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気鋭の日本思想史家・先﨑彰容さんが読んだ、『マルクス・ガブリエル 新時代に生きる「道徳哲学」』

「コロナの時代の自由」を論じるマルクス・ガブリエルの言葉を、日本をリードする知識人たちはどう読んだのか? 続々と届くリレーコメントの第二弾!
 ガブリエルが関心を寄せる日本思想史を研究する立場から、西郷隆盛の遺訓をはじめ現代の世相までを鋭く分析する先﨑彰容さん。先﨑さんは、2月10日発売のNHK出版新書『マルクス・ガブリエル 新時代に生きる「道徳哲学」』を読み、何を思うのか? 善悪を論じる「倫理」の研究からみた本書の勘所をガイドしていただきます。

SNSから民主主義を考える

 今や確固たる地位を築き、日本でも一大ブームを巻き起こしている哲学者が、コロナ時代を斬る。しかも映像制作のプロ集団が、ガブリエルの魅力を最大限に引きだし、コロナ禍の時代へ指針をあたえようとしている。哲学とは、静かだが野心に満ち、世界全体を把握しようとする挑発的な企てであることに気づかされる。
 今回のテーマは「道徳」だ。コロナ禍の中で使用頻度が上がったツイッターは、善悪二つの顔をもつ。政治的に利用され、誹謗(ひぼう)中傷のツールと化す場合、これは悪だと言えるだろう。非現実(バーチャル)な世界で展開される言葉が、生身の人間を自殺に追いこみ、現実を変えてしまう。こうした現状を、ガブリエルは「悪」だと断定したうえで、ツイッターの「良き」使い方について提案する。
 例えば、東京の地下鉄を削減すべきか増強すべきか、パンデミック時の食料配分をどうすべきかについて、議論できる場所としてのツイッターである。ここでガブリエルが言っているのは、以前、批評家の東浩紀氏がルソーの『社会契約論』を、Googleの検索エンジンの特徴を参考に読解し、「一般意志2・0」という新しい概念を提出したことにかかわりを持つ。つまりガブリエルも東氏も、私たちの時代を魅了しつづけるネット技術という装置を用いて、民主主義のあり方を考えよ、と指摘しているのである。

“最後のチャンス”としての「形而上学的パンデミック」

 SNSとコロナ禍が支配する現在は、少し遡れば、ここ30年間に急速に広がったグローバル化の時代の中の出来事である。ガブリエルは、2019年12月、すなわちコロナ禍が始まる以前の状況を、「終わりの世界だ」と言う。これは一見、奇異なことを言っているように思える。なぜなら私たちは、現在こそ危機の状況であり、それから一刻も早く脱出して、「元の生活」を取り戻したいと考えるからだ。しかしガブリエルにとって、この「元の生活」こそ、人類が自滅の瀬戸際に追い込まれた危機の状況に他ならない。グローバル化は、目まぐるしく、燃え尽き、狂騒、民主主義の終焉が叫ばれていた時代であり、気候変動による人類の絶滅がリアルな状況だったからだ。
 こうした時代に待ったをかけたのが、コロナ禍の最大の功績ではなかったか。ガブリエルは少し挑発的にこう語りかけた後で、これらの「問題が私たちみんなの目に見えるようになった」のが、今回のコロナ禍の皮肉な功績だったと指摘するのである。
 たしかに、これまでにもエイズをはじめ多くの疫病があった。しかし今回のコロナウイルスが特別なのは、私たちの意識を変えたこと、ショック状態をもたらし、これまでの人類のライフスタイルそのものを問い直すチャンスを与えたことである。「形而上学的パンデミック」と名づけたうえで、ガブリエルは、これは人類に対する「呼びかけ」なのだという。これに応えなければ、私たちは滅びるかもしれない。最後のチャンスだとガブリエルは言うのである。

