ラップ史バナー_

1973年8月11日、ラップはニューヨークで生まれた〔前編〕 ――ヒップホップの誕生から、史上初ラップのヒット曲が登場するまで ――『ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門』より

2018年1月8日、NHK-FMで10時間にわたり放送されたラジオ番組「今日は一日“RAP”三昧」。メインMCをライムスター宇多丸さんが務め、高橋芳朗さん(音楽ジャーナリスト)、DJ YANATAKEさん(DJ/ラジオパーソナリティ)、渡辺志保さん(音楽ライター)らと、日米ラップ史の40年を一気に駆け抜けた伝説の番組です。本記事では、その抱腹絶倒かつ、超タメになる4人のトークを完全再現した書籍『ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門』より、宇多丸さんによる「はじめに」と第1章を2回にわたってお届けします!
※本文および脚注の情報は、本書が刊行された2018年10月時点のものです。また、脚注の執筆は編集部が担当しました。

はじめに

 この本は、2018年1月8日の午後0時15分から、一時中断を挟んで午後10時45分まで、約10時間にわたってNHK-FMで放送された「今日は一日“RAP”三昧」という番組を、できるだけリアルタイムでのオンエアの雰囲気を生かしたまま、書籍化したものです。

 最初にこの番組の企画について打診を受けたのは、最終的に決定された放送日から、半年以上前のことでした。実は、一回目の打ち合わせをする前の時点では、僕自身はなぜか、「きっとアメリカのヒップホップ/ラップ・ヒストリーをたどるような内容で、その司会進行あたりを仰せつかるのだろう」と、勝手に思い込んでいたのです。
 ところが、いざ話を聞いてみると、番組制作班の希望はどちらかと言うと、「日本語ラップ中心でお願いします」というものだったという……なるほど、時はまさに「フリースタイルダンジョン」ブーム真っ最中、そういう需要がかつてないほど高まっているというのも、考えてみれば当然のことではありました。

 ただし、軽視されてはならないのは、日本のヒップホップ/ラップがここまで進化・成長を遂(と)げてきた過程には、やはり、特に本場アメリカのシーンの動向が、常に強い影響を及ぼしてきた、という事実です。
 その時代その時代の日本語ラップ作品が「なぜ、こうなっているのか」を真に理解するためには、その時点までのアメリカのラップ作品の流れを知っておくことが不可欠、と言いきっていいほどだと個人的には考えています。それは、本編中にも出てくるように、ヒップホップという文化がそもそも、「随時改定される共通ルールの下で一斉に競われる」、言わばスポーツ的な側面を強く持っているから、でもあるのですが……。

 そこで僕が提案したのが、実際の番組や本書がそうなっているように、アメリカ側の歴史を約10年区切りで追った後、「そのころ、我が国では……」というふうに、今度は同時期の日本サイドで起こっていたことを見ていく、という進行スタイルです。
 パラレルに進んでいく両者の歴史を交互に検証することで、特に近年の日本語ラップブームからこのジャンルに興味を持ったようなビギナーのみなさんの認識が、より立体的なものになるのではないか……しかも、意外にもと言うべきか、日米のヒップホップ/ラップシーンをこのように並列させてひもといていくような入門編的コンテンツは、これまでまとまった形では作られてきませんでした。
 ならば、滅多(めった)にないこの機会、生かさない手はない!

 もっとも、まだ比較的若い文化とはいえ、アメリカと日本を合わせればやはり延(の)べ75年分にもなる情報と選曲のすべてを、僕ひとりで紹介するというのはさすがに荷が重い。
 そこで声をかけたのが、長年の友人でもある高橋芳朗(たかはし・よしあき)さん、DJ YANATAKE(ヤナタケ)さん、渡辺志保(わたなべ・しほ)さんのお三方。それぞれ、内外問わずラップの歴史や楽曲にくわしいのはもちろん、放送メディアでのトーク力も証明済みの方々です。構成や選曲、ゲストの人選なども、彼らと打ち合わせを重ねて練り上げていきました。
 さらに当日の放送では、DJ YANATAKEさんが、会話の流れに合わせて、歴史的名曲の数々を流してくれてもいます(そちらの全曲リストも巻末に掲載していますのでご参照ください)。
 また、当初はスラング解説コーナーのみの出演予定だった渡辺志保さんも、せっかくスタジオにいるならということで、急遽(きゅうきょ)、2000年以降のパートから本編の方にも参加してもらいました。結果、世代別の熱気がしっかり反映されて、さらに充実した内容になったのではないかと思います。

 とにかく目指したのは、これまでこのジャンルにいっさい興味も知識もなかったような方々でも、すんなり入ってこられるような、徹底した敷居の低さです。友だちの家で、時にゆるい笑いも交えながら、ひたすら曲を聴きまくり、音楽談義を繰り広げる……そんなイメージで、まずは何しろトークを楽しんでいただきつつ、気がついたらそれなりの知識も身についている、くらいのバランスが実現できていれば、理想なのですが。
 最後の方でも話題になっていますが、アメリカでは、今やロックの売り上げを凌駕し、完全にポップカルチャーにおけるメインストリームとなったヒップホップ/ラップ。しかし残念ながら、特にここ日本ではなぜか、一般層への浸透が著しく遅れている、というのが現状です。
 我々のこの試みが、そんな状況を少しでも前進させる一助となるならば、これに勝る喜びはありません。 ――ライムスター 宇多丸

