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小説・エッセイ

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人気・実力を兼ね備えた執筆陣によるバラエティー豊かな作品や、著者インタビュー、近刊情報などを掲載。
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#おすすめ本

希望を手放さない――ネイサン・イングランダー『耐えられない衝動を和らげるために』#2

「二十七番目の男」ピンカス・ペロヴィッツ  さて、イングランダーの原点ともなった短篇「二十七番目の男」とはどんな話なのか。1952年にスターリン統治下のソビエト連邦で実際にあったユダヤ人作家の虐殺がモデルとなっている。その首謀者はもちろん、国のリーダーであるスターリン自身だ。とは言え作品内において彼は、具体的に自分が誰を殺したかは意識していない。彼がしたことは、下から上がってきた命令書にサインすることだけだ。  それではなぜ、ユダヤ人作家たちが殺されなければならなかったの

もし今、アメリカで……――ネイサン・イングランダー『耐えられない衝動を和らげるために』#1

傷を負って生きるマイノリティー  授業中に聞いたある一言がどうしても忘れられない。僕が2001年から3年ほど留学していた南カリフォルニア大学はロサンゼルスの中心部にあって、学費もまあまあ高く、したがってある程度、裕福な家庭で育った白人の学生が多かった。だから、キャンパスに通う学生の半分ぐらいがアジア系で占められている地元のライバル校、カリフォルニア大学ロサンゼルス校とは雰囲気も対照的だ。言ってみれば、お金持ちの子どもがスポーツをやり、勉強し、恋愛をし、ITや映画といったビ

自分を語る言葉を得る――#4ローレン・グロフ『優美な食用の鳥たち』(1)

文学を内側から体験する  大学で教えるのがとても好きだ。特に好きなのが短篇小説を読む授業で、基本的には学生たちに輪になってもらって、作品を読んでどう思ったか、どこが面白かったかをひたすら話し合う。もちろん、作品の背景説明や、読んで難しかったところの解説もするのだが、そういう知識を伝えたり、英語力を上げたり、といったことは授業の中心ではない。  むしろあくまで、作品を通して自分自身の心と向き合ってもらうことを大事にしている。そうすると思わぬ本音が出てくる。他の人から、自分

できの悪いコピーに徹する――#3シャオルー・グオ『恋人たちの言葉』(3)

映画監督として、小説家として  さて、本書を書いたシャオルー・グオとはどういう人物なのか。1973年に彼女は中国で生まれた。その後、難関校である北京電影学院で修士号を取得し、2002年にイギリスに渡って、国立映画テレビ大学の監督コースで学んでいる。映画監督としての評価は高く、『中国娘』で2009年にロカルノ映画祭で金豹賞を獲得した。  農村の娘が都市に出て工場で働くがクビになり、裏稼業の男の愛人となるも彼は殺され、男の金でロンドンに観光旅行に出かける。そのまま滞在し続け

消し去ることのできない言語的人格――#3シャオルー・グオ『恋人たちの言葉』(1)

「どうしてわざわざ日本に戻るんだ?」  今でも時々、なんで自分はアメリカから日本に帰ってきたんだろう、と思う。20年ほど前、ロサンゼルスにある南カリフォルニア大学英文科の大学院に入ったとき、できた友人のほとんどが、外国からアメリカに渡ってきた人だった。ナイジェリアから亡命同然で来たクリスだけではない。ペルーから移民としてやってきたり、あるいは韓国からアメリカの白人夫婦に養子として引き取られてきたりと、教室のメンバーは本当に多様だった。  そもそも、僕の指導教員はヴィエト

私は踊りたいし、自分の人生を生きたい――#2ゼイディー・スミス『スイング・タイム』(3)

守られるべき「子供」はだれか  500ページ近くにもわたるこの作品には、もっともっと多くの内容が詰まっている。何より印象的なのは、主人公と両親との関係だ。彼女は両親のことを、自分が守らなければならない子供、として捉えている。母親は考えすぎだし、父親は感じすぎだ。こうしたアダルトチルドレン的な思いからも、彼女の親子関係が問題を孕んでいることがよくわかる 。  主人公の母親は常に本を読んでいる。どういう本かといえば、ハイチ革命についての高名な歴史書であるC.L.R.ジェイムズ

「自分」とは誰のことなのか――#2ゼイディー・スミス『スイング・タイム』(2)

