連載 ロジカルコミュニケーション入門――【第4回】白黒論法に注意しよう!
●論理的思考の意味
本連載【第1回】「論理的思考で視野を広げよう!」では、「論理的思考」が「思考の筋道を整理して明らかにする」ことであると解説した。たとえば「男女の三角関係」のように複雑な問題であっても、思考の筋道を整理して明らかにしていく過程で、発想の幅が広がり、それまで気づかなかった新たな論点が見えてくる思考法である。
【第2回】「論理的思考で自分の価値観を見極めよう!」では、「ロジカルコミュニケーション」によって新たな論点を探し、反論にも公平に耳を傾け、最終的に自分がどの論点を重視しているのか、自分自身の価値観を見極めることの意義を説明した。
【第3回】「論点のすりかえは止めよう!」では、「ロジカルコミュニケーション」の大きな障害になる10の代表的な「論点のすりかえ」について具体的に紹介した。日常的にできる限り論点のすりかえを止めるだけでも、コミュニケーションはかなりスムーズで建設的になるはずである。
●「白黒論法」とは何か?
今回のテーマは「白黒論法」である。
一般に、物事をはっきりさせるために「白か黒か決着をつけよう」などということがある。相撲には「星取表」があるが、これは勝てば「白星」、負ければ「黒星」が書き込まれる表である。類似した表は、囲碁や将棋など多くの対戦型ゲームで用いられている。
このように、結論を白か黒かのどちらかに二分させる思考法を「白黒論法」あるいは「二分法」と呼ぶ。
ところが、実は「白か黒しかない」という思考法は、論理的には完全な誤りである。というのは、「白」の反対は「黒」ではないし、「黒」の反対は「白」ではないからだ。もっと正確に言うと、「白」の否定は「白ではない」であり、「黒」の否定は「黒ではない」である。
それにもかかわらず、「白か黒しかない」と判断を誤って二分させてしまうのが「白黒論法」である。霊感商法などの詐欺師は、この錯覚を利用して、相手に「白」か「黒」しか選択の余地がないように誘導することが多い。あるいは、自分自身で「白か黒しかない」と思い込み、自分を追い込んで苦しみ悩む完全主義的な人もいる。
「白黒論法」の背景にある論理的な構造を理解して、「白黒論法」の罠に陥らないようにしてほしい。
●高層ビル建設計画に賛成か反対か?
日常的な事例で考えてみよう。X氏の住む家の近所で、40階建て高層ビルの建設計画が持ち上がっている。ビルが完成すれば、スーパーやカフェなどの店舗が入るため、近隣住民の暮らしが便利になると宣伝している。そのため、このビルの建設を楽しみにしている住民も少なからず存在する。
しかし、高層ビルが建つと、多くの住宅で太陽光が遮られ、日陰になってしまう。日当たりが悪くなれば、洗濯物が乾き難く、光熱費が嵩み、健康上の被害が出る可能性もある。そのため、一部の近隣住民たちは、建設中止を求める反対運動を起こそうとしている。
X氏は、ちょうど高層ビルの陰に隠れる地域に住んでいる。そこでX氏は、高層ビルによって太陽光が遮られる際のデメリットと、高層ビルによって生活が便利になるメリットを天秤にかけて、「自分は、高層ビルの建設に、賛成と反対のどちらの立場をとるべきか?」と悩んでいる。
ここでX氏の考えていることに、何かおかしな点はあるだろうか?
