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シン・アナキズム 第5章 グレーバー (その10)

久々です! 重田園江さんの連載「アナキスト思想家列伝」の第26回。お待ちかね、デヴィッド・グレーバー著『ブルシット・ジョブ』の登場です。今回の内容も痛快! ……グレーバーは本書の献辞を「なにか有益(ユースフル)なことをしたいと望んでいるすべての人に捧げる」と書いています。でも、今回の記事は、往年の某ベストセラーの売り文句を真似るなら、「管理職になってしまった人は読まないでください。ショックを受けますから」。読む場合はこの点にご注意ください!

※今回から急に文章の一部が太字になっていたりするのは、ひとえに連載担当者の好みによるものです。きっと読む人の共感を得られる!と確信しているのですが……どうでしょうか?

※これまでの各シリーズは下記よりお読みいただけます。
「序 私はいかにして心配するのをやめ、アナキストについて書くことにしたか」へ
「ジェイン・ジェイコブズ編」の第1回へ
「ヴァンダナ・シヴァ編」の第1回へ
「ねこと森政稔」の第1回へ
「ポランニーとグレーバー」の第1回へ
「グレーバー」の第1回へ


具体例を集めて「理論」を名乗った本

 みなさまお久しぶりです。言い訳にも飽きたと思いますが、なぜか職場で管理職になってしまい(大学教員は特殊な職業なので出世ではなく輪番みたいなもの)、ブルシット・ジョブに邁進していたら、あっという間に時間が経ってしまいました。

 というわけで、いよいよ『ブルシット・ジョブ』(2018)の話をしよう。この本の原題はBullshit Jobs : A Theoryとなっており、どうやら「理論」の本らしい。もっともグレーバーはこの本の端々でどことなくユーモラスな姿勢を貫いており、「理論」といっても決定版というようなものではない。どちらかというと、「現代社会に増殖するブルシットな仕事について、誰も何も言わないがその奇妙さにはみな気づいているはずだ。そこで、このおかしな状況をできるかぎり現象学的に記述し、現代社会に特有の末期状態を示す兆候として、何らかの説明をすべきだろう」というニュアンスだと思われる。

 「現象学的」などと言ってみたが、あるものをあるがままにできるだけ多くの事例を挙げて見渡してみるべきだ、という程度の意味である。そして『ブルシット・ジョブ』の副題、「一つの理論」というのもなかなかに皮肉が効いている。というのも、思いついたことを一般化して述べただけの主張をやたらと「理論」と称して箔をつけようとする著者が多いからだ。

 そして、「エビデンスを示せ」と誰かが言い、「これがエビデンスだ」ともっともらしい統計データをくっつける。「このデータからは因果関係が見出せるとまでは言えないのではないか」「では統計ツールを駆使してどの程度の信頼性があるかを測ってみよう」「これでは実験の再現可能性がないのではないか」「それでは再現可能な形で実験を設計しなおそう」。このようにして、「実証的理論家」たちは無数の論文を生み出していく。その過程で互いに引用し合うので、インパクトファクターもうなぎのぼりというわけだ。そもそも統計からなんで因果が導けるのか、「因果推論」がノーベル経済学賞を取ったと聞いても、カテゴリーミステイクのように思えてならない。

 こういう理論大フィーバーの傾向に対して、グレーバーはこう言っているようにみえる。そんなのを理論というなら、これだって理論じゃん。「クソどうでもいい仕事はなぜこんなに増殖するのか」についての理論。これけっこう重要ですよ、と。

どんな仕事が「雄牛のうんこ」と呼ばれるか

 さて、ではブルシット・ジョブとは何か。ブルシット・ジョブはシット・ジョブと対比される。シットとはクソ、糞、大便、要するにうんこのことだ。日本語でも「クソ!」という言い方があるように、悪態をつくときにも使われる。たとえば卵を誤って落として割れてしまったときに、‘Shit!’という。ではbullshitの方はどうかというと、これは直訳すると雄牛のうんこだ。ここで雄牛というのは力強さや乱暴さのニュアンスを含んでおり、ブルドッグのブルはここからきている。つまりは力強いクソなので、大ボラとかでたらめとか、そういった意味になる。したがって、ブルシット・ジョブとシット・ジョブを日本語にすると、「でたらめ仕事」と「クソ仕事」ということになる。

 bullshitという言い方が英語限定なのかは分からない。フランス語でもshitに当たるmerdeという言い方があり、悪態を「クソ」で言い表す文化はけっこうあるのかもしれない[※1]。だが、merde de taureauとは言わないし、日本語でも「牛のクソ仕事」という言い方はない。

