「NHK出版新書を探せ!」第17回 言葉が死んでいく社会で――與那覇潤さん(歴史学者)の場合〔後編〕
突然ですが、新書と言えばどのレーベルが真っ先に思い浮かびますか? 老舗の新書レーベルにはまだ敵わなくても、もっとうちの新書を知ってほしい! というわけで、この連載では今を時めく気鋭の研究者の研究室に伺って、その本棚にある(かもしれない)当社新書の感想とともに、先生たちの研究テーマや現在考えていることなどをじっくりと伺います。コーディネーターは当社新書『試験に出る哲学』の著者・斎藤哲也さんです。
※第1回から読む方はこちらです。
〈今回はこの人!〉
與那覇 潤(よなは・じゅん)
1979年生まれ。東京大学教養学部卒業。同大学院総合文化研究科博士課程修了、博士(学術)。学者時代の専門は日本近現代史。2007年から15年にかけて地方公立大学准教授として教鞭をとり、講義録『中国化する日本』(文春文庫)が大きな話題に。その後、重度のうつによる休職をへて17年離職。18年、病気の体験を踏まえて現代の反知性主義に新たな光をあてた『知性は死なない』(文藝春秋)を発表し、執筆活動を再開。20年、斎藤環氏との共著『心を病んだらいけないの?』(新潮選書)で小林秀雄賞を受賞。
「近代社会はどこにも、初めから存在しなかった」
――與那覇さんご自身の研究についてもうかがいます。のちに『翻訳の政治学』(岩波書店)として刊行される博士論文(2007年提出)は近代の日琉関係が主題ですね。このテーマにはどういう経緯で出会われたんですか。
與那覇 ひとことで言うと偶然ですね(笑)。学部の卒論は沖縄と全く関係がなく、琉球処分をテーマにしたのは修士論文(2003年度)からで、その背景にも「ポストモダンの左旋回」に感じていた違和感があります。
1990年代以降、歴史研究でも近代史の分野で「国民国家の相対化」を掲げる著作が目立っていました。そうした潮流では琉球処分についても、沖縄で暮らす人たちを「お前らも同じ日本民族なんだ」という論理で上から呑み込んでいったと、こう捉えられる。しかし実際に調べてみると、沖縄県が設置された1879年の時点では、そもそもそういった論理自体がほとんどなかった事実が見えてきました。今日の学者たちが勝手に、彼らにとっての仮想敵である「近代ナショナリズム」を、過去の出来事に読み込んでいただけだったんです。
――『翻訳の政治学』の結論部では、近世東アジアの経験に照らして、現代世界を「再近世化」と位置づけている点が刺激的でした。
與那覇 欧米諸国の体験をもとに、「国民国家」や「近代社会」はこういうものですといったモデルを作り、その基準で見ると日本は明治維新でそうなりましたね、中国は辛亥革命以降でしょうかねと。こういった歴史の捉え方は、二重の意味で貧しいと思っていました。まず①西洋近代以外の国家や社会のあり方にも、それぞれの個性や長短があったことが見えてこない。次に②本当にそんな簡単に「近代化」なんてするのか、欧米以外の地域では土着のモデルが生き延び続けるんじゃないかという視点が欠けている。
だから博士論文では、西洋近代が到来する以前の近世東アジア(江戸幕府と清朝の時代)の国際秩序を採り上げて、こちらのほうが「ポストモダンと呼ばれる現在の世界にも、似ているんじゃないですか」と問いかけたわけです。しかし驚いたことにその後、実は③欧米ですらそもそも、啓蒙的で理想主義的な「近代」なんて定着していなかったという事実が明らかになり、とても近代人とは思えないトランプのような人がリーダーになってしまう。私の歴史観を「極論だ」とか批判してくる人がたまにいるのですが、現実の世界の方がよほどぶっとんでいて、むしろ私には極端さが足りなかった(苦笑)。
――そう考えると、すでに『翻訳の政治学』の段階で、『中国化する日本』(文春文庫)、さらには「中国化する世界」という問題意識が出ていますよね。
與那覇 そのとおりです。実際に2020年の新型コロナ禍では、中国共産党が最初に発動したロックダウン(都市封鎖)を欧米諸国が陸続と真似ていき、「日本もそうしろ!」と叫ぶ有識者がごまんと出ましたね。当初、そうした流れを正面切って批判した歴史学者は私だけでしたが、それは2007年からずっと考えてきたからですよ。