X氏は、建設計画に「賛成か反対か」のどちらかを選ばなければならないと考えている。このように「賛成」か「反対」のどちらかしかないと想定している時点で、すでにX氏は「白黒論法」に陥っているのである。
実は、論理的には、X氏には2つではなく4つの選択肢がある。なぜなら、X氏は「建設に賛成するか、しないか」と「建設に反対するか、しないか」のそれぞれを選択できるため、結果的にX氏の選択肢は、これらを組み合わせた4通りになるからである。
「ケース1」は、「賛成する・反対する」場合である。たとえばX氏は、建設自体には賛成するが、建設計画の具体的な内容には反対しているとしよう。もし40階建てビル計画が35階建てビル計画に変更されれば、X氏宅は太陽光が遮られる心配がなくなり、問題自体が解消するかもしれない。
「ケース2」は、「賛成する・反対しない」場合で、いわゆる一般の「賛成」を指す。
「ケース3」は、「賛成しない・反対する」場合で、いわゆる一般の「反対」を指す。
「ケース4」は、「賛成しない・反対しない」場合である。たとえば、X氏が太陽光にも新店舗にも興味がなく、高層ビルの建設計画そのものに関心がないような場合である。
X氏が近隣住民から「賛成か反対か決めてください」と迫られると、「ケース2」か「ケース3」から選択しなければならないと勘違いしがちである。しかし、現実問題はそれほど単純ではない。ここで見落としがちな「ケース1」と「ケース4」が存在することに気づいてほしいわけである。
●「命題」と「真偽」の意味
論理学で使う基本的な用語に「命題(proposition)」がある。一般に「命題」とは、「正しい(真)」か「正しくない(偽)」か、どちらかを判断することのできる事実を指す。
たとえば「1+1=2」は「真の命題」であり、「1+1=3」は「偽の命題」である。「2023年1月1日は日曜日である」は「真の命題」であり、「2023年1月1日は水曜日である」は「偽の命題」である。「日本の首都は東京である」は「真の命題」であり、「日本の首都は博多である」は「偽の命題」である。
ここで、「命題」とは、文章や発言ではなく、真か偽を決定できる事実そのものであることに注意してほしい。
たとえば、「2001年1月1日は月曜日である」という事実がある。この事実は、「21世紀最初の元日は月曜日である」と言い換えることができるし、日本語でなく英語やフランス語やドイツ語で表現することもできる。したがって、論理学の世界では、その煩雑さを避けるために、「P」のような記号で「2001年1月1日は月曜日である」という事実そのものを表現する。
日常会話の多くの文章や発言は、「命題」を表現しない。たとえば、「あなたの名前は何ですか?」のような疑問文、「なんて美しい花だろう!」のような感嘆文、「コーヒー持ってきて」のような命令文は、どれも真か偽を決定できる事実を表現していないから、命題ではない。「こんにちは」や「さようなら」の挨拶語も、コミュニケーションを円滑にするために用いられるが、これらも真偽とは無関係なので命題ではない。
何を基準に真と偽を定めるのだろうか。ここでは、命題を表す文章や発言が事実と一致すれば真であり、事実と一致しなければ偽であるという「真理の対応理論」と呼ばれる論理学の考え方を適用している。
たとえば「2001年1月1日は月曜日である」という命題は、カレンダーで真偽を確認できるし、「ディズニーランドは舞浜にある」という命題は、実際に舞浜に行ってみれば真偽を確認できるだろう。
それでは、「火星の地下にダイヤモンドが存在する」という文は、命題を表しているだろうか?
現時点で人類は火星に到達していないし、火星の地下を採掘したこともない。したがって「火星の地下にダイヤモンドが存在する」が真なのか偽なのか、現時点では誰も知らない。ただし、これが事実であるか否かは、いずれ将来には明らかにされると考えられる。というわけで、この文も命題を表しているとみなすことができる。
●「命題論理」と「排中律」の意味
「命題」の関係を研究する学問分野を「命題論理」と呼ぶ。たとえば、Pが命題であれば「Pではない」も命題である。このとき、Pが真ならば「Pではない」は偽であり、Pが偽ならば「Pではない」は真であることも明らかだろう。
また、PとQが命題であれば、「Pであり、かつQである」も命題である。この命題は、Pが真であると同時にQが真であるときに限って真であり、それ以外の場合は、偽と定義される。
同じように、PとQが命題であれば、「Pであるか、またはQである」も命題である。この命題は、Pが偽であると同時にQが偽であるときに限って偽であり、それ以外の場合は、真と定義される。
命題論理の最も基本的な法則の一つに、Pが命題であれば、「Pであるか、Pでないかのどちらかである」という「排中律」と呼ばれる法則がある。
たとえば、Pが「今日は木曜日である」という命題であれば、「今日は木曜日か木曜日でないかのどちらかである」という排中律が常に成立する。Qが「日本の首都は東京である」であれば、「日本の首都は東京か東京でないかのどちらかである」という排中律が常に成立する。排中律のように常に成立する命題のことを、論理的に「恒真」な命題と呼ぶ。
●男か女か?
もう十分理解していただけたと思うが、ここでもう一度読者に考えていただこう。
Yが人間であるとする。「Yは男か女のどちらかである」という命題は、常に成立するだろうか?
