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連載 シン・アナキズム 第5章 グレーバー (その9)

重田園江さんの連載「アナキスト思想家列伝」、節目?の第25回! 浩瀚な『負債論』読解の続きです。なぜこの本がグレーバーの代表作と言えるのか。
※これまでの各シリーズは下記よりお読みいただけます。
 「序 私はいかにして心配するのをやめ、アナキストについて書くことにしたか」へ
 「ジェイン・ジェイコブズ編」の第1回へ
 「ヴァンダナ・シヴァ編」の第1回へ
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 「ポランニーとグレーバー」の第1回へ
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あらゆるものに値段が……

 そうかといってグレーバーが、互酬を含む交換に代わって、コミュニズムやヒエラルヒーの原理に立ち返ろうと言っているかというと、そんなことはない。さしあたり『負債論』で試みられたのは、「借りたものは返す」とは異なる社会関係や経済の営みが存在すること、また負債の中にも、契約書に記された金額を期日までに定められた条件で(利子をつけて)返済するという、私たちがローンやクレジットとして見慣れたものとは異なる、さまざまな貸し借りの形態が存在すると示すことだ。

 負債の諸形態に言及する前に、互酬についてもう少し詳しく検討しておく。まずポトラッチから。ポトラッチは競争的な贈与を通じて、首長たちが競い合い、また結果として富が一ヶ所に集中しないようにする蕩尽の儀礼である。ではこれを、果たしてどこまで「交換」と言えるだろう。およそ市場の交換とは異なり、ポトラッチではできるだけ多くの富を気前よいふりをしてポイポイ海に投げ捨てる(消費ではなく蕩尽)ことが重視されている。これをグレーバーがいう「借りたものを返す」モラルと結びつけるのは、実はかなり難しい。ポトラッチの競争性と敵対性は、それが激しくなると暴力の様相を呈することからも明らかだ。それも借金取りの暴力ではなく、もっと与えようとする側の贈与の暴力性なのだ。

 ポトラッチでは、以前与えられた贈与より多くの返礼ができない場合、その人の面子は潰れ、地位を維持できなくなる。その意味で返礼は義務である。だがそれは、市場経済における借金の返済とは様相を異にする。ポトラッチには厳密な「利子」の考えはなく、ただ凌駕すること、気前よく捨てること、相手を圧倒すること、そしてそのための勇気が重視される。これに対して、借金の返済に気前よさは不要だ。あらかじめ決められたルールどおりの返済だけが求められる。さらにポトラッチにおけるように、返済によって新たな名誉や名声が得られるわけでもない。

 クラも同様である。首飾りと腕輪が逆の円環を描いてぐるぐる周る社会においては、「借りたものは返す」という二者関係のモラルとは異なった社会秩序が形成されている。モース自身が指摘するとおり、参加するのは二者ではなく、もらった人にそのまま返すことはクラの円環の中では起こらない。

 市場の交換では、当事者は文脈(=価値の源泉としての「構造」)から切り離され、あたかも自分の欲望だけに動かされて合理的計算に基づいて交換が行われるかのように擬制される。だがクラ交易では、こうした仮想的な物々交換の神話は不要である。そこでは実際に腕輪と首飾りは円を描いて集団から集団へと手渡される。これは、交換が終わると互いに欲しかったモノが手に入って関係が終わりを告げるという市場交換のモデルとは似ても似つかない。クラを与えることは関係を存続させるが、クラの宝物自体は誰の手元にも長くは留まらない。これに対して市場では、交換が終わった途端に関係が切れる反面、交換によって得られたモノだけは手元に残る。関係が残るかモノが残るか。互酬の秩序と交換と所有の秩序はこうも違っている。

 そのため、グレーバーが互酬を交換の中に含める必要があったのかどうか、そのこと自体が疑問になってくる。しかもそのせいで、『負債論』の論旨は相当分かりにくくなっているのだ。というのも、彼が『負債論』でやっていることの中心は、実は互酬批判ではない。むしろ重要なのは、生命を含むあらゆるものに値段がつけられ、売買できる社会がどうやって出現したかだ。つまり、「かけがえのない」何かが失われたときにそれを償う代わりのものは何もないという、踏み越えることができないはずの大原則から、あらゆるものに値段がつくとされ、人の命すら一定の価格で売買される世界に、どうやって変化していったのかが彼の問いなのである。

