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1973年8月11日、ラップはニューヨークで生まれた〔後編〕 ――「The Message」が歴史を変えた。そして、そのとき日本は?――『ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門』より

2018年1月8日、NHK-FMで10時間にわたり放送されたラジオ番組「今日は一日“RAP”三昧」。メインMCをライムスター宇多丸さんが務め、高橋芳朗さん(音楽ジャーナリスト)、DJ YANATAKEさん(DJ/ラジオパーソナリティ)、渡辺志保さん(音楽ライター)らと、日米ラップ史の40年を一気に駆け抜けた伝説の番組です。本記事では、その抱腹絶倒かつ、超タメになる4人のトークを完全再現した書籍『ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門』より、宇多丸さんによる「はじめに」と第1章を2回にわたってお届けします!
※本文および脚注の情報は、本書が刊行された2018年10月時点のものです。また、脚注の執筆は編集部が担当しました。

社会的メッセージが込められた歴史的1曲

宇多丸 ここから、レコード文化としてヒップホップ/ラップが花開いて、ディスコでも頻繁にかかるようになっていきます。いわゆる、オールドスクールの時代です。このあたりの楽曲を聴いて、初めてラップという音楽を知った世代の人も結構多いと思うんですけども。
 これまで当時のアメリカの社会状況についての話を思いっきり端折っていましたが、もともとヒップホップは、アメリカの中でもいちばん貧しくて見捨てられた地域で生まれた文化なわけです。なので、ラップに対して、次のようなイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。
 「貧しい黒人が、自分たちの心情や社会的メッセージを込めている」
 しかし実は、こうしたイメージが醸成されてきたのは途中からです。最初のころは、パーティーを盛り上げるためだけに存在したものなので。

高橋 メッセージソングがまったくなかったわけではないんだけど、やっぱり多くはパーティーソングでした。

宇多丸 わりとお気楽なというか、「俺はすごいんだぜ!」みたいな主張をユーモア混じりで歌うことがメインでした。
 しかしここで、ラップに社会的メッセージが持ち込まれた歴史的な曲が登場します。高橋さん、解説をお願いします。

高橋 その歴史的な作品とは、グランドマスター・フラッシュ & ザ・フューリアス・ファイブの「The Message」。1982年の作品です。
 「The Message」というタイトルにもあるとおり、社会派メッセージソングと紹介してもまったく差し支えないと思いますが、厳密には「ゲットー(マイノリティの密集居住地)発の克明な現地レポート」といった感じでしょうか。

宇多丸 今のラップ、たとえば、いわゆるギャングスタ・ラップと呼ばれる非常に荒っぽい内容の曲も、「だって僕らが生きている環境はこうだから……」という点では、意味するところは同じなわけです。「リアリティ・ラップ」という言い方もしますけど、まさにそういうことですよね。

高橋 そうですね。あと「The Message」をエポックたらしめている要素としては、メッセージ性の強い歌詞だけでなくラップのスタイルやバックトラックにも及んでいます。
 聴いてもらえれば、先ほどのカーティス・ブロウのようなまくしたてるスタイルから一転、落ち着いたトーンで淡々と語っていくスタイルになっていることがすぐにわかると思います。

宇多丸 グランドマスター・フラッシュ & ザ・フューリアス・ファイブには、メリー・メル(*30)という非常に天才的なラッパーがいました。リリシストというかね。渋い感じで。ちょっと聴いてみましょうか。

高橋 ヒップホップはパーティーソングが中心だったから、こうした本格的なメッセージ・ソングを歌うことについてはメンバーも当初懐疑的だったようですね。

宇多丸 先ほど紹介した、シルヴィア・ロビンソンという、最初に「いっちょ一儲けしようか?」とラップのレコードを仕かけたおばさんが、「あなたたち、もっとメッセージソングみたいなの、歌いなさいよ!」って。

高橋 「シリアスな曲、やってみなさいよ!」ってね。

宇多丸 そのオーダーに対して彼らは、「やだよ、そんなの。客がそんなの聴きたいわけないじゃん!」と反応した。
 すると、「いいから! 聴きたいんだって! みんなそういうシリアスなのが聴きたいんだって!」と押し返されて、結果イヤイヤ作った曲が歴史を変えたという。