タネ明かししますと、近年、フランスの科学人類学者ブルーノ・ラトゥールの邦訳が続々と出ていますね。実は私、博士課程でラトゥールの『We Have Never Been Modern』という英訳本にめぐり会って、「ジャケ買い」ならぬ「タイトル読み」をしたんです。「悪しき近代と闘おう」ではなくて、そもそも最初から「近代なんてなかった」んだ――。そういう風に考え始めていた自分の発想と、ぴったり同じだ! と思って。
この本さえ英語で読み切れば、博論がまとまるはずだと直観が働き、しゃかりきで読んだら本当にまとまった。あの経験はよく覚えています。現在は『虚構の「近代」』という邦題で日本語訳(川村久美子訳・新評論)も出ていますが、もっと早く出してほしかった(笑)。
「予防主義」は何も解決せず、問題を悪化させる
――2011年に『中国化する日本』が出版され、大きな話題を呼びました。あれから10年経ったいま、與那覇さんは歴史に対してネガティブな発言が目立ちます。斎藤環さんとの対談集『心を病んだらいけないの?』の冒頭でも、「率直に言って、ぼくはもう歴史感覚なんてなくていいと思っている」と語られていますし、新型コロナ禍に際しても機能しない歴史意識への失望を表明されました。
與那覇 同書の中で斎藤環さんが、米国で主流の「早期発見」の考え方――幼少期から発達障害や統合失調症を鑑別して、予防的に薬を飲ませようとする治療法への懸念を語られています。私はそうした思考法の弊害は、日本のコロナ禍にも当てはまると思うんです。「もし罹っても大丈夫なように」医療体制を強化することをおろそかにして、「とにかく罹るな! 自粛しろ、不謹慎なやつを叩け!」と煽ってばかりいた結果、相互の信頼や希望が失われ、医療が崩壊する前に社会が崩壊したといっていいでしょう。
問題が起きる前に「事前に予防しよう」とする考え方は、むしろ状況をもっと悪くするんじゃないだろうか。実は歴史教育にも、そういう予防主義的な側面がありました。「正しい」歴史観を生徒や学生に持たせることで、日本を右傾化させないとか、もう一度戦争ができる国にしないとかですね。むろんそうした気持ち自体は尊いものなんだけど、でもそれはどんどん語られる歴史像の幅を狭くして、「日本史とかってどうせマンネリでしょ。ウゼーからもういいよ」という人を増やしただけなんじゃないかな。
近日、別の場所でもお話ししたのですが、問題が「生じないように」あらかじめすべてを設計しようとする発想そのものに、無理があるわけですよ。そうではなくて、問題の「兆しが見えてきた」ときに、きちんと見抜いて向きあえる感受性を育てていく。最初から「正しい意見の人しかいないから大丈夫です」ではなくて、なんか最近、ヤバめの意見の人が増えてきたぞという時に、きちんと議論・対話できる論理を身につけていこうと。そうした方向へと、歴史を含めた人文学は再編していかなくてはならないと思いますね。
NHK出版新書のラインナップとして、ここでお薦めしたいのは仲正昌樹さんの『悪と全体主義』です。ハンナ・アーレントの主著『全体主義の起原』(全3巻)と、さらには『エルサレムのアイヒマン』のエッセンスが1冊でわかるという、非常にお買い得な本です。
アーレントは「複数性」を持つ人間どうしが、異なる立場ではありつつも議論を交わしてゆく「活動」を、人間集団が一色に塗りこめられてしまう全体主義を批判する上で大切にしました。仲正さんはその主張をあえてハウツー的に言い換えて、「自分に敵対してくる人たちのうち、最も筋が通っていて、論理的に反駁するのが難しそうな人との議論に集中すること」が大事なんだと、わかりやすく伝えています。
それこそ歴史認識論争でよく見られた景色でしたが(苦笑)、議論に「勝つ」ことを最優先にしてしまうと、相手の陣営のなかでも「見るからにダメで、叩きやすい相手」を集中攻撃し、「コイツらは所詮この程度、はい論破」といった戦術を採りがちです。しかし、そうした態度こそが本当はダメなんだと。敵対する相手のなかでも、いちばんレベルが高い相手の主張に向きあい、どうすれば説得できるだろうかと自分の側の思考を再吟味して、よりよいものにしてゆく。それこそが意見の異なる者どうしで対話しつつ、社会的な破局に陥らないための知恵だということですね。
【写真】『悪と全体主義』は與那覇潤書店「歴史がおわったあとに」の棚で『エルサレムのアイヒマン』の隣に置かれている
アーレントが予言したネット社会
――現在のインターネット上では、逆のことばかり起きているように思います。
