「NHK出版新書を探せ!」第22回 実験パートナーを探せるかどうかで勝負は決まる――山口慎太郎さん(経済学者)の場合【後編】
突然ですが、新書と言えばどのレーベルが真っ先に思い浮かびますか? 老舗の新書レーベルにはまだ敵わなくても、もっとうちの新書を知ってほしい! というわけで、この連載では今を時めく気鋭の研究者の研究室に伺って、その本棚にある(かもしれない)当社新書の感想とともに、先生たちの研究テーマや現在考えていることなどをじっくりと伺います。コーディネーターは当社新書『試験に出る哲学』の著者・斎藤哲也さんです。
※第1回から読む方はこちらです。
〈今回はこの人!〉
山口慎太郎(やまぐち・しんたろう)
東京大学大学院経済学研究科教授。1999年慶應義塾大学商学部卒業。2001年同大学大学院商学研究科修士課程修了。2006年アメリカ・ウィスコンシン大学経済学博士(Ph.D)取得。カナダ・マクマスター大学助教授、准教授、東京大学経済学部准教授を経て現職。専門は結婚・出産・子育てなどを経済学的手法で研究する「家族の経済学」と、労働市場を分析する「労働経済学」。著書に『「家族の幸せ」の経済学――データ分析でわかった結婚・出産・育児の真実』(光文社新書)、『子育て支援の経済学』(日本評論社)などがある。
経済学のなかの実験
――『「家族の幸せ」の経済学』のなかでは、シカゴ大学の経済学者ヘックマン教授の「ペリー就学前プロジェクト」に衝撃を受けたと書かれています。無作為抽選で黒人家庭の子どもを選び、子育てに関するプログラムを実施し、その後、40歳になるまで追跡調査をして、プログラムに参加していない子どもと比べるという実験です。
山口 たぶん、今の倫理基準だと実施するのは難しいと思いますが、それを知った当時は、幼児教育について社会実験をするという発想に本当に衝撃を受けました。
――現在の経済学の中では、実験というものはかなり大きな意味を持ってきているんでしょうか。
山口 その通りですね。2019年にノーベル経済学賞を受賞したクレマー、デュフロ、バナジーは、どういった経済支援が発展途上国に効果があるのかを見るために、いろいろな実験を行っています。それまではデータから因果関係を推論するものの、その因果関係は逆じゃないのか、相関関係じゃないのかといった水かけ論になりがちでした。そこに実験というアプローチが入ってきたことで、精度の高い因果推論ができるようになった。現代では、実験できるならばやるべきだということは、確実に経済学者の共通認識になっていると思います。
ただし一方で、倫理的な問題があるので、どんなことでも実験できるというわけではありません。実験できないような問題については、データ分析をして、因果関係を見つけなければなりません。
――経済学の中で実験が大きな意味を持ってくるということは、実験の設計やアイデアの能力が重要になってくるわけですか。
山口 実験のアイデアはもちろん重要ですが、それ以上に、実験パートナーを見つけられるかどうかが研究の成否を分けるんですよ。
私が大学生だった頃は、研究はコンピュータの前でするものでした。ところが現在は、ある教育法や教育政策の効果を見たいと思ったら、最初に実験相手を探すことから始まります。たとえば、教育にコンピュータを導入する効果を調べたいなら、協力してもらえそうな教育NPOに連絡をするわけです。
パートナーの協力を得て実験までこぎつけたら、ゴールはけっこう近いんですね。その意味では、昔はデータ分析の労力が8割ぐらいでしたが、今はパートナー探しと実験のデザインの労力で8割、データ分析はもう1割、2割と下がってきました。前の準備がうまくいけばうまくいくほど、データ分析はもう簡単なもので済むようになっています。
――実験パートナーを見つけるうえでは、経済学的な説明能力も必要でしょうけど、コミュケーション能力みたいなものも要求されますよね。
山口 そうだと思います。実は最初の『「家族の幸せ」の経済学』を書いた動機の一つは、実験のパートナーを見つけやすくするためでした。
――そうだったんですか(笑)。
山口 専門的な論文を書いても、なかなか一般の方には届かない。新書であれば、自分の研究を紹介する名刺代わりになります。自分の研究に興味を示してもらえれば、実験の協力を得やすくなるかもしれないと思ったんです。
日本の政策は「エビデンス」ではなく「偉い人」にもとづいている
――山口さんは、エビデンスにもとづく政策立案の重要性を説いておられますが、その点から日本の現実をどのようにご覧になっていますか。
山口 大学1、2年生向けの授業で、「EBPMって何の略語でしょう?」と問いかけるんです。「Evidence-Based Policy-Making」、つまりエビデンスにもとづく政策立案が正解なんですが、ちょっとした冗談で、日本は「偉い人 Based Policy-Making」になっていると話します。つまり、力のある政治家なり財界の人が、エビデンスではなく雰囲気で決めた方針が、動かせないものとして下に降りてきてしまうんだと。
もちろん、エビデンスがないことをやってはいけないということではないんですが、ある政策がどういう結果を引き起こすかを知ったうえでやるのと、知らずにやるのとでは大違いです。ですから、可能な範囲でエビデンスを参照してほしいと思っています。
――海外では、エビデンスにもとづいた政策立案は実践されているんでしょうか。
山口 元々イギリスで始まった手法ですし、アメリカでも、オバマ政権はエビデンスにもとづいて予算をつけていました。効果がない政策は中止することも明言していました。
――どうすれば日本の政策はエビデンス・ベーストに変わっていくんですかね。
山口 行政学の研究者に言わせると、現状、エビデンス・ベーストで政策を立案することに対する官僚側のインセンティブはまったくないそうです。つまり、EBPMをやっても官僚に何の得にもならない状況があるので、そのインセンティブ構造に手を付ける必要があるという意見もあります。
それも大事だと思いますが、同時に、地道ではあるけれど、市民に少しずつEBPMの重要性を理解してもらう活動も同時に進めていったほうがいい。それも新書を書いた理由の一つです。
結局、官僚は政治家を見て動き、政治家は有権者を見て動いています。だから、根本的には一般市民がEBPMを大事だと感じることが重要だと思っています。
データ後進国・日本
――いまの話とも関連しますが、山口さんは、日本はデータが貧弱であることを繰り返し指摘しています。その原因は何でしょうか。
山口 まず、データを取る必要性が社会全体に共有されていません。民間だろうが公共セクターだろうが、エビデンス・ベーストで考えるという発想はほぼありませんでした。官僚でも、データ関連のセクションにいる人は、非出世コースのように見られます。社会として重視していないので、データ整備に予算がつかないわけです。
欧米、とくに北欧は公共データが非常に充実していて、簡単に言うと、いわゆるマイナンバーに何でもひもづいている。具体的には、出生時の記録、通った学校、病院での保険履歴など、すべてのことが個人番号にひもづけられて、政策立案に活用できる制度になっています。一方、日本の場合、政府による監視への懸念が強すぎて、マイナンバーは徴税など非常に限定的な目的にしか使えません。当然、より質の高い政策を立案するための研究目的でも使えない。データが重要だという意識が低いため、データを利用しにくい制度になってしまっているのです。
たとえば、所得格差について知りたいときに、アンケートで「あなたの年収は?」なんて雑な質問をしなくても、徴税データが活用できれば、正確な状況を分析することができます。しかし法律上、そういう使い方は認められていません。
さらに、今回のコロナ禍で、デジタル化の遅れがはっきりと可視化されました。個人の情報にまったくアクセスできないので、補助金をスピーディに振り込むことができない。ここにも、データを重視しない日本のネガティブな面が表れていると思います。
――山口さんは、内閣府の「コロナ下の女性への影響と課題に関する研究会」に参加されています。そこでもデータの不足を感じられたことはありましたか。
山口 たとえば、シングルマザーに注目する政府統計って無いも同然です。研究会で労働力調査のデータを出してもらったんですが、失業率といっても年齢別や男女別ぐらいの分類しかない。コロナ禍のなかで、シングルマザーが経済的に大変な状況にあることはさまざまなメディアが指摘しているのに、データで把握できるようになっていないわけです。
労働力調査が失業率の算出を目的としていることは法律で決まっていますが、それを超えて、必要な支援や政策の質を上げることにも使えるようになってほしいし、官僚の方にもそういう意識を持ってもらいたいですね。
――データを適切に使うことで、誰にどういう支援が必要なのか、把握しやすくなるわけですよね。
山口 そうです。個人情報を守ることも大切ですから、要はバランスの問題だと思うんです。中国のような状況を見て、個人データをもとにした国家による監視を怖く感じるのは正常な感覚ですが、一方で、データの利活用を完全にあきらめてしまうと、今回の日本のように、必要な支援がろくにできなくなってしまう。これからは、その両極に振れないかたちで、適切なバランスを探していく必要があると思います。
『子どもの脳を傷つける親たち』は、経済学では扱えない「なぜ」を教えてくれる
――最後に、オススメのNHK出版新書を教えていただけますか。
山口 友田明美さんの『子どもの脳を傷つける親たち』です。私も子どもの発達の研究をしたので、興味をもって読ませてもらいました。
経済学では社会という大枠の中で何が起こったかというのを語ることは守備範囲ですが、親の育て方が子どもの発達にどのような影響を及ぼすのかについては、「なぜ」が問えないんです。
それに対して、この本は、たとえば「自分を抑制するための脳の領域が縮小して、我慢ができなくなってしまう」といったような細かいメカニズムが具体的に書かれてある。
保育の議論は、友田先生のように身体の中で起こっていることと、個人を超えて社会全体で何が起こっているかという社会科学的な議論の両輪が必要です。その意味では、僕が書いた『「家族の幸せ」の経済学』と一緒に読んでもらえると、保育についての理解が深まると思います。
――今後、出版を予定している本はありますか。
山口 残念ながら、いまはないんです(笑)。本は自分の研究をベースにしたいので、ここしばらくは研究の時期になると思います。研究という点では、早生まれの影響についての分析を論文にし、いくつかのメディアで取り上げてもらいました。その要約は、RIETI(独立行政法人経済産業研究所)のサイトに掲載されています。「生まれ月がスキルやスキル形成に及ぼす影響」で検索してもらえれば読めると思います。こうした教育関係の研究が積み上がったら、どこかで本にしたいですね。
――楽しみにしています。今日はどうもありがとうございました。
*取材・構成:斎藤哲也/2021年7月9日、東京大学本郷キャンパス研究室にて
プロフィール
斎藤 哲也(さいとう・てつや)
1971年生まれ。ライター・編集者。東京大学文学部哲学科卒業。ベストセラーとなった『哲学用語図鑑』など人文思想系から経済・ビジネスまで、幅広い分野の書籍の編集・構成を手がける。著書に『もっと試験に出る哲学――「入試問題」で東洋思想に入門する』『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』がある。TBSラジオ「文化系トークラジオLIFE」サブパーソナリティも務めている。
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