1973年8月11日、ラップはニューヨークで生まれた

イントロダクション

宇多丸 よいしょー! さあ、景気良くいきましょう。みなさん、こんにちは。ラップグループ・ライムスター(*1)の宇多丸と申します。ふだんはラップをやっております。さあ、これから10時間にわたって、ラップとは何なのか、ヒップホップとは何なのか⁈ 一気にひもといていこうと思います。
 最近、世間でコマーシャルでも何でもいいですけれども、ラップを聴く機会がたいへん多くなったと思います。ラップがこれだけ市民権を得た今だからこそ、「今日は一日“RAP”三昧」、満を持してお送りします。
 「フリースタイルダンジョン」(*2)というテレビ番組で、フリースタイルバトル、つまりはラップで言い合いするところをご覧になって、そこからラップに興味を持ったという人もいらっしゃるかもしれません。
 今日はそもそも、ヒップホップ/ラップという文化がどのように生まれたのか、というところから始めて、本場アメリカを中心に時代とともに成長するラップの姿を、時系列に追いかけつつ、その歴史をヒット曲の数々とともに紹介していきます。それと並行して、「そのとき、日本は?」と、日本におけるラップの拡がりにも触れることにします。
 そもそも、フリースタイルバトルというものが、いきなり日本で生まれたわけではないですから。そのような文化が、どうして日本で生まれたのか、日本では何が起きていたのか。アメリカと日本のラップシーンを並行して紹介していきます。現在の「フリースタイルダンジョン」へと至るラップブームにどのようにつながったのか、最後まで聴くと、「なるほど!」と把握できるということでございます。ということで、「今日は一日“RAP”三昧」。本日の番組MC、さっきからNHKにあるまじき速度でしゃべっております、先ほども言いました、ライムスターという、まあ、日本を代表するラップグループ……。

高橋芳朗(以下、高橋) フフフフフ……うん、いいと思いますよ!

宇多丸 「日本を代表する」と言わざるをえない、言わないとウソになる……。

高橋 まったく問題ないと思います! スタッフのみなさんもうなずいてますから(笑)。

宇多丸 このくだりをあまり長くやりすぎるとちょっとね(笑)。非常にベテランのグループなんですけど、昨日も島根県の松江でバリバリ2時間以上のライブをこなして、朝帰ってきたという、ラッパー宇多丸でございます。
 ふだんは某他局のラジオでね……もういいや、TBSラジオというところでやっているんですけれども、本日は、NHKにおじゃまして、まあ、「しゃべりが立つ」ということもあるんですかね……。わかりませんけれども、10時間にわたってお付き合いいただきたいと思います。
 早口になりがちなんでね。「落ち着け、俺。落ち着け、俺」と自分を落ち着かせていたり、椅子の高さをギイギイ調節したりしているんですけども。

高橋 フフフフフ。

宇多丸 そんな感じで、ライムスター宇多丸が、ヒップホップ/ラップの歴史を紹介していくのですが、ワタクシひとりではね、やはり、少々手に余るところもございますので、本日は心強い助っ人を2名! もうこのふたりがいれば、僕はもう10時間黙っていたとしても、何の問題もない! そんな方々を紹介したいと思います。まずは音楽ジャーナリスト、高橋芳朗さんです。

高橋 こんにちは! よろしくお願いいたします!

宇多丸 高橋さんは、洋楽のヒップホップ/R&Bのさまざまな作品の解説や、アーティストのインタビューなどをやっています。

高橋 もともと「FRONT」(*3)、のちに「blast」と改名するヒップホップ専門誌の編集部に勤務していまして。その後、フリーの音楽ジャーナリストになりました。

宇多丸 アメリカのヒップホップやR&B、いわゆるブラックミュージックについてならば、知らないことはない!

高橋 勘弁してください(笑)。

宇多丸 今日はよろしくお願いいたします! そして、もうお一方、強力な助っ人です。DJ YANATAKEさんです!

DJ YANATAKE(以下、ヤナタケ) よいしょー! よろしくお願いします!

宇多丸 ものすごく、近所の家からやってきた……。

ヤナタケ いや、引っ越したんです。それほど遠くはないですが……。

宇多丸 あ、引っ越した? そんな個人情報を10時間の放送のド頭に言うことはなかったですね(笑)。ヤナタケさんは、もともと渋谷にある、レコードショップで……。

ヤナタケ もうNHKのすぐ近くで! 近くにあったレコードショップでずっと働いていました。このNHKでまさかラップの番組を10時間もできるとは、なかなか感慨深いですね。

宇多丸 レコードショップの店員として、ヒップホップブームのど真ん中で、いろいろと活動しながらですね、現在でも他局でヒップホップ番組をやったりという人です。ひとことで言えば、日本のヒップホップシーンのフィクサーです。

ヤナタケ フフフ。

宇多丸 暗躍してます。

ヤナタケ ……まあ、そうですね、そうですね、暗躍してます!

