【家族写真あり】「君につなげるための物語」――昆虫・動物だけじゃない、篠原かをりの「卒業式、走って帰った」
動物作家・昆虫研究家として、さまざまなメディアに登場する篠原かをりさん。その博識さや生き物への偏愛ぶりで人気を集めていますが、この連載では「篠原かをり」にフォーカス! 忘れがたい経験や自身に影響を与えた印象深い人々、作家・研究者としての自分、プライベートとしての自分の現在とこれからなど、心のままにつづります。第4回は篠原さんが“あなた”に伝えたい、“夢”のお話です。
※第1回から読む方はこちらです。
#4 君につなげるための物語
夢は叶えるためにあると、誰かが言っていた。子どものときの夢は半分叶った。作家と研究者である。博士課程の学生は、研究者であり、私自身、自分の研究を持って論文投稿してはいるのだけれど、まだ胸を張って「研究者です」と言えないので、片方の夢は叶えている途中である。作家と名乗れるようになったのも、何冊か本を出した後だった。
初めて本を出してから8年が経った。デビュー当時、作家の5年生存率が5%であるという噂を聞いて(正確には小説家に限定した話なのだけれど)、最初の数年は、指折り数えて時間が過ぎるのを待っていた。川底で砂金を探すような途方もない夢の先を私は生きている。
夢は叶うと何になるか知っているだろうか?
それは、現実である。
夢を見ていたころ、「夢」と「現実」は、反対語の関係だと思っていた。まさか、夢の進化系が現実だったとは、夢にも思っていなかったのである。夢だった作家という仕事は、私の現実の職業となって、私の人生に締め切りという杭を打ち立てた。かつての私は、締め切りに追われる生活にすら大きな憧れを持っていた。それが現実のものとなったとき、私の心を満たしていたのは幸福感ではなく、学生時代のテスト前と大差ない焦燥感だ。
夢が叶い始めたときの高揚感を維持できない自分を恥じてすらいるが、夢の中で生き続けるほどの体力が私にはなく、かつての夢や希望を編み込んで作った日常を生きているのである。
私が作家デビューしたきっかけは、出版甲子園という出版コンペでグランプリを取ったことである。学生団体が主催する大会で、参加者も学生(博士課程含む)であることが条件であるが、決勝大会では名だたる出版社の編集者たちが審査員として参加し、実際にオファーを受ければ商業出版につながる。当時19歳の私は、尖りに尖って、触れるもの皆傷つけんばかりの勢いであった。それまでの人生、不登校だったり容姿を馬鹿にされて悔しい思いをしたり、はっきり言って負け続けだと感じていたから、もう絶対に誰にも負けたくなかった。誰一人として、私の前に通すまいと固く決意していたし、全員、この才能で蹴散らしてやるくらいのことは思っていた。
その大会から9年経った去年の秋、ずっと私を応援してくれている小学生の女の子が決勝大会に進んだと知らせを受けて、決勝大会に足を運んだ。
コロナ禍の前に放送された、「日立 世界ふしぎ発見!」で私を知り、初めて手紙を送ってくれて以来、何年もずっと応援してくれていた子だけれど、直接会うのは初めてであった。文章を書くことが宿命であるかのごとく、とにかくたくさんの文章を書いてさまざまな大会で成果を残している子で、ネット上ではあるけれど、ずっと見守ってきた。その子は、いつか自力で篠原かをりに会いに行くという目標を掲げていて、私もそれを信じていた。応募したと知ってから、決勝大会で会えると信じていたので、進出が決まる前にスケジュールにプロテクトを入れていた。
決勝の舞台にその子が歩いて出てきただけで涙が込み上げ、自己紹介でもしようものなら、涙はこぼれ落ちて止まらなくなった。
そして、結果は、小学生でのグランプリ獲得。どれほど凄まじい快挙であるか伝わるだろうか。19歳だった私ですら、当時の大会では最年少だった。しかも、大会自体のレベルは確実に上がっていた。
私の人生は、この子の人生の前日譚だったのかもしれないと思った。
9年前の同じ場所にいた私は、“世界で唯一の最強無敵”になりたかったのに、この太刀打ちできない強烈な才能に横殴りにされることを心の底から喜んでいる。これから数知れない人々の憧れになるだろう君の憧れに私を選んでくれて本当にありがとう。