「花嫁代償」と血の復讐

 この点に関連してグレーバーが最初に取り上げるのは、「花嫁代償」と「血讐」である(『負債論』第6章)。花嫁代償とは、「求婚者の家族が女性側の家族に、犬の歯やタカラガイなど何であれ現地の社会的通貨を送り、送られた側は娘を求婚者の花嫁として差し出す」 広く行われてきた慣習である。これについてグレーバーは、花嫁が通貨と引き換えに「売られた」と理解するのは性急だとする。ここでは「通貨は負債を清算するためでなく、通貨によっては清算不可能である負債の存在を承認するために贈られる」[※1] からだ。花嫁は通貨と交換されたのではない。通貨は花嫁が、何ものとも交換不能であることを示す「しるし」なのだ。

 血讐(誰かが殺された場合に、復讐のために相手やその家族を殺すしきたり)についても、グレーバーは次のように述べる。共同体の誰かが殺された際、殺した側への血の復讐を防止するために、贖罪金が支払われる慣習がある。これは加害者家族が被害者家族に生命の借りがあるためになされる贈り物だ。だからと言って、それで命の犠牲が贖われるとは考えられていない。ここが重要な点だ。こうした金銭が「どのような意味においても、殺害された親類への賠償ではない」[※2] ことは、誰の目にも明らかだからだ。

 これらの例では、貨幣が負債を帳消しにすることはありえない。結婚によって一人の人間がある親族から別の親族へと移動する場合も、殺人によって家族の一人の命が消え去る場合も、いずれにおいてもたとえば生命保険の支払いのような金銭または社会的通貨で、その損失が相殺されることはない。ここではまだ、人の命やその存在は数え上げと交換の対象ではないのだ。

 ところが、踏み越えることができないはずのこの区別、何ものにも代えることができない固有性を持った人と、貨幣や通貨や貴重品との厳然たる境界は、奴隷貿易の浸透によって無残にも踏み越えられてしまう。人が金で売られ買われるなんて、考えてみれば全く理解できないことだ。人間の売買はその「かけがえのなさ」を真っ向から否定するのだから。売られた途端、人は固有名を持った存在ではなくなってしまうだろう。

 ではなぜそんなことが可能だったのか。グレーバーは人間の固有性の剥奪にその鍵があると考える。ある人をその人が生きてきた文脈から切り離し、社会関係を奪ってしまうと、何ものにも代えがたかったはずの人間存在は、借金のカタとしてあるいは負債をチャラにするための尺度かつ資源として、抽象的な一単位としてカウントされ、利用可能になるのだ。

 歴史を見れば明らかなとおり、こうした文脈の剥奪には「継続的で組織だった大量の暴力」[※3] が必要となる。これが16世紀から18世紀の奴隷貿易において起こったことだ。三角貿易で売り飛ばされた奴隷たちが、北米やカリブの島々に移送される際に押し込められていた船底は本当に恐ろしいところだ。家畜だってあんな場所では多くが死んでしまうだろう。実際、立ち上がることもできない真っ暗な船底で多くの奴隷候補者たちが死んだ。現代なら、縛られて密輸されるクワガタや希少ガメのような扱いだ。

 やっと陸に着いても、そこに待っているのは恐ろしい暴力と人外の扱いである。彼らは決して人間が受けるべきでない扱いを受けた。かけがえなさの根拠となる社会関係を全て剥奪され、「一体」いくらとしてカウントされるようになった。皮肉なことに、人間が貨幣でカウントされ売られるという事態が蔓延することによって、奴隷たちはますます人間として扱われなくなり、まさに牛馬のようにこき使われるようになる。人として扱われないことが、人として扱わないことを正当化する。この連鎖が奴隷制の残虐を支えたのである[※4] 。

 グレーバーはこのように、市場の交換と負債とをつなぐ一種の蝶番として、奴隷制に注目している。「人間をその文脈から剥奪し、抽象化することにかけては比類なき能力を有する奴隷制が、いずれの地においても市場の発生に重要な役割を演じた」[※5] 。近代以前から、人はしばしば借金のカタとして債務奴隷となってきた。さらに、近代の奴隷貿易においては大規模な人狩りが行われた。そこでは狩られる側ではなく狩る側が、貿易相手の巧妙な借金の罠から逃れられなくなり、奴隷を大量に調達して白人たちに引き渡したのだ。こうしてそれまで商品経済が浸透していなかった場所にも、奴隷の売り渡しを通じた市場と負債の仕組みが入り込んでいった。

戦争が貨幣を普及させた

 人間をモノのように扱い、一定の単位の貨幣と交換可能にする奴隷制とならんで、負債社会=市場社会の到来にとって重要なファクターとして、グレーバーは貨幣、とりわけ金属貨幣の出現を挙げる。