高橋 グランドマスター・フラッシュ & ザ・フューリアス・ファイブは、ザ・クラッシュ(*31)やブロンディー(*32)といったパンクバンドと一緒にライブを行っていたりもしたから、そういう文脈から評価されたところがあったのかもしれません。

宇多丸 そうなんですよね。1982年のニューヨークともなると、ニューウェーブシーンがいちばんイケてる文化ですから。
 たとえば、ブロンディーですよね。「Rapture」なんて曲はまさに、トレンドに対して非常に敏感だった彼らがラップを取り入れた曲だと言われています。

高橋 そう。「Rapture」の歌詞にはグランドマスター・フラッシュやファブ・ファイヴ・フレディ(*33)が登場しますからね。

ジャンルにとらわれないファンクネス

宇多丸 一方、この1982年には、先ほど名前を挙げた三強、みなさん覚えてますでしょうか? クール・ハーク、グランドマスター・フラッシュともうひとり、アフリカ・バンバータという人がいるわけですけど、このアフリカ・バンバータが今までのヒップホップとはまた全然違うスタイルのヒップホップを生み出します。
 それでは聴いてみましょう。アフリカ・バンバータ & ザ・ソウルソニック・フォースで「Planet Rock」。1982年の曲です!

宇多丸 この曲を聴いて「あれ? これってクラフトワーク(*34)じゃないの?」と脳裏によぎった人もいるんじゃないでしょうか? 「クラフトワークの『Trans Europe Express』じゃないの?」。まさにそうで。

高橋 うん、モロですよね。

宇多丸 当時は、いわゆるサンプリングはまだしていなくて、原曲を丸ごと作り直してという感じですよね。

高橋 これまで紹介してきたシュガーヒル・ギャングやカーティス・ブロウ、グランドマスター・フラッシュらの曲は、オケをバンドが演奏していたんですけど、この「Planet Rock」はTR-808(*35)、通称「ヤオヤ」と呼ばれるドラムマシーンを駆使して制作されています。

宇多丸 しかも、このTR-808はいまだにラップミュージックの大きな背骨をなしています。

高橋 今のヒップホップシーンのトレンドになっているトラップでも「ヤオヤ」が重要な役割を果たしていますからね。

宇多丸 覚えておいてください。TR-808。9時間後ぐらいに出てきますから(笑)。
 あと、アフリカ・バンバータの先見性は、他にもあります。それまでの曲は、いわゆるブラックミュージック的というか。まあファンクですよね。ジェームス・ブラウン(*36)に代表されるようなファンクミュージック。
 つまりブラックミュージックの伝統に沿うようなものだったんですが、アフリカ・バンバータというDJは、ターンテーブルの上ではすべてのジャンルが解放されるということを体現した。
 たとえばクラフトワーク、あるいはYMO(*37)。つまり日本のイエロー・マジック・オーケストラを好んでかけたり。アフリカ・バンバータはジャンルにとらわれないファンクネスとでも言いましょうか、ヒップホップという音楽における思想的なところも引っ張っていた。

高橋 バンバータは「ファンクだろうがサルサだろうがレゲエだろうがカリプソだろうが関係ない。俺にとってすべての音楽はダンスミュージックなんだ」と語っていましたから。

宇多丸 ということでね、ここまで順調です。1973年の誕生から始まって、1980年代初頭のヒップホップ的な音楽像の定着というか、完成というところまで来ました。ここまでなかなかいいペースで来ています。なんなら巻いてますよ!

ヤナタケ 「Planet Rock」には、日本語の歌詞が出てくる部分があるんで、巻いた分、そこをかけてもいいですか?

