Economisti, Vol.37, 1908, p.267―293)が収録されている。
※4 カール・ポランニー、橋本剛訳「社会主義経済計算」『カオスとロゴス』No.1, p.126―147(第2章の訳)(全体を読むため、英訳‘‘ ‘Socialist Accounting’ by Karl Polanyi,’ tr. A. Fischer, D.Woodruff, and J. Bockman, in LSE Research Online, 2016, http://eprints.lse.ac.uk/68105/1/Woodruff_Socialist%20accounting_2016.pdfを参照した)、ポランニー、長尾史郎訳「機能的社会理論と社会主義の計算問題」玉野井芳郎・平野健一郎編『経済と文明』p.141―166.
※5 上条勇「若きオットー・バウアーとオーストロ・マルクス主義」『金沢大学教養部論集』第22巻2号(1985)、p.9―67.
※6 1930年代のオーストリア社会主義退潮の経緯は、コール、白井久和訳『社会主義とファシズム』(現代思想10)、ダイヤモンド社、1974、第6章を参照。
※7 オットー・バウアー、酒井晨史訳『オーストリア革命』早稲田大学出版部、1989、p.416.
※8 「ドイツ・オーストリア」という表現は、当時のオーストリア共和国の政治的立場を示すもので、オーストリア革命後のドイツとの合邦(アンシュルス)に関係する。ここではオーストリア共和国を指すと考えてよい。
※9 バウアー『オーストリア革命』、p.243.
※10 同書、p.242.
※11 同書、p.248.

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プロフィール
重田園江(おもだ・そのえ)

明治大学政治経済学部教授。1968年西宮市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本開発銀行へ入行、退職後、東京大学大学院総合文化研究科相関社会科学専攻博士後期課程単位取得満期退学。2005-07年ケンブリッジ大学客員研究員。2011年、『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』で第28回渋沢・クローデル賞受賞。ほかの著書に『フーコーの穴――統計学と統治の現在』(木鐸社、2003年)、『統治の抗争史――フーコー講義1978-79』(勁草書房、2018)、『フーコーの風向き――近代国家の系譜学』(青土社、2020)など。

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