タップダンスに魅せられた少女たち  すべての始まりは1982年に開かれたロンドンのダンス教室だ。そこでふたりの少女が出会う。本書の語り手である主人公と、その友人のトレイシーだ。彼女たちには共通点がある。黒人と白人両方の血を引いていて、肌の色も背丈も学年も同じなのだ。主人公の母親はジャマイカ系の黒人で、父親は白人の郵便局員だ。それに対して、トレイシーの母親は白人で、父親は刑務所に出たり入ったりしている黒人である。共通点はそれだけではない。ふたりはプロジェクトと呼ばれる低所得者

黒人であり、なおかつ白人であること――#2ゼイディー・スミス『スイング・タイム』(1)

カギを握る映画、『有頂天時代』  まずは題名である。「スイング・タイム」という言葉から 何が思い浮かぶだろうか。スイング、と言えばジャズかな。そして、ビッグバンドによるスイングジャズが流行した1930年代から40年代はじめの時代を描いた作品だ、と思う読者は多いのではないか。 これは半分正解で半分不正解である。実は「スイング・タイム」というのはフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが主演した映画『有頂天時代』 (1936年)の原題なのだ。そしてゼイディー・スミスによる本書

渋谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔いくらと思い〕 新井見枝香

※当記事は1話読み切りのエッセイ連載の第25回です。どの回からもお読みいただけますが、第1回から読む方はこちらです。日比谷から渋谷の書店に移った新井見枝香さん、連載もリニューアル再開です。  渋谷の書店で働くようになって、まず最初にぶち当たる困難が昼飯だとは思わなかった。限りある休憩時間に公園通りを行ったり来たりするも、食指が全く動かない。どこにでもあるチェーン店は悔しいし、キラキラした目新しい店は、制服の上にパーカーを羽織っただけの私には、敷居が高かった。私が食べたいのは

日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔終わりとシンプルさ〕 新井見枝香

※当記事は1話読み切りのエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第24回です。どの回からもお読みいただけますが、第1回から読む方はこちらです。  その町には、同じ店名のケーキ屋とパン屋とカフェがあった。どれも昔からあって、地元の人に愛されている人気店だ。私はそのケーキ屋の四角いスイートポテトが大のお気に入りだった。しかし数か月ぶりに立ち寄ると、ケーキ屋だけでなく、同じ名前の店の全てがシャッターを下ろしている。地元の人に訊ねると、それらを経営する会社の社長が大きな負債を抱え

日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔肉じゃがと文化〕 新井見枝香

※当記事は1話読み切りのエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第23回です。第1回から読む方はこちらです。  肉じゃがの肉は「豚」である。それはすき焼きの肉が「牛」で、ジンギスカンの肉が「羊」であることと同じくらい、当たり前のことだ。近所のスーパーでは豚肉売場がいちばん大きい。それは、豚の生姜焼き、肉野菜炒め、豚汁と、食卓に登場する頻度が高いからに違いない。しかし先日、肉じゃがを作って皆に振る舞う機会があり、私の常識が崩壊した。食卓を囲んだ中に島根出身と京都出身の人がい

日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔マダムと黒猫〕 新井見枝香

※当記事はエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第22回です。第1回から読む方はこちらです。  旅先の温泉街で喫茶店に入った。急勾配な坂の途中にあり、ともすれば看板に気付かず通り過ぎてしまう、ひっそりとした佇まいだ。趣味の合う知人の勧めがなければ、薄暗い地下へ降りるのを躊躇ったかもしれない。背筋の伸びたマダムにコーヒーを注文し、サンドイッチを待つ。ひとり客の私は、マダムとのちょっとした世間話が嬉しく、聞かれたことに答えたり、常連客を交えた話題に口を挟んだりした。本当は、

日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔千穐楽と送別会〕 新井見枝香

※当記事はエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第21回です。第1回から読む方はこちらです。  久しぶりに神保町へやって来た。有楽町で書店員になって、いつかは働いてみたいと憧れた本の街である。今の書店に転職を決める時、私は三省堂書店の神保町本店で働いていたのだ。辞表を出す前に、何度も自分に確認したことがある。 「それって今の職場から逃げ出す口実ではないよね?」  長年、同じ会社に勤めていると、何人もの退職を見届ける。理由は様々だったが、本当のところは本人にしかわからない

日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔米とひとりぐらし〕 新井見枝香

※当記事はエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第20回です。第1回から読む方はこちらです。  ついに特大の米袋が空っぽになった。実に玄関のたたきの9割を占拠していたそれは、知人が知り合いの農家に頼んで直送してくれたもので、推定30キロの米が詰まっていた。いくら私が食いしんぼうとはいえ、ひとり暮らしの女性である。我が家はアパートの3階にあり、エレベーターがない。額に血管を浮かべた運送会社の人が荷物を下ろす瞬間、潰したAmazonの段ボールを差し込んだのは、我ながらグッジ