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「彼」自身の言葉で、語るべきではないか――料理と食を通して日常を考察するエッセイ「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子

『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など、数々のヒット作でおなじみの小説家、柚木麻子さん。今月は、特別編でお送りします。
※当記事は連載の第18回です。最初から読む方はこちらです。


#18 支配者

 二十一年間「推し」ていた有名俳優が性加害をしていたことが一週間前に報道された。
「彼」のファンだと常日頃公言していたせいで、マスコミ各社からの原稿依頼は後を絶たない。そのほとんどが「推しが性加害者になった時、ファンである私たちはどうすればいいか?」というものだった。

 私はこの件をどうしてもこの連載コラムで書きたいと思い、他はすべて断った。被害者の方が読んでいる可能性も考慮して、あの「彼」ではなく、できるだけ私自身の日常の話をしたい。

 私の一番初めの記憶は、酒に酔った父に肩車され、横浜中華街の店先から下がっていた看板に激突して、地面に叩きつけられたというものである。長い間、笑い話だったが、あれ色々やばかったんじゃないか?と思い始めたのは本当にごく最近である。
 大酒飲みでほぼ毎晩午前三時にならないと帰ってこないことと、母が家庭の外に出ることを異様に嫌がることを除けば、私の父は明るくて、気前がよく、優しい人だったと思う。私は可愛がられていた。絵本をたくさん読んでもらえたこと、週末ごとに映画に連れて行ってもらえたことが、今の職業に結びついている。だから父には、間違いなく感謝している。金銭的にも、学生時代は何不自由なく暮らさせてもらった。にもかかわらず、私は父が亡くなった時、心底ほっとした。
 なぜかというと、父の感情は常にジェットコースターだったからである。機嫌が良いかと思うと次の瞬間、怒り出す。見極めたくて一度「父の感情怒号線」グラフを作ったことがあるが、法則はわからずじまい。酔っ払って暴言を吐く。酔ってなくても意味不明な言葉を突然、叫ぶ。一時間以上洗面台の水を出しっ放しにして、それをただ立って見ている。二人で歩いていると、どんどん先に行ってしまい、しまいには見えなくなる。母はいつも疲弊していて不安そうだった。罵倒されることが当たり前の暮らしを長年送っていたせいか、今なお、緊張が解けていないところがある。
 私はこの家庭環境を少しでもプラスにとらえよう、居心地よくしようと、わりと早い段階から意識的に行動していた。すなわち父をご機嫌にしておくこと。父の口癖「今日、何か学校で面白いことがあったか?」が出てきたら、少なくとも起承転結のしっかりした五パターンのストーリーを用意しておく(話をメガ盛りする癖はこの時ついた)。エピソードを作るために自ら無謀な行動をとったりもした。本や雑誌を読み漁り、父のあらゆる感情の変化に対応可能な豆知識を用意しておくことも忘れない。例えば、父がテレビで嫌いな芸能人を見て激昂したら、その芸能人の隣にいる俳優のものすごく変わったエピソードをぶつけにいく、といったファインプレーで場を収めた。笑い声が入るタイプのアメリカのホームコメディはめちゃくちゃ参考になった。登場人物全員が息を吸うように創作物の引用をし、固有名詞を駆使し、情報量がすごいやつ。そんなわけで「父親にはちょっと心にムラがあるけれど、それ以上に超ハイテンションでおしゃべりな娘のいる、基本的には幸せな家庭」はある程度キープできていたと思う。私が社会人となり、母が家を出て行くまでは。
 私の供給する、いきいきしたエピソードと母に当たり散らすことでかろうじて保っていた父の自尊心は崩壊。今まで以上に飲み歩くようになってすぐに倒れたり、挙句には入院するようになった。その度に、私はいろんなお土産を持って駆けつけて看病し、病室にいた医療従事者も噴き出すような、面白エピソードを披露して重苦しい空気をガン無視した。それにしても、一人ぼっちになった病床の父を見下ろしているのは、看板に激突した時より、痛かった。ケアしてほしいのに誰にもケアしてもらえない惨めさを父は隠そうともしなかったので、私は仕事を減らして彼と一緒に住むことをわりと本気で考えていた。そんなある日、部屋で一人で死んでいるところを私は発見する。
 あれから十年近く月日が流れ、「モラハラ」という概念も世間に浸透した。私の父に対する印象も日々少しずつ変化している。
 横暴だった父親が死後、表現が不器用だっただけで本当は善人だったとわかる物語はこの世の中にあふれていて(それに気付かなかった主人公が成長を要求される)、具合が悪くなりっぱなしだったが、ポール・オースター著『孤独の発明』という本にはおおいに救われた。著者の父が死に、遺品の整理をするのだが、生前さっぱりわけがわからなかった父のことを死後調べてみてもやっぱりわけがわからなかった、なんなんだあいつ!?という結末は私に元気をくれた。さて、『孤独の発明』と同じくらいに私を救ったのは、間違いなく「彼」であった。
 テレビドラマで出会った2000年代、「彼」は、私がもっとも苦手としてきた、コンプレックスを抱え、女性への嫌悪がうっすらにじむ惨めな男性を頻繁に演じていた。私が一番直視したくないはずのものなのに「彼」の演技であれば、それをフィクションとして楽しむことができて、びっくりした。それからまたしばらくして、「彼」は威圧的な大声でわめきちらす権力者を多く演じるようになる。一番苦手で、本当なら胃がえぐられるはずなのにそれが「彼」であれば、あはははは!と大喜びすることできた。わかりやすく言うと、「彼」は私にとってディズニーランド。私はジェットコースターもお化け屋敷も怖くて仕方ないのだが、「ビッグサンダー・マウンテン」と「ホーンテッドマンション」はあの中で暮らしたいくらい大好きである。あまりにも精巧に作られていて、設定がしっかりあって、ちょっとだけコミカルな要素もあり、安全が担保されているからだ。作家デビュー以来、複数の芸能関係者の証言から普段の「彼」はどうやら真面目で勤勉な人物らしい(私のこの調査は今、めちゃくちゃ甘かったとわかる)と教えてもらい、安心もしていた。家父長制をオーバーな演技でカリカチュア化し、怖いものではなくしてくれる「彼」は、私にとっては救世主だった。この楽しみ方にはかなり罪悪感があったので、「彼」の舞台や手掛けるアパレルブランドにはお金を落とすようにしたり、機会があれば褒め称え、バランスを取った。
 ちなみに私の友人のほぼ全員が、もう日本のコンテンツに背を向けていて「そういったトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)演技がうまいおじさん俳優は、海外にはいくらでもいるよ! こっちに来いよ!」とたくさんの名優を教えてくれたが、私は全員ダメだった。あくまでも褒めているのだが、海外の名優は演技が自然すぎて、本物そっくりで怖かったのだ。特に韓国の俳優さん。韓国の若くない男性が丁寧に演じる「家父長制の支配者」はいつもリアルすぎて、私は具合が悪くなる。お気に入りのお仕事ドラマを見るのを泣く泣く中断したことさえある。
 その点「彼」は絶対に「作り物」だとわかるところがいい(今回それが「本物」とわかったわけだが)。みんなは暑苦しいとかオーバーだと言うけれど、私はそこに癒された。生活することの恐怖が減った。少なくとも「彼」の演技がなかったら、2010年代はごくごく当たり前だった、酒に酔った年長者が突然若手にキレ始める文学賞パーティーに頻繁に出かけて行って「今日は怖かったねー!!」と同業者たちと笑いながら帰ってくることは不可能であった。なによりも、「彼」が実の父親とうまくいっていない事実が、私の心をブチ上げてしまう。あんなに成功した男性が人生をかけて歩み寄っても、父親とうまくいかないことがある、というのは私にとって一種のお守りであった。感情のドーピング行為とも言えよう。

