圧倒的な軍事力差になすすべはないのか――『総理になった男』中山七里/第19回
「もしあなたが、突然総理になったら……」
そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。台北での騒乱を受け、東アジア諸国が中国と台湾の一触即発のムードに懸念を示すなか、中国は内政不干渉の理屈を持ち出し、干渉する国々に対してきな臭い脅しを投げかけるのであった――
*第1回から読む方はこちらです。
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中国外交部がほとんど恫喝とも言える声明を発表すると、東アジア各国をはじめ西側諸国は一斉に反発したものの、具体的な制裁にまで言及する国はなかった。かの国の政治的声明が多分に観測気球の役割をなしていることを熟知しているため、各国の対応もまた様子見の体に留まっていたのだ。
こうした情勢に対して、慎策が意外に思えるほど日本国内の反応は鈍かった。メディアがどれだけ台北での騒乱を取り上げても、国民の多くは対岸の火事くらいにしか捉えていないようだった。
海を隔てた地域の騒乱は文字通り対岸の火事だ。陸続きではないという安心感が危機感を麻痺させているとしか思えない。だがひとたび台湾有事となれば米中の対立が危険水域に達するのは火を見るよりも明らかだ。そうなれば否応なく日本を含めた周辺諸国も二国間の争いに巻き込まれてしまう。慎策は中台の動向を横目に見ながら、日本の国防に頭を悩ませる。
慎策と風間と大隈は防衛大臣の本多を執務室に呼び、意見を聞くことにした。台北騒乱に悩んでいるのは慎策と同等かそれ以上らしく、本多の顔には懊悩が深く刻まれている。
「本多さんはこの度の台北騒乱をどう見ますか」
「騒乱ではなく有事ですよ、総理。かつてこれだけ中台の緊張が高まったことはありません。先日も陸海空の幕僚長と緊急事態に備えて協議をしたところです」
「台湾有事が日本に実害を及ぼすシミュレーションですか」
「総理もご承知の通り、台湾が中国に統一されれば人民解放軍が太平洋に出やすくなります。アメリカとしては何としてでも、その状況を避けたい。要衝地としての台湾を死守するためには軍事行動も辞さないでしょう」
ここ数年、慎策は国内政治に翻弄され続けてきた。難題山積の中、どうにか乗り越えてきたものの、一方で外交については手薄になった感が否めない。勉強不足と経験不足が祟り台湾有事が深刻な事態であるのは感覚的に理解しているが、具体的な危機として捉えている訳ではない。
「最近、アメリカの民間シンクタンクが台湾有事を想定した軍事シミュレーションを公開しました。アメリカは台湾を護るため、空と海に作戦を展開します。作戦行動では日本政府が在日米軍基地の使用を許可することが前提となっており、実際に在日米軍基地が作戦に使用された場合は中国が日本を攻撃する可能性が高くなる。それがシミュレーションの結果です」
いったん戦端が開けば、米軍基地を抱える嘉手納や岩国が標的になるということか。そのシナリオならば充分に可能性がある。慎策は念のために訊いてみる。
「アメリカが在日米軍基地の使用を打診してきたら、日本は無下に断る訳にはいかないでしょうね」
「国内世論が反発するでしょうが、新安保法制がある以上受諾せざるを得ません」
新安保法制には集団的自衛権の概念が盛り込まれている。国際法上の集団的自衛権とは、「一国に対する武力攻撃について、その国から援助の要請があった場合に、直接に攻撃を受けていない他国も共同して反撃に加わるための法的根拠」だ。日本が攻められたら助けてくれ、しかしアメリカが支援を必要とした時には拒絶する。そんな虫のいい話が通用するはずもない。
「中国が日本を攻めてきた場合、自衛隊は侵攻を阻止できるのですか」
問われた本多は一層懊悩の色を濃くする。
「総理は人民解放軍の戦力について、どこまでご存じなのでしょうか」
「世界第三位の軍事力というだけで詳細は特に把握していません。しかし自衛隊だって第八位と聞きます」
「日本の場合、正確には専守防衛であるため軍事力ではなく防衛力と呼称しますが、単純な戦力だけではなく経済力と兵器の内容、そして兵士の数の総合力での順位づけです」
本多は携えていたファイルから文書を取り出した。
「これはイギリスのシンクタンクであるIISS(国際戦略研究所)による日中の主要戦力を比較したものです」
慎策たちはその比較表を目にして一様に言葉を失う。
日本/中国
予算 5兆円/21兆円
現役兵力 24万人/203万人
陸軍師団・旅団 9個・6個/5個・74個
空軍保有機 534機/2367機
防空ミサイル 120発/846発
主要水上戦闘艦 51隻/80隻
潜水艦 22隻/59隻
あまりの落差に眩暈を起こしそうになる。三位と八位の差がこれほどまでとは想像もしていなかった。
「しかし本多さん。中国のデータは不正確ですよね」
「おっしゃるとおり、中国は軍事力に関する詳細なデータを公表していません。一例を挙げれば、軍事予算の中に海外からの高額な軍事装備品の購入費などは含まれていません。同様に軍事研究のような関連する研究費も含まれておらず、その後のGDPの伸び率や物価上昇率を鑑みれば、その差は更に開いていると考えざるを得ません」
どこか諦念めいた口調はそのまま彼我の戦力差を物語っている。
「防衛大臣でありながらこれを申し上げるのは忸怩たるものがありますが、中国が本気で攻めてきた場合、自衛隊の現戦力では何日持ち堪えられるかというレベルの問題になります。無論、実際には米韓の支援で対抗しますが、自衛隊単独の戦力では心許ないというのがわたしの結論です」
本多が退出した後には重い沈黙が流れた。慎策はともかく、風間と大隈までもが日中の絶望的な戦力差に言葉を失くしたのは意外だった。
沈黙を破ったのは大隈だ。
「かの国の軍事力が世界第三位となって久しいが、具体的な数字を突き付けられるとさすがに凹む」
珍しく沈鬱な表情をこちらに向けて言う。
「よもや中国と一戦交える気はないだろうな、総理」
「まさか」
「この国を戦禍に巻き込むことがあってはならない。在日米軍基地の使用不許可を含めて閣議にかける必要がある」
慎策が応える前に風間が割って入る。
「官房長官は台湾を見捨てろと仰るのですか」
大隈は一拍の空隙の後、「そう取られても構わん」と答えた。
「確かに台湾は友人だ。しかし友人を助けるために日本とその国民を戦禍に晒すことは断じてあってはならない。政治は国際社会のためにあるのではない。自国の安全と利益のためにあるのだ」
「しかし官房長官。台湾が中国に吞み込まれたら、間違いなく民主主義は蹂躙されます。日本は専制主義を押し進める国々と向かい合うことになりますが、アメリカの要請を拒絶すればほとんど孤立無援でそれらと対峙する羽目になりかねない」
「風間先生の言うことは充分に分かっている。しかし、今は目の前にある危機を回避するのが先決だろう」
「やっぱり、あなたは親中派なんですね。新安保法制に逆らってでも、中国の顔色を窺おうとしている」
「聞き捨てならん。今の発言を取り消せ」
大隈が色をなして抗議する。
「いくら参与でも言って良いことと悪いことがある。わしは中国と一戦交えるべきではないと言っているだけで、かの国の片棒を担ぐつもりは毛頭ない」
「台湾有事を見て見ぬふりをするのは、立派に片棒を担ぐ行為ですよ」
先に大隈が椅子を蹴って立ち上がり、これに応えるように風間も腰を上げる。二人は今にも摑みかからんばかりの勢いだ。
「二人ともやめてください」
慎策は二人の間に割って入る。理屈では風間に、腕力では大隈に敵うはずもないが、二人が胸倉を摑み合う光景は見たくなかった。
「今は閣内で争っている場合じゃない。そんなことはわたしが言わなくてもお分かりでしょう」
一触即発だった二人は、やがて気まずそうな顔で互いに距離を取った。
「おそらく閣議でも意見が百出するでしょう。お二人には交通整理の役割を担ってほしいと考えています。今から角突き合わせないでください」
外に台湾有事、内にはトロイカ体制の亀裂。内憂外患とはこのことだ。
数時間後の閣僚会議を前に、慎策は股裂きされるような気分だった。
中国と台湾の緊張状態は緩和するどころか一時間単位で緊迫の度合いを増していく。黄代表の予想通り、中国は大掛かりな情報戦を仕掛けてきたのだ。
『アンケートを取ったところ、台湾市民の八割は統一を望んでいる』
『中国公安部は台湾総統の汚職事実を把握している』
中国発と思しき偽情報が雨嵐のごとくSNSに投稿される。その数は一日に何と数万通を超え、事情を知らない者が読めば真実と信じてしまう物量だった。
この偽情報に対して台湾が取った対処法は驚くほど毅然としたものだった。決して偽情報の応酬に走ることはせず、各々の投稿に効果的なファクトチェックをかけたのだ。