 (「Planet Rock」がかかる) 「Everybody say, Ichi Ni San Shi! Say, Planet Rock!」

宇多丸 すごいですね! 今度ライブに取り入れます(笑)。「イチ、ニ、サン、シッ!」って。いいですねえ。あ、そうだ。これも言っておかなきゃいけない。
 今、82年まで来ましたけど、1983年には映画『ワイルド・スタイル』(*38)が登場します。ヒップホップ文化を、劇映画でありつつも、ドキュメンタリー的手法で切り取った作品です。この『ワイルド・スタイル』を巡る楽しい話があるんですけどね……。

高橋 ぜひぜひ、披露してくださいよ。

『ワイルド・スタイル』は日本が世界初公開

宇多丸 ニューヨークのウエストブロンクスで生まれたヒップホップという、非常にローカルな文化が、世界中に拡がるきっかけになったのが、この『ワイルド・スタイル』です。実はこの映画が、世界でいちばん早く公開されたのは、この日本なんですね。
 日本でも、いわゆるブレイクダンスブームは、『フラッシュダンス』(*39)(1983年7月日本公開)を機に起こりましたけども。同じ時期に『ワイルド・スタイル』が公開されています(1983年10月日本公開)。ちなみに『フラッシュダンス』に出てくるブレイクダンサーたちは、ロック・ステディ・クルー(*40)という、バリバリのブレイクダンサーたちです。で、『ワイルド・スタイル』に話を戻すと、なぜ『ワイルド・スタイル』の日本公開は本国アメリカよりも早かったのか?
 KUZUIエンタープライズという会社を興した葛井克亮(*41)さんという方がいて、彼が、角川映画の『人間の証明』(*42)のニューヨークロケの、ロケハンのコーディネートをしていた。実は『人間の証明』は、ブロンクスロケだったそうです。
 葛井さんはそこで、ヒップホップがめちゃくちゃ盛り上がっているところを目撃する。「何だ、これは? いったいこれは何で盛り上がっているんだろう?」
 そのときは(ヒップホップのことを)よくわからなかったらしいんだけど、のちにカンヌで『ワイルド・スタイル』が(世界のバイヤー向けに)出品されているのを見て、「あっ、あのときブロンクスで流行っていたあれだ!」と気づいて、即買いつけたという……。角川映画とヒップホップが、まさかここでつながる。

ヤナタケ アハハハハ。

宇多丸 あと同じ1983年、ハービー・ハンコック(*43)の「Rockit」という曲のパフォーマンスが、グラミー賞のステージで行われました。バンドにDJがいたり、ダンサーたちがブレイクダンスをしたり。やっぱり画(え)が付くと、「ああ、こういうことか!」ってわかるわけです。
 日本でもラップより前に最初に流行ったのは、やっぱりブレイクダンスですよね。風見しんご(*44)さんなんかも、当時やっていましたけども。
 ……というわけで、日本の話が少し出てきたあたりで、舞台は日本へと移ります。アメリカから生まれたこの文化が日本ではどのように広まったのか、その始まりを見ていきましょう。

[そのとき、日本は?]
日本語ラップの起源を求めて

ラップはいつ日本に輸入されたか?

宇多丸 ここまで1970年代初頭から80年代初頭にかけてのアメリカの話をしてきましたが、「そのとき、日本は?」と言っても、そのとき、日本は……何にもなあい!

高橋 フフフフフ、アメリカでもまだ黎明期真っ只中ですからね。

宇多丸 そうそう。アメリカだって、おそらくニューヨークのごく一部のイケてる人だけが知っている音楽で。

高橋 そうですね。言わばローカル音楽ですよ。

宇多丸 おそらくは中西部の人とか、まったく知らない状態。

ヤナタケ いろいろ調べましたが、やっぱり1970年代の日本におけるヒップホップ/ラップについては、記録はほぼ残っていないと思います。

宇多丸 ところがですね、日本に輸入されるのはだいぶ後になってからだと思われるかもしれませんが、実はめちゃめちゃ早い例もあるんです。
 今、後ろで流れているのは、「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3」という曲です。作ったのは、スネークマンショー(*45)というグループ。スネークマンショーはもともと、同名のラジオ番組のことですね。
 この曲は、1981年にリリースされています。ブロンディーの「Rapture」風のトラックの上で、小林克也(*46)さんと伊武雅刀(*47)さんがそれぞれキャラクターを演じて話しているという。