答えは「ノー」である。排中律が成立するのは「PまたはPでない」場合であって、「PまたはQである」のように異なる二つの命題を組み合わせると、論理的に恒真となるとは限らない。
つまり、「Yは男か男でないかのどちらかである」あるいは「Yは女か女でないかのどちらかである」は論理的に恒真だが、「Yは男か女のどちらかである」は論理的に恒真ではないのである。
よくある質問に、ヒトは性染色体がXY型かXX型であるかによって生物学的に「男性」と「女性」に区別されている以上、男でなければ女に決まっているではないか、というものがある。
たしかに、男と女をそのように生物学的に定義付けることは可能であり、他にもさまざまな方法で男と女を定義することができるだろうが、事前にそのような前提が与えられていない以上、それは一つの勝手な思い込みだということになる。
論理的には、P=「Yは男である」とQ=「Yは女である」は、それぞれが異なる命題であり、これらを組み合わせると、次のように4通りの可能性が生じる。
「ケース1」は、Yが男であると同時に女であることを示している。実際に、Yが両性具有者や性同一性障害者だとすると、性染色体や性器形状による生物学的特性だけで単純に男か女かを判別することはできない。
「ケース2」は、Yが男であり女ではない場合で、いわゆる一般の男性を指す。
「ケース3」は、Yが男ではなくて女である場合で、いわゆる一般の女性を指す。
「ケース4」は、Yが男でなく女でもないことを示している。性別の確定する前の胎児をヒトとみなせば、このケースに相当する。あるいは、古代中国の宦官のような実例を考えることもできる。宦官は去勢されることによって男性機能を失っているが、かといって女性というわけでもない。
要するに、「男か女か?」のような選択を考えると、「ケース2」と「ケース3」の二者択一しかないと思い込まれがちだが、論理的には「ケース1」も「ケース4」も存在するわけである。この事例の構造は、「高層ビル建設計画に賛成か反対か?」とまったく同じである。
社会で最も基本的に用いられている「イエスかノーか」という二分法も、論理的に必ずしも成立しないことは明らかだろう。この場合、「イエスかイエスでないかのどちらかである」あるいは「ノーかノーでないかのどちらかである」は論理的に恒真だが、「イエスかノーのどちらかである」は論理的に恒真ではない。
ここで見失いがちな「イエスでもノーでもある」選択肢と「イエスでもノーでもない」選択肢を考察することによって、局面に新たな展開が浮かび上がることも多い。このように論理的にすべての可能性を考慮することによって、むしろ見解が広がることに気づいてほしい。
●詐欺の論法
逆に、実際には4通りの選択肢があるにもかかわらず、「白黒論法」により2通りしかないように思い込ませて、最終的に思い通りの方向に誘導する一種の「詐欺の論法」もよく目にする。
たとえば、「戦争を賛美しなければ非国民である」や「私と結婚してくれなければ死んでやる」などの二分法は、典型的な詐欺の論法である。
仮に新興宗教団体の信者が近づいてきて、「あなたは今のままでは不幸になるが、この数珠を持っていれば救われる。だから、この数珠を買いなさい」と言ってきたら、どうするだろうか。
次のように問題を整理してほしい。
「私は、数珠を買うか、買わないか、どちらかしかない。また、不幸になるか、ならないか、どちらかしかない。ここには命題が2つあるから、組み合わせは4通りになる。
この信者は、私が数珠を買えば不幸にならないが、買わなければ不幸になると二者択一を迫っている。しかし、論理的には、私が数珠を買っても不幸になるケースと、数珠を買わなくとも不幸にならないケースがある。そして、私は数珠を買わなくとも不幸にならないつもりだから、数珠は買わない!」
このように論理的に整理して考えれば、この信者の主張する二者択一が間違っていることは明らかだろう。あまりにも簡単な「引っ掛け」なので驚かれるかもしれないが、これが実際に霊感商法などのプロの手にかかると、顧客は次の表の「ケース2」か「ケース3」の2つの選択肢しか見えないようになり、結果的に「不幸にならないためには数珠を買うしかない」という信者に都合のよい結論に誘導されてしまうのである。
もちろん、このような状況において、最終的に数珠を買うのも買わないのも、あるいは新興宗教を信仰するのもしないのも、本人の自由である。ただし、論理的に4つの選択肢があることを明確に理解した上で「ケース2」を選択する場合と、2つの選択肢しかないと誘導され、あるいは脅されるままに「ケース2」を選択する場合では、まったく選択の意味が異なることに注意してほしい。
●投資コンサルタントの詐欺
「二分法」を用いた有名な「投資コンサルタントの詐欺」の実話を紹介しよう。
ある投資コンサルタントが、商品先物取引で大金を動かしている個人投資家100人のリストを手に入れて、ひたすら電話をかけた。彼は、最初から投資を持ちかけたりせずに、単に自分の予想を聞いてほしいとだけ言って、半数の50人には大豆が騰がる、半数の50人には下がると伝えた。