台湾のデジタル担当大臣はIQ180以上の天才と謳われ、アメリカ外交誌が毎年発表する「世界の頭脳100人」にも選出された才媛だ。彼女の採った手法は極めて正攻法であり、中国発の膨大な偽情報はわずか二日間でことごとくフェイクニュースとして認知されるに至った。かくして中台の認知戦は中国側の惨敗に終わる。
だが中国側がそれで矛を収める気配は微塵もなかった。彼らが次に仕掛けたのが、台湾の政財界およびインフラに対するサイバー攻撃だった。
その日、台北市官公庁のWEBサイトには合計一万五千ギガバイトに上るアクセスが集中した。うち外交部のサイトには中国やロシアのIPアドレスから一分間に八百五十万回のアクセスが送られ、サーバーは一時的にダウンした。
同日、TWSE(台湾証券取引所)や原子力発電所も同様のサイバー攻撃に見舞われ、稼働停止を余儀なくされた。だが台湾政府が以前よりサイバー攻撃に備えたセキュリティと復旧作業のマニュアルを確立させていた成果が奏功し、騒ぎは一日で収束を見せた。
総統府はサイバー攻撃を仕掛けたIPアドレスの多くが中国発である旨を公表する。海外メディアはその発表を受けて中国外交部にコメントを求めたが、件の報道官の弁は「政治問題ではないので把握していないし、把握するつもりもない」という木で鼻を括ったような内容だった。報道官は終始冷静な態度を示していたものの、海外メディアの多くは「サイバー攻撃がさほどの打撃を与えられなかったために虚勢を張っている」と捉えていた。
この段に至っても台湾側は報復行動に出る軽挙に走らず、ひたすら事態の収拾とその詳細な経緯を内外に発信することに努めた。風間によればこれは賢明な政治判断であり、大国と正面切って対決するような愚は犯さず、情理で国際社会を味方につける正攻法とのことだった。
だが台湾総統府が冷静に対応すればするほど中国政府は態度をより苛烈にさせていく。
台北騒乱から二度の閣議を経ても、閣僚たちの意見は一つに纏まらなかった。そして三度目の会議も同様だった。
新安保法制に準ずるべきと主張するのは本多防衛大臣をはじめとして加賀見総務大臣、野平外務大臣、平田法務大臣、そして風間参与。対して在日米軍基地の使用を認めるべきではないと反論するのが大隈官房長官、葛野農水大臣、海道文科大臣、村雲財務大臣といった面々だ。更には槙田厚労大臣のように、今しばらく様子見をしようという者もおり、議論はこの三派に分かれたまま平行線を辿っていた。
「新安保法制に従わなければ、今後アメリカとの協調を図れなくなる。それでいいと本当に考えているのか」
「いや、今こそ日米安保そのものを見直す時期じゃないんですか」
「ここで台湾を見捨てることは、中国政府の覇権主義を肯定することになります」
「ままま。双方ともヒートアップしているようですが、まだ中台とも軍事的な動きは見せていません。ここはA案とB案を出しておいて、米中政府の動向を確認した上で決定した方が間違いが少ないのではありませんか」
「何にせよ、自衛隊が米中の戦争に加担することは絶対に避けるべきです。専守防衛こそが自衛隊の存在意義なのですから」
「いや、もう自国の利益保持だけに汲々としている時代は終わった。今後は米中の冷戦時代が始まる。日本も旗色を鮮明にしなければならんでしょう」
「違いますよ。冷戦状態になるからこそ、どちらにも与することのない独自路線を開拓するべきなのですよ」
慎策が観察する限り、新安保法制に拘泥する閣僚は古参の親米派議員が目立ち、台湾擁護に慎重なのは親中派でいくぶん左寄りの議員という印象だった。普段は戦争反対と人権擁護を叫ぶ左派が、こと中国政府が当事者となった途端に台湾の自由に両目を瞑る有様は皮肉としか言いようがない。
議論百出のさ中、思い出したように大隈がこう言った。
「まだ肝心要の総理の意見を聞いておらん」
一斉に閣僚たちの視線が慎策に注がれる。総理の言葉を鶴の一声にでもしようというのか、彼らの目には期待の色が浮かんでいる。誤魔化しても仕方がない。慎策は噓偽りのない本音を晒そうと口を開く。たとえ理想論に過ぎると嗤われても知ったことか。
「もし台湾国民の過半数が独立を望んでいて、中国政府が武力で制圧しようとしているのであれば見過ごすことはできません。ここで見て見ぬふりをすれば、日本は長年共助してきた友人を見放した国になってしまいます」
しかし総理、と大隈が重ねて訊く。
「裏切り者と呼ばれたくないがために自国民を危険に晒すのは、とても国益に適っているとは言えん」
「もちろんです。だからこそ台湾の主権を擁護する一方で、中国政府が矛を収める外交を考えなければなりません」
