生命科学者のベンチャー経営者・高橋祥子さんが読んだ、『マルクス・ガブリエル 新時代に生きる「道徳哲学」』
「コロナの時代の自由」を論じるマルクス・ガブリエルの言葉を、日本をリードする知識人たちはどう読んだのか? 続々と届くリレーコメントの第三弾!
先月の発売から話題の『ビジネスと人生の「見え方」が一変する 生命科学的思考』の著者・高橋祥子さんは、執筆において「少なからずマルクス・ガブリエルの影響を受けた」と言います。遺伝子解析ベンチャー「ジーンクエスト」を率いる経営者として、またガブリエルが批判的眼差しを向ける自然科学の研究者として、NHK出版新書『マルクス・ガブリエル 新時代に生きる「道徳哲学」』を高橋さんはどう読み、何を思ったのか? 科学と哲学、それぞれの役割を明確に論じる貴重なメッセージを寄せていただきました。
科学が進歩する時代に最も必要な哲学
私は生命科学を専門として研究・事業に励んでいますが、科学と哲学は切り離して捉えることのできないものだと実感しています。数年前からマルクス・ガブリエルの著書を読むようになったのもそのような背景からです。科学と哲学の関係については、私が書いた『生命科学的思考』も少なからずマルクス・ガブリエルの影響を受けています。
「科学」というと確からしいイメージがありますが、実際には科学では最先端であればあるほど曖昧なことが多くあります。例えば生命科学の領域では、ヒトの受精卵に対するゲノム編集は、そのメリットを優先できるほどリスクが小さいのかどうかは、まだ誰も分かりません。そのような最先端の科学において結局何を選択すればいいのかを考えるときに、哲学による「自らを構成する世界の捉え方」を学ぶことがとても重要になってくると考えています。
本書で描かれているように新型コロナウイルスに関しても同じです。ゲノムの塩基配列がどんどん変異していくウイルスは、どのような性質に変化するのか、どのような政策をとれば感染を収束させられるのか、科学的に説明できないことが多くあります。そのような中で、それでもどう生きていくかの意思決定をしなければなりません。
たとえ科学的に正しいと考えられる対処を実行したとしても、ヒトの心理の問題、つまり苛立ちや不安を抱えることを解決できるわけではありません。そのため、ヒトの現実の捉え方によって発生する種々の問題は、物事の捉え方を教える哲学によって解決できることもあるのだと、本書を読んで腑(ふ)に落ちました。
本書では、新型コロナウイルスによるパンデミック下でどのような心の持ち方、現実の捉え方をすればよいかという助言が多く盛り込まれています。
コロナ・ファシズムにどう対峙すればよいか
たとえば、本書で触れられているのがコロナ・ファシズムです。自粛要請に従っていないように見える人をみんなで糾弾するような姿勢や、マスクをするかしないか、マスクを外す場面はどこか、マスクの素材は何かなど、わずかな見解の相違から起こる過剰な諍(いさか)いが生まれています。コロナ禍での小さなストレスがSNSやメディアにより増幅されて大きな問題へと発展し、純粋に科学的な論争が、政治的、経済的、社会的さまざまな要素を含んで拡大しています。
そんな状況でマルクス・ガブリエルは、道徳的進歩を得られるチャンスだぞと、澄んだ感覚に揺り戻してくれます。道徳的進歩とは新しく知恵を発見することだと説かれていますが、このコロナ禍でも新しい知恵を得ることができるのだと、私にも気づかせてくれました。
コロナ・ファシズムや論争に関してガブリエルは、「他者が正しい可能性はある」という立場に立つと、相手の観点や感情を含めてシンプルに相手の見方を取り入れることで自分の視野を広げることができ、それが道徳的進歩に繫がると説いています。
そもそも対象物である「現実」が、本質的に多様な見方ができるものであるならば、どういう見方があるのかを学ばなければいけません。
分断される世界では、その分断を乗り越えるステップとして、①違いの対称性を認める(私と違う人がいる=その人からすれば私が違う人だ、と認識する)、②違いにこだわらない(違いよりも共通点に焦点を当てて物事を捉える)、の2つの段階が必要だと説いています。
結局「現実」で人は繫がるので、その現実をどう捉えるかを見なおすことで、対立や問題を解決できる可能性があるということです。
「ウイルスからの呼びかけ」にどう対応するか
さらに本書では、ウイルスによるパンデミックを契機に我々の認識を変える必要性を指摘しています。世界経済フォーラムのクラウス・シュワブが「グレート・リセット」と言うように、地球で生き延びるための構想を作りなおす必要があります。そもそもウイルスによるパンデミックは単に偶発的なものではなく、人間の経済活動と密接に関係しています。
貧富の格差拡大を背景に、慢性的な防疫体制の遅れにより不衛生な環境の地域があることや、世界的な人口急増、新自由主義的なグローバリゼーションなどによって、今後も新しい世界的な感染症が発生するリスクは依然高いということです。感染症だけではありません。これまでにも人間は、大量破壊兵器、人口の爆発的な増加、気候変動、意見を二極化し分断を加速してしまうソーシャルメディアなど、様々な地球規模の問題を生み出してきています。
これに対し、「気候倫理」や生態学・科学の研究だけでなく、地球規模の問題解決において人類が一緒になって取り組めるかどうかが分岐点です。
マルクス・ガブリエルが指摘するように、新型コロナウイルスによるパンデミックは、資本主義よりも人命救助を優先できることを証明し、唯物主義に疑問を呈し、地球規模の環境問題に光を当てる結果となったように、私たち人類の方向性に一旦歯止めをかけました。コロナ前のように資本主義や唯物主義に振り回される世界に戻ったら人類と地球は「終わる」、と。
分岐点に立つ私たち人類は、今後の世界の在り方、つまり哲学をどのように問うのかを見つめなおす時を迎えているのだと思います。これは“ウイルスからの呼びかけ”によって引き起こされたことと言えるでしょう。
最後に、本書を通じてマルクス・ガブリエルの提言に触れることで、コロナ下において不安やネガティブな感情に囚われて思考停止するのではなく、また錯覚・妄想・偽りに囚われるのでもなく、それらとは独立した「現実」に向き合いながら、世界を「よく生きて」いける方が増えていくことを祈っています。
プロフィール
高橋祥子(たかはし・しょうこ)
株式会社ジーンクエスト代表取締役。大阪府出身。2013年6月、東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程在籍中に、遺伝子解析の研究を推進し正しい活用を広めることを目指す株式会社ジーンクエストを起業。15年3月、博士課程修了。生活習慣病など疾患のリスクや体質の特徴などと関連する遺伝子をチェックできるビジネスを展開。18年4月より、株式会社ユーグレナの執行役員バイオインフォマテクス事業担当。東京大学大学院農学生命科学研究科長賞、テクノロジー&ビジネスプランコンテスト優秀賞、「日本バイオベンチャー大賞」日本ベンチャー学会賞など多数受賞。また、Forbes「30 Under 30 Asia 2016」、Newsweek「世界が尊敬する日本人100」、世界経済フォーラム「ヤング・グローバル・リーダーズ2018」などに選出。著書は『ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『ビジネスと人生の「見え方」が一変する 生命科学的思考』(ニューズピックス)。