ヤナタケ そうですね。

宇多丸 日本語でやっていますし。「ブロンディーに影響を受けてやったのかな?」と思われがちなんですが、これ、小林克也さんに直接お話を聞いたときに得た証言があります。
 さっき取り上げたシュガーヒル・ギャングの「Rapper’s Delight」という曲がありましたね? アメリカで1979年にリリースされて大ヒットしているときに、それをニューヨークで聴いた(スネークマンショーを主宰する)桑原茂一(*48)さんが、「番組でもこんな感じの曲をやろう!」と。
 当時はまだサンプラーもないですから、「Rapper’s Delight」の元となった、シックの「Good Times」の、頭の「ドンドンドンドン……♪」の部分を、テープを切り貼りして、輪っかを作ってトラックのループとした。擬似的なサンプリングループというのかな。
 ニューヨークから帰ってきて、すぐだそうです。それが1980年初頭くらいのこと。正確な日時までは調べきれなかったんですけど、放送で流したみたいですね。
 つまり、「Rapper’s Delight」から直接的な影響を受けて日本の音楽として置き換えた、と。言ってみればヒップホップは、1980年代初頭にはほぼリアルタイムで日本に輸入されていた、ということなんですよ!

ヤナタケ すごいですね!

高橋 テープの切り貼りって……そんな原始的な手法で?

宇多丸 切り貼りです。研究の結果、そのあたりのことがわかっております。
 それでは、「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3」を聴いてみましょうか。

♪スネークマンショー - 咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3

宇多丸 非常に有名な曲です。ちなみに小林克也さんはとあるハンディビデオカメラのCMソングだったと思いますが、ザ・ナンバーワン・バンド(*49)「うわさのカム・トゥ・ハワイ」という、ラップの曲をやっぱり1982年に出しています。

佐野元春と吉幾三

宇多丸 本格的に日本のラッパーが出てくるのはもう少し後なんですが、非常に重要な意味を持つ作品として、1984年に佐野元春(*50)さんがシングルとしてリリースした「コンプリケイション・シェイクダウン」という曲を紹介したいと思います。ご存じの方も多いのではないでしょうか。
 佐野さんは人気絶頂の中、1年間ニューヨークに滞在し、その音楽スタイルをガラリと変えました。それまではビリー・ジョエル(*51)的とでも言えるスタイルでした。80年代初頭のニューヨークと言えば、ニューウェーブとヒップホップ。佐野さんもまさにそこにいたわけです。
 そのニューヨークの空気を吸った佐野さんが興奮そのままに作ったアルバム『VISITORS』。その中の1曲が「コンプリケイション・シェイクダウン」です。この曲、ヒップホップマニアが聴くと、実は歌詞の中に重要なラインが含まれておりまして……。

高橋 ほう。なんだろう?

宇多丸 途中で「ライトを浴びているジャジー・ジェイ(*52)」という歌詞が出てくる。

高橋 へー、ジャジー・ジェイ!

宇多丸 この歌詞の意味、おそらく当時の日本人はひとりもわからなかったと思います。
 ジャジー・ジェイというのはアフリカ・バンバータ率いるズールー・ネイション(*53)一派のDJなんですよね。要するに、ヒップホップシーンのど真ん中にいたDJ。
 ブロンディーが「Rapture」の曲の中でいろいろなアーティストの名前を読み込んでいますが、たぶん佐野さんも、ジャジー・ジェイを……。

高橋 明らかに「Rapture」を踏まえてのものでしょうね。

宇多丸 それを意識していたのかもしれません。この時点で佐野さんがヒップホップど真ん中の空気を吸っているのが証明されているという。これは研究の結果、わかったことです。では、聴いてみましょう。

♪佐野元春 - コンプリケイション・シェイクダウン

宇多丸 この打ち込み感!

ヤナタケ 直輸入感ありますね。

宇多丸 めちゃめちゃ早かったんですよ、やっぱり! さらに、吉幾三(*54)さんの「俺ら東京さ行ぐだ」。これも1984年です。この時期になると、日本語でラップをしてみようかという試みが、ちょいちょいあちこちで見られます。

ヤナタケ 完全にラップを意識したものが。

宇多丸 そうです。吉幾三さんも「ちゃんと向こうのラップを意識して作った」というふうにインタビューに答えてますんで。なんですが、本格的にはまだやっぱり……。

ヤナタケ 作るにしても手探りだし、ヒップホップがどういう音楽なのか理解はできていないような段階、ってことですよね。

宇多丸 完全に文化として消化できたのは80年代半ば。ある革命的なことが起こるのですが、これは次の章で説明しましょう。

※この続きはぜひ『ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門』でお楽しみください!

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[脚注]
30.メリー・メル
 ニューヨーク・ブロンクス出身のラッパー(61年〜)。グランドマスター・フラッシュ & ザ・フューリアス・ファイブでリードラッパーを務める。82年にリリースした「The Message」が大ヒット。同グループの歌詞はほとんどメリー・メルが書いていたと言われる。
31.ザ・クラッシュ イギリス・ロンドンのパンクバンド。76年にジョー・ストラマー、ミック・ジョーンズを中心に結成。セックス・ピストルズとともに最も成功したパンクバンドと言われる。77年に『The Clash』でデビュー。音楽性の幅を拡げた、79年のアルバム『London Calling』がアメリカでもヒット。
32.ブロンディー ニューヨークのロックバンド。 女性ボーカリスト、デボラ・ハリーやギターのクリス・シュタインらを中心に、74年に結成。76年にアルバム『Blondie』でデビュー。81年のシングル「Rapture」は、ラップを取り入れた楽曲として初の全米1位を記録。
33.ファブ・ファイブ・フレディ ニューヨーク・ブルックリン出身の映像プロデューサー、グラフィティ・ライター、ラッパー(59年〜)。映画『ワイルド・スタイル』の製作に関わる。88年から放送が開始されたテレビ番組「Yo! MTV Raps」ではホスト役を務めた。また、ナズの「One Love」のMVのプロデュースも行っている。
34.クラフトワーク ドイツ・デュッセルドルフの音楽グループ。70年に結成。74年に発表されたアルバム『アウトバーン』は、英米をはじめ世界中でヒットし、電子音楽が世に広まるきっかけとなる。クラフトワークの存在は、YMOやDEVOなど、テクノポップのジャンルで数多くのフォロワーを生んだほか、テクノという音楽ジャンルのルーツのひとつとなった。また、「Trans Europe Express」「Numbers」などの曲をアフリカ・バンバータがサンプリングするなど、初期ヒップホップに与えた影響も大きい。
35.TR-808 ローランド社が80年に発売したドラムマシーン。テクノポップ、ニューウェーブなど電子音楽の世界で好んで使われた。イギリスのテクノバンド、808ステイトや、ラップのプロデュースチームである808マフィア(レックス・ルガー、サウスサイドからなる)の名前は同機より取られたものとされる。
36.ジェームス・ブラウン ジョージア州オーガスタ出身のソウルミュージック/R&B/ファンクのシンガー、音楽プロデューサー。通称、「ファンクの帝王」。56年に「Please, Please, Please」でデビュー。ジェームス・ブラウンは「最もサンプリングされたアーティスト」とも言われており、彼の代表曲のひとつ「Funky Drummer」はパブリック・エナミー、LLクールJ、ランD.M.C.、エリック・B & ラキム、アイス・Tなどの楽曲でもサンプリングされている。
37.YMO 日本のテクノポップ・ユニット。78年に、細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一によって結成。日本のみならず、世界的にブームを巻き起こす。「Firecracker」は、アフリカ・バンバータも好んでかけていたことが知られている。
38.『ワイルド・スタイル』 83年のアメリカ映画。ニューヨークのサウスブロンクスを舞台に、誕生したばかりのヒップホップの姿を描く。チャーリー・エーハン監督。
39.『フラッシュダンス』 83年のアメリカ映画。ダンサーになる夢を追う女性の姿を描いた青春映画。ハリウッド映画としては、初めてブレイクダンスを取り入れた作品。エイドリアン・ライン監督。
40.ロック・ステディ・クルー ニューヨーク・ブロンクスのダンスクルー。77年結成。映画『フラッシュダンス』や『ワイルド・スタイル』に出演したことで世界的な知名度を得た。
