日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔推しと深掘り〕 新井見枝香
※当記事はエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第18回です。第1回から読む方はこちらです。
職場のバックヤードには、徒歩圏内にある大型劇場「シアタークリエ」「帝国劇場」「東京宝塚劇場」の公演スケジュールが貼り出されている。それは我々売場スタッフにとって、天気予報より重要な情報なのだ。公演の前後は、まるでコンサート会場の物販ブースみたいに、レジが混雑する。現在公演中の舞台の、プログラムやグッズを販売しているからだ。私も好きなロックバンドのLIVEに行くと、ついオリジナルTシャツやタオルを手に入れたくなり、別にそこで買わなくてもいいCDまで、行列して買ってしまう。だから「その高揚感わかる!」と、レジを打ちながら、密かに興奮しているのだ。さらに熱心な舞台ファンは、公演演目の時代背景を掘り下げる専門書や、舞台監督のエッセイにまで手を伸ばす。結果として、そんじょそこらの読書好きより、よっぽど精力的に本を読んでいる印象だ。
私といえば、ただ本が読みたくて読んでいるのだが、そうやって、何かをより深く理解するために本を読むということは、ほとんど経験がない。
NHKテキストの棚に並ぶ『別冊NHK100分de名著』シリーズは、そんな私にとって全く謎の存在だった。英会話や料理などと同じ、番組テキストとしての『100分de名著』なら、まだわかる。「ラジオ英会話」を聴く時、テキストが手元にあるとないとでは、理解力が大違いだ。一方、すでに放送を終え、改めて書籍として出版された「別冊」は、テキストとしての役割ではなく、何度も読み返す「保存版」として存在している。過去には、ドラッカーの『マネジメント』、夏目漱石の『こころ』、サン=テグジュペリの『星の王子さま』といった、誰もがタイトルとあらすじくらいは知っている有名な作品が、シリーズとして出版されていた。しかし私は思うのだ。『マネジメント』や『こころ』は決して手に入りにくい本ではないし、「別冊」にまで手に伸ばすくらいだから、もちろん原作は既に読んでいて、手元にあるのだろう。面白かった舞台の原作本を読むならわかるが、読んで面白かった本について考察された本を読むなんて、楽しむために本を読む私には、なんだかピンとこない。『相対性理論』ならまだしも、『星の王子さま』を読むために、100分も説明が必要だろうか。萩尾望都の代表作『ポーの一族』なんて、そもそもが読みやすい漫画だ。ベッドでゴロゴロしながら繰り返し読むほうが、よっぽど楽しかろう。
萩尾望都作品は私が10代の後半から読み始め、中でも『トーマの心臓』をとりわけ愛している。謎めいた部分はあれど、物語に理解できないところはない。一体何を、本にすることがあるだろう? 逆にそういう興味が湧いて、初めて『別冊100分de名著』シリーズの「萩尾望都」を手に取る気になった。
『トーマの心臓』については、萩尾望都愛読者であり、SF&ファンタジー評論家の小谷真理さんが、自身の経験と、作品が雑誌に連載された当時(1974年)の時代背景を織り交ぜ、考察されていた。ミステリ小説の解説にありがちな、深読みに深読みを重ねた妄想話なんかではない。なぜ自分は、少女たちは、あの作品にそれほど惹かれたのか。今年の恋愛運でも占ってもらおうと思ったら、そもそも恋愛など必要としていないということを理路整然と言い当てられたかのような、爽快感のある解説だった。
作品が世に出た頃、すでに「男女平等」という言葉は浸透していたはずだが、実際は全くそうではなかっただろう。半世紀近く経った今だって、世間が女性に女性らしさを求める風潮は、根強く残っている。しかしあの作品に登場する少年は、美しい容姿と、知的さと、自由さを持ったまま、男性の心を惹き付けていた。誰かから恋愛対象として見られたい欲求はあるのに、それを望めば、自己を殺さなくてはならなかった少女たちにとって、少年であって少年ではない登場人物は夢であり、希望だった。
そもそも私が本を読み始めたのは、ボーイズラブ、いわゆるBL小説にはまったからである。なぜあんなにも、美しき少年同士の恋愛に固執したのか。「腐女子」という言葉だけで片付けるのは簡単だが、私がもともと腐っていたのではなく、腐らせる現実が、少女だった私の目の前に立ちはだかっていたからではないのか。
私は自分の本棚に並ぶ『トーマの心臓』の横に、「別冊」を差した。私は突きつけられたこの問題を、もっと掘り下げたい。知りたいことのために本を読み漁るとは、こういう感覚か。
ところで先日、宝塚ファンの知人から連絡があった。なんと観劇のお誘いである。宝塚のチケットはなかなか取れないが、ファンクラブ専用の申し込みで、1枚余分に取れるかもしれないとのこと。もし取れた場合、私は人生で初めての宝塚に、何を感じるだろうか。はまるような予感がプンプンする。本当は宝塚版『ポーの一族』も、観てみたかったのだ。女性だけで演じる、少年だけの世界を。
ただでさえ読みたい本はたくさんあるのに、宝塚を知るために本を読み始めたら、私の狭い部屋はいよいよ足の踏み場もなくなるだろう。楽しみであり、怖ろしくもあり。
まずは、肝心のチケットが取れるかどうかだ。結果は乞うご期待。
プロフィール
新井見枝香(あらい・みえか)
書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。
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*HMV & BOOKS HIBIYA COTTAGEのHPはこちら
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