宇多丸 ということで、主に高橋さんにアメリカのヒップホップを、ヤナタケさんに日本のヒップホップの歴史を担当していただきます。まあでも、みんなでやいのやいの言いながら進めていきたいと思っております。

ヤナタケ そうですね、友達の家でレコードをばんばん聴いてあれこれ話す、というイメージで。

宇多丸 そもそも、「今日は一日○○三昧」というシリーズ自体がそういう企画でしょ? 今日も、ものすごくがっつり予定を組んであります。

最新にして最強、ケンドリック・ラマー

宇多丸 このあと、歴史を順繰りにたどっていくんですが、まずはやっぱり一発目! 景気良く最新のやつを聴きましょう!

高橋・ヤナタケ 間違いない!

宇多丸 アメリカの最新のヒップホップ、ということは音楽の最先端ということですから。なんかないですか、最新の?

高橋 やはりここは今いちばんイケてるラッパーのいちばん強力な曲でいきましょう。ケンドリック・ラマー(*4)の「HUMBLE.」。(2018年)1月29日に開催される第60回グラミー賞の最優秀レコード賞にノミネートされている曲です。

宇多丸 え、ヒップホップ部門とかそういうことじゃないんだ!

高橋 そう、総合部門。これは快挙ですよ!

宇多丸 のちほど、ちゃんと説明しますが、ケンドリック・ラマーは非常にメッセージ性が高いというか、その歌詞を高く評価されているラッパーですけれども、この「HUMBLE.」はどういう内容でしょうか。

高橋 タイトルの「humble」は「謙虚」という意味になるんですけど、ケンドリック・ラマーはこの曲中でどれだけ自分がすごいラッパーかを誇示しているんですね。要は「お前ら、この俺様の前では謙虚になれ!」と。

ヤナタケ 「俺様はすげえんだから、俺様の前では、お前ら、謙虚でいろ」

宇多丸 まさに、ヒップホップイズム。

高橋 うん。専門用語で言うと「ボースト」(自慢する、誇る)ですね。

宇多丸 ということで、最新のラップでございます。聴いていただきましょう! ケンドリック・ラマーで「HUMBLE.」!

宇多丸 今年のグラミー賞を席巻するのではないかと言われている曲です。

高橋 バラク・オバマ前大統領も2017年のお気に入りの曲に挙げていましたね。

宇多丸 そうですか! すばらしいですね! ヒップホップという音楽は、ポップミュージックのありかたそのものを根本から変えてしまった、ということが言えると思います。それでは改めまして、みなさん、ラップの歴史を一緒に学んでいきましょう!
 この第1章では、「ラップ誕生/黎明期」として、1970年代初頭から1980年代初頭までをたどります。
 そして、第2章でラッパーにスターがどんどん誕生する時代、1980年代中期。さらに、第3章、ラップの黄金期! ここから爆発的にラップの質が上がっていきます! 1980年代後期から90年代いっぱい。
 続く第4章で21世紀に入ってからの2000年代のラップ、最後の第5章で2010年代以降の、現在進行形、最新のラップを紹介します。アメリカのパートはこの5つの章に分かれています。そしてそれぞれ、「そのとき、日本は?」と題して日本のシーンを並行して説明していきます。
 その合間合間に、ヒップホップ・ライターの渡辺志保さんによる「ヒップホップ・スラング辞典」なるコラムコーナーも用意していますので、こちらも楽しみにしてください。僕も勉強したいと思ってますから。

ヤナタケ スラングというのは、なんて説明したらいいですかね?

宇多丸 隠語、もしくは仲間内でしか通じない言葉とでも言えるでしょうか。

ヤナタケ その言葉を知っていると、よりヒップホップが楽しめるという。

宇多丸 で、日本のラップのパートでは、要所要所に時代を代表するラッパーたちが、ゲストに来てくれます。まずは、日本語ラップのオリジネイターのひとり、いとうせいこう(*5)さんが登場! 当時のお話から、スタジオライブも! しかも、そのスタジオライブに私が無理やり絡むというね(笑)。

ヤナタケ これは歴史的な出来事ですよ!

宇多丸 そして、スチャダラパー(*6)のBoseさんのインタビュー。続いてZeebra(*7)さん。Zeebraさんはインフルエンザになっちゃって、今日は残念ながらスタジオには来られないのですが、電話でたっぷりお話ししたいと思います。
 さらに、その後、ワタクシのグループ、ライムスターのスタジオライブもお届けします。べらべらしゃべるだけの男ではありません。ラップもします!
 そして、2000年代以降のシーンを語る上で欠かせない立役者である(*8)、またの名をGAMIくんが登場します。「フリースタイルダンジョン」でもおなじみですね。
 そして、今現在の日本のヒップホップ界を象徴するグループ、BAD HOP(*9)が最後に登場して、スタジオライブ!

ヤナタケ キター!

宇多丸 NHKでBAD HOPがスタジオライブ!

ヤナタケ 痛快です!

宇多丸 さあ、ということで、さっそく予定より時間が5分押しております! さあ、どんどん巻いていきましょう!
 「今日は一日“RAP”三昧」。ヒップホップ/ラップという文化はどのように誕生したのか? 時は1970年代までさかのぼります!