科学信仰から「人間を考察する哲学」へ

 私たちはコロナ禍のもとで、日々、数字に接している。今日の感染者数は? 重傷者数と死亡者数は?といった具合に、まるで天気予報でも聞くように、コロナ患者数を聞いて、心をかき乱されているわけである。
 これをガブリエルは、マルクスをもじって「科学が民衆のアヘン」だと指摘する。私たちは物事を判断し、善悪や好悪を決定する際の基準を科学においているからだ。「科学」と「科学信仰」は全く違う点に注意しなければならない。私たちの生活が利便性を増し、医療が充実すること、それ自体はよいことであり、科学と人間は健全な関係性を保っている。
 しかし科学万能主義になると、状況は一変する。科学は合理性を核心とするから、私たちは例えば、Aという前提に基づいて、Bという実験を行い、結果Cがでてくる……というように、因果関係で世界を完全に把握できると思い込む。そしてCこそが唯一にして絶対の正解なのだと思い込む。
 だが、科学には唯一できないことがある。それは前提Aを、なぜ、どのような理由で最初に置いたのかを説明することだ。「もし仮に……」というその前提の正しさは、科学からはでてこない。では何からでるのかといえば、人間の歴史であり、善悪の価値観であり、常識ということになるだろう。つまり人文学の領域の話なのであって、人間を考察する哲学、わけても「道徳哲学」が必要になってくるというわけだ。
 こうして、ガブリエルは「道徳哲学」の復権と人文学の重要性を確信しているように見える。科学的合理主義の固定化した思考をもみほぐし、柔らかい思考へと私たちを誘うのである。

「正しい錯覚」とは?

「おわりに」に付された、本書の編集統括である丸山俊一氏の論考は、以上のガブリエルの柔軟な思考に応答した、しなやかな論考である。コロナ禍がもたらした微細な差異、マスクをしていない人への糾弾、電車内での人との接触への違和感、こうした差別意識につながる小さなストレスに心を占拠されている私たちを、丸山氏はより広い視野へと連れだす。「平衡感覚」という広野へと私たちの思考を連れだし、深呼吸するように促すのだ。
 丸山氏もまた注目するのは、「自然主義」的な思考である。自然主義とは科学的な見方を万能とみる思考態度のことであり、エビデンス主義のことだ。その際、ガブリエルが放った「正しく錯覚せよ」と言う言葉に、丸山氏は最大の可能性を見てとる。エビデンス主義者が、合理的・科学的思考を自らがしているという確信によって、実はアヘン中毒者のように酩酊しているとすれば、一方の正しい錯覚とは、自らが「錯覚」していることを自覚する余裕のことである。自らが絶対の正義を握りしめている、などという傲慢にがんじがらめにされるのではなく、心に遊びをもたせることに成功しているわけだ。
 虚構だと知りつつ、虚構を楽しむ。合理性で他者を糾弾し、自らの正義に引きこむことへの謙虚を保つ。状況を「相対化」することは、丸山氏において一貫した思考の態度であり、知性のスタイルをなしているのである。
 この思考スタイルを例えば次のように説明できるだろう。銀行から住宅ローンを借りて返済期間を30年とする。利子がつくから元本より多くの金を払わねばならない。これは合理的に考えれば「損」である。しかし30年間の支払額を、比較的低額に抑えられるとすれば、そこには一定の「安心感」が生まれる。たとえ金銭的には損をしても、家族には安心感が生まれるのである。
 金銭的な損得で判断することは、合理的には正解だ。だが人は、合理性よりも安心感を求めることも十分に自然なのではないだろうか。だとすれば、安心感を得る方がむしろ「正解」なのではないか。洒脱な丸山氏本人の言葉を引こう――「宇宙の法則を科学的に解析することと、星の美しさに心奪われることは、決して矛盾することなく、一人の人間の意識の中に共存できるもののはずなのです」。

「おのずから」と「みずから」

 こうした、危機の時代に対処するための道徳哲学は、東洋思想、日本思想の蓄積へと目を向けさせる。日本語の「自ら」という言葉には、「おのずから」と「みずから」という二つの読み方があり、前者は自分以外の力を、後者は主体的な意志の力を意味する。つまり世界は、人間が主体的に変革し、合理的に整頓できるだけではない。人間以外の力によって「なる」のであり、おのずからの力によって世界は形成され、人はその懐に抱かれてもいるということなのである。
 この二重の思考を保持し続けることこそ、私たちがコロナウイルスから受け渡されている道徳哲学なのかもしれない。

〔1〕経済思想家・斎藤幸平さんからのコメント

プロフィール
先﨑彰容(せんざき・あきなか)

1975年東京都生まれ。日本大学危機管理学部教授。専攻は近代日本思想史・日本倫理思想史。主な著書に、『ナショナリズムの復権』(ちくま新書)、『違和感の正体』『バッシング論』(ともに新潮新書)、『未完の西郷隆盛── 日本人はなぜ論じ続けるのか』(新潮選書)、『維新と敗戦』(晶文社)のほか、『NHK100分de名著 西郷隆盛『南洲翁遺訓』』(NHKテキスト)など。

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