 そこで冒頭の、私に来た複数の原稿依頼の内容を思い出していただきたい。
 おそらく今、私はこうした文章を期待されているのではないか。

「私は今とてもつらい。でも、『推し』が性加害者になった時、応援していた自分を責めるのはやめよう。推していた時間は宝物だ。彼の作品に感動した自分を許そう。確かに、有害さに気付かなかったうかつさはあるが、私自身が誰かに加害をしたわけではない。ただ反省として、私は今後、性加害者を推さないように、誰かを応援する時は、その人のジェンダー観や普段の言動、差別発言をしていないかどうか、感覚を研ぎ澄ませ、時間をかけて、表に出ていない情報を含め、しっかり精査しようと思う。そもそも、会ったことがない誰かを好きだと公言するのは、危険な時代がやって来たのかもしれない」

 依頼した出版社さんが悪いと言っているのではない。だって私も今、そんな記事があったら絶対に読みたいし、許された気持ちになる。学びにもなる。今後の指標とするために、プリントして壁に貼るかもしれない。が、しかし、それでは自衛の啓蒙ではないだろうか。それも女性限定のやつ。「盗撮に気をつけましょう」とめちゃくちゃ似ている。
 そんな風に思ったのは、ここ数日ご飯も食べられない私を心配し、お茶に連れ出してくれた、ある尊敬する人の言葉のおかげだ。
「なんかさあ、こういう時、言葉を要求されるのは、被害者側に立つ人たちや被害者なんだよね。性加害者は黙り込んで、ただ時が過ぎるのを待つ。だから私たちは永遠に、どうして加害が起きるか、そのメカニズムを知らない」
 というものだった。
 そうだった。語るべきは「私」や「私たち」ではなく、「彼」自身なんじゃないのかな? 性加害が報道された時、被害者や被害者に寄り添う人たちは命がけで自分の言葉を絞り出す。連帯の意を示し、ある人は事件と無関係にもかかわらず今後こんなことが起きないように自戒を口にする、互いを思いやり、知恵を分け合い、みんなで身を削る。
 「彼」のファンだった私に原稿依頼多数という現状は、あまりにも加害が当たり前だから、よっぽど気をつけていないといつの間にか加害に加担させられかねないこの社会を、個人の知恵や直感やセルフケアでなんとか生き抜いてください、とぶん投げられていることの表れではないか。「同じ人間の中に天使も悪魔もいる。人は割り切れない」というのは昔からよく聞く考え方だ。でも、正しさで人を殴るなとは言われるが、そもそも今の日本ってそんなに民主主義的だっけ? 
 「彼」自身がどうして自分が加害に至ったか、どんな心情だったか、そして今、何を考えているのか、自分の言葉で語るべきなんじゃないのか。
 推しが消えて私の暮らしは信じられないほど、静かになった。色々捨てて、部屋も広くなり、がらんとしている。私はここから、自分の悲しみや傷を、茶化さずエンタメ化せずにただ向き合う、といった日常にだんだん慣れていかないといけない。
 9月になった。最近、父の写真をやっと直視できるようになった。  

(FIN)

題字・イラスト:朝野ペコ

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プロフィール
柚木麻子(ゆずき・あさこ)

1981年、東京都生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。『ランチのアッコちゃん』『伊藤くんA to E』『BUTTER』『らんたん』など著書多数。最新短編集『ついでにジェントルメン』が発売中。

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