與那覇 おっしゃるとおりです。仲正さんは本の随所で、アーレント自身の言葉を長めに紹介しながら議論を進めています。アーレントの原典は――彼女にとっての同時代史も含めた――哲学者による「歴史書」と呼べる作品ですが、今日のネット社会を予見していたかのように感じられる箇所がいくつもある。たとえば『全体主義の起原』第3巻の、こうした一節です。
人間は、次第にアナーキーになっていく状況の中で、為す術もなく偶然に身を委ねたまま没落するか、あるいは一つのイデオロギーの硬直した、狂気を帯びた一貫性に己を捧げるかという前代未聞の二者択一の前に立たされたときには、常に論理的一貫性の死を選び、そのために肉体の死をすら甘受するだろう。
秩序があまりにも壊れてしまい、誰が助かるか助からないかも運でしか決まらないんだと。そういった状況になったとき、たとえ客観的には狂っているようにしか見えなくても、人々は一貫した形で世の中の出来事を説明してくれる物語に飛びついてしまう。たとえば「悪の勢力がわが国に忍び込み、破壊工作を行っている!」とかですね。
アーレントが生きた時代には、そうした大衆にPRする想像力がナチズムやボルシェヴィズム、スターリニズムを生みました。近日の例でも、「トランプが選挙で負けたのは、中国が仕組んだ不正集計のためだ!」といった陰謀論にハマって最後までついていった人は、まさに「狂気を帯びた一貫性に己を捧げる」道を選んだわけですね。
一方でアーレントには見えていなかった現象も、現在のネット社会では起き始めている気がして、私はむしろそちらを懸念しています。つまり、「為す術もなく偶然に身を委ね」るだけで、もういいやと。たまたま今日はこのハッシュタグがアツいよねと、そうした日替わりメニューのような社会運動(?)に身を任せて、ほんの一瞬だけ盛り上がる。一貫性のある物語はもはや、求められていないかのようです。
――たしかにSNS等では何かで盛り上がっても、あっという間に忘れられていきます。
與那覇 『悪と全体主義』に引かれたアーレントの言葉には、既存の秩序に十分統合されていないならず者たちを意味する「モッブ」を評したものがありますが、そちらの方がネット社会を考える上でも、より有益かもしれません。すなわち、「彼らは何も信じないが、それでいて信じやすく、人に言われれば何でもすぐに信じ込んでしまう」(『全体主義の起原』第2巻)。
たとえばSNSを通じて、「本では偉そうなことを書いてる大学の先生も、実態はショボい・イタい」みたいな印象が広がった結果、多くの読者がシニカルになり「世の中みんな、ニセモノばっかりだ」と思っている。しかし、では最後まで何も信じないかというと、そうじゃない。彼らが言う「ニセモノ」のうちの誰かがたまたま炎上して、「コイツを叩くのは“社会正義”だ!」といった空気が湧きおこると、嬉々として飛びついちゃう。アーレントはモッブが全体主義のイデオロギー(=一貫性)に埋没してゆくことを恐れましたが、いまは彼女が指摘したもうひとつのルート(=偶然)を通じて、別種の危機が生じているようにも感じます。
歴史家にとってレトリックとは何か
與那覇 以前にも紹介したことがあるのですが、こうした観点から改めてもう一度採り上げたいNHK出版新書があります。木村草太さんの『憲法の創造力』です。
【写真】『憲法の創造力』は與那覇潤書店「未完の『震災以降』」と題された棚に
憲法学の入門書というと、日本国憲法が定められた時点で「正しい解釈」が最初から決まっており、それを教えてあげるからみなさん従いなさいと、こういうイメージがあるように思うんですね。しかしこの本は、そうではない。むしろ憲法を「いかに解釈するか」を論じ続けること自体が、絶えざる議論を通じた人間の営み――アーレント風にいうと「活動」なのではないか。そうした感性で書かれているように思うんですよ。
たとえば今の日本では、公務員は政治的行為をしてはならない、休日であっても支持する政党のポスター貼りを手伝ってはいけないんだとする憲法解釈で判例が確定している。どういう理屈かというと、「勤務時間外であれ公務員が特定の政党を応援すると、コイツは職務の上でも自分の政治思想を持ち込んでいるかもしれない、という疑念を招くからダメだ」と。そう説明されると、たしかに「うーん、そうなのかな」とも思う。