ヒップホップの誕生日

宇多丸 ここからは、70年代初頭から80年代初頭、ヒップホップ/ラップ文化が生まれて根付いていくまでを紹介していきたいと思います。
 まずですね、ラップ的表現というか、しゃべるように言葉を乗せる歌唱表現そのものは昔からありますよね。それこそ、日本だってトニー谷(*10)さんをはじめとして先人がいるわけですけど。実は、このヒップホップという文化には、誕生日があるんです。

高橋 誕生日がちゃんと特定されている音楽ジャンルはめずらしいかもしれませんね。

宇多丸 たとえば、ロックンロールの誕生日って難しい。ジャズの誕生日、これも難しいですよね。なんですけど、ヒップホップは誕生日、しかも生まれた場所まで特定されております。
 いきますよ、誕生日。1973年8月11日。ニューヨーク、ウエストブロンクス……サウスブロンクスじゃないんですね。「サウスブロンクス」ってよく言われていますけども。ウエストブロンクスのモーリスハイツ地区。みなさん、ご存じですか?
 モーリスハイツ地区のセジウィック通り1520番地にある公営住宅。いわゆる「プロジェクト」と言われる公営住宅の中の娯楽室で開催されたパーティーが、ヒップホップ誕生の地とされています。

高橋 ここはニューヨーク市の史跡保存局によって公式に「ヒップホップ発祥の地」として認定されているんですよ。

宇多丸 認められている。というのは、ヒップホップやラップ、我々が今聴いている音楽の最初の原型を作った人物というのが特定されているんですね。それは、クール・ハーク(*11)という人です。ジャマイカからの移民ですね。
 で、そのクール・ハークさんはどういうことを発明したのか? と言いますのは、みなさん、ラップとはなんぞやと言うとき、今巷(ちまた)で流れているラップの曲みたいなもの、たとえば、先ほど紹介したケンドリック・ラマーの楽曲などを想像されると思いますけども。
 もともと、曲としてのラップなんてものはなかったんですね。たとえばAメロがあってBメロがあってサビがあって……という曲の形になったのはだいぶ後の話なんです。

高橋 そうなんですよね。ヒップホップの誕生と言っても、いきなりラップの曲が出てきたわけではないという。

宇多丸 今、僕らが知っているようなラップが生まれる前に、まず「ブレイクビーツ」という技術が生まれたわけです。
 ブレイクビーツとは何かと言いますと、曲の途中でドラムブレイク、つまりドラムだけになるところがありますよね。

高橋 いわゆる間奏部分ですね。

宇多丸 クール・ハークさんはその娯楽室でDJをして、お金のない若者たちを踊らせようとしたとき、このドラムブレイクのところになると若者たちが熱狂して、「ワーッ!」って盛り上がることに気づいたんです。
 そして、「だったら、同じレコードを二枚用意して、この盛り上がる部分だけを交互にかけることで長く延ばせば、もっと盛り上がるんじゃないか」と考えた。これが、いわゆるブレイクビーツ誕生のきっかけです。
 今、私が話している後ろでお聴きいただいているのは、インクレディブル・ボンゴ・バンド(*12)というグループの「Apache」という曲。これ、まさに1973年の曲なんですけども。実は「ヒップホップの国歌(アンセム)」と言われています。いろいろなフレーズによって構成されている曲ですが、そのドラムブレイクの部分だけをレコード二枚で繰り返す。
 クール・ハークが生み出したブレイクビーツという手法、どういうものなのかをご理解いただくため、今DJ YANATAKEさんがスタジオ内に備えつけられたDJセット――レコードプレイヤー(ターンテーブル)二台と、その間に置かれたどちらの音を出すかを操作するミキサー――の前に立っております。
 今、お聴きのこのインクレディブル・ボンゴ・バンド「Apache」をどのようにブレイクビーツとして再構成するのか、二枚使いするのか? DJ YANATAKE、カマせ!

宇多丸 普通に聴いていると、(間奏部分の)ドラムブレイクが流れます。一度ドラムブレイクが終わったら、もうひとつのターンテーブルでまた同じドラムブレイクを頭出しします。そうすると、永遠にこのドラムのビートが続くわけです。
 そしてこのノリノリのパーカッションが効いたビートに乗せて、貧しいブロンクスの若者たちが踊りまくった。今で言うブレイクダンスに近いような形で踊りまくったという。
 さらに客を煽るために、クール・ハークさんはコーク・ラ・ロック(*13)という人にパフォーマンスを担当してもらった。ブレイクビーツに乗せてMC、すなわちマイクを持った人がユーモアを交えたリズミカルなしゃべりで客を沸かしていくわけです。あるいは、「Say Ho!(セイ・ホー!)」と呼びかけ、コール・アンド・レスポンスしたりして盛り上げる。
 まさに彼は、ヒップホップ/ラップの原型的なものを作ったわけです。ブレイクビーツにラップを乗せるということはどういうことか? たとえば、こんな感じです。
 (ラップする)「Yes, Yes, Y’all! Yes, Yes, Y’all! その調子! 止まらずに! Keep On, Yo! その調子!……決して譲れないぜ/この美学/ナニモノにも媚びず己を磨く/すばらしきロクデナシたちだけに届く/とどろく/ベースのごとく!」
 ……みたいな感じで、即興で言葉を紡ぎ、自分が用意してきた歌詞も交えながらラップを乗せる。これがヒップホップの原型です。はい、DJ YANATAKEさん、お疲れさまでした。

高橋 今のふたりのやりとりからもわかると思うんですけど、当初の主役は基本的にDJだったんですよ。MC/ラッパーはあくまでそのサポート役、盛り上げ役にすぎなかった。

