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あなたのそれはどんな音? 「人生が始まる音がした」――昆虫・動物だけじゃない、篠原かをりの『卒業式、走って帰った』

動物作家・昆虫研究家として、さまざまなメディアに登場する篠原かをりさん。その博識さや生き物への偏愛ぶりで人気を集めていますが、この連載では「篠原かをり」にフォーカス! 忘れがたい経験や自身に影響を与えた印象深い人々、作家・研究者としての自分、プライベートとしての自分の現在とこれからなど、心のままにつづります。第1回は連載タイトルの由来でもある、篠原さんの転機のお話です。


#01
人生が始まる音がした

 高校を卒業して10年がたった。夢みたいに楽しくて自由なばかりの時に育まれて、気付いたら大人になっていた。
 最近、大人になったと実感するのは、子どものころの怒りを忘れかけていることである。子どものころの私は怒りと、そして悲しみに満ちていた。
 私は学校が嫌いな子どもだった。学校も私のことが嫌いだったのだと思う。
 20年前に地獄の絵を描いていたら、針山や血の池じゃなくて、教卓と黒板を描いていただろう。学校にいた12年間で一番楽しかったのは、なんといっても不登校で学校に行っていなかった小学校4年生のころである。
 あのころ、何があって、どんなことを言われたのかを語り、その不適切さをあげつらうことはできる。けれど、今の私の中に子どものころと同じだけの怒りは存在していない。一歩間違えば、あの経験も今の私には大事だったよねと言いだしかねないくらい、遠く感じられるときすらある。
 だからこそ、今、書き留めておきたいと思う。脳が勝手にこぎれいなエンドムービーを編集してしまう前に、ここまでの足跡をたどって、その中の小石を丹念に拾い集めるように薄らぎ始めた感情を書き残したいのだ。

 書き始めるのに早い年齢も遅い年齢もないけれど、特定の書きどきというものは存在する。
 二十歳そこそこの時にはよく、若さに引き寄せられることの「あさましさ」について書いていた。身近に18歳と36歳のカップルができたせいで周囲の中年男性が色めきだって、私と同世代くらいの女の子の名前をあげて、誰はいけるだの、ないだの品評したり、平然とデートに誘ったりして、それが大変しゃく に障っていたのがきっかけである。この怒りはまだ新鮮なので、記憶がぼやけて書きづらくなったということはないが、年を重ねる前に書いておいてよかったと思っている。なぜなら、若さを失った女の嫉妬だと決めつける愚かさは綿ぼこりのようにそこら中を舞っているからである。
 28歳、若いとも若くないとも言える年齢だ。まだ都道府県知事には立候補できないけれど、どんなに魅力的でも、25歳以上の女性とは決して交際しないことで知られるレオナルド・ディカプリオの世界からは消えうせる年齢である。しかし、念のために調べたら、レオナルド・ディカプリオが最近、28歳の女性と交際していることが話題を呼んでいた。28歳はやはり、若いとも若くないとも言い難い。

 28歳を子ども時代の書きどきだと思うのは、答え合わせが済んだと感じるからである。未来に抱いていた恐怖は訪れなかった。2000年を無事に迎えた世界だからこそノストラダムスを語ることができるものだ。学校というのは社会に比べればまだ優しい方で、学校の外にはもっと居場所がないなんてうそだった。できないことを執ように責め立てられているうちに、できることについて考える余裕をなくして、自分は何もできない人間だと思い込んできたけれど、社会で居場所を見つけるにつれ、本来の「いろんなことができないし、いろんなことができる」という姿を正しく認識できるようになった。

 子どもだったころ、先生たちの言うように社会に通用しない何も頑張れない大人になることを否定できなくてつらかった。まだ大人になったことがなかった当時の私は、大人に「大人になったら」と語られるとどうにも全て噓には思えなかった。
 あのころの怒りをもう自分ごとのようには、思い出せないのに、子どものころのことを書きつづろうとすると涙がとめどなくあふれてくる。とっくの昔に、意識からあふれてしまった記憶のかけらが細胞のどこかにしがみついてまだずっと泣いている。もう悲しくも怖くもないのにまだ体は泣くのである。
 子どもの体のまま勝つのは諦めていた。ただ辛うじて息をしているだけの毎日で、少しずつ自分が年を取るのを待っていて、未来の自分のうちの誰かがかたきを討ってくれることだけを夢見ていた。そのせいか、いまだに加齢を救いだと信じていて、毎年誕生日がうれしいのは数少ない、あの学校に行って良かったことである。丸腰の私が持っていた、たった一つの切り札は学校を出た後にだけ存在する未来だった。

 学生のころには既に作家になることを決めていて、二十歳で書籍を出版した。私を作家にしたのは、才能や夢なんかじゃない。学校に勝手に決められた私の未来を受け入れるまいとする幼い執念だ。聞き入れられることがなかった私の声を1mm でも遠くに届ける方法をこれしか知らなかった。
 19歳のときに入院して、点滴につながれながらも原稿を書き上げられたのは、若かったからではない。パンッと張り詰めた新鮮な恨みがまだ心の中をダクダクと流れていたからだ。
 でも、今、書き続けているのは、恨みじゃない。生きていてよかったからだ。
 大人になった私が、まだ大人になったことがない子どもに今伝えたいことは、今の日々の暗さで未来は決まらないということである。子どもに対して勝手な決めつけをする大人は今もどこかにいるだろう。でも、大人だってサンプル数n=1にすぎないし、アドバイスにエビデンスはないのだ。

 そして、大人になってみて、敵討ちすべきものの正体が存在しないことにも気が付いた。
 「学校が嫌い」という曖昧な物言いをしてきたけれど、そうとしか表現できなかったからである。友達は好きだった。自宅から徒歩10分で着く白亜の城のような校舎も好きだった。良い先生もいたし、特定の誰かを恨んでいるわけでもなかった。
 確かに、嫌いな先生は多かった。噓をついて逃げ回っていた校長先生とか、ハマの不登校製造機として名高かった担任の先生とか、体罰はするけど精神攻撃が少なめだから当時は相対的に優しいと思っていた先生とか、これはセクハラじゃなくて篠原さんにだから言うだけであって他の人には言っちゃダメだよって気持ち悪いこと言ってきた先生とか。

 でも、その中の誰か一人か二人のせいじゃなくて、そのメンバーで構成された学校にまん延していた思想とかその思想にそぐわない私みたいな人への嫌悪感や侮蔑が渦巻いてできた瘴気しょうきみたいなものに苦しんでいたのだと思う。それに学校は組織だから、人が入れ替わると別のものになっていく。
 かつて球技大会でタオルを首からかけるのははしたないと禁止され、文化祭でTシャツを着るのもみっともないとやはり禁止されていた我が母校にも、リュックサックやスラックスの制服が導入されたと聞いた。当時からは想像もつかない変化だ。多分、私が恨んでいた学校はもうどこにもないのだと思う。

 手帳の日付を塗りつぶして数えて待った卒業式の日、写真を撮ったりとか卒業アルバムにサインし合ったりとか、名残惜しむこともせず、一目散に通学路の坂を駆け下りて、自分がどんどんどんどん、手がつけられないくらいに加速して、そのまま飛べてしまいそうな気持ちになったあの瞬間のミシミシとほおに当たる風を覚えている。
 帰ってすぐに、制服を脱いで裁ちバサミで切り刻んだ。
 私の嫌な時代がはっきり終わっていくのを見たかったのだ。ついに制服を切り刻んでも困らない明日がやって来る。そんな明日がこの先ずっと続いていく。
 ジャキンジャキンと紺色の布切れを幾束も作ってゴミ袋にぶち込むと、やっと人生が始まる音がした。あの予感だけは噓じゃなかった。

9歳のころ、弟と愛犬ゆきと(篠原さん提供)

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プロフィール
篠原かをり(しのはら・かをり)

1995年2月生まれ。動物作家・昆虫研究家/慶應 義塾大学 SFC 研究所上席所員。これまでに『恋する昆虫図鑑~ムシとヒトの恋愛戦略~』(文藝春秋)、『LIFE―人間が知らない生き方』(文響社)、『サバイブ<SURVIVE>-強くなければ、生き残れない』(ダイヤモンド社)、『フムフム、がってん!いきものビックリ仰天クイズ』(文藝春秋)、『ネズミのおしえ』(徳間書店)などを出版。

バナーイラスト 平泉春奈

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