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「NHK出版新書を探せ!」第18回 カップラーメンでも哲学の議論はできる――源河亨さん(哲学者)の場合

 突然ですが、新書と言えばどのレーベルが真っ先に思い浮かびますか? 老舗の新書レーベルにはまだ敵わなくても、もっとうちの新書を知ってほしい! というわけで、この連載では今を時めく気鋭の研究者の研究室に伺って、その本棚にある(かもしれない)当社新書の感想とともに、先生たちの研究テーマや現在考えていることなどをじっくりと伺います。コーディネーターは当社新書『試験に出る哲学』の著者・斎藤哲也さんです。
 ※第1回から読む方はこちらです。

〈今回はこの人!〉
源河 亨(げんか・とおる)

2016年、慶應義塾大学にて博士号(哲学)を取得。現在は、九州大学比較社会文化研究院講師。専門は、心の哲学、美学。著作に、『感情の哲学入門講義』(慶應義塾大学出版会、2021年)、『知覚と判断の境界線――「知覚の哲学」基本と応用』(慶應義塾大学出版会、2017年)、『悲しい曲の何が悲しいのか――音楽美学と心の哲学』(慶應義塾大学出版会、2019年)。訳書に、ジェシー・プリンツ『はらわたが煮えくりかえる――情動の身体知覚説』(勁草書房、2016年)、セオドア・グレイシック『音楽の哲学入門』(慶應義塾大学出版会、2019年、共訳木下頌子)など。

哲学の話はなぜ哲学者以外に通じないのか

――源河さんは、2017年に博士論文を再構成した『知覚と判断の境界線』を上梓されました。この本のあとがきには、河野哲也さん(哲学者、立教大学教授)のギブソン心理学の授業が知覚の哲学に関心をもったきっかけだったとあります。河野さんの授業はどういうところが面白かったんですか。

源河 高校3年生のときに、大森荘蔵の本などを読んで、知覚の話は気になっていたんです。知覚というと、自分が見ている世界は自分の脳がつくりだした表象だと当たり前のように思ってしまいます。私もそうでした。ところが心理学者ギブソンは、網膜の像と外界は正確に対応しているという「直接知覚論」を主張したというような講義を聞いて、そういう考え方もあるのかと興味を覚えました。いまではギブソンの考えに賛同しているわけではないですが、本格的な研究に取り組むきっかけはそれです。

――『知覚と判断の境界線』では、知覚の哲学の大きな見取り図を描きながら、「どれだけのものが知覚可能なのか」という非常に大きな問いを考察されています。そのなかには、事物の種類や他者の情動、美的性質など、「それも知覚できるの?」と思うようなものも入っているところが非常に面白かったです。

源河 河野先生は、知覚について哲学的に考えるためには、心理学の勉強もしたほうがいいと言っていたので、心理学の研究室にも行くようになりました。同時に、修士課程、博士課程のあいだに、知覚の哲学に関する専門的な論文をいろいろ読んでみると、少しマニアックすぎるんじゃないかとも思ったんです。
 はっきり言って、哲学者以外には通じないような話が多い。私は、心理学をやっている人との交流があったので、哲学以外の分野の人にも向けて話せるような内容を博士論文のテーマにしたいと思っていました。それで、「見る」ということがどういうことなのか、どこまでを「見る」ことができるのかという問題なら、他の分野の人にも共有してもらいやすいんじゃないかと考え、書名にもなっている「知覚と判断の境界線」をテーマに選んだんです。

――哲学以外の分野の人にも伝わることが重要だったんですね。

源河 そうですね。あとは、私が論文を書いていた当時は、知覚というテーマは英米圏ではわりと流行っていて、いろいろな話題が議論されていたのですが、日本では誰も手掛けていない話題を扱いたいと思いました。そういう姿勢はいまも同じです。逆に言うと、「この難解な問題をどうしても自分が解かなければならない」という責任感というか、哲学的情熱はあまりないんです。

哲学の面白さは「議論の進め方」にある

――知覚のほかに、源河さんの哲学研究のもう一つの大きなテーマが「感情」ですね。『知覚と判断の境界線』でも、他者の情動の知覚可能性が論じられていますし、2016年にはプリンツの『はらわたが煮えくりかえる』を訳され、今年は『感情の哲学入門講義』を出されました。感情の哲学に関心をもったのはどういったきっかけがあったんですか。