 『負債論』冒頭でも批判されている「物々交換の神話」は、アダム・スミスの『国富論』にも出てくる有名な市場と貨幣の起源論だ。前々回も取り上げたが、そこでは、Aというモノが余っている人とBというモノが余っている人がたまたま出会って、無言でAとBを交換するところから経済関係がはじまると想定する。そしてモノとモノの交換が増えてくると、それらを計測する共通単位があると便利だと気づいた人々が、貨幣を導入する。ここで貨幣は、交換のための手段として、それ自体は何ら価値のない透明な道具として普及したことになっている。ではなぜ、ただの手段や道具であってそれ自体価値がなかったはずの貨幣が、各方面で崇められ、誰もが欲しがる対象になったのか。それは、貨幣がさまざまなモノと交換できる、その汎用性によるとされる。そのため貨幣の素材はなるべく具体性がなく耐久性がある、つまり金属のような材料が望ましい。

 だがグレーバーによると、この神話は貨幣と市場に関する多くのことを覆い隠すのに役立っている。つまり文字通りの神話ということになる。グレーバーはアルフレッド・ミッチェル=イネス(1864―1950)やゲオルグ・フリードリヒ・クナップ(1842―1926)に拠りながら、歴史的に見ると金属貨幣より信用貨幣が先行したこと、また、汎用性の高い金属貨幣は市場において自然発生的に流通したわけではなく、国家や権力者による貨幣使用の強制があったことに注目する[※6] 。

 貨幣が何らかの神聖さを保つ宗教的な「トークン」の性格を失い、世俗的なモノの取引に使用されるようになる過程や、すでに述べた人間をカウントする奴隷制の出現(ここで実際に数え上げられたのは、物々交換の神話に出てくる抽象的な商品Aではなく、生身の人間だった)、そして私的所有の制度化が奴隷のモノ化を推進したことなどを述べた後、グレーバーは硬貨の発明が「負債をカウントすること」を格段に容易にした点を指摘する。

 グレーバーは、前800年から後600年の「枢軸時代」に、世界各地で軍事紛争と征服が盛んになり、それと同時に鋳貨が発達したという。戦争は鋳貨を用いた市場の発達に手を貸すが、逆に平和な時代がつづくと鋳貨はあまり使われなくなり、信用経済が復活するケースも見られる。考えてみれば分かるのだが、平和な時代には人々は地縁共同体を発達させ、貸し借りは通常「ツケ」で行われる。取引者の共同体からの退出の可能性が減少すると、鋳貨は迂回的で邪魔な存在になるからだ。これに対して戦争の時代には、各地で掠奪された財物や貨幣がやりとりされる。また、移動する軍隊はつねに「兵站」を必要としており、そのため貨幣のようにさまざまなモノと交換可能な媒体が重宝されるようになる。さらに、国家が税を課すのはいつも戦争のためで、だからこそ現物ではなく貨幣での税納付が強要された。つまり、物々交換の神話が主張するような「余っているものを交換したがる人間の交換性向」ではなく、国家による強制と戦争というむき出しの暴力が、貨幣経済の浸透に大きな役割を果たしたのである。

 要するにグレーバーは、戦争や征服といった資源の簒奪を伴う大がかりな暴力が、いつでもどこでも通用する金属通貨を必要とし、また誰もが貨幣と引き換えにモノを手に入れることができる非人格的な市場を発達させてきたと言っているのだ。たしかに、小さな地域共同体や顔見知りだけで成り立つ世界では、国中で通用するような普遍性をもった通貨は不要である。それを必要とするのはむしろ、権力を持つ者、税を扱いにくい実物ではなくカネで集めて収奪を容易にしたがる支配者、つまり税収に依存する国家の側だった。

 そして、国家と銀行家にとって都合がよいだけの公定通貨を浸透させる過程で、日常生活に根ざした地域信用通貨は駆逐されていく。それに伴って激しい暴力がくり返され、地縁で結びついているために金銭貨幣を必要としなかった人民は、貨幣経済へと否応なく巻き込まれる。最終的には、彼らの多くが工場労働者として「賃金奴隷」に貶められた。そのプロセスにおいて、負債による人々の拘束が巧みに利用されたことは言うまでもない。借金漬けにしてしまえば言うことを聞かせられる点では、自国の貧民も他国の政府も同じだ。「借りたものは返さなければいけない」道徳は、かくも強力に人々の隷従を可能にする印籠のような存在となり、世界に君臨している。

