優しさが新しい一つの命になる「I’ll be back.」――昆虫・動物だけじゃない、篠原かをりの「卒業式、走って帰った」
動物作家・昆虫研究家として、さまざまなメディアに登場する篠原かをりさん。その博識さや生き物への偏愛ぶりで人気を集めていますが、この連載では「篠原かをり」にフォーカス! 忘れがたい経験や自身に影響を与えた印象深い人々、作家・研究者としての自分、プライベートとしての自分の現在とこれからなど、心のままにつづります。第11回は産休前最後の記事、今の篠原さんの気持ちです。
※第1回から読む方はこちらです。
#11 I’ll be back.
産休に入ります。この連載もしばらくの間、お休みです。
とはいっても、育休のない働き方なので、まだセミがやかましい夏の盛りには帰ってくるつもりでいます。
妊娠生活もいよいよラストスパート。既に限界を超えているのではないかと思うほどお腹は膨れ上がり、一瞬だけでいいから肋骨を観音開きさせてほしいと叶わぬ願いに思いを馳せている。顔や手足は大して変わっていないので、お風呂上がりの自分を見るたびに、イケメン力士のようだと思っている。あまりにイケメン力士なので、この気持ちを誰かと共有したいのだが、見せるものでないのが残念でならない。
自分なりに妊娠についてよく調べて臨んだつもりだったが、学ぶことと経験することがかなりかけ離れていて、してみないと分からないものだなあとしみじみ感じている。妊娠しても、妊娠するのは内臓だけであって、執筆や研究といった頭の中で完結するものは、今まで通り続けられるだろうと考えていた。実際には、毎日胃腸の風邪をひきながら、むずがる猫を抱っこしているような感じで落ち着かず、執筆や研究に集中できる時間は想定していたより遥かに短く、思うように作業ができない日々にヤキモキして過ごしている。
集中力は大きく削られた反面、肉体は覚悟していたよりも元気で、思考する作業ができる時間が減った分体力を持て余し、かえって具合が悪くなったので、毎日1万2,000歩以上歩いている。大きく「雑草」とくくっていた道端の草の名前をたくさん覚えた。
つわりの真っ最中に査読から返ってきた論文は、力を振り絞り、辛うじて修正版を提出したものの、査読者の1人の審査を通らず、リジェクトとなった。一時はすっかり弱気になってもう諦めてしまおうかなと本気で思ったのだが、今も論文を書いている。何兎も追う私の人生には、いつか何かを諦めるときが来るかもしれないけれど、それは今ではないと思う。妊娠前よりできる作業は減ったし、仕事はセーブしているので時間はあるように見えるけれど、私の体の中は今とても忙しい。いつもより忙しいときに重要な判断はしないことにしている。諦めるのを先送りにして叶った夢は今までにいくつもあるので、まだ頑張ろうと思う。
できたこともあって、妊娠が発覚してから書き始めた本の原稿は、産休に入るまでになんとか全て上げられそうである。
「できたこと」と「できなかったこと」の間をたゆたいながら、子どものいる生活を想像している。私はもともと、「できること」と「できないこと」が人と比べて多いと思う。小学校の九九の試験は、学年で一番遅かったし(というより私以外の全員が受かって私だけ受かっていないまま進級してうやむやになった)、マネージャーさんがスケジュールを管理してくれなければ、何一つ世に出すことをしないままマリモのように息絶えていただろうし、できないことを挙げればキリがない。でも、したいことは山ほどあるのに、人よりできないこともたくさんある人生で培った、「仕方なし」と割り切る力は、急にできないことが増えた妊娠期間、大いに私を助けてくれた。きっと子どもが産まれてからも世話になると思う。
この妊娠において、体調不良に苦しむのも、これから出産の痛みにうめくのも私一人であり、そこにはただただ孤独な闘いがある。最近は、家族以外と話した文字数より、覚えた道端の草の名前の文字数の方がずっと多いので、状況としてはかなり孤独である。でも、今ほど人に支えられて生きてきたことを実感したことはない。
本当は、「産休」と「Thank You」を掛けるような野暮なことをしたくないのだが、今心にあるものは、不安でも苦痛でも孤独でもなく、感謝だ。
イメージとしては、『HUNTER×HUNTER』キメラアント編のネテロ会長の「感謝の正拳突き」である。私の肉体は、強くなるどころか日に日に弱っているし、毎日正拳突きしているのは、お腹の子どもの方だが、私がたどりついた結果は感謝であった。
食べたかったけれど店舗が遠いので諦めたお菓子を買っておいてくれた友人、つわりのときにおいしいご飯を作ってくれた友人、刺繍でマタニティマークを作ってくれた友人、運動量の足りなくなっていた私とたくさん散歩してくれた友人、体重制限で全部は食べられない私にミスドの新作の美味しかった上位2点を教えてくれる友人、出産のときによかったグッズを送ってくれたファンの方、変わらず仕事を依頼してくれる仕事先の人、気遣ってくれるマネージャーさんたち、博士号を取れるようスケジュールを考えてくれる教授陣、優しくしてもらったことを一つ一つ挙げだすとキリがない。謝辞で論文が書けそうなくらいである。
妊娠期だけのことではない。お腹の子を産み出すのは私だが、私が子どもを産むに至るまでに受けた数えきれないほどの優しさが新しい一つの命になるのだと思う。
もちろん、家族にも感謝している。特に一緒に暮らす夫だ。前々から良い夫だと思っていたのだが、妊娠して、やっぱりなかなか良い夫だと感じている。私しか負えない負担を仕方ないものと片付けず、同じペースで親になっていくことを当たり前だと思っている。それは本来全ての父親にとって当然であるべきだが、私が責任を持って体内の命を育むのも、当然でありながら、同時に成し難いことでもある。だから、自分の肉体の変化を伴わずに同じペースで親になっていくという成し難い当然に感謝している。
常に私の体調を気にかけ、私の荷物を持ち、病院の健診に一度も休まず付き添い、下りの階段やエスカレーターでは必ず私の前を歩き、できない料理も頑張り、ときには、肋骨が弾け飛びそうだから押さえていてほしいという意味の分からない願いを聞きながら、本当によく支えてくれた。初めて作ってくれた目玉焼きは、あまりに愛おしくて生涯忘れることはないと思う。というか、その目玉焼きの写真でアクリルキーホルダーを作成した。
正直、一緒に暮らし始めたころは、いつか育休を取るつもりでいる夫に対して「こんなに家事のできない人が家にいて、一体何になるのだろう」と怯えていたのだが、今はできるだけ多くの時間を共有して一緒に親になっていくのを心から楽しみにしている。部屋は絶対片付かないし、服は乾燥機から出てきたままのくしゃくしゃで過ごすと思うけれど、それは仕方なしである。
この連載を読んでくださる皆様としばしのお別れになりますが、いつでもあなたを想っています。必ず戻ってくるので、またここでお会いしましょう!
プロフィール
篠原かをり(しのはら・かをