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総理大臣としてオリンピック開催の意義を問う――『総理になった男』中山七里/第15回

「もしあなたが、突然総理になったら……」
 そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
 ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。東京でのオリンピック・パラリンピック開催まであと数日に迫ったタイミングで舞い込んできた、大会組織委員会理事の逮捕の一報。進むも地獄、退くも地獄のなか、慎策が選ぶ道は――
 *第1回から読む方はこちらです。


 大会組織委員会理事の逮捕が報じられると、案の定マスコミ各社はメディアスクラムを組んで委員会および政府に向けて集中砲火を浴びせた。
 大隈は執務室に入ってくると、手にしていた朝刊各紙をテーブルの上に置いた。見出しは嫌でも目に入ってくる。
『大会組織委員会理事逮捕』
『受託収賄容疑』
『オリンピック 中止か』
『相次ぐ不祥事』
『問われる開催意義』
「叩かれとる、叩かれとる」
 大隈ははしゃぐように言う。お目付け役の風間がいないせいかもしれない。
「普段は右寄りの新聞までがオリンピック中止を匂わせていますね」
「読者の読みたがる記事を書くのが新聞だからな。これくらいはしょうがないだろう」
 新聞に叩かれることは織り込み済みらしく、大隈は鷹揚おうように構えている。内閣支持率の急低下に悩む自分にしてみれば羨ましい資質だ。
「オリンピック中止が読者の読みたがる記事なんですか」
「先々週、新聞各紙の行った世論調査の結果ではいずれも開催四割中止六割だ」
「国民の半数以上が反対を唱えるオリンピックを開催する意味はあるんでしょうか」
「少なくとも四割の国民は意義があると考えている。それに昨日も言ったが、たとえ敗戦処理投手であろうともマウンドに登れば相応のパフォーマンスを要求される。具体的にはそれ以上の失点を許さないことと、経験値の蓄積だ。オリンピック・パラリンピックの裏舞台では各国首脳との外交も予定されている。大会を成功裏に終わらせるのも重要だが、総理としての任務はむしろそっちがメインだ」
 外交と聞いて、慎策はまた憂鬱になる。総理の仕事は慣れないものばかりだが、分けても苦手なのが外交だった。これまで何度も各国首脳と顔を合わせたが、やはり言葉の壁は如何ともしがたく、通訳を介しても互いの意思が十全に疎通しているとは思えないからだ。外国人は日本人よりも表情が豊かなので何とかなると高を括っていたが、首脳の中には鉄面皮に近いタイプもいてもどかしさが拭いきれない。
「サミットという舞台もあるが、より多くの首脳が集まる機会と言えばオリンピックと弔問外交が双璧を成す。言い換えればオリンピック外交は総理の晴れ舞台でもある」
「そのためには是が非でもオリンピックを開催しなきゃならない」
「おおともさ。いかに国民の六割が難渋しようと、国家的事業はそう易々と中止にはできん」
 慎策は内心で懊悩する。これまで真垣内閣が支持されていたのは国民の要望に応えてきたからに他ならない。政治の世界にしがらみがなく手前の政治生命にも執着がないから、国民の側に立って政策を進められる。
 だが今回は違う。国民の六割が望んでいないことを無理に進めようとしている。無論、慎策の本意ではない。風間や大隈の言う理屈も理念も理解できるが、国民が望まない事業など進める価値があるのだろうか。
 一方、思考の真ん中にでんと存在しているのは市ノ瀬沙良たちアスリートの陳情だった。その日のために費やした年月の辛苦は、当事者以外には推し量ることもできない。今、オリンピックを中止するのは、彼らにその年月を棒に振れと言うようなものだ。
「どうした、総理。考え事かね」
「国際社会への約束を果たすことや外交が肝要というのは分かりますが、国民の反対を押し切るのには抵抗があります」
「何ちゅう弱気な。国民が望むものはいつも明日明後日、目先の安心でしかない。しかし政治家は国家百年の大計に立って考えなければならん。今は国内での反発もあるが、五年先十年先には必ずや評価される」
「百年の大計なのに、五年先にはもう評価されるんですか」
「言葉のあやだ。今は五年もすれば世情が一変する。五年前、誰も新型コロナウイルスで世界が壊滅的な打撃を受けるなどと想像もしなかったろう」
 多少の強弁やこじつけも大隈の口から出ると相応の説得力を持つのが恐ろしい。これが剛腕で鳴るベテラン議員の貫禄というものだろうか。
 大隈が更に何かを言いかけた時、ドアを開けて風間が姿を現した。
「ちょうどよかった。官房長官もこちらでしたか」
 顰め面が常態となっている男だが、今日は輪をかけて不機嫌な顔をしている。
「悪いニュースと良いニュースがある」
「風間も洒落た言い方をするんだな。じゃあ悪いニュースから聞こうか」
「ついさっき各紙の世論調査の結果が出た。主要五紙ともオリンピック開催は賛成が四割を切った。中には二割台の結果を報じた新聞もある」
「二割台」
 それまで泰然としていた大隈が腰を浮かしかけた。
「二割台というのは、お馴染み左派系新聞だから設問の仕方に問題がない訳じゃない。しかしそうでない新聞までが揃って賛成三割台としているのが問題なんだ」
 支持率が三割を切ると危険水域だと言われる。他の設問も同様で、賛成派が三割を切れば、いよいよ国民の総意はオリンピック中止に傾いていると考えた方がいい。
 慎策は気を取り直そうと頭を振った。
「じゃあ良いニュースを聞かせてくれ」
「各紙の世論調査の結果が出た。主要五紙ともオリンピック開催は賛成が四割を切った。中には二割台の結果を報じた新聞もある」
「それは悪いニュースだろ」
「オリンピックを中止にする格好の材料ができた。見方によれば良いニュースだ」
 風間らしく斜に構えた物言いだが、こればかりは悔し紛れかもしれない。
「良いニュースであるものか」
 まだ風間の皮肉に慣れない大隈はやや憤慨したようだった。
「格好の材料と言うなら、それは野党にとってだろう。二人とも予算委員会のことを忘れた訳じゃあるまい」
 慎策は渋々頷いてみせる。忘れた訳ではない。思い出したくなかったのだ。
 現在、国会は臨時会でオリンピック予算について集中審議の真っ最中だった。計画当初より跳ね上がった予算、会場デザインにまつわる不祥事、着工の遅れ、無観客での開催。オリンピックの中止延いては真垣内閣倒閣を画策する野党にしてみれば攻撃材料に事欠かない。そこに追い打ちをかけるように、今度は大会組織委員会理事の逮捕ときた。泣きっ面に蜂ではないか。
 だが政府は集中審議を拒む訳にはいかない。集中審議は野党が要求し、与党はその後の審議に野党が協力してくれるのを期待もしくは条件として実施するものだ。ここで集中審議を拒否すれば後々の国会運営に必ず支障が出る。
「今までも相当ひどかったが、大会関係者トップの逮捕となれば野党もここぞとばかりに非難してくる。総理大臣はオリンピックに直接コミットしていないという言い訳は通用しない。今日の集中審議は荒れに荒れるぞ」
「集中審議じゃなくて集中砲火か」
「否定はしない。どうせ火ダルマになるからな」
 風間が慎策を脅すように言うと、大隈が間に割って入る。
「何も総理一人が答弁しなきゃならん決まりはない。わしが答弁に立てば民生党の矛先も鈍るに違いない」
「確かに官房長官相手なら民生党議員は腰が引けるでしょうね。しかし、それでは逆効果になる惧れがあります」
「何故」
「今国会での審議はNHKで生中継されています。いくら官房長官の威厳で民生党を黙らせたとしても、視聴者には総理が答弁から逃げているように映ってしまう。そうなればオリンピック開催に賛成している者までが懐疑的になる。ここは総理自らが正面から立ち向かうしかありません」
「風間先生の言われるのはもっともだが、総理一人が火ダルマになって済む話でもあるまい。答弁から逃げたように見えても火ダルマになっても結果は似たようなものだ。それとも批判が集中した総理に同情票が寄せられるというのか。もちろん、元々人気の高い総理だから一定の同情票は期待できるだろう。しかし、それは大多数の国民が期待する総理の姿ではない」
「それも承知しています。国民が求めているのは野党の追及に狼狽うろたえる総理ではなく、批判に敢然と立ち向かい強いリーダーシップを発揮する真垣総理です」
「だったら」
「お忘れですか、官房長官。我らが真垣総理には歴代総理に引けを取らない突破力があるんですよ」
 風間が意味ありげに慎策を見下ろすと、大隈は思い出したというように頷いてみせた。
「そうだったな。いや、わしとしたことが失念していた」
 二人ともこちらに過大な期待をかけているらしいことが雰囲気で分かる。慎策はせめてひと言くらいは愚痴をこぼしたくなるが、風間だけならともかく大隈の前では我慢するより他にない。
「ここは総理に一任するとしよう。もし議会が紛糾しそうになった時は、わしが何とかする」
 議場が騒乱状態になった際の大隈の立ち回りは、半ば伝説となっている。かれこれ二十年も前の話になるが、国民党が強行採決に踏み切り野党議員たちが議長席に押し掛けた時、大隈はたった一人で彼ら全員を捻じ伏せたという。中には腕一本で投げ飛ばされた者もいたらしい。「剛腕」という二つ名は政治的手腕とともに実際の腕力をも意味していた。
 伝説を伝え聞いていた慎策は俄に不安になる。
「『何とかする』って、官房長官。まさか腕力で野党議員を排除するとか投げ飛ばすとか言うんじゃないでしょうね」
「心配しなさんな。武闘派で鳴らしたのは昔の話だ。今じゃ寄る年波で、投げられるのはさじくらいのもんさ」
 大隈は溜息交じりにこぼすが、どこまで本心なのかは窺い知れない。
 政権運営の女房役とも言える官房長官に、そして何より自分自身に不安を抱きつつ、慎策は一時間後に迫った集中審議に臨む。

 慎策が第一委員会室に入ると、委員会に出席している議員たちからの拍手を浴びた。その半数近くは野党議員のものだが、これから捕食する獲物を歓迎しているといった体だ。
 国会質問は予め順番と持ち時間、そして質問内容が通告されている。質問内容が相手に事前に知らされる「事前通告」は審議を円滑に進めるための慣例だ。事情を知らない者が聞けば双方の馴れ合いではないかと憤慨するだろうが、質問内容には度々法律の条文や細かなデータが含まれるため、事前に伝えておかなければ確認に時間がかかってしまう。そうした手間を省く仕組みでもある。
 慎策の手元にはそれぞれの質問の骨子が文書として纏められている。そのいずれもがオリンピックに関する質問だ。おそらくは大会組織委員会理事の逮捕を受けて質問というよりは非難交じりになるのは容易に予想がつく。慎策は溜息を吐きたくなるのを堪えて自分の席に着く。
 衆議院予算委員会は本会議場と同様、委員長席から見て右側に与党国民党、続いて民生党、公民党、改革かいかく党の順に議員が座る。因みに質問者の背後は国会中継で頻繁に映り込むため、「ゴールデンシート」と呼ばれている。自分の顔を売り込むにも地元にアピールするにも好都合なので、この席を争う議員も少なくない。今もNHKのカメラが質問者と答弁者に向けられている。慎策が座るのは委員長席の隣だ。
 委員長の宣言で質疑が開始される。質問に立つ一番手は同じ国民党の丸山健吾まるやまけんごだ。真垣と総裁選を争った頃には対抗意識が剝き出しになっていたが、真垣政権が安定した最近では友好的な関係が続いている。本日の質疑でも、本来であれば総理を応援する内容になるはずだった。
 だが、これほど大会に纏わるスキャンダルが続けば身内でかばいだてするのは丸山にとってマイナスのイメージでしかない。元々が真垣とは異なる派閥という事情も手伝い、今回は応援が困難だと事前に申し入れがあったほどだ。
 委員長から名前を呼ばれると、丸山は少し悩ましげな顔で立ち上がった。
「国民党の丸山です。お聞きしたいのは、やはりオリンピック・パラリンピック予算が膨大した件であります」
 丸山は原稿に目を落としてこちらを見ないようにしている。野党議員相手なら睨みつけるスタイルの彼がうつむき加減なのは、丸山なりの配慮かもしれない。
「会場での新型コロナウイルス感染拡大の防止対策に九百六十億円を計上などしたため、予算の総額は一昨年公表した額から二千九百四十億円積み増しして一兆六千四百四十億円にまで膨れ上がりました。これはオリンピック史上、最も多額の予算になる見込みであります。今大会が世界的にパンデミックの起きている最中での開催という特殊事情を踏まえれば致し方ないと理解もできますが、他方緊急事態宣言の発出により経済的に打撃を被った国民には納得できないとの声も多く聞かれます。一兆六千四百四十億円というのはコストとしては巨額に過ぎるのではないか。新型コロナウイルス感染拡大の防止対策に九百六十億円は他の経済対策にこそ支出するべきではないのか。そうした国民の声を政府としてどう捉えられているのか、お聞かせください。迫本競技大会担当大臣」
「競技大会担当大臣迫本めぐみくん」
「ただ今の丸山先生の質問の中に、『一兆六千四百四十億円というのはコストとしては巨額』との言葉がありました」
同じ党員からの質問であるにも拘わらず、彼女は聞き捨てならないと言わんばかりに反応する。
「国民のうちどなたが発言されたかは存じませんがオリンピックにかかる予算をコストと捉えるのは、全ての競技、世界のアスリート全員の努力をコストと切り捨てるのと同義です」
 アスリート出身の迫本にすれば、丸山の質問はスポーツ全般に対する侮辱なのだろう。若さゆえの直情さと言えないこともないが、彼女の怒りは人間的で好感が持てると慎策は思った。
「競技には順位がつきものだし、一等賞以外は全てビリという残酷な言葉もあります。でも一等賞をもらえずとも流した汗と涙は必ずその後の人生への投資となり得るものです。そう信じている者の一人が、わたしであります」
 大臣としては経験の浅い彼女も、アスリートとしての発言には途轍もない説得力がある。
「丸山先生は中学高校と剣道に打ち込んだと聞き及んでおります。では汗臭い道着に身を包んで繰り返した素振りや、相手との真剣勝負に臨んでいた時間も丸山先生にとっては無駄なコストでしかなかったのですか」
 逆に問われた格好の丸山は居心地悪そうに迫本を見ている。
「もちろん、これはアスリートの観点であり、アスリートの道を歩かなかった人の意見ではありません。従って、丸山先生の質問に対する答弁はオリンピックの開催をコストと見るか投資と見るかで変わってきます。つまりスポーツを単にコストとして捉えることは無意味だと考えます。逆に言えば、前向きな投資と捉えればそれに相応しい意義が確認できるのではありませんか」
 答弁を終えた迫本は身内びいきを抜きにして頼もしく映った。丸山の質問に答弁するに、これ以上の適任はないと思わせてくれた。オリンピック開催に消極的な意見の国民も今の雄弁でいくぶんかは賛成に傾いてくれたのではないか。丸山もそれ以上は質問を重ねようとはしなかった。
 二番手は改革党の中堅、鯖内弘毅さばうちひろき議員。若い政党の若い議員ながら舌鋒の鋭さには定評がある。野党議員であっても、政府案と是々非々で論議に臨む姿勢は国民党議員からも好印象を持たれている。
 だがその鯖内も、問題山積のオリンピック開催については断固中止の立場を取っていた。
「鯖内弘毅くん」
「改革党の鯖内です。総理は六月九日の党首討論において『世界の人たちに東日本大震災から復興した姿も見てほしい』との旨を述べられましたが、世界的に新型コロナウイルス感染症が拡大し東京では緊急事態宣言まで発出された現実を直視した場合、大会の開催についての総理の発言は精神論が優先され、科学的根拠が欠如している印象が払拭できません」
 国会における鯖内の喋り方は感情を排し、徹頭徹尾データと理屈に立脚する。論戦相手としては最も手強てごわいタイプの一つだ。感情を顔に出すこともまずないので、こちらは鯖内を冷静に論破するより他に手立てがない。
「報道によりますと、東京都医師会会長は先月、東京オリンピック・パラリンピック競技大会について、東京都内の新規感染者数が週平均四百人を超えていた状況を踏まえ、『東京都内の一日当たりの新規感染者が百人程度に収まった状態でなければ、リバウンドが起こる惧れがある』と指摘し、感染状況が改善せず大会期間中の感染防止対策が取れない場合には中止すべきだとの考えを述べたとされています。一時期より落ち着いたとはいえ、先週の土曜日と日曜日、都内では二百人に近い感染者を出しています。先の会長の言葉は最も信頼すべき専門家の提案と捉えてよいと考えますが、提案に従えばオリンピックは中止すべきという結論に達します。これについて総理のお考えをお聞きしたい」
