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「日記の本番」1月 くどうれいん

小説、エッセイ、短歌、俳句とさまざまな文芸ジャンルで活躍する作家、くどうれいんさん。くどうさんの1月の「日記の練習」をもとにしたエッセイ、「日記の本番」です。


 数年前から、自分の悩みをジャンルに分けず、いま抱えている悩みのすべてを話せる相手が少なくなっていくような感覚がある。それはわたしが作家を仕事にしているからではなく、年を重ねるごとに、自分とそっくりそのまま同じような境遇の人はどんどん減っていくのだから仕方のないことだと思う。小学生の時は、結構だれとでも話が合った。毎日顔を合わせて同じ授業を受け、同じ民家の桑の実を勝手にむしって食べながら帰り、同じようなゲームボーイカラーやたまごっちを持っていたのだから、それもそのはずだと思う。同じ授業を受ける、というのは大学に進んでまで続いたからあまり気が付かなかったけれど、そもそも家庭環境も嗜好も思想も違う人間が集められているのだから、本来はだれとも話なんて合うはずがなかったのかもしれない。
 新入社員として営業職で働くようになってから、仕事と書くことに熱中していたらあっという間に時間が過ぎるようになり、ふと気が付いたら、自分の悩みや不安をだれにも打ち明けずにいた時期があった。折角できた同世代の仕事仲間や、書き続けている同世代の人にも、最後には「でも書いてるんだからすごいじゃん」「でも働いてるんだからすごいじゃん」と言われてしまい、そう言われると黙ってしまう。同じような業種で働いているからって悩みを共有できるわけではない、同じように創作をしているからって悩みを共有できるわけではない、とわたしは悟った。仕事の話と創作の苦悩の話を同時にできる相手はいないと諦めた。「でもすごいじゃん」と言われることに怯えずに、本当にしたい相談をするのはとても難しいことだった。
 でもいまは、モリユがいる。モリユは年下の友人で、絵を描いている。わたしと同じ地元で、しかしいまは違う場所に住んでいる。彼女とわたしは同じくらいの速度で仕事が増え、同じくらいのタイミングで独立し、自然のそれなりに多い街に暮らしながら仕事相手はほとんど東京にあって、同じくらい忙しい。創作の悩みも仕事の悩みもこころから共感しつつ相談できる相手で本当にありがたい。わたしは仕事が好きだから、仕事の話をするのも好きなのだと、モリユと話していると思い出す。短篇小説を書くために見張ってほしい、という理由でビデオ通話を繋ぎお互いの仕事をする、というのをこれまで数回やっている。最初の数分は普通におしゃべりをして、「さて……」と言って黙りだす。それを繰り返してほぼ丸一日一緒に仕事を進める。テスト前に友人と机を向かい合わせてお互いに黙りながら各々の問題を解いていた時の、あのくすぐったい集中力が思い出される。
 たまたま丸一日打ち合わせや外出の予定がなかった日に、久しぶりにそれをやりたくなってわたしから連絡した。ものの数分で快諾の連絡が来た。軽くお互いの近況やいまの仕事のことを喋って、「さて……」と言って集中する。午前はとても捗った。お互いにお昼を食べてすこし運動してからまた繋ぎなおそう、という話になった。夕方繋ぎなおしてまた黙り込む。ビデオ通話と執筆を同じパソコンで行うために、最初は画面を2分割していたが、やはり全画面のほうが仕事はしやすく、カメラを繋ぎっぱなしで画面には原稿だけを表示していた。わたしは頭を悩ませる原稿のことでいらいらしていた。「んー」と小さく唸ったり、歯を食いしばったり、気が済むまで鼻をほじったり、椅子の上で胡坐あぐらをかいたりしてそれでも気持ちが荒ぶるので手を洗って気持ちを冷やすために立ちあがった。しゅっ、しゅっ、とパソコンからモリユがタブレットに筆を走らせる音がして気が付いた。そうだ、いまカメラ繋いでるんだった。そして恐ろしいことに思い当たった。え、さっき、わたし鼻ほじったじゃん。
 恐ろしすぎてなかなかパソコンの前に戻れず、わたしは長々と手を洗った。自分が友人の目の前で思い切り鼻をほじった事実をなかなか認められなかったのだ。どうやって誤魔化そう、とまず考えた。しかしカメラの目の前で、なんならどアップで鼻をほじっていただろうことは、もし見ていたとすればどう誤魔化すこともできないだろう。モリユだって集中していたはずだ、きっと見ていない。見ていたら「えー!」とか「ちょっと!」とか何か言ってくれるはずだから。……でも、モリユはやさしい。もしかしたら(げ!)と思ったけれど、わたしが集中しているのがわかっていたから黙っていてくれているのかもしれない。どうしよう、どうしよう。わたしは何とか平気な顔をして座りなおし、隠れていたビデオ通話画面を表示させた。どう考えても鼻をほじっていたところはばっちりと映っていただろう画角だった。モリユはまったくこちらを見向きもせずに絵を描き続けていた。(見なかったふりをしてくれているのかもしれない)と思いながら、鼻なんてほじっていないそぶりを突き通してその日一日の仕事を終えた。仕事はとても捗った。通話を切る前にモリユが「明日も通話できませんか?」と言ってくれて、こちらもたすかるのでうれしい、と言いながら(鼻ほじったの見た?)と白状するならばいまがチャンスなのではないか、と思った。よし、いま言おう、と思ったタイミングで電波の不調によって通話は切れ、繋ぎなおさずまた明日!となった。寝るまで、皿を洗ったり歯を磨いたりするすべてのタイミングで「うあーっ」と声が出た。何度思い出しても恥ずかしくて仕方がなかった。
 翌日、午後モリユとビデオ通話を繋ぐと、すぐにちょっと真面目な仕事の話になった。創作を仕事にするって、楽しいばかりじゃなくてやっぱりちゃんと「仕事」だ。自分からどんな作品が出てくるかわからず、自分がいいと思ったものがどう評価されるかもわからない創作の仕事には、大きくても小さくても常に不安が付きまとう。もちろん、会社員と同じような社交のつらさやコミュニケーションの苦労もあったりする。めそめそしているモリユに大丈夫だよと前向きなことを言いながら「さて……」と集中する流れになった。いまだ、と思った。「あのさ、きのうわたしが鼻ほじったの見た?」と打ち明けると、モリユははじけるように「見てないですよ!」と爆笑した。モリユがほんとうにいま初めて聞いた人のようにあまりにも笑い続けるので、いや、でも本当は見ていたのでは……という用心深い不安はすぐに消えた。ああ、見られてなくてよかった、でも言ってよかった。モリユはぱっと明るい顔になって「すっごいげんき出た」と言いだし、わたしは顔を真っ赤にしながら「それはよかったよ」と力なく笑い、はーあ、と言いながらお互いの仕事に向き合うとき、ああ、これが同僚か。同僚って感じがする、と、とてもうれしかった。わたしはずっと、同級生とテスト勉強するみたいに仕事がしたかったのかもしれない。


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タイトルデザイン:ナカムラグラフ

「日記の練習」序文

プロフィール
くどうれいん

作家。1994年生まれ。著書にエッセイ集『わたしを空腹にしないほうがいい』(BOOKNERD)、『虎のたましい人魚の涙』(講談社)、『桃を煮るひと』(ミシマ社)、絵本『あんまりすてきだったから』(ほるぷ出版)など。初の中編小説『氷柱の声』で第165回芥川賞候補に。現在講談社「群像」にてエッセイ「日日是目分量」、小説新潮にてエッセイ「くどうのいどう」連載中。東直子さんとの歌物語『水歌通信』が発売中

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