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消費税増税だけが財源頼みなのか?――『総理になった男』中山七里/第6回

「もしあなたが、突然総理になったら……」
 そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
 ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。未曾有の感染症の拡大で、政府の対応は後手に回らざるを得ない。慎策は野党との論戦にも押し込まれてしまった。予算確保もままならない政府が、果たして取るべき施策とは――
 *第1回から読む方はこちらです。


 四月七日、新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言が発出された。
 政府は東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の七都府県に緊急事態宣言を行い同月十六日に対象を全国に拡大した。宣言の中で謳われた基本的対処方針では国民が取り組むべき具体案も示している。
 まず人と人との濃厚接触を避けるため適度な距離(推奨は二メートル以上)の確保とマスク着用と手洗い、手指消毒の慣行が勧められた。ただし同調圧力の強さから、多くの国民は推奨を義務と読み替え、粛々と従った。「ニューノーマル(新しい常態)」なる言葉が叫ばれ、不要不急の帰省や旅行など宣言が出されていない地域への移動は皆が避けるようになった。
 宣言が出されていない地域に限らず、先の濃厚接触の忌避と相俟あいいまって予定された旅行の多くは消滅した。旅客機は貨物を運ぶだけの運搬専用機と成り下がり、各空港のロビーからは綺麗さっぱり人影が消えた。旅行会社の店頭からはパンフレットも消えた。
 全国的または大規模なイベントも影を潜めた。各種コンサートやライブは中止を余儀なくされ、一部のアーティストたちはSNSを通じてのライブ配信で急場をしのごうとしたが、ほとんどは収益を生み出せずに終わった。
 会社への出勤を見合わせリモートでの作業を進める企業が増えた。在宅勤務は無駄な会議や経費の見直しに貢献したが、一方で在宅勤務にストレスを覚える中高年社員の存在も明らかにした。ニューノーマルは今まで潜在していた能力や性癖を暴き出したのだ。
 在宅勤務とともにリモート授業も日常となった。小中高生の授業は交代制となり、大学では入学式さえ中止するところもあった。かくて憧れの大学に入ったものの、キャンパスには数えるほどしか足を踏み入れず友人の一人も作れず自主退学する学生も現れた。通勤通学、外出の必要がなければ鉄道をはじめとした交通機関も出番がなくなる。鉄道各社は減便や運休に踏み切ったが、車両はいつも閑散としていた。
 自粛はあくまでも政府からの要請でしかなかったが、同調圧力の強さがここでも発揮され、国民のほとんどがまるで統率の取れた軍隊のように従った。その意味で緊急事態宣言は図らずも見えない強制力をはらんでいたと言っていい。
 建物の床面積一千平方メートルを超える施設、またはこれに満たない施設でも特に必要と判断された場合は休業要請の対象となった。その結果、映画館・劇場、集会場や展示場、百貨店、スーパーマーケット、ホテルや旅館、体育館やプールなどの運動施設博物館や図書館、ナイトクラブ、自動車教習所や学習塾、書店や飲食店が時短営業や自主休業に追い込まれた。街からは明かりも賑わいも消失し、日本の経済活動はこうして仮死状態に陥った。
 閉塞された空間で内圧が高まるのは自明の理だ。やがて鬱屈した不安と絶望は緊急事態宣言を発出した真垣政権に向けられ、更に支持率の低下を招いた。
 とにかく中小の事業者たちが待ち望んでいるのは休業補償の支給だった。補償額はいくらになるのか。いつ、どんなかたちで支給されるのか。手続きは複雑なのか簡便なのか。財源をどこに求めるかも含めて、真垣政権は早急に結論を出さなければならない。
 だが緊急事態宣言が発出されて数日を経ても、政府は何一つ発表することができなかった。