この種の「二分法」を用いれば、常に半数のグループに対しては、予想を当てたという結果を「論理的」に導くことができる。しかも、その出発時点の母集団の人数が多ければ多いほど、何度でも続けて当たる人数を残すことができるわけである。
その翌週、彼は、大豆を当てた50人の投資家に電話して、今度は半数にはトウモロコシが騰がる、半数には下がると伝えた。あくまで謙虚で控え目に、自分の調査能力を理解して、ゆっくり時間をかけて判断してほしいとだけ伝えておく。
さらに翌週、彼は、大豆とトウモロコシを当てた25人の投資家のうち、半数には原油が騰がる、半数には下がると言った。この時点で12~13人は3回続けて的中予想を聞く結果となり、このコンサルタントを信用し始める投資家も出てくる。そこで彼は初めて、自分に金を預ければ、運用して何倍にもできますが、と持ちかけるわけである。
ここまで完全的中している予想を聞いてコンサルタントの能力に驚き、とくにチャンスを見送っていた場合は損をしたという心理状態に陥っている個人投資家は、思い切った金額を彼に預けて増やしてもらおうかと考えるようになる。
最後の仕上げに、彼は、大豆とトウモロコシと原油を続けて当てた12~13人のうち、半数には砂糖が騰がる、半数には下がると言った。このように「二分法」を単純に繰り返すだけで、6~7人は4回続けて的中予想を聞くことになり、彼らはこのコンサルタントを全面的に信用して大金を預ける。
そして、実際に、この詐欺師は、数名の個人投資家から数百万ドルを手に入れた瞬間、そのすべてを海外に持ち逃げしてしまったという話である!
●「白黒論法」の危険性
最初に述べたように、完全主義的な傾向がある人は「白黒論法」に陥りやすいので、とくに注意が必要である。「勝つか負けるかしかない」「善か悪しかない」「いい人か悪い人しかいない」などは、すべて論理的に間違った「白黒論法」である。
たとえば、アスリートが「この大会で優勝できなければ、これまでの努力は水の泡だ」と考えるのも、一種の「白黒論法」である。冷静に考えれば、「優勝できなかったとしても、これまでの努力は水の泡にはならない」はずだが、それが見えなくなってしまうのである。
また、学生に対する教師や、子どもに対する親が「白黒思考」を強いていることはないだろうか。たとえば、テストで100点満点の場合のみ褒められ、100点でなければ非難される子どもは、テストで100点満点でなければ失敗だという「白黒論法」に陥ってしまう。「100点を取れなくても失敗ではない。次でがんばってみよう」と認識させて励ます姿勢が大切だろう。
ついでに、カタギの世界からヤクザの世界に足を踏み入れる人間は、「親子盃」の儀式を行う。そこで「実の親があるにもかかわらず、今日ここに親子の縁を結ぶからには、親が白といえば黒いものでも白と言い……」という口上を述べる。
つまり、親分が白と言えば白、黒と言えば黒になるわけで、子分は何も考えずに絶対服従する。これはヤクザ社会に限らず、教祖に絶対服従する信者や、社長に絶対服従する会社員も、同じように自分からロボットになっているわけである。
このように何かを妄信して絶対服従する場合は、「白黒論法」以前の「思考放棄」である。こうなると、もはや「論理的思考」以前の段階と言わざるを得ない。
●ロジカルコミュニケーションの第4歩は白黒論法に陥らないこと![第1歩~第3歩は、本連載第1回~第3回参照]
さて、上記で述べた「白黒論法」について、読者も具体例を探してみてほしい。よく考えてみると、さまざまな局面で読者自身が自分でも気がつかない内に「白黒論法」に陥っている可能性に気付くはずである。
相手が二分法を押し付けてきた場合、命題を整理すると実際の組み合わせは2通りではなく4通りであることが多い。この点を理解するだけでも、スムーズで建設的なロジカルコミュニケーションを行うことができるはずである。
参考文献
高橋昌一郎『哲学ディベート』NHK出版(NHKブックス)2007年
高橋昌一郎『東大生の論理』筑摩書房(ちくま新書)2010年
高橋昌一郎『自己分析論』光文社(光文社新書)2020年
高橋昌一郎『実践・哲学ディベート』NHK出版(NHK出版新書)2022年
イラスト・題字:平尾直子
高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)
國學院大學教授・情報文化研究所所長
専門は論理学・科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『実践・哲学ディベート』(NHK出版新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。
動画【ロジ研#3】ロジカルコミュニケーション入門【第3回】のご案内
本連載の内容について情報文化研究所の研究員たちがディスカッションしています。ぜひご視聴ください!
関連書籍