 では、信用の経済は失われたのか。現状を見るとそうではなさそうだ。私たちはすでに現金をあまり使わない経済の中におり、また巨大な国際経済は大がかりな信用取引で動いている。だがこれはグレーバーに言わせると、戦争と暴力を伴って鋳貨が導入されることで駆逐されてしまった、地域信用貨幣の再興とは似ても似つかないものだ。現在世界中を駆け巡っているのは、「非人格的信用貨幣」[※7] なのだから。

 私たちが金融商品を買って投資する際、そこでの信用取引が人格的な何かとつながっているとは誰も思わない。金融商品はその価値が上がったり下がったりするが、それは数字やグラフで分かるだけで、本当のところその背後にどんな社会関係があるかなど全く感知できない。遠くの国で不動産不況が起こり、政策金利に変動があると数字やグラフが動く。だがそれは、明らかに非人格化された「相場の連動」でしかなく、私たちが生きる具体的な社会関係とは完全に切り離されている[※8] 。

「そうではなかった歴史」を描く意味

 このように現実に起こっていた奴隷制と負債の地獄絵図に対して、アダム・スミスが描いた市場の世界は実に美しいものだった。「スミスは、ほとんど完全に負債と信用から解放された、それゆえ自責と罪業から解放された、想像上の世界を構築した。それは、全てが大いなる善に奉仕すべくあらかじめ神によって調整されているということ〔=神の見えざる手〕を十分認識した上で、男性女性が自らの利益を自由に計算することのできる世界である」[※9] 。グレーバー自身も指摘するように、「借りたものは返さなければいけない」道徳は、このスミスの夢の世界を理想の到達点としている。負債から解放され、一切借りがない状態になること。これが市場の競争の中にいる人々の目標である。借りたものは返すべきであるなら、何も借りていない状態は、この強迫的モラルからの解放を意味するからだ。

 ところが実際には、市場の社会は借りること、借りつづけることを促し、必要としている。個人が奨学金返済と住宅ローンにかなり長い期間縛られるだけではない。会社経営とは金を借り、事業を大きくし、借りた金を返したらまた大きな借金をして事業を膨らませる、これのくり返しである。膨張の終わりが資本主義の終わりであることは、マルクスがすでに指摘したとおりだ。そして膨張する資本主義とは、負債を更新し、それを返しつづけるプロセスでもあるのだ。

 では、負債のない人はこの無限ループから逃れていると言えるだろうか。そんなことはない。現代では、何も生産せず他人の上がりをピンハネすることでアダム・スミスに嫌われていた「金利生活者を安楽死させるかわりに、いまや万人が金利生活者になることができる」[※10] 時代なのだから。人々は四六時中小さな投資を勧められ、投資教育は小学生からやるべきだなどと、大真面目に提案されている[※11] 。つまり、みんなが小さな債権者になることで、債務奴隷でも賃金奴隷でもない、資本主義人(=企業家)としての誇りを手に入れられるというわけだ。

 グレーバーが指摘するとおり、こうした人間像も一つのモラルである。借りたものは返さなければいけない。債務者が返済できないなら、それは借りた側の責任である。働いて借金を返すのはよいことである。借金のカタに売られるのは仕方のないことだ。借金を返したら、もっと自分の資産を増やすことに関心を持ち活発に投資を行った方がよい。これらは全て、モラルの言語で語られている。つまり、それに対抗する別のモラルの存在に気づき、こうしたモラルが本当に正しいのかを疑うことができなければ、私たちはずっと理念上の債務奴隷のままということになる。

 「負債はいうまでもなく、経済的事象についてのいかなる議論も、あるいは価値ある生産物や資源へのアクセス権や処分権についてのいかなる議論も、さまざまな形で衝突し合う、複数のモラルの言語のもつれ合いにならざるをえない」[※12] 。グレーバーの言うとおりだ。私たちは人を騙して金を巻き上げるときだって、あるモラルを選択している。無償で何かを与えるときにも何らかのモラルに支えられているし、借金を返すよりも欲しいものを買おうとする場合にも、特定のモラルに依拠している。