しかし木村さんは、これは変だという。宅配便のドライバーに熱烈なオタクがいたとして、「コイツ、さては自分の推し関連のグッズは迅速に届け、逆にアンチ絡みの商品は届けずに捨ててるな」という疑いの目で見る利用客が、誰かいるんですか? と。そう聞けば今度は、そんなヤツどこにもいないよなと。だったら公務員を同じように疑うのも、やっぱりおかしいよねとなるわけです。
日本国憲法の場合は一度も改正していないから、憲法典の文言自体はずっと変わっていません。しかし、その文面は「いったい何を指しているのか?」。Aという行為とBという行為とは「法的に見た場合に同じなのか、違うのか?」。そうしたレトリックや比喩を通じて指示対象を緻密に定めていく行為こそが、憲法の内実を決めていくと。
このような営み、言い換えれば「活動」を機能させるためには、言葉に対する信頼が不可欠です。言葉というのは単なる「移ろいやすい、いい加減なフレーズの群れ」ではなく、私たちの社会秩序の根幹を形作る存在なのだと。いまの木村先生と私とでは政治的な立場がかなり隔たっていますけれども、そうした言葉の使い方を磨く「技芸」として学問があるんだと、こう考えている点は重なるのかなと思うんですね。
逆にいうと、モッブまがいの「人に言われれば何でもすぐに信じ込んでしまう」人が増えているのは、もう言葉が信じられていないからですね。今日はこのフレーズが流行る、明日は違うフレーズがバズる。そうやって使い捨てればOKで、言葉に「習熟」する訓練なんてダルいから要らねぇんだよと。そうした言葉に対するニヒリズムが、いまの世の中の先行きを見えなくしているのではないでしょうか。
――與那覇さんは、言葉を信じないということが、現代的な危機だと感じられているわけですね。その関連でお聞きしたいんですが、歴史学は、レトリックを使いにくいんですか。
與那覇 確かに日本では、歴史家の仕事について「レトリックがいいですね」と言ったら、侮蔑とまではいかずともネガティブな意味にとられるでしょうね(苦笑)。要するに、コイツは「口先でごまかして歴史を書いてるんだ」みたいな印象を与えるというか。そうなる一因として、史学史が弱いということがあるんですよ。日本の場合、すでに功成り名遂げた老大家が「ワシの若い頃は……」的に、鬼籍に入っているさらに昔の研究者の思い出話をするのが史学史だと思われている節さえありますし(笑)。
これも変な話で、本当は史学史ってそういうものじゃないんです。2017年に、ヘイドン・ホワイトの『メタヒストリー』の邦訳(岩崎稔監訳・作品社)がやっと出ましたが、どんな歴史家だって、その「語り口」を通じて説得力を得てきた。そのことに自覚的であるために、いかなる叙述法がどういった効果を伴うか、しっかり反省していこうとする営みが史学史であるべきなんです。もう少し、日本に本格的な史学史がきちんと根付いていれば、レトリックや比喩に対する歴史学の見方も変わっていたかもしれませんね。
――最後に、與那覇さんが予定している新著を教えてください。
與那覇 まず「歴史学はなぜ、コロナ禍で役に立たなかったのか」というコンセプトで、近日書いてきた時評をまとめつつ日本の歴史学の末路を総括した本を、『歴史なき時代に』として朝日新書から6月に出します。歴史学者をはじめとする日本の大学教員たちは、どうしてコロナでまったくの役立たずに終わったのか。その背景まで掘り下げてじっくり論じていますので、楽しんでいただけると思いますよ(笑)。
そのあと8月頭に文藝春秋から、平成30年間の歴史を1冊で振り返る本を出すつもりです。元になった連載を大幅にバージョンアップして、文字どおり自分の集大成と呼べる作品として、みなさんの前にお示しできたらと考えています。
――続々と出ますね。楽しみにしています。今日はどうもありがとうございました。
*取材・構成:斎藤哲也/2021年3月31日、東京・池袋にて取材
プロフィール
斎藤 哲也(さいとう・てつや)
1971年生まれ。ライター・編集者。東京大学文学部哲学科卒業。ベストセラーとなった『哲学用語図鑑』など人文思想系から経済・ビジネスまで、幅広い分野の書籍の編集・構成を手がける。著書に『もっと試験に出る哲学――「入試問題」で東洋思想に入門する』『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』がある。TBSラジオ「文化系トークラジオLIFE」サブパーソナリティも務めている。
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