 いろいろ調べていたら、危うく罵倒語の研究沼にハマりそうになったので、このへんでやめておこう。グレーバーは『ブルシット・ジョブ』の序章を、非常に印象的な発見ではじめている。こういう気づきから思考を膨らませて「一つの理論」にまで至るところは、実にグレーバーらしい。

はた目からは、あまりすることのなさそうでおなじみの仕事がある。つまりは、人材コンサルタント、コミュニケーション・コーディネーター、広報調査員、財務戦略担当、企業の顧問弁護士といった仕事である。あるいは、ある委員会が不必要であるかどうかを議論するための委員会に大いに時間を捧げているような人がいる(中略)。そのような仕事の一覧表は、際限なくつづくように見えた。私にとって気がかりだったのは、もし、これらの仕事が本当に無益ユースレスなものである、、、ならば、この手の仕事に携わる人たちは、そのことに気づいているのではないか?ということだった。自分の仕事が無意味で不必要なものだと感じている人間に、誰もがしばしば出くわしているのはまちがいない。こんなに陰鬱なことがほかにあるだろうか? 成人期の一週間のうちの五日間は、内心では必要などない――たんに時間と資源の浪費であるばかりか、世の中をいっそう悲惨なものにさえしている――と考えている仕事に取り組むために目覚めなくてはならないのだから。この問題は、私たちの社会に深刻な精神的傷痕を刻みこんでいるのではないだろうか? だが、もしそうだとしても、この問題については誰ひとりとして語ってこなかったようにみえる。仕事にひとが満足しているかどうかについての調査は豊富にあった。〔けれども〕自分の仕事が存在に値すると感じているか否かという調査は、私の知るかぎり皆無であった[※2]。

 ここで彼が挙げているような仕事こそ、ブルシット・ジョブである。引用からも分かるとおり、これは客観的な社会的事実と主観的な心理的状態の両方にまたがる概念だ。ブルシット・ジョブはまず、はたから見ていて何のためにあるのかよく分からない、なくても誰も困らないんじゃないかと思えるような仕事である。そして実際、たとえば合理化でその役務がなくなったとして、おそらく誰一人その仕事があったことすら覚えていない、そんな仕事はたくさんある。人が人を管理する仕事だけでなく、人が人をきちんと管理しているかを監督する仕事、管理する人を監督する仕事が滞りなくなされているかを管理する仕事などなど。

 私は以前よくアメリカのテレビドラマを見ていた。その一つで、重役たちの毎日の会議にコーヒーを買ってくる仕事の人が出てきた。一人一人がやれラージのミルク付きだとかカプチーノだとかシナモンシュガーをちょっとかけてなどと注文したコーヒーを、大げさなホルダーに載せて運んでくる。間違えて渡したら大変だからかなり気を遣う仕事だ。そして実際に間違えまくって大騒動が起こる。これぞブルシット・ジョブ。

 この仕事をやっている人は重役たちとファーストネームで呼び合っているのだが、実はそこには超えることのできない壁がある。彼はいつか自分がガラス一枚隔てたあちら側で、一脚100万はするビジネスチェアに座って会社の方針を議論し合う姿を思い浮かべる。だがそんな日は決して訪れない。少なくともこのドラマでは、この人は会議に間に合わせようとコーヒーを大急ぎで運んで通行人にぶつかったりする役だ。つまり本題がはじまる前にひと笑い取るためだけに毎回登場する。

 さらに重大なこととして、当人が気づいているかどうか分からないが、実はガラスの向こう側で行われている議論もまた、ほぼ無意味なのだ。高い報酬を得ていいスーツを着て椅子にふんぞり返り、ああでもないこうでもないと会社の中長期構想について激論する。重役は自分に仕えるための秘書やらスケジュールを管理する部署やら無数の人間にかしずかれているが、だいたいにおいてこれらの会議や議論自体、何の役に立っているかよく分からないのだ。