源河 プリンツの『はらわたが煮えくりかえる』の翻訳をしたことが大きかったですね。翻訳をする前にも、プリンツの本は読書会的に読んでいて、自然科学の議論を積極的に導入したり、感情や情動の問題を美学や倫理学に応用したりというスタイルにはかなり影響を受けています。

――『知覚と判断の境界線』も『感情の哲学入門講義』もそうですが、源河さんは最初にテーマに関する大きな見取り図を描いてから話を始めてくれるので、読者は迷子にならずに読み進めることができます。そういう点は本を書くときに意識されているんですか。

源河 それは専門的な議論にあまりこだわっていないからだと思います。これ以上突っ込んでも自己満足になるんじゃないかというところはバッサリと切りますし。細かく調べだしたら切りがないじゃないですか。ですから、他の人がこの分野に参入する際、先行する議論のまとめとして参照しやすいような文章を書きたいといつも思っているんです。

――『感情の哲学入門講義』からは、感情研究の見取り図だけでなく、「哲学する」ことの面白さも伝わってきます。

源河 学部生ぐらいだと、哲学と言えば、昔の有名な哲学者の議論を解説するような印象が強いと思うんですけど、哲学者が言ったことを覚えたって社会に出たら大して役に立ちません。私が学部生のときもその手の授業は多かったんですが、あまり興味をもてませんでした。そうではなくて、哲学の面白さって議論の進め方にあると思うんです。ある主張に対して反論を想定して、それにどうやって対処するかを考える。そういう議論の仕方を身につけることのほうが、哲学専攻以外の人にとっても役立ちますよね。

――『感情の哲学入門講義』は大学で行われた15回の講義がもとになったそうですが、15回分の講義って文字量、情報量にすると膨大です。本にまとめる際に、取捨選択で苦労することはありましたか。

源河 舞台裏を明かすと、昨年のリモート授業だったからこそできた本なんです。昨年の春頃は、大学側もどうやって授業を配信するのか、暗中模索でした。動画配信はデータ容量が多く、学生側に通信料の負担をかけるので、音声とスライドだけでいいという通知もあったんですが、学生からしたら、家の中で素人がただしゃべっているのを聞かされても面白くないだろうと。
 それで結局、動画も音声も配信せず、すべてを文章にしてそれを配信することにしたんです。毎週1万字くらい書いて、授業に合わせたオリジナルの原稿を配信する。その段階である程度、情報を整理しながら書いているので、本にするときにはそんなに苦労はしませんでした。

――なるほど。ある意味でコロナ禍の副産物としてできた本だと?

源河 完全にそうですね。あのようなスタイルの授業でなかったら、あとからまとめようとすることもなかったかもしれません。

知覚と感情が交差する音楽美学とは

――時間的にさかのぼってしまいますが、2019年に『悲しい曲の何が悲しいのか』という本を出されました。これは、タイトルがすばらしいですね(笑)。

源河 もともと「悲しい曲のどこが『悲しい』のか?」というタイトルの論文をベースにしていたので、本にするときもそれを使おうと思ったんですけど、編集の方から「どこが」よりも「何が」のほうがいいんじゃないかと提案されたんです。「どこが」だと、特定のフレーズの話をしているようにも見えると。

――原型はすでに論文にあったんですね。この本も含めて、源河さんは音楽美学も研究テーマにされていますが、音楽美学の魅力はどういうところにあるんでしょうか。

源河 感情もそうですが、音楽に興味を持っている人は多いですよね。やっぱり、みんなが興味のあるものをきっかけにしたほうが、哲学にも入りやすいと思うんですよ。ところが、「音楽美学」や「音楽の哲学」というと、真っ先にドイツのアドルノの名前が挙がってしまう。でも、アドルノの音楽美学の本って、これは音楽の話なのかと思わせるようなところもあるくらい、初心者どころか専門家でもなかなか読むのが難しい。だったら、初心者にもわかる音楽の哲学を自分がやろうと思ったんです。音楽ってそもそも何なのか、音楽ってどのように、どんな感情を喚起しているのか、音楽を聴くためにどれくらい知識が要るのかといった話題は、哲学に興味がない人でも関心を持ってもらえますよね。現代の哲学の最前線ではそういった議論もされているのに、日本では全然紹介されていないんです。

