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「NHK出版新書を探せ!」第21回 1つの主張の背後には数多くの論文がある――山口慎太郎さん(経済学者)の場合【前編】

 突然ですが、新書と言えばどのレーベルが真っ先に思い浮かびますか? 老舗の新書レーベルにはまだ敵わなくても、もっとうちの新書を知ってほしい! というわけで、この連載では今を時めく気鋭の研究者の研究室に伺って、その本棚にある(かもしれない)当社新書の感想とともに、先生たちの研究テーマや現在考えていることなどをじっくりと伺います。コーディネーターは当社新書『試験に出る哲学』の著者・斎藤哲也さんです。
 ※第1回から読む方はこちらです。

〈今回はこの人!〉
山口慎太郎(やまぐち・しんたろう)

東京大学大学院経済学研究科教授。1999年慶應義塾大学商学部卒業。2001年同大学大学院商学研究科修士課程修了。2006年アメリカ・ウィスコンシン大学経済学博士(Ph.D)取得。カナダ・マクマスター大学助教授、准教授、東京大学経済学部准教授を経て現職。専門は結婚・出産・子育てなどを経済学的手法で研究する「家族の経済学」と、労働市場を分析する「労働経済学」。著書に『「家族の幸せ」の経済学――データ分析でわかった結婚・出産・育児の真実』(光文社新書)、『子育て支援の経済学』(日本評論社)などがある。

自分のやりたい研究は何なのか

――山口さんは1995年に慶応の商学部に入学して修士まで取り、その後、アメリカのウィスコンシン大学で経済学の博士を取られました。経済学のなかでは、労働経済学と家族の経済学を専門とされていますが、この二つを専攻にしたのはどういう経緯からでしょうか。

山口 慶應大学時代は、計量経済学を中心に勉強していましたが、労働市場の問題に興味があったので、計量経済の応用として労働経済学も学んでいました。その後、アメリカの博士課程を経てカナダの大学に就職してからも、労働経済や労働市場の研究が中心でした。
 ただ、カナダで5年ぐらい必死になって、北米の若年男性のキャリアについて研究し、テニュア(終身在職権)を取ったあたりで、こういう研究生活をずっと繰り返すのはあまり面白くないと思ったんです。やっぱり海外のことではなく、日本経済について研究したい。じゃあ、日本の経済の何をテーマにしようかと思ったときに、日本社会にとって自分が大事だと思う問題を考えようと。そこで行き着いたのが、労働市場での女性の活躍というテーマでした。というのも、当時経済的に調子のよかったアメリカと、そうでない日本とを比べて何が大きく違うかと考えたら、女性の活躍だろうというのはもう肌感覚でわかるんですね。

――実際に行ってみて違ったわけですね。

山口 そうです。管理職の女性は珍しくないし、私が2006年から在籍したカナダのマクマスター大学でも、重職に就いている女性の先生はいくらでもいました。学部長も女性でした。それに比べて、日本社会では女性リーダーが圧倒的に少ないわけです。
 正直に言えば、僕も大学生のころは、男女の能力は本質的に違うかもしれないと思っていたんですが、アメリカ、カナダに行って、まったくそんなことはないことがわかった。それで、女性が活躍するのに必要な政策の評価を分析しようと考えたんです。
 最初に手をつけたのが、育休の問題です。育休のデザインは女性の活躍に大きな影響を与えているんじゃないかと思ったんですね。ところが分析してみると、もうこれ以上育休期間を伸ばしても、女性の就業を拡大する効果はあまりないことがわかりました。すでに私が研究を始めたときには日本にも育休制度はあって、1年から1年半ぐらいは取れていたんですね。それを2年、3年に伸ばしてもあまり効果がないわけです。
 その次に分析したのが保育です。保育所をたくさんつくると、女性がもっと働けるようになるんじゃないか。この20年くらい、待機児童の問題がずっと言われ続けていたので、これは当然、必要だろうと。実際、保育所を増やすと、女性の就業率は大きく改善します。
 僕は、それに加えて、当事者である子どもに対する影響を分析してみたんです。その結果、保育園通いは子どもの発達にとってプラスであることがわかりました。こんなかたちで、最初は男性の労働市場の研究からキャリアをスタートさせましたが、カナダでテニュアを取ったあたりから、日本社会の女性、子供、家族という問題にシフトしていったんです。

――ちょうど女性の活躍というテーマが、労働経済学と家族の経済学が交差するようなところだったんですね。

山口 はい。労働に関する具体的な政策を見ていくと、育休や保育と関わってくるんですね。労働市場に関するさまざまな政策があるなかで、日本で改革する余地が一番大きい分野って何だろうと考え、女性や家族の問題が視野に入っていたという感じです。

学術論文にも質の高低がある

――2019年に、いまお話しいただいた内容も入っている『「家族の幸せ」の経済学』(光文社新書)を出版し、サントリー学芸賞を受賞しました。一般書はこれが初めての執筆だと思うんですが、構成や内容はすんなりと決まったんですか。