41.葛井克亮(くずい・かつすけ) 日本の映画プロデューサー(44年〜)。83年、ニューヨークで、インディペンデント映画やミュージックビデオを日本に輸出するKUZUIエンタープライズを設立。スパイク・リー、ジム・ジャームッシュ、ジョン・ウォーターズ、コーエン兄弟などの作品の配給でも知られる。
42.『人間の証明』 77年の日本映画。日本とアメリカを舞台に、ある黒人青年の死をきっかけに明らかになる悲劇を描くサスペンスドラマ。佐藤純彌監督。
43.ハービー・ハンコック イリノイ州シカゴ出身のジャズピアニスト(40年〜)。83年のアルバム『Future Shock』では、ヒップホップを大胆に導入し、シングルカットされた「Rockit」が世界中で大ブレイク。
44.風見しんご(かざみ・しんご) 日本のタレント(62年〜)。84年のシングル「涙のtake a chance」で振付にブレイクダンスを取り入れた。
45.スネークマンショー 日本のラジオDJユニット、コントユニット。75年に桑原茂一と小林克也によりプロジェクト開始。76年よりラジオで音楽番組がスタート。追って伊武雅刀も参加。同性愛、麻薬など当時タブーとされていたトピックや、社会的批判を込めたコント・過激な下ネタが呼び物。YMOの80年のアルバム『増殖』に参加して、幅広いファン層をつかむ。81年、細野晴臣を共同プロデューサーに迎えたアルバム『SNAKEMAN SHOW(急いで口で吸え)』を発表し、大ヒット。
46.小林克也(こばやし・かつや) 日本のラジオDJ(41年〜)。ラジオ番組をきっかけに桑原茂一とスネークマンショーを結成。テレビ朝日系の音楽番組「ベストヒットUSA」のホストとしても知られる。
47.伊武雅刀(いぶ・まさとう) 日本の俳優、声優(49年〜)。小林克也からラジオ番組への出演を持ちかけられ、これをきっかけにスネークマンショーに参加。ドラマや映画への出演多数。
48.桑原茂一(くわはら・もいち) 日本の選曲家、プロデューサー(50年〜)。73年よりカルチャー誌『ローリングストーン日本版』の創刊に携わる。小林克也や伊武雅刀とともにスネークマンショーとして活動。82年、東京・原宿に日本で初のクラブ、ピテカントロプスをオープン。88年、フリーペーパー「dictionary」を創刊している。
49.ザ・ナンバーワン・バンド 日本の音楽ユニット。82年に小林克也を中心に結成。同年に発表したアルバム『もも』には桑田佳祐、世良公則、村上〝ポンタ〞秀一、鈴木慶一、鈴木雅之らが参加。2018年にアルバム『鯛〜最後の晩餐〜』をリリース。
50.佐野元春(さの・もとはる) 日本のロックミュージシャン(56年〜)。80年、デビューシングル「アンジェリーナ」をリリース。82年、アルバム『SOMEDAY』がヒットし全国的に知名度が高まる。最新作に、2017年のアルバム『MANIJU』。
51.ビリー・ジョエル ニューヨーク・ブロンクス出身のシンガーソングライター。ポップなメロディで、70年代後半から90年代前半にかけてヒットを連発した。代表曲に、「Piano Man」「Honesty」「The Stranger」など。
52.ジャジー・ジェイ ニューヨーク・ブロンクス出身のDJ(61年〜)。アフリカ・バンバータの下で活動。ズールー・ネイションのオリジナルメンバーで、「Planet Rock」の制作にも関わったことで知られる。D.I.T.C.のダイアモンド・Dを育てるなどシーンへの影響力も大きかった。
53.ズールー・ネイション アフリカ・バンバータによって73年に設立された、ヒップホップを通じた若者の教育や芸術の振興を目的とする、〝非暴力〞組織。前身は、バンバータがボスを務めていたニューヨークのギャンググループである、ブラック・スペーズ。同組織周辺のアーティストとして、ア・トライブ・コールド・クエスト、KRS・ワン、パプリック・エナミーらがいる。
54.吉幾三(よし・いくぞう) 日本の演歌歌手(52年〜)。73年、山岡英二名義で、シングル「恋人は君ひとり」でデビュー。77年に吉幾三に改名。84年に発表した「俺ら東京さ行ぐだ」が大ヒット。

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