「内閣総理大臣真垣統一郎くん」
 慎策は立ち上がって答弁席に進む。用意されていた原稿は手にしていなかった。
「ただ今、鯖内先生のご説明にあったように、東京都医師会会長からは今後起こり得るリバウンドの可能性について指摘を受けています。会長は『大会期間中の感染防止対策が取れない場合には中止すべき』と述べられており、科学的根拠とデータに基づいた警告を無視することは国民の利益を大きく損なうものだと認識しております」
 答弁中、鯖内の顔を正面から捉えて決して目を逸らせない。当の鯖内は追い詰められたように身じろぎもしていない。全国に中継されている己の顔は、そのままテレビの前にいる国民に向けた顔でもある。
「まず経済的な観点で申し上げれば、オリンピック・パラリンピックを無観客で開催した場合の損失額は約二兆四千百三十三億円、中止した場合の損失額は約四兆五千百五十一億円という試算があります。無論、人の生命や健康を金銭と天秤に掛けるつもりは微塵みじんもありません。ただ中止をした場合は無観客で開催した場合より二兆円も損失額が大きいという、これもデータを基にした話なのです。そしてこの損失額は現在のみならず将来に亘って国延いては国民の皆さんに伸し掛かるという現実を忘れてはなりません」
 いったん慎策が答弁を終えると、すかさず鯖内が手を挙げる。
「鯖内弘毅くん」
「それでは最初から開催ありきの話になり、討論になりませんよ」
「内閣総理大臣真垣統一郎くん」
「オリンピックを招致した時点で、開催は国際的な約束になっています。また、開催契約を解除し、開催を中止する権利はIOCのみにあります。オリンピックはIOCの独占的財産であり、開催都市側にその権利はないのです。従って開催を前提とした討論になるのは当然です。然るに先に紹介された『大会期間中の感染防止対策が取れない場合には中止すべき』との警告を重視し、来日を予定している約七万人以上の大会関係者には事前にワクチン接種を義務づけ、期間中も頻繁にウイルス検査を実施することで感染防止を図る所存です」
 東京都医師会会長の警告を逆手に取った答弁だが、鯖内の質問を真正面から受け止めたかたちにはなっている。案の定、鯖内からの追加質問はなかった。
 三番手は民生党代表の如月継夫だった。これまでも慎策とは幾度も論戦を繰り広げ、すっかり天敵となった感がある。
「如月継夫くん」
「今朝がた、各有力紙から最新の世論調査の結果が発表されました。総合するとオリンピック開催に賛成している国民は全体の四割を切り、中には二割台という数字を出した新聞社さえあります」
 やはり、その話題で切り込んできたか。
 事前に通知された質問内容はオリンピック開催の是非だが、どう話を進めるかまでは盛り込まれていない。如月が最新の世論調査を持ち出してくるのは、風間が既に予想していた。
「つまり国民の約七割が反対しているオリンピック・パラリンピックを、総理は国際社会に忖度して無理にでも開催しようとしている訳です。現在の日本の感染状況を鑑みるに、国民の命と健康を守ることとオリンピック・パラリンピックの開催を両立させることは不可能であるのは明白であるにも拘わらずです。国としての体面と国民の命、どちらが大切なのかは言うまでもありません。総理、あなたの口から直接IOCに中止の申し入れをすればいいではありませんか。開会式まで時間がありません。もう判断の先送りはできないタイミングです。この場でオリンピック・パラリンピックを中止すると明言してください」
 こちらに刃を突きつけた格好で質問を終え、如月は意気揚々と席に戻っていく。言外に国の体面と国民の命を秤に掛けさせ、総理を窮地に立たせるつもりなのだ。
「内閣総理大臣真垣統一郎くん」
「最初に申し上げたいのは、東京オリンピック・パラリンピックの経済効果は既にマイナスであるという事実です。経済的観点からはいかにして損失を抑えるかという問題もありますが、開催の是非を問われる部分はそこではない。先ほど迫本競技大会担当大臣から『前向きな投資』という言葉がありましたが、まさに経済以外のプラスを見出せるかが重要なのです」