宇多丸 そうなんです。クール・ハークさんが、1973年8月11日にこのスタイルを初めて生み出しました。これをもってヒップホップの誕生と言われております。そして、そのクール・ハークの後を追うように、多くのアーティストがこの技術を改良していきます。
 今ヤナタケくんがやったように、より正確な位置でブレイクビーツを繰り返す技術を開発したのがグランドマスター・フラッシュ(*14)です。グランドマスター・フラッシュさんに僕、直接インタビューしたときに、彼がこんなことを言っていました。
 DJが二枚使いでプレイをしていると、客が――日本でもたまにありますけども――DJのやっていることに感心してしまって踊らなくなってしまうと。

高橋 それはめちゃくちゃおもしろい話ですね。

宇多丸 「おお、すごいな!」なんて、立ち尽くして見るだけになってしまう。そこで、マイクを持って客に向かって、「突っ立ってないで、体を動かせ! セイ・ホー! 手を上げろ!」と呼びかけることで盛り上げていったんだ――なんてことをおっしゃっていました。

高橋 そういう経緯から、オーディエンスを煽るMCが不可欠になったところもあるんですね。

宇多丸 要は、歌として作るということではなく、まずはパーティーを盛り上げる“添え物”としてラップは生まれたということなんです。
 クール・ハーク、そしてグランドマスター・フラッシュ。もうひとり、当時のニューヨークでいちばんのギャング組織と言われていたブラック・スペーズというギャングを仕切っていたアフリカ・バンバータ(*15)。この三強、3人が初期のヒップホップDJとして活躍していたわけです。
 ところが、ここで面白いことが起こる。最初はこの3人しかいないわけですよ。他の人たちは彼らがどうやってプレイしているのかもわからないし、そもそも貧乏だから機材も持っていない。楽器も買えないですし、レコードも買えない。
 ……なんだけど、1977年夏にニューヨークで大停電があったことをみなさん、ご存じでしょうか? スパイク・リー(*16)監督の『サマー・オブ・サム』(*17)という映画で描かれていますけども。

高橋 ありましたねー。大好きな映画です。

ニューヨーク大停電が生んだ思わぬ副産物

宇多丸 大停電が起き、略奪や犯罪が横行した夜があったんです。電器店からもいろいろなものが盗まれた。そして何が起きたか? なんと、その77年の大停電の後、急にDJをやるやつが増えた!

高橋 フフフフフ、どういうことだ?

宇多丸 これはもう、いろいろなアーティストがズバリ証言しています。要は略奪したDJセットで、若者たちがDJを始めたというね。それを今、武勇伝として語っている(笑)。

高橋 信じられないようなエピソードですけどね。これ、本当の話ですから。ある意味ヒップホップらしいというか、なんというか。

ヤナタケ もし停電が起きず、彼らが機材を手にしていなかったら、ヒップホップのシーンはそれほどすぐには大きくならなかったかもしれない。

宇多丸 先ほど紹介した三強だけってことになるから、ヒップホップが文化として盛り上がらなかったかもしれないですよね。幸か不幸か、その77年の大停電を機にたくさんのグループが生まれます。
 グランドマスター・フラッシュ率いるフューリアス・ファイブ。ファンタスティック・ファイブ(*18)、ファンキー・フォー(*19)、トレチャラス・スリー(*20)、コールドクラッシュ・ブラザーズ(*21)。
 群雄割拠の時代となって、パーティーが盛り上がるようになる。ただ、ここに至ってもなお、ラップはパーティーを盛り上げるための添え物でした。あくまでも主役は、パーティーなんですね。

高橋 そうですね。

宇多丸 要するに、まだ曲じゃないんですよ。

高橋 当然まだ録音物もありませんでした。

宇多丸 レコードとかはなくて。ただ、そのパーティーの様子を録ったカセットテープは出回っていました。それによって、サウスブロンクスの危ない地域にしかなかった文化が外にも……たとえば(ニューヨークの中の別地域である)クイーンズに住んでいる少年たちの耳に届いて、彼らが「かっこいい!」と反応したり。
 その世代の中から、のちにランD.M.C.(*22)というグループが生まれたりするわけです。ただ、実はこの時点で当事者の間には、ラップやヒップホップをレコードにして儲けようという発想がなかった。

高橋 「曲」や「作品」というよりは、あくまで「パーティー」という感覚だったんでしょうね。だから音源化するような発想に至らなかったのではないかと。まだヒップホップの可能性について無自覚だったのかもしれませんけどね。

宇多丸 ところがそこに、「ラップっていうのが今、若者に流行ってるらしいじゃない?」と言い出した、シルヴィア・ロビンソン(*23)っていうおばさんがおりまして。この方、もともとはソウルシンガーなんですよね。

高橋 そうですね。ミッキー & シルヴィアとして50年代にデビューして、73年には「Pillow Talk」というヒット曲も残しています。

宇多丸 で、そのシルヴィア・ロビンソンが「なんかラップ流行ってるらしいから、いっちょレコードでも作って儲ければいいじゃない?」という大変に安直な考えを持った。で、「なんかラップできる子、いないの?」みたいな。
 要するに、先ほど紹介したグランドマスター・フラッシュのような、いちばん活躍している人に声をかけるのではなくて、「知り合いで誰か、いないの? ラップできる子?」みたいな感じで、3人適当に集めた。

高橋 そうそう。ピザ屋で働いていたやつとかね。

宇多丸 ピザ屋で働いている甥っ子かなんかがラップできるらしいからと。で、ラップをさせてみたら、「できる!」と。そうしたら、道を通りかかった別のやつが、「俺だってできるぜ!」って(笑)。

高橋・ヤナタケ アハハハハ!

宇多丸 これ、本当ですよ! で、そのようにして即席で、シュガーヒル・ギャング(*24)というグループを作りました。
 しかも、このシュガーヒル・ギャングが作った曲というのが、当時大ヒットをしていたシック(*25)の「Good Times」という曲を弾き直してというか……まあ、パクリですよね。

高橋 ざっくり言うとそういうことになるのかな。しかしグレーなところが多いですね、ヒップホップは(笑)。

ラップ史上初のヒット曲

宇多丸 これはどういうことかと言うと、もともとパーティーでは他の人の曲をレコード二枚でずっとかけるわけですよね。彼らはそれをバンドで再現したんです。
 普通にレコードにしたらパクリのはずなんですけど……なんとこれが世界で初めてのヒップホップ/ラップのレコードの大ヒット曲となってしまう。
 時は1979年です。それでは、お聴きいただきましょう。非常に長い曲ですが、シュガーヒル・ギャングで「Rapper’s Delight」。

宇多丸 はい。この調子で延々と……これ、何分だっけ?

高橋 アルバム・バージョンだと15分近くありますね。当時のラップの曲ではこのぐらいの長さがスタンダードでした。やっぱりパーティーの一部を切り取った感覚ですよね。

宇多丸 サビもなしでずーっとラップが続きます。これまで繰り返しているとおり、この時点ではまだ曲の体裁という発想がありません。
 しかも、歌詞もまったく脈絡がない。先ほど「適当に作ったグループ」と言いましたけども、曲自体も適当に作ったもいいところで、歌詞も人のパクリなんですよね。

高橋 コールドクラッシュ・ブラザーズのグランドマスター・カズのリリック(歌詞)帳から拝借してきたと言われてますね。

宇多丸 ひどいですよね。

高橋 ね。グランドマスター・カズが気の毒すぎる(笑)。

宇多丸 元の曲は、シックの「Good Times」ですが、僕はシックのメンバーであるナイル・ロジャース(*26)、バーナード・エドワーズ(*27)に直接インタビューしたことがあります。そのときに、まさにこの「Rapper’s Delight」の話が出ました。この曲が大ヒットしたことを知った彼らはどう反応したか?
 「『確かにかっこいいな』と感じたから、別にいいんだよ。ただ、一声くれるかな?
 そう考えた彼らは、シュガーヒルに電話したわけです。そうしたら、「はあ? オリジナルですけど?」みたいなことを言われてしまう(笑)。
 「えっ、知りません。『Good Times』って何ですか?」
 そんな反応だったらしく、彼らはもう笑うしかなかったという……。

高橋 ひえー、それもまたすごいエピソード!

宇多丸 さすがに後になって、権利をクリアしたと思いますけどね。

ヤナタケ 最近、来日してますからね。

宇多丸 ああ、シュガーヒル・ギャングね。すごいことですよね。ということで、ここから「ああ、ラップのレコードは金になるんだ」ということがわかってきた。
 それまではたとえば、みんな次のように考えていた。のちに成功するパブリック・エナミー(*28)のチャック・Dいわく……「ラップをレコードにするなんて無理でしょう? 何? 一晩の様子をレコードにするわけ?」
 そんなふうに考えていたんだけど、一転、「これは金になるんじゃないか?」と、みんな次々とラップのレコードを出すようになる。
 たとえば、カーティス・ブロウ(*29)。彼は最初にメジャーレーベルと契約したラッパーですね。今、後ろで流れている、「The Breaks」という、1980年の作品。最初期にしては、めちゃめちゃ良く出来ている曲ですね。

高橋 この「The Breaks」から、曲の構造がちょっと変わってきて、単に延々とラップしていくだけでなくサビ的なものが出来るんですよね。

宇多丸 「The Breaks」はある意味、全編がサビみたいな曲ではないでしょうか。ちょっと聴いてみる?

宇多丸 (曲を少し流してトークに戻る)すみませんね。慌ただしくて。ラップが生まれて、アメリカではもう45年経つじゃないですか。プラス、日本の歴史も30年ぐらいあるじゃないですか。それを10時間でたどっていくとなると、ものすごいスピードでやらなくちゃいけない(笑)。

高橋 フフフフフ、巻いていこう!

後編(3月9日(月)公開予定)へ続く

[脚注]
1.ライムスター
 日本のラップグループ。89年結成。メンバーに宇多丸、Mummy-D、DJ JIN。別名「キング・オブ・ステージ」。93年にアルバム『俺に言わせりゃ』でインディーズデビュー。98年リリースのシングル「BBOYイズム」が大ヒット、日本語ラップ界のアンセムとなる。以後今日に至るまでの日本のヒップホップシーンを開拓・牽引してきた。メンバーそれぞれがラジオパーソナリティ、俳優としてなど、多方面で活躍している。最新作に2017年リリースのアルバム『ダンサブル』。
2.「フリースタイルダンジョン」 ラッパーのZeebraがオーガナイザーを務めるフリースタイルMCバトルのテレビ番組。テレビ朝日にて、2015年9月から放送されている。
3.「FRONT」 94年、シンコー・ミュージックから、音楽雑誌「CROSSBEAT」の増刊として刊行されたヒップホップ/R&B専門誌。宇多丸や高橋芳朗も編集・原稿執筆で関わる。99年より「blast」と誌名変更。2007年に休刊。
4.ケンドリック・ラマー カリフォルニア州コンプトン出身のラッパー(87年〜)。2011年にインディペンデントでアルバム『Section.80』をリリース。15年のメジャーセカンドアルバム『To Pimpa Butterfly』からカットされたシングル「Alright」が、人種差別撤廃運動「Black Lives Matter」においてアンセム化。17年に発売されたアルバム『DAMN.』が、18年にピュリツァー賞音楽部門を受賞。
5.いとうせいこう 日本のラッパー、小説家、俳優、タレント(61年〜)。日本のヒップホップ黎明期にラッパーとして活躍。86年、いとうせいこう & TINNIE PUNKS名義でアルバム『建設的』を、89年には代表作『MESS/AGE』を発表。80年代半ば、宮沢章夫や竹中直人らとともに、演劇ユニットのラジカル・ガジベリビンバ・システムを開始。著書に『ノーライフキング』『想像ラジオ』など。
6.スチャダラパー 日本のラップグループ。88年結成。メンバーにANI、Bose、SHINCO。90年にアルバム『スチャダラ大作戦』でデビュー。93年、デ・ラ・ソウルのアルバム『Buhloone Mindstate』に高木完とともに客演参加。94年に発表した「今夜はブギー・バック」が大ヒット。「サマージャム’ 95」が収録された翌年のアルバム『5th WHEEL 2 the COACH』はクラシックとなった。2015年にアルバム『1212』をリリース。
7.Zeebra 日本のラッパー、ヒップホップ・アクティビスト(71年〜)。Kダブシャイン、DJ OASISとともに、ラップグループ・キングギドラを結成し、95年にアルバム『空からの力』を発表。97年にシングル「真っ昼間」でソロデビュー。その後、トレンドセッターとして、時代のモードに合った楽曲やアルバムを発表し、日本語ラップシーンの拡大に貢献。2015年からテレビ番組「フリースタイルダンジョン」でオーガナイザーを務める。17年、ヒップホップ専門ネットラジオ局「WREP」を立ち上げた。
8.漢(かん) 新宿のラッパー(78年〜)。自身のレーベル、鎖GROUPの代表を務めている。2000年にラップグループMS CRUを結成。02年、EP『帝都崩壊』でデビュー。同年、B-BOY PARK MCBATTLEで優勝。03年、MS CRU改め、MSCのアルバム『MATADOR』をリリース。05年にはソロアルバム『導〜みちしるべ〜』を発表。MCバトル、UMB(Ultimate MC Battle)を立ち上げる。
18年にアルバム『ヒップホップ・ドリーム』をリリース。テレビ番組「フリースタイルダンジョン」では初代モンスターとして登場。また真の日本一を決めるMCバトル、KING OF KINGSを主催するなど幅広く活動。
9.BAD HOP 日本のラップグループともに「高校生RAP選手権」で優勝した、双子のT-PablowとYZERRを中心に川崎市出身のメンバーによって構成される。他のメンバーにTiji Jojo、Benjazzy、Yellow Pato、G-k.i.d、Vingo、Bark。2014年にアルバム『BAD HOP ERA』を、17年に『Mobb Life』をリリース。最新作に18年のEP『BAD HOP HOUSE』。
10.トニー谷(とにー・たに) 日本の舞台芸人(ボードビリアン)。49年に芸人デビュー。終戦直後の占領下にあって、眼鏡にひげ、派手なタキシード姿に、英語と日本語を取り混ぜた独特の「トニングリッシュ」というしゃべり芸で一世を風靡した。「さいざんす」「家庭の事情」など多くの流行語を生んだ。赤塚不二夫のマンガ『おそ松くん』のイヤミのモデルとしても知られる。
11.クール・ハーク ヒップホップ黎明期に活躍したDJ(55年〜)。60年代後半にジャマイカからニューヨーク・ブロンクスへと移り住む。70年代初頭よりDJとして活動を開始。ブレイクビーツの創始者と言われる。
12.インクレディブル・ボンゴ・バンド MGMレコードのプロデューサー、マイケル・ヴァイナーが72年に結成したユニット。代表曲は「Apache」の他に、「Bongo Rock」「Last Bongo in Belgium」など。
13.コーク・ラ・ロック ニューヨーク・ブロンクス出身のラッパー(55年〜)。クール・ハークとともに活動。ヒップホップ史上初のMCと言われる。
14.グランドマスター・フラッシュ カリブ海の島国バルバドス出身のDJ(58年〜)。クール・ハークのプレイに影響を受け、スクラッチの前身である「Rubbing」という手法を実践したことでも知られる。ラッパーのメリー・メルらとともにグランドマスター・フラッシュ & ザ・フューリアス・ファイブを結成。82年に同グループ名義でシュガーヒル・レコードからリリースした、「The Message」が大ヒット。