 このような経済と金銭をめぐるモラルの中で、最も反対が難しいものの一つが、「借りたものは返さなければいけない」という命題である。だからこそグレーバーは、このモラルをこそ根本的に見直さなければならないと考えたのだ。そして、問いの巨大さを十分理解していた彼は、おそろしく長い負債の5000年史を描いた。この本に賭けるグレーバーの情熱がどこから来たのかを考えると、その知的誠実に頭が下がる。負債の5000年史の背後には、先進国の金持ち金融機関に金を返すために貧困国の市民生活や社会保障を犠牲にしろと恫喝する国際機関への憤りがあり、「でも借りたものは返さないと」と平然と言い放つ慈善エリートの傲慢と視野狭窄への苛立ちがあり、1%と99%の富の格差が広がりつづける世界への疑念があり、巨大多国籍企業のタネや農薬に借金漬けにされる農民たちの苦悩があり、学生ローンを返すために徴兵に応じる貧困学生の悲しい決意があるのだ。

 こうして、怒りと悲しみと痛みに支えられた負債の5000年史は、小さな地縁共同体や親族間での工夫の積み重ねによって回っていた「人間の経済」を、国家と植民地支配と資本主義労働者の暴力的な創出によって「商品経済」へと変えていく歴史として描かれる。国家と組織化された暴力の無慈悲な巨大さに、そうではないもの、かつてそうでなかったものを対比的に提示する。この歴史の描き方は実にアナキスト的で、グレーバーの夢が、国家に抗する小さな共同性の、その都度の再構築にあることが見て取れる。

 ただし彼は、市場と交換の資本主義に変わる別の未来像を全体として立てることはしない。そうではなく、人間社会が多様性に満ちており、周りを見渡してみれば「借りたものを返す」道徳ではない実践や行為にあふれていることを、読者に自分で再発見してほしいと願っているのだ。問いを鋭く立てるが答えは開かれたままにしておく。ただし、いまとは別の社会関係を思考するヒントやアイデアは随所にちりばめておく。

 その意味で、徹頭徹尾アナキスト的で、また知的刺激の宝箱のような作品が、『負債論』だ。だからこれは間違いなく、グレーバーの主著となる一冊なのだ。

(次回「グレーバー」(その10)に続く)

*   *   *   *   *

[※1] 同書p.203, 強調原文。
[※2] 同書p.204.
[※3] 同書p.242.
[※4] 奴隷を人間扱いしない例は挙げればきりがない。2018年に市民の抗議で撤去されるまで、ニューヨーク医学アカデミー入口に彫像が立っていたジェームズ・マリオン・シムズ(1813―1883)のやったことが思い出される。彼は産婦人科医療の父などと偉人扱いされてきたが、「膀胱膣瘻」という膣の壁に穴が開いてしまう婦人科の病気治療のため、多くの黒人女性奴隷を農場主から借り受け、「裏庭にある病院」に収容して麻酔なしの人体実験手術をくり返した。その際彼は自らの行為を正当化するために、「黒人奴隷は他の人たちより痛みに強い」と自分に信じ込ませていたという。女性たちが手錠をかけられ切りつけられて痛みに悲鳴を上げる様子を、シムスは公開手術で他の医師たちに見せた。19世紀のことである。シムスは所有者から、一定期間奴隷の所有権を移譲されていた。持ち物の処分権は所有者にあるという原則は、奴隷が人間でなくモノとして扱われ、何をしてもよい対象と見なされる大きな理由となっていた。泣き叫ぶ女性を前にしても痛みを感じないなどと平然と決めつけられたのも、奴隷をモノとして扱うことに慣れきっているためだろう。
 こんなやつの彫像を崇めて厳粛さを演出していたなんて、ニューヨーク医学アカデミーも腹立たしいかぎりだ。
[※5] 『負債論』p.250.
[※6] Alfred Mitchell-Innes, ‘What is Money,’ in The Banking Law Journal, May 1913, ‘The Credit Theory of Money,’ in The Banking Law Journal, January-December, 1914. ゲオルグ・フリードリヒ・クナップ、小林純・中山智香子訳『貨幣の国家理論』日本経済新聞社、2022.(よく訳してくださいました。感謝)
[※7] 『負債論』p.497.
[※8] 相場の暴落の背後に人々の生活と社会関係があること、バラバラかつ無責任に行われる儲けのための活動がどうつながってリーマンショックを生んだのかを描いたのが、マイケル・ルイス、東江一紀訳『世紀の空売り――世界経済の破綻に賭けた男』(文春文庫、2013)である。
[※9] 『負債論』p.521.
[※10] 同書p.555.
[※11] コエテコ「【2022年高校で「資産形成」授業が開始】小学生から始めておこうマネー教育!大切な家庭科の学び」2022.1.17. https://coeteco.jp/articles/11525
[※12] 『負債論』p.582.

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