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一年分の汚れを落とす――料理と食を通して日常を考察するエッセイ「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子

『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など、数々のヒット作でおなじみの小説家、柚木麻子さん。今月はこの猛暑の中、おうちで涼むための悪戦苦闘をお送りします。
※当記事は連載の第17回です。最初から読む方はこちらです。


# 17 ビニールプール

 三度目の自粛の夏、ただいま猛暑のまっただなかである。実はこの一年間、ずっと心の片隅にひっかかっていた事案がある。
 綺麗好きな方はここで読むのをやめていただきたいのだが、去年の夏に使いまくったビニールプール、私はなんと一年間、外に放置しているのだ。ベランダの片隅で、空気がいつの間にか自然に抜けてぺしゃんこになり、雨水にさらされ、土色の塊になっていったビニールプール。洗濯物を干す度に、あれどうするかなあ、捨てるかなあ、洗えばまだいけるかな、と考え続けているうちに、また夏が巡ってきた。
 このプールを買った去年は、二度目の自粛の夏だった。
 ちなみに最初の年は私も張り切って、ベランダで「おうち夏祭り」なるものを開催した。ハッピやおもちゃの宝石やすくい網をネットで買ったのも、メニューポップをマジックで手書きしたのも、焼きそばや枝豆をわざわざプラスチックパックに詰めたのも、ひとえに「こんなことをするのは今年だけ。来年は、友達家族も誘ってみんなで海に行くんだ」と信じていたからである。
 ところが、二年目。感染者数は減らないどころか激増し、信じられないことに、そんな状況下でオリンピックが強行された。あまりの理不尽に、前の年、さんざんメディアで推奨された「おうち時間」とはなんだったんだろう、私たちの我慢とは、工夫とは……と思ったら、頭にカッと血が昇った。そして、ベランダに入るぎりぎりのサイズの特大ビニールプールを買おうと閃いた。今年は、もう工作も料理もしない。楽をする。広く深いプールで子どもを喜ばせ、水飛沫を浴びながら私はウーロンハイでも飲んでいよう。サイズを想定するにあたって、実際にベランダに横たわって、自身の身長165センチを軸にしてアタリをつけたのだが、タイルの床が陽に焼かれ、背中が熱くて飛び上がった。
 さっそく、うちのベランダに置くには相当大きい長方形のビニールプールをネット購入。とても賢い買い物をしたつもりになっていた。ところが。
商品が届いたはいいが、まず膨らませるのが大変だった。続いて、ホースが届かないので洗面器を手に何度も往復して水を張る手間、そうやって苦労して入れた水を捨てる時は、一度にやると排水溝があふれてしまうので何日かに分けて少しずつ流していく面倒さ――。「おうち夏祭り」と労力はそんなに変わらない。オリンピックも始まってみれば結局気になってしまい、嫌な後味が残る夏であった。なんだかイライラして、ビニールプールをへこませて仕舞うことさえ、いまいましくなった。
 そして一年後の八月である。子どもが週末になると、噴水のある遠くの公園に連れて行ってくれとせがむのだが、そこは人も多く、この暑さである。水浴びがうちで済むのなら、こんなにいいことはない。いよいよ、手をつけないわけにはいかなくなった。私は重い腰をあげ、ベランダの土色の塊みたいなものに、とりあえず洗面器の水を一杯ぶっかけた。何往復もするうちに、白と青のビニール素材が姿を現した。私はベランダにしゃがみ込み、スポンジでせっせとプールを洗った。去年の夏、このプールを初めて膨らませた時の胸をすくような感覚や、子どもの歓声がよみがえった。ふと横を見れば、子どもが楽しくてたまらないように、泥だらけの私を見ている。
 ピーター・キャメロン著『ママがプールを洗う日』という夏に読むのがぴったりな短編集があって、タイトル通り、一年間放置したどろどろのプールをママが洗う様子が子どもの視点で描かれている。あんなに大きい、自宅の庭にある、本物のプールではない。でも、一時間かけて、ようやく本来の色と形を取り戻したビニールプールを膨らませ、水を注いだ時、去年の苦い夏がようやく溶けていった気がしたのである。

(FIN)

題字・イラスト:朝野ペコ

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プロフィール
柚木麻子(ゆずき・あさこ)

1981年、東京都生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。『ランチのアッコちゃん』『伊藤くんA to E』『BUTTER』『らんたん』など著書多数。最新短編集『ついでにジェントルメン』が発売中。

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