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日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔米とひとりぐらし〕 新井見枝香

※当記事はエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第20回です。第1回から読む方はこちらです。

 ついに特大の米袋が空っぽになった。実に玄関のたたきの9割を占拠していたそれは、知人が知り合いの農家に頼んで直送してくれたもので、推定30キロの米が詰まっていた。いくら私が食いしんぼうとはいえ、ひとり暮らしの女性である。我が家はアパートの3階にあり、エレベーターがない。額に血管を浮かべた運送会社の人が荷物を下ろす瞬間、潰したAmazonの段ボールを差し込んだのは、我ながらグッジョブであった。それを敷かなければ、1ミリも動かすことができなかったからだ。持ち上がらないほどの米を食うって、私はアナコンダか。
 米は大好物だが、餅も蕎麦もパンも食べたい。日持ちするが、すでに精米されているから、風味は落ちる一方だ。市場には出回らない特別な米だというから、なおさら早く食べないともったいない。そこで、手土産やちょっとしたお礼として、ジップロックに小分けした米をおずおずと配り始めた。これが存外喜ばれたのである。つまり彼らは、家で日常的に米を炊いて食べているのだ。ということは、味噌汁を作ったり、茶碗を洗ったりもしているのだろう。みんな忙しいし、いろいろあるだろうに、ちゃんと「生活」をしていているのだ。それは当たり前のようでいて、何かの希望のようにも思える。じわりと嬉しい気持ちになった。
 そうこうしているうちに夏が来て、スーパーの店先にはパンパンに実が詰まったとうもろこしが並んだ。皮をばりばり剥いて、包丁で芯から実を剥がし、芯とともに炊飯器に入れてごはんを炊き始めたら、あっという間に残りの米を食べきった。旬の食材は安くておいしい。そして何より、体が喜ぶ。とうもろこしごはんがあれば、昨日食べたスイカの皮の浅漬けと、余り野菜の味噌汁だけで十分だ。
 おいしくごはんを炊き、自分好みの味噌汁を作り、余すところなく食材を使い切ることは、日々の生活に充実感を与えてくれる。誰の視線もないひとり暮らしだからこそ、それは自分にとって本当に大切なことなのだろう。誰かを養うことも、共同生活をすることも、老後の計画を立てて貯蓄することもできずに終わりそうな人生を歩んでいるが、自分が食べるものを意識的に用意するという営みは、お金を稼ぐ行為とは別の意味で、自分自身への安定をもたらしているのである。
 先に私が、30キロの米を「もったいない」と書いたのは、土井善晴さんの『学びのきほん くらしのための料理学』に、「もったいない」という言葉の意味が解かれていたからである。食においてその言葉は、贅沢を嫌うというより、せっかくの食べ物を粗末にすること。私が米をせっせと配ったのは、捨てることはもちろんだが、おいしい食材をおいしく食べないことも含めた意味で「もったいない」と強く思ったからだ。それが《自然に対するあるべき態度》と土井さんに言われれば、自分自身の感覚に自信を持つことができた。米粒を配るなんて、田舎のかあちゃんみたいでダサい気もしたのだが、米袋を空にした今、心はすっきりと晴れやかだ。その頑丈な紙袋は、飼い猫の遊び道具になっている。

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プロフィール
新井見枝香(あらい・みえか)

書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。
*新井見枝香さんのTwitterはこちら
*HMV & BOOKS HIBIYA COTTAGEのHPはこちら

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