日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――「日比谷で本を売っている。〔ビールと生きがい〕」新井見枝香
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日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――「日比谷で本を売っている。〔ビールと生きがい〕」新井見枝香

※当記事はエッセイ連載の第16回です。第1回から読む方はこちらです。

 職場の仲間と、仕事終わりにクラフトビールを飲みに行こうと約束してから、数か月が経った。飲食店の時短営業が解除されないと、我々はラストオーダーに間に合わない。ぎりぎり閉店前に駆け込んだとて、アルコールの提供が終わってからでは、揚げたての唐揚げもむなしいだけである。
 久しぶりに何の予定もない休日、溜まっていた洗濯物を片付け、部屋を掃除したところで、散歩に出掛けた。明るいうちに歩く地元は新鮮だ。古い蕎麦屋の暖簾が揺れるのを初めて見たし、いつも早足で通り過ぎる不気味な公園は、サーカスの夜明けみたいに白々しい。うろうろしていると、久しぶりに営業している、お気に入りの居酒屋が目に入った。自粛期間中に3ヵ月ほど店を閉めていたが、いつの間にか、時短で営業を再開したようだ。仕事を終えて帰る頃には閉店しているから、気が付かなかった。店に入ると先客はおらず、大将と女将がテレビを見ている。以前いた若い男性従業員の姿がないが、辞めたのだろうか。3か月もアルバイト先が休みになったら、さすがに別の仕事を探すにちがいない。まずはビール、そして季節のメニューからブリ刺と、定番の鳥白レバー刺をオーダーする。先に運ばれてきたブリは、見るからに切り口がダレていた。たまたまかと思ったが、レバーも色味が悪い。お客が来なければ食材が回転しないし、いつ明けるとも知れないこの状況下では、気持ちの張りを保てないのかもしれない。
 もしこの店が大将の生きがいだったとしたら、コロナのせいで店がつぶれた時に「生きがいを奪われた」と感じるだろう。コロナ渦では、そうして災害のように生きがいが奪われ、生きる気力を無くす人が絶えない。

『「生きがい」と出会うために 神谷美恵子のいのちの哲学』は、精神科医である神谷美恵子が、研究し考察した「生きがい」について、著者の若松英輔氏が今の私たちに向けて、わかりやすくまとめ直した趣の本である。東日本大震災を経て、コロナ危機のまっただ中にいる自分が「生きがい」について考え直すとき、神谷美恵子の言葉は力強い道しるべとなる予感がした。
《生きがいはどこにも売っていません。また、誰かからあてがってもらうこともできません。》
「生きがい」は己の内から湧くという。それなら誰かが奪うことなど、そもそもできやしないのではないか。生きがいは「奪われた」のではなく、「見失った」状態なのだ。
 私はあの居酒屋で、残念な刺身を出されたことが悲しかったのではない。勝手に大将の生きがいが奪われることを想像して、気持ちが暗くなったのだ。
 それは私自身、同じような境遇だからでもある。勤め先の本屋にコロナ前のような活気は戻らず、収束するまでは、イベントも開催できそうにない。もう一つの職場であるストリップ劇場も、営業時間は短縮のままで、客足も伸びない。このままでは、職業自体が消滅してしまうかもしれない。コロナに私の生きがいが奪われることを恐れていた。だが、見失うだけだとしたら、またしっかり目を開いて、探せばいいだけではないのか。
 もちろん、あきらめるということではない。仕方がないと思え、という話でもない。今はじっと待つ時だ。闘うべきところは闘い、ぎりぎりまでしがみついてもいいのではないか。
 今のところ、職場の仲間と飲みに行ける目処はたたないが、今は無理せず待つ時なのだ。それは、美味しいビールだけではない。堂々と飲めるようになった頃に、自分は何をするかを考え、準備するということなのだ。

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プロフィール
新井見枝香(あらい・みえか)

書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。
*新井見枝香さんのTwitterはこちら
*HMV & BOOKS HIBIYA COTTAGEのHPはこちら

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