「中台双方を立てると言うのか。どだい無理な話だ」
「無理と決めつけたら何も解決しませんよ」
更に大隈が口を開きかけたその時、会議室に阿部が飛び込んできた。
「会議の最中、失礼します。ついさっき中国政府が台湾海峡付近での軍事演習を発表しました」
途端にその場の空気が動揺と緊張で固まる。阿部がモニターのスイッチを入れ、海外メディアの放送を映し出す。ちょうどCNNがそのニュースを報じていた。
『今回の演習目的は台湾独立分離勢力を叩くことにある』
中国国家主席の顔が大写しになり、同時通訳で演説の内容をなぞっていく。国家主席が中華人民共和国と台湾の統一は民族の悲願であることを説明すると、画面は人民解放軍が湾岸に整列した姿を映し出す。演習とは言え、完全武装の軍隊には実戦さながらの禍々しさが感じられる。
「とうとうやったか」
誰かが独り言のように呟いたが、それはこの場に居合わせた者全員の気持ちを代弁したものだった。単に言葉の応酬やSNSでのやり取りではなく、軍隊を出動させて挑発行為に及んだのだ。中国政府は遂にルビコン川を渡ってしまった。これで中台の決裂は決定的なものとなり、話し合いで解決するチャンスを逸した。また、このままアメリカが指を咥えて見ているはずもない。目には目を歯には歯をではないが、アメリカも何らかのかたちで示威行動に出るとみて間違いない。
「総理。見ての通りだ。もう日和見は通用しない段階に入った。政府として台湾を擁護するかしないかを決めなきゃならなくなった」
大隈の発議に風間が即座に反応する。
「官房長官の仰る通りです。しかし総理、台湾有事がより現実的になった今、現地にいる自国民の安全を図るのが最優先事項かと存じます」
己の教え子が騒乱で負傷させられた風間ならではの発言だと思った。慎策は野平外務大臣の顔を見る。
「外務大臣、今すぐ台湾についての海外安全情報を更新してください」
慎策としては危険レベル3(渡航中止勧告)まで上げるつもりだったが、またも風間が割って入った。
「駄目です、総理。それでは足りません」
短くない付き合いなので、風間の物言いだけで彼が何を求めているかが分かった。
「失礼、言い直します。当面の間、台湾への渡航は危険レベル4(退避勧告)に指定してください」
「よろしいのですか、総理」
「お願いします」
危険レベル4が適用されるのは、ほとんどが紛争地域だ。従って台湾をレベル4に指定するのは、日本政府が台湾を紛争地域に認定したことと同意となる。それが中台両国に、いったいどう受け止められるのか。
「お待ちください、総理」
待ったをかけたのは加賀見総務大臣だった。
「渡航禁止はやむなしと思いますが、在留邦人についての処置はしばらく保留にしてもらえませんか」
これに海道文科大臣が乗った。
「わたしからもお願いです。台湾に留学、あるいは勤務している邦人は相当数います。中には長期滞在を余儀なくされている者もおり、一斉に退去させるというのは無理があります」
風間は何か言いたげにしていたが加賀見たち慎重派の声が大きく、その場で在留邦人の退去命令までには話が纏まらない。
いつしかモニター画面は台湾外交部長の声明の場に変わっていた。
『中国政府の断行した台湾海峡付近の演習は明白な威迫行為であり、国際社会はこれを看過するべきではない。台湾は自由国家として抗議し、演習の即時中止と軍の撤退を求めるものである』
モニター画面越しに両国の緊迫感が伝わってくる。会議室の閣僚たちは咳一つせず、画面を食い入るように見つめている。
これまで戦わせてきた議論がほとんど徒労に終わってしまった瞬間だった。どれだけ白熱した内容だろうが、どんなに卓越した思想だろうが、現実に起こってしまった事変の前では何の役にも立たない。ただ時間を浪費したという無力感が慎策の神経を蝕む。
今はただ台湾海峡の推移を見守るしかなく、慎策を含め閣僚たちは途方に暮れていた。
人々が右往左往していても事態はお構いなしに進行していく。事変とはそういうものだ。人民解放軍が台湾海峡付近で演習を開始した次の日、台湾総統府は市民に対して戒厳令を発令した。
マスコミの統制と夕方五時以降の外出禁止、そして経済活動の制限など戒厳令下の禁止条項は多岐に亘る。その目的は市民の安全と秩序の保全にあるが、東アジアに与えた心理的影響もまた小さくなかった。韓国をはじめ周辺の東アジア諸国が在留自国民に対して即時帰国を促したのだ。
日本の対応はそれよりわずかに早かった。約束通り、黄代表が直前に戒厳令の発令を電話で知らせてくれたからだ。
『戒厳令は明日、台湾時間の午前零時をもって発令されます』
黄代表の声は悲痛に満ちていた。国の代表であるばかりでなく、長年友人として接してきた相手だからこその悲痛さなのだろう。
『在留日本人の即時帰国をお勧めします。正直申し上げて、人民解放軍がいつ台湾本土に侵攻してくるか予断を許しません』
外国人の退去を勧めなければならぬほど母国が切迫した状況にある。それを告げる黄代表の心痛を想像すると、慎策は胸が潰れそうになる。
『本来であれば我が国の輸送機で在留日本人を無事に送り届けたいのですが、中国との開戦が現実問題になった今では却って危険と考えられます。どうかお許しください』
こちらこそ、と慎策は慌てて言う。
「危急存亡の秋だというのに、何も手助けもできない我が身が不甲斐ない。どうかご寛恕いただきたい。今は台湾とその国民の無事を祈ることしかできません」
『そのお言葉だけで総統は大変喜ぶでしょう』
黄代表との会話を終えると、慎策は直ちに風間と大隈を執務室に呼んだ。緊急事態であっても最低トロイカ体制内では情報共有しておきたい。
「とうとう戒厳令か」
状況を覚悟していたのか、風間は仕方ないというように頭を振る。大隈は大隈でいよいよ切羽詰まったように表情を曇らせている。
「予想外に早かったな。それでわしたちを呼んだ理由は」
「戒厳令の発令まであと六時間しかありません。閣議決定より先に自衛隊機を台湾に派遣したいと思います」
どんなかたちであれ自衛隊の出動には閣議決定が前提となる。その前提を引っ繰り返して派遣命令を発するのだから、他の閣僚たちから疑義が出されるのは必至だった。
だが風間も大隈も反対せず、不承不承といった体で承諾してくれた。
「在留邦人の安全確保が第一だ。止むを得まい。他の閣僚たちにはわしから説明しておく。邦人の一斉退去に難色を示していた閣僚たちも、戒厳令が敷かれたとなれば反対するまい」
「ありがとうございます」
続いて慎策は本多を呼んだ。呼ばれた時点で大体の内容を察していたらしく、本多はひどく緊張した面持ちだった。
「本多さん。すぐに自衛隊機で台湾の在留邦人を輸送してください」
本多の返事が一拍遅れる。
「承知しました。しかし総理、邦人輸送について閣議を通す必要はありませんか」
「今しがた台湾の黄代表から連絡をもらいました。当地時間で明日の午前零時をもって戒厳令が発令されるとのことです」
戒厳令と聞き、本多の表情が強張る。
「事態は一刻を争います。閣僚の皆さんを招集して閣議決定する時間も惜しい。皆さんには事後承認をいただくつもりなので心配なさらずに。本多さんは邦人の救出に専念してください」
「承知しました」
本多が執務室を退出した後には虚脱した空気が残った。慎策たちはしばらく互いの顔を見合わせもせず無言でいた。
今から閣僚たちを招集して戒厳令発令を報告し、自衛隊の出動要請に至る経緯を説明する。大隈の援護もあるから、異議を唱える閣僚も多くないだろう。邦人の安全を最優先にした判断だから最終的には全員が納得してくれる。
それでも気が塞ぐのは、台湾から邦人を脱出させることができたとしてもそれで不安が一掃されないからだ。むしろ本当の危機はこれから訪れる。外国人が退避した後の台湾に対して、中国政府が何をどう仕掛けてくるのか。慎策は想像するのさえ憚られた。
ところが戦端が開かれる前に、別の問題が発覚した。
在留邦人の中で脱出できない者の存在が明らかになったのだ。
「本がひらく」での同名連載を加筆・修正した、中山七里さん最新刊『彷徨う者たち』が2024年1月26日に発売されます。映画化された『護られなかった者たちへ」や、『境界線』に続く「宮城県警シリーズ」最新作にして三部作の完結編。シリーズ累計50万部突破の社会派ヒューマンミステリーの金字塔にして、著者渾身の最新作、どうぞ宜しくお願いいたします!
プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「子のミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』(以上、NHK出版)、『絡新婦の糸―警視庁サイバー犯罪対策課―』(新潮社)、『こちら空港警察』(KADOKAWA)、『いまこそガーシュイン』(宝島社)、『能面刑事の死闘』(光文社)、『殺戮の狂詩曲』(講談社)ほか多数。
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