――音楽美学って、じつは源河さんの二本柱である知覚と感情が交差するテーマでもありますよね。

源河 そうですね。感情の哲学にしても、感情を「価値の知覚」として捉えるところに注目すれば、知覚の哲学と接点があります。まったく新しいことをいきなり始めるというより、それまで研究してきたテーマを少しずつ拡張していくスタイルが、自分には合っているのだと思います。というより、それしかできないんですが。

――お話を伺っていると、博士論文のあたりから一貫して、「哲学って、せっかく面白いんだからもう少し間口を広げたほうがいい」という姿勢をひしひしと感じます。

源河 そうだと思います。哲学は面白いのだから、専門家のなかだけで閉じてしまうのはもったいない。閉じてばかりいるから、外から見ると、哲学研究って役に立たないようにも思われるし、他分野の先生からも「哲学は風当たりが強いでしょ?」なんて言われてしまう。
 こんなに面白い学問なんだから、もっとちゃんと外に出て宣伝すればいいのにと思うこともしばしばで、それが研究の動機になっているところはあります。

『恐怖の哲学』には困らされました

――この連載の恒例ですが、源河さんがお読みになったNHK出版新書を紹介していただけますか。

源河 戸田山和久先生の『恐怖の哲学――ホラーで人間を読む』です。本屋で見つけて買ったんですが、ちょうどそのとき、プリンツの『はらわたが煮えくりかえる』を翻訳していたので、頭を抱えてしまいました。同じテーマの本で、こんなに手際よくまとめられたら、僕が翻訳している本が売れなくなるって(笑)。プリンツの本は税込みで4400円するんですけど、戸田山先生の本は新書で分厚いとはいえ1000円ちょっとじゃないですか。値段もお手頃だし、プリンツの議論も手際よく紹介されている。おまけにホラー映画は、美学の対象なので、いずれ自分もやろうと思っていたのを、先にやられてしまった。しかもウンチクや批評も面白く書かれている。自分のやりたいことを数段上のレベルで、すべてやられてしまったというのが第一印象でしたね。それでホラー映画はあきらめ、音楽のほうに行きましたし。

――かなりご自身の研究にも影響があったんですね。

源河 いろいろ刺激をもらいました。議論のまとめ方も、プリンツを実際に翻訳していたので、どこを削り、どこを使っているのかがよくわかる。そういう整理の仕方は勉強になりました。けっこう人にも勧めたんです。ホラー映画のような日常的な話から哲学に入門できるし、なによりも読みやすいですから。でも、これからは私の『感情の哲学入門講義』を先に勧めようと思います(笑)。

――今後の研究やいま手がけている著作について、教えていただけますか。

源河 音楽美学の方面でやりたいと思っているのは、演奏者側についての議論です。これまでは、音楽を聴く側の感情しか扱ってこなかったんですが、演奏者はどうなのかということが気になっています。演奏行為の哲学や音楽心理学などを参照すれば、なにかできるんじゃないかと思っていますが、具体的にはまだ進んでいません。
 本に関しては、食事に関する美学の入門書をいま書いています。「優しい味の何が優しいのか」と。食事の味や匂いに関する比喩表現ってけっこう多いので、そのへんも調べて、美学の間口を広げたいと思っているんです。

――面白いですね。味覚や匂いって、哲学的な知覚論のなかでは脇に追いやられがちでした。

源河 そうなんです。カントあたりの時代だと、嗅覚や味覚は動物的なもので、美的判断に適さないといった議論があるんですが、それは時代的な偏見です。最近の心理学や神経科学の研究を参照すれば、けっこう面白いことが言えると思うんですよ。美学って、音楽や絵画など、いかにもな芸術作品が取り上げられて議論されることが多いけれど、カップラーメンでも同じような議論は全部できるんじゃないかと思っているので、それをやってみたいですね。

――やはり間口を広げる方向にいくんですね。とても楽しみです。今日はどうもありがとうございました。

*取材・構成:斎藤哲也/2021年6月16日、オンラインにて取材

〔連載第19回へ続く〕

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プロフィール
斎藤 哲也(さいとう・てつや)

1971年生まれ。ライター・編集者。東京大学文学部哲学科卒業。ベストセラーとなった『哲学用語図鑑』など人文思想系から経済・ビジネスまで、幅広い分野の書籍の編集・構成を手がける。著書に『もっと試験に出る哲学――「入試問題」で東洋思想に入門する』『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』がある。TBSラジオ「文化系トークラジオLIFE」サブパーソナリティも務めている。
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