 如月はいぶかしげな表情になる。不祥事続きで負のイメージしかない催事のどこに価値を見出せるかという顔だ。
「先日、選手団代表の方々とお会いしました。素晴らしい方ばかりでしたが、最もわたしの目を引いたのは一人の女性アスリートでした。彼女は陸上競技で将来を嘱望されていたにも拘わらず、交通事故で左足を切断しなければならなくなったのです。アスリートが片方の足を失う。その時の彼女の絶望たるや、おそらく同じ境遇の者にしか理解できないでしょう。わたしごときが想像できるものでは到底ありません」
 議場を見渡せば、何人かの議員が訳知り顔で頷いている。市ノ瀬沙良を知っている者なのだろう。
「しかし彼女はとても諦めの悪い人でした。失った左足を義足に替えて、再びトラックに戻ってきたのです。今や彼女はパラリンピックレコードを狙える位置にいます。そこに至るまでの辛苦もまたわたしの想像をはるかに超えているでしょう。だが分かることもあります。科学技術の発達が常人の瞬発力に勝る義足を生み出し、彼女の基礎体力と執念が記録を塗り替えようとしている。スポーツを通して人はまだまだ進化する可能性があることを彼女は示してくれました。わたしは、これこそがオリンピック・パラリンピックにおける前向きな投資だと思うのです」
 この中継を見てくれていますか、市ノ瀬さん。
 あなたにもらった勇気を、この場で使うことを許してほしい。
「アスリートでなくても、健常者でなくても人は身体を使い、鍛える。狩猟と生存以外の目的で走るのは人間と競走馬くらいではありませんか。スポーツが身体を動かすことの意義と感動を与えてくれる人類の宝であり、オリンピック・パラリンピックが人類の祭典であるのはそういう意味だと考えます。今、世界は未曽有のパンデミックに襲われ、生命も文明も信頼も脅かされています。そしてそんな時だからこそ、人類がウイルスの脅威に打ち勝って祭典を開いたことを世界に示したいと思うのです。オリンピック・パラリンピックは中止しません。予定通りに開催いたします」
 珍しく慎策は有無を言わさぬ口調で言い放つ。如月の提案を完全に否定した格好だが、譲歩の余地さえ残さなかったので付け入る隙も与えない。総理の微動だにしない態度を見せつけられ、如月もそれ以上は追及しようとしなかった。
 その後も質疑は続いたが、他の質問者も慎策の剣幕に圧されて及び腰になった感が否めない。集中審議は大きく荒れることもなくその日の予定を終えた。
 第一委員会室を出ると、待ち構えていた大隈がいきなり肩を抱いてきた。
「よくやってくれた、総理」
 大隈は満足げに笑っていた。
「同じ理想論でも、民生党議員が口にする理想論とは別物だな。聴く者を鼓舞してくれる。演説とは己の言葉で聴衆の考えを変えてしまうことだ。今のはその良い見本だな」
「中止を叫ぶ国民が考えを変えてくれればいいのですが」
「変えてくれるさ。しかし四対六であったものがいきなり六対四まで逆転するとは期待せん方がいい」
「なかなか厳しいですね」
「だから心ある議員は弁論技術を研鑽けんさんする。言葉を磨かずして何が議員だ」
 大隈は終始ご満悦の様子だったが、それも長くは続かなかった。

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プロフィール
中山七里
(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「子のミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』(以上、NHK出版)、『絡新婦の糸―警視庁サイバー犯罪対策課―』(新潮社)、『こちら空港警察』(KADOKAWA)、『いまこそガーシュイン』(宝島社)、『能面刑事の死闘』(光文社)、『殺戮の狂詩曲』(講談社)ほか多数。

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