山口 いやいや、けっこう試行錯誤しましたよ。当時僕が書いていたのは研究論文だけで、たまにその解説的な記事を『東洋経済』や『日経ビジネス』に見開きで書いていた程度です。だから、編集者の方から「家族というテーマで」という依頼をいただいたときは、自分の研究だけじゃなく、いくつかトピックを決めて、それに関する研究結果をまとめたらいいんじゃないかと思ったんです。それで見切り発車的にスタートしたんですが、編集の方とやりとりを重ねているうちに、ライフステージに合わせてトピックを配置したらどうかという提案を受けました。その提案のおかげで、トピックが絞りやすくなりました。あとは書きながら、次の章について考えるという繰り返しでしたね。
 原稿を書く際には、結論だけを書きっぱなしにするのではなく、その裏付けとなる学術的な根拠をきちんと示すことに心を砕きました。学術論文にも質の高低があるので、できるだけ質の高い根拠を示したい。だから、論文の吟味だけであっという間に時間がたっていくんです。

――実際には大変な数の論文に目を通しているんですね。

山口 そうなんです。各章で20本ぐらい論文を引用しているとしたら、それを取り上げるかどうか決めるために、背後で3倍以上読まざるを得ないんですよね。しかも、ライフステージで構成していくとなると、自分の元々の研究範囲である育休と保育以外のトピックも扱わなければなりません。たとえば、結婚が入る。結婚の話は、アメリカ留学時代の指導教授と一緒に書いたことがあったので、そこから記憶を遡って論文を読んでいきました。さらに結婚制度を取り上げるなら離婚制度も、というふうに、調べることがどんどん増えていくんですね。面白くはありましたけど、毎週締切のレポートがあるような感じでした(笑)。

研究結果は個人の生き方を決めるものではない

――『「家族の幸せ」の経済学』は、単にさまざまな研究を噛み砕いて紹介するだけでなく、山口さん自身の経験を交えたりしながら、読み物としてとても面白く仕上がっています。とても初めて一般書を書いたようには見えない書きぶりだったので、びっくりしました。

山口 ありがとうございます。日本語で一般向けの本を書くからには、極力簡単に書きたいという気持ちはありました。難しいことは英語の論文でさんざん書いたから、もういいじゃないかと(笑)。
 個人的なエピソードは、授業の雑談でもよく話すんです。学生にとっては、いい気分転換になっているようなので、本文の流れを少しせき止めることになっても、入れるようにしました。書きながら、思いついた瞬間に「ところで」と挿入するように書いたところもありますね。

――本のなかでは、科学的な研究結果から導かれる示唆を、個人の生き方の規範として受け取らないように、配慮されているように感じました。

山口 炎上しないでよかったと思います。データは世の中の全体を表すための像ですから、政策を考えるときの役には立つんですが、個人の選択や生き方の規範を示すものではありません。読み手にとっては、データから導かれる平均的な像よりも、自分にとってどうなのかが大事なはずです。そして、読者である一人ひとりの個人は、分布している中の右端にいるかもしれないし、左端にいるかもしれない。どこにいるのかわからないんですね。だから、データを解釈するときは、個人と社会全体のギャップには気をつけながら書きました。

エビデンスは複数の論文から生まれるもの

――今年の1月には『子育て支援の経済学』も出されました。どちらの本も、データ分析の手法や因果推論の重要性をきちんと伝えながら、議論を進めている点に新しさを感じました。そのあたりもかなり意識されて書いているのでしょうか。

山口 いろんな本で「エビデンス」という言葉がよく使われますが、書き手に都合のいいことを書いている論文を見つけるのはたやすいんです。どんな主張でも、それを支持する研究の一つや二つは見つかるんですよ。だけど、エビデンスというのは論文一つから与えられるものではなく、関連するさまざまな論文から出てくる知識の総体だと思っています。
 だから一行の主張のために、10本の論文を読まないといけないこともある。その10本全体で、おおむねその主張を支持できそうなら書いていいし、10本中1本しか言ってないことだったら、「こういう事例もありました」くらいのトーンにしなきゃいけないわけです。

――データがあるからといって、適切なエビデンスになっているとは限らないわけですね。

山口 そうです。でも、エビデンスを謳っておきながら、恣意的にデータを使っている本はしばしば見かけるので注意が必要です。
 それもあって、私はデータ分析の仕方もできるだけ紹介したいんですね。あるデータからどのように結論に至るのかという論理展開を知ることは、リテラシーとしても重要だし、わかると楽しいんです。学生に授業しても、ちゃんと説明すれば面白がってくれます。
 ただ、どこまで掘り下げるかという判断は難しい。『子育て支援の経済学』は教科書として書いたので、大学の授業で解説するような内容も載せる必要があります。だけど、一般読者にとっては、それは専門的すぎる場合もあるわけです。そのさじ加減を試行錯誤しながら書いていますね。

*取材・構成:斎藤哲也/2021年7月9日、東京大学本郷キャンパス研究室にて

〔連載第22回へ続く〕

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プロフィール
斎藤 哲也(さいとう・てつや)

1971年生まれ。ライター・編集者。東京大学文学部哲学科卒業。ベストセラーとなった『哲学用語図鑑』など人文思想系から経済・ビジネスまで、幅広い分野の書籍の編集・構成を手がける。著書に『もっと試験に出る哲学――「入試問題」で東洋思想に入門する』『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』がある。TBSラジオ「文化系トークラジオLIFE」サブパーソナリティも務めている。
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