「いらない仕事」と必要な仕事

 ここで心理面について述べると、これらの仕事が本当は無益であることに、当人もぼんやりとだが気づいてしまっている。これはブルシット・ジョブによる深刻な心理的影響の原因になる。無意味と分かっている仕事のために、週に5日早起きして会社に行くのだから。さらにグレーバーは、自身のもとに寄せられた数多くのメールや告白から、多くのブルシット・ジョバーがうすうす気づいているどころではなく、自分の仕事に意味がないとはっきり自覚していることを見出した。ここで、グレーバー自身のブルシット・ジョブの定義を引用しておこう。

 おさらいしよう。「ブルシット・ジョブ」とわたしの呼んでいるものは、その仕事にあたる本人が、無意味であり、不必要であり、有害でもあると考える業務から、主要ないし完全に構成された仕事である。それらが消え去ったとしてもなんの影響もないような仕事であり、何より、その仕事に就業している本人が存在しないほうがましだと感じている仕事なのだ。
 現代の資本主義はこうした仕事であふれているようにみえる。[※3]

 ここでグレーバーが挙げている印象的な例から、いくつか引用しよう。

わたしはブルシット・ジョブをしています。そうなってしまったのは中間管理職への昇進が原因です。わたしの下で10人の部下が働いていますが、いわせてもらえれば、わたしの監督がなくとも、部下たちはすべての仕事をまわすことができるのです。[※4](中間管理職)

   わたしの仕事の大半は――とくに、顧客とじかに顔を合わせる前線から異動させられてからというもの――書類を埋めたり、シニア・マネジャー(中略)に対して万事うまく運んでいるふりをすること、あるいは概して「血税の無駄遣い(feeding the beast)」にかかわるもので、それには管理の幻想を抱かせる無意味な数字がついてまわります。自治体の市民の援助になるような仕事は、これっぽっちもありません。[※5](イギリスの地方自治体のシニア・クオリティ・アンド・パフォーマンス・オフィサー)

 わたしはブルシットなコールセンターの仕事をたくさんこなしていました。本当は欲しくも必要ともしていないものを人びとに売りつけたり、保険の加入の勧誘をしたり、無意味な市場調査の契約をとりつける仕事です。[※6](コールセンター従業員)

 こうしてみると、ブルシット・ジョブについて心当たりが一切ない人はいないだろう。そこで簡単にだが、ブルシット・ジョブと対比されるシット・ジョブについても説明しておきたい。シット・ジョブはブルシット・ジョブと異なり、人の社会生活にとって必要な仕事だ。しかし重大なこととして、現代の日本のような社会では、必要な仕事ほど待遇が悪く賃金が低くしかも尊敬されていない

 シット・ジョブにもさまざまあるが、コロナ流行の際に休めなかった人たち、在宅勤務ができなかった人たちの仕事と考えればだいたい合っている。アメリカでは食肉加工労働者が工場でコロナの集団感染があっても休ませてもらえず、問題になっていた。スーパーの店員、介護士、保育士、医療従事者、警察や消防、公共交通機関の運転士など、未知の病気を前にしても休めない人たちはたくさんいた。彼らの仕事はだいたいにおいて、必要に見合った待遇も社会的評価も与えられていないため、シット・ジョブ=クソ仕事と呼ばれているのだ。社会にとって必要ないのに好待遇の仕事が大半のブルシット・ジョブと、必要不可欠なのに待遇の悪いシット・ジョブ。これらが現代資本主義における仕事の大部分を構成していると考えると、なんとも奇妙なことだ。

 ブルシット・ジョブに戻ろう。ではこのように意味のない仕事をあてがわれ、それが無意味だと自覚している場合、はたして人はどうなるのか。そこにふつふつと湧いてくるのは、惨めさや喪失感、屈辱や苛立ちである。グレーバーはブルシット・ジョブに就く多くの人が、仕事を「しているふり」、仕事が「あるふり」をするのにかなりの苦痛を覚えるとともに、そうした状況に追い込まれていることに苛立っていると報告している。その原因をグレーバーは、何もしないでいるよりは労働することを欲し、全く無意味な存在ではなく世界にほんの少しでも影響を与えたいという、人間にとって根本的な欲求が満たされないせいだと推測している。