15.アフリカ・バンバータ ニューヨーク・ブロンクス出身のDJ(57年〜)。ヒップホップを社会に広めるために、ズールー・ネイションを立ち上げる。クラフトワークやYMOなどジャンルにとらわれない選曲で知られる。82年にクラフトワークを参照した「Planet Rock」をリリース。
16.スパイク・リー ジョージア州アトランタ出身の映画監督。人種問題をテーマとした作品を多く手がける。代表作に『ドゥ・ザ・ライト・シング』『ジャングル・フィーバー』『マルコムX』など。
17.『サマー・オブ・サム』 99年のアメリカ映画。77年にニューヨークで実際に起こった連続殺人事件をモチーフにした作品。スパイク・リー監督。
18.ファンタスティック・ファイブ グランドマスター・フラッシュの兄弟であるDJのグランドウィザード・セオドアが結成したオールドスクールを代表するグループ。セオドアは映画『ワイルド・スタイル』の音楽も担当した。
19.ファンキー・フォー ニューヨーク・ブロンクスのラップグループ。DJブレイクアウトを中心に結成。79年にデビューし、「Rappin and Rocking the House」、「That’ s the Joint」などのヒットを生む。女性のMC、シャーロックを交えた、ファンキー・フォー・プラス・ワンとしての活動も知られる。
20.トレチャラス・スリー ニューヨーク・マンハッタンのラップグループ。78年、クール・モー・ディー、スプーニー・ジーらによって結成(その後、スプーニー・ジーはソロに転向)。80 年に「The Body Rock」を発表。
21.コールドクラッシュ・ブラザーズ ニューヨーク・ブロンクスのラップグループ。76年結成。MCのグランドマスター・カズを中心とした、4MC & 2DJ。82年にデビューシングル「Weekend」をリリース。84年のシングル「Fresh, Wild, Fly and Bold」がヒット。
22.ランD.M.C. ニューヨーク・クイーンズのラップグループ。81年に結成され、80年代に最も活躍したグループのひとつ。メンバーに、ジャム・マスター・ジェイ、ラン、D.M.C.の3人。84年のファーストアルバム『Run-D.M.C.』がミリオンヒット。86年にリリースしたロックバンド、エアロスミスのヒット曲のカバー「Walk This Way」が全米チャート4位を記録。2002年、ジャム・マスター・ジェイがスタジオで射殺され、グループは活動休止に。09年、ロックの殿堂入りを果たす。
23.シルヴィア・ロビンソン ニューヨーク・ハーレム出身のシンガー、プロデューサー(36〜2011年)。50年代にシンガーとしてデビュー。67年に、オール・プラチナム・レーベルを創設し、ザ・モーメンツ「Love on a Two-Way Street」をヒットさせる。73年に、自身のシングル「Pillow Talk」もヒット。80年代にはシュガーヒル・レコードを運営してシュガーヒル・ギャングやグランドマスター・フラッシュの作品を発表。「ヒップホップの母」とも呼ばれた。
24.シュガーヒル・ギャング ニューヨークのラップグループ。ビッグ・バンク・ハンク、マスター・ギー、ワンダー・マイクによって結成。「Rapper’s Delight」がヒット。
25 .シック ニューヨークのファンク/ディスコ・バンド。中心メンバーに、ギターのナイル・ロジャースとベースのバーナード・エドワーズ。77年にアルバム『Chic 1』でデビュー。シュガーヒル・ギャングの「Rapper’s Delight」が、シックの 「Good Times」の盗用であったことから訴訟に発展。現在は、ナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズの名前も、「Rapper’s Delight」のクレジットに加えられている。
26.ナイル・ロジャース ニューヨーク・ブロンクス出身のミュージシャン、プロデューサー(52年〜)。77年にバーナード・エドワーズと、シックを結成し活動。80年代からは、バーナードとともに、プロデューサーとしての活動を開始。83年のデヴィッド・ボウイ『Let’ s Dance』、翌年のマドンナ『Like a Virgin』がそれぞれ世界的な大ヒット。2013年にリリースされた、ダフト・パンク『Random Access Memories』への参加も大きな話題を呼んだ。
27.バーナード・エドワーズ シックの主要メンバーのひとりで、伝説的なベーシスト(52〜96年)。 ディスコブームの終焉とともにシックとしての活動は停滞していくが、ナイル・ロジャースとともにプロデュース業で活躍。96年に公演のために訪れた東京で客死。
28.パブリック・エナミー ニューヨーク・ロングアイランドのラップグループ。82年、チャック・D、フレイヴァー・フレイヴを中心に結成。87年にアルバム『Yo! Bum Rush the Show』でデフ・ジャムよりデビュー。88年のアルバム『It Takes a Nation of Millions to Hold Us Back』のヒットで、一気にヒップホップシーンのトップに駆け上がる。その革新的なサウンドと強烈なメッセージで、現在のラップに計り知れない影響を与えた。
29.カーティス・ブロウ ニューヨーク・ハーレム出身のラッパー、プロデューサー(59年〜)。初めてメジャーのレコード会社(マーキュリー・レコード)と契約を果たしたラッパー。80年に発表した「The Breaks」も、ヒップホップで初めて、ゴールドディスクを獲得。

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