自分自身のグランプリ獲得よりも、自分よりずっと若い人に超えていかれることがうれしくて、私は、自分が最強になるよりも、連綿と続く大きな流れの中の一滴になることに喜びを感じる人間だったのだと思った。
そして、負けてもいいと思ってからが、本番であったと感じる。なんとか作家として生き延びた数年で、少し、自分の才能の底も見え始め、19歳のときに思っていたような一番にはなれないと悟ってから、それでも作家として生きていくと決めたとき、作家は本当に自分の仕事になった。
夢の時間が終わっても、私はこれからも作家である。
先日、エゴサをしていて、私の本を読んだ子どもが親御さんに生き物の雑学を披露しているというポストを読んだ。
私は、このために生きてきたと感じた。自分のために作家になったけれど、誰かのための作家でありたいのだ。
その本を書いたとき、難しくはないけれど、大人も知らない知識を揃えようと心がけていた。子どもは知らないけれど、大人には常識的なことだと、大人に伝えたとき、つまらない気持ちになるのだ。私の父はかなり博識な人で、聞いて知らないことがほとんどなかったので、いろんなことを教えてくれたが、そのかわり、こちらが出すクイズに全て正解するのがつまらなくて悔しかった記憶があった。「本を読んだことで、大人も知らない知識が手に入る」誰か一人にでもそんな瞬間を作れたのなら、書いてきた甲斐があったというものである。
作家は子どもの頃からの夢だけれど、もう一つの生業であるタレントは全く私の夢ではなかった。作家にはなれると思っていたけれど、タレントになるような人間ではないと思っていたので、なりたいか否かすら考えたことがなかった。私が子どもの頃、人と関わるのが苦手で社会不適合な作家のロールモデルはいくらでもあったけれど、たとえ、それが知識を武器にしたタレントであっても、根暗はいないと思っていたし、さらに女性は容姿が美しいことも必要とされると思っていた。それどころか、タレントになった後も25、6歳くらいで似たような若い人が出てきて取って代わられるんだろうと本気で思っていて、失業保険の金額を数えて過ごすという窓際族のような心持ちで過ごしており、20代も終わりにさしかかってようやく、これは私が生涯取り組む仕事なのだと気付いた。ちなみに失業保険が出ない仕事であることに気付いたのも最近である。
新しい夢は、この現実を生きながらえることで次の世代に夢をつなげることである。
篠原かをりができているんだから、自分にもできると思ってほしい。そんな存在になりたい。だって私は最強無敵にならなかったこの身で今も夢の続きを生きている。
君がどんな性別に生まれていても、それは君の人生を不自由にする理由になってはいけないんだ。
自分が望まない愛嬌は振りまかなくていい。どれだけ偉い人でも、楽しくない君を笑顔にする権力を持つほど偉い人なんて存在しない。昔、顔の造形よりも笑顔でいればかわいいと私に教えてきた人がいたけれど、笑顔である必要もなければ、かわいい必要もないのである。
テレビで流れる構図が決まって聞き役の若い女性と教える側の中年男性だったとしても、現実は決してそうとは限らない。以前、昆虫のイベントでハンミョウも知らないおじさんに「華」としての若い女性の役割を押しつけられたことがあるけれど、知識はメリケンサックだ。殴っていけ。
君に知識があるからってステレオタイプのオタクや奇人変人である役割を負わされる必要はない。
たとえ、君の学校生活の全てがうまくいかなくても、それは君の人生の否定にはなり得ない。
私は、君たちが大人になるまで、無敵とは名乗れないこの人生で、いつか君たちが座るための椅子を温めていようと思う。
私の無敵じゃない人生は君に、君に、君につなげるための物語である。
プロフィール
篠原かをり(しのはら・かをり)
1995年2月生まれ。動物作家・昆虫研究家/慶應 義塾大学 SFC 研究所上席所員。これまでに『恋する昆虫図鑑~ムシとヒトの恋愛戦略~』(文藝春秋)、『LIFE―人間が知らない生き方』(文響社)、『サバイブ<SURVIVE>-強くなければ、生き残れない』(ダイヤモンド社)、『フムフム、がってん!いきものビックリ仰天クイズ』(文藝春秋)、『ネズミのおしえ』(徳間書店)などを出版。
バナーイラスト 平泉春奈