「この時期に赤字国債の発行など正気の沙汰ではありません」
 岡部財務大臣は不快感を露わにした。官邸執務室には慎策と円谷の他には岡部しかいない。半ば密室となった状況下で、慎策憎しで財務官僚出の岡部がやや居丈高になるのも当然かもしれない。
「国会答弁を聞いていて、わたしは冷や汗が出た。あの場で赤字国債の発行を断言されなかったのは幸いでしたが、そもそも総理は赤字国債の危険性をご存じなのか」
「岡部さん。いくら何でも、今の発言は真垣総理に失礼なのではありませんか」
「構いません」
 慎策はやんわりと円谷を制する。度量の大きさを演出するためもあるが、財務省側の本音を引きり出すのも悪くないと考えたのだ。
「岡部さん、ここには三人しかいないし、あなたの愚痴や批判を他の官僚に洩らすつもりは毛頭ない。是非、忌憚きたんのない意見をお聞かせください」
「忌憚も何も財務の基本を申し上げるだけです」
 前置きしてから岡部は得々と話し始める。
「赤字国債の発行には大きく三つの問題点があります。一つは国債発行残高累増に伴う財政の硬直化。予算の大半が経費に占められると財政を柔軟にコントロールできなくなります。二つ目は租税負担ではなく国債発行によって財源を賄う場合、受益と負担のバランスという点で世代間の負担の不公平が生じることです。いみじくも如月さんが指摘したように、現役世代の借金を次世代に負担させることになるので、若年層の経済力と安心感を殺ぐ結果になりかねません。三つ目は長期金利の上昇など金融市場への悪影響。赤字国債の累積が増大すれば日本の財政に対する信認が低下し、長期金利が上昇します。試算によれば金利が一パーセント上がれば三年後の国債費は三・七兆円増加しますが、これは名目GDPの約〇・七パーセントに相当します。そうなれば当然のごとく、財政破綻のリスクが急上昇します。財務省として、そんな危険な話に乗る訳にはいきません」
「しかし国債は国が国民に対してする借金でしょう」
「税収が借金の増加に対応して増加するのであれば借金そのものが一概に悪いとは言えないでしょうが、現在のコロナ禍ではいかなる税収も期待できませんよ。何しろありとあらゆる経済活動が停止しているのですから」
 経済活動の停止はお前のせいだと言わんばかりの物言いだった。
「では特別会計の設置という案はいかがですか」
「愚策と言わざるを得ませんな」
 岡部はにべもなかった。
「現在、財政法の規定に基づいた特別会計は十三ほど設置されています。各特別会計の目的や事業内容、歳入、歳出の構造は極めて多岐にわたっており、予算全体の仕組みを複雑で分かりにくくしています」
 それは慎策も同感だった。事前レクで特別会計を精査しようとしたものの内容が複雑に過ぎ、全く頭に入ってこなかったのだ。
「特別会計の増加は財政の一覧性が阻害される面があるとともに、会計が分立することで予算全体としての効率性が損なわれかねません。効率性が損なわれれば硬直化が進み、円滑な財政が望めなくなる。いずれにしても破綻のリスクが大きくなるだけです」
「では財務大臣。休業補償の財源として、あなたなら何を提案されますか」
「更なる消費税増税ですな」
 岡部は事もなげに言う。
「国民生活が厳しい折ですが、消費税増税が最も公平で増税に適しているのですよ。タイムラグはありますが、物価の上昇は必ずや従業員の収入増に繫がる。今が我慢のしどころですよ、総理」
 すると、そろそろ堪えきれなくなった様子の円谷が間に割って入った。
「岡部財務大臣。貴方は真垣内閣の閣僚であり副総理でもある。いったい総理に協力しようという気持ちがあるんですか」
「失礼なことを言うな」
 言葉とは裏腹に、円谷の反応をたのしんでいるように見える。
「わたしは財務大臣として責任の持てる発言しかしない」
 これは財源確保の確信もないまま休業補償を打ち出した慎策への当てつけだろう。外にはコロナ、内には派閥のさや当て。内憂外患とはこのことだ。
 岡部が退出した後、円谷は深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、総理。出過ぎた真似を」
「いいですよ。あなたも政権運営を思って話してくれたのでしょう。ところで今の岡部さんの説明、どう思いましたか」
「正論ですよ」
 円谷は不快感を隠そうともしない。考えが馬鹿正直に洩れ出るのは官房長官としてどうかと思うが、この場は慎策と二人きりなので許容範囲か。
「赤字国債の発行についても特別会計の設定についても、説明には何ら間違いがありません」
「でしょうね。あの人は生粋の財務族ですから」
「しかし、国が国難に遭っているというのに正論を振りかざすことが正しいのかどうか。非常時には非常時の対処法があるはずです。もちろん前例のないことですから当然リスクがあるでしょう。しかし目先のリスクに囚われて一歩も踏み出さなければ、この国がじわじわと死んでいくのを、指をくわえて見ているようなものです」
 同感だった。今、求められているのは正しさではなく望ましさだ。
「では円谷さん、岡部財務大臣以外で何かアイデアを捻り出せそうな人に心当たりはありませんか」
 問われた円谷は考え込んでしまった。適材に思い当たらないのは慎策も同様だ。閣僚の面々を思い起こしても、経済通と呼べる者はおらず、党内を見渡しても元々替え玉だった慎策には各人の資質が把握しきれていない。
 先のインバウンド政策が頭越しであったのも手伝い、岡部の慎策に対する風当たりは以前にも増して陰湿になっている。しかし彼が放った言葉に噓はなく、折角急増した訪日客も各国のロックダウンと空港の水際対策によって完全に頓挫してしまった。景気対策の柱とも言うべきインバウンドが封殺されほとんどの経済活動が停止した今、新たな財源捻出は乾いた雑巾を絞る行為に等しい。
「財務官僚の知り合いで、頼れる人はいませんか」
 続く問い掛けにも円谷は力なく首を横に振るばかりだ。そもそも円谷は国交省出身で財務官僚との接点はほとんどなかったと聞いている。官房副長官、官房長官と上り詰める過程で財務官僚と接する機会を持てなかったのはつくづく惜しい。
 もっとも接する機会がなかったという点では慎策も人を責められない。経済全般については風間に任せっきりで、多忙を言い訳に自ら学ぼうとしなかった。
 そのツケが今になって牙を剝いてきたのだ。風間が不在になった後、頼れるブレーンを作ろうとしなかった自分の油断と怠慢が招いた危機だった。
 新型コロナウイルス感染症はまだ猛威を振るい始めたばかりであり、終息の目処は全く立たない。ワクチンや治療薬のない現状では、ウイルスとの闘いは長期戦を強いられるだろう。ならばこそ事業者が安心して休業できるための財源確保が喫緊の課題となる。
「総理」
 円谷はいくぶん思い詰めた表情で話し掛けてきた。
「この際、トップダウンも選択肢の一つに加えてはどうでしょう。財務省の言い分ばかり聞いていても前に進めません。今、求められているのはスピードではないでしょうか」
 若い円谷がはやるのも無理はない。気分としては自分も賛成したいところだが、数年間の拙い首相経験が拙速の危うさを警告していた。危急存亡の秋だからこそ慎重さが必要とされる。遅滞は論外、見切り発車はご法度。感染症対策と景気対策を両立させなければ意味がない。
「スピードが求められているのは確かですが、休業をお願いした事業者に空手形を摑ませる訳にはいきません。そんなことをすればますます政府は信用を失ってしまう。国民が疑心暗鬼になっている今だからこそ、信用が政策の必須条件になってきます」
 心なしか肩を落とした円谷に、慎策は告げる。
「コロナ対策大臣を呼んでください」

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プロフィール
中山七里
(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。

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