「データ・パーフェクター」の悲惨

 なかでも、グレーバーが挙げる「データ・パーフェクター」の例は悲惨中の悲惨だ。データ・パーフェクター。なんじゃこりゃと思うだろう。これは、企業のポイントカード申込みの契約書に誤りがないかチェックする仕事だ。ポイントカードの契約書に少しくらい間違いがあってもかまわないと多くの人が思うはずだ。ところがこの人が雇われていた会社では、誰かがこの間違いを撲滅しようと言い出した。必要もないことに時間とお金を費やす仕事を考え出す人というのも、たいていの職場にいるのだ。不幸にもその無益なプロジェクトを止める人が誰もいなかったため、この会社ではポイントカードの申込書に三重のチェック体制が敷かれることになった。その三重目を任されたのが、グレーバーのインタビューに応じたデータ・パーフェクターだった。

このレベルの退屈がどのようなものか、説明がむずかしいですね。気がつくと、神にむかって話してるわけですよ、つぎの記録にエラーがみつかりますように、つぎこそありますように、このつぎこそ、って懇願してるんです。ですが、〔なにも起こらず〕あっというまに時間が過ぎ去ってくみたいで、なんというか、ある種の臨死体験のようでしたね。(中略)こんな仕事に関心をもつような人間はだれもいないことはわかってるし、どういうふうに仕事をしようがそこになんの価値もないことがわかっている。そうなると、退屈に耐えるだけが目的のオリンピックでもやってるみたいな、個人的な根気を試されてるような気分になるんですよ。[※7]

  そしてこうした無意味な仕事をあてがわれた人は、たいてい攻撃的になる。「職場の人々にみられる攻撃性とストレスの度合いは、かれらが取り組んでいる仕事の重要性に反比例する」[※8]というのが、製薬会社のマーケティング会議で披露されたのちに廃棄される報告書を書く仕事をしていたブルシット・ジョバーの発見である。

  こうして、ブルシット・ジョブとはそれだけで甚大な社会的・心理的影響をもたらす現代の宿痾ともいうべき、恐ろしいものであることが分かってきた。じゃあそんなものなくしてしまえばいいじゃないか。ところが、ブルシット・ジョブはなくなるどころかますます増殖している。なぜこんなことが起こるのだろう。

 グレーバーは『ブルシット・ジョブ』第2章で、ブルシット・ジョブが蔓延る現代社会は、領主が従者や奉公人や下働き、農奴などを抱える封建制に似たところがあると言っている。封建時代とポスト産業社会の資本主義時代。かなり隔たった二つの時代が似ているとは大いなる皮肉だ。そしてもちろん異なるところもある。封建時代は、土地と農業に根ざし、職人たちがギルドで結びついた再生産社会であった。ここでは身分に応じて人々の所属が決まるので、社会全体が主従関係によって根本的に規定されているのも当然である。

 これに対して現代では、古典的資本主義において中心的役割を果たした「生産」部門に追加の報酬を支払わず、余剰利益を別のことに費やすポスト産業社会の到来によって、ブルシット・ジョブの増殖が起こった。次にこれについて説明しよう。

なぜ「いらない仕事」がはびこるのか

 近年では、企業の生産性向上による利益は、賃金に反映されなくなっている。日本でもバブル崩壊後の1990年代から、賃金が全く上がっていないことは有名である。名目賃金がほぼ上がらないまま物価が上昇中の日本では、実質賃金のマイナス成長がつづいている。

 この点に関して、日本では追加利潤の労働者への配分が行われず、企業の内部留保だけが増大したと言われる。主に欧米を念頭に置いたグレーバーの仮説は少し異なっている。自動化や省力化で増した生産効率の分は、賃金上昇に回される代わりに、ブルシット・ジョブの際限ない創造と増殖によって消費されたというのだ。

 彼はフランスの「エレファント・ティー」という紅茶製造会社を訪問した時の例を挙げている。その企業では、1980年代以降、利益を得てもそれを追加の設備投資や労働者雇用に用いることがなくなったという。その代わりに、ホワイトカラーの新しいポストを作って次々と人を雇うようになった。彼らはさかんに会議を開いて報告書を書いたが、実際にどんな仕事をしていたか定かではない。そしてとうとうその管理職の一人が、「工場を閉鎖して会社をポーランドに移そう」と言い出した。その結果、労働者たちは怒って工場を占拠したという。そこをグレーバーが訪問したというわけだ[※9]。

 グレーバーが掲げるグラフによると、業務の合理化と生産性の向上の趨勢は、アメリカでは戦後ずっとつづいてきた。しかし賃金は70年代以降上がっていない。では利益はどこにいったのだろう。「1%の最富裕層、つまり投資家、企業幹部、そして上位層の専門的管理者諸階級」[※10]のところにいったのだ。これはどういうことか。

いいかえれば、封建制のアナロジーは、実際にはアナロジーでさえない。マネジリアリズムの見かけのもとで、そこでは富と地位とが経済でなく政治によって割り振られる、あたらしい見分けにくい形態の封建制が生み出されている。こうして、「経済的」とみなされるものと「政治的」とみなされるものの差異をみつけることがますますむずかしくなるのである[※11]。

 富が労働者に配分されなくなった原因の一つが、無数に生み出されてきたブルシット・ジョブであり、その無意味さに思い悩みストレスを溜め込み、攻撃的になるブルシット・ジョバーたちである。

長いこと、私はあらゆる学術的分野のさまざまな論文を翻訳してきました――エコロジーから会社法、社会科学からコンピューター・サイエンスに至るまで。その大部分が、人類にとって価値があるとは全然思えませんでした」。[※12](フリーランスの学術翻訳者)

 この部分を読んだとき私は、この話題は自分に突きつけられたものだと改めて思わされた。私自身、冒頭で述べたように中間管理職として多くのブルシット・ジョブを日々こなしており、まさに右から左にそれらを処理している。ここで言っておくと、ブルシット・ジョブはその存在意義を牛のクソ仕事が滞りなく処理されるところに置いている。だから仕事を溜め込んで腐らせるなどもってのほかだ。そして、降り注ぐブルシット・ジョブをものともせず、華麗にテキパキと捌く管理職こそ理想的と評価される。

 これが馬鹿げた世界であることは分かりきっているし、学者の場合には本業は別だと思っているからそれなりにやり過ごしている。だが、上の学術翻訳者の話はもっと核心的なところでドキッとさせられる。私はふだん研究のために、学術雑誌や商業誌のページをめくり、多くの論文に目を通す。図書館に行けば本だらけで、自分の研究室にだって小さい地震でいちいち山が崩れるほど本が積んである。だがときどき思うのだ。雨後の筍のごとく出版される活字たちのうち、何か意味あるものを生み出す、あるいは意味ある何かとつながりを持つ作品はどのくらいあるんだろう。こんなことを言い出したらキリがないのは分かるが、ときどき問わずにいられなくなる。

 私が思想史研究をしていることも関係あるのかもしれない。マキャヴェリの『君主論』やルソーの『社会契約論』、そしてフーコーの『監獄の誕生』といった巨大すぎる著作たち。時代を創り世界を変えた作品に接すると、こういうことをつい考えてしまうのだ。たとえば私が書いているこの文章に、いったい何の意味があるのだろうと。

 このように考えると、ブルシットな仕事とそうでない仕事を分けることは、本当のところグレーバーが言うほど簡単ではないのかもしれない。また、誰かの仕事をブルシットだと名指すことには、暴力性が伴うこともありうるだろう。

 だがやはり、私たちがブルシット・ジョブに取り囲まれていることは事実だ。そこで、ブルシット・ジョブが生まれてくるような、政治と経済が混濁した現代の資本主義のあり方について、もっと詳しく見ていくことにしよう。

(次回「グレーバー」(その11)に続く)

*   *   *   *   *

[※1] フランス語でのmerdeの用例についての学術研究は、以下。楊鶴「フランス語の罵倒表現に関する言語学的研究」筑波大学博士(言語学)学位請求論文(2020)、第4章。 https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/2000596/files/A9764.pdf

[※2]デヴィッド・グレーバー、酒井隆史他訳『ブルシット・ジョブーークソどうでもいい仕事の理論』岩波書店、2020、p.1―2、強調と〔 〕内は日本語訳者による補足。
[※3]同書、p.22.
[※4]同書、p.80.
[※5]同書、p.76.
[※6]同書、p.65.
[※7]同書、p.160. 〔 〕内は日本語訳者による補足。
[※8]同書、p.163
[※9]同書、p.237―236.
[※10]同書、p.237.
[※11]同書、p.237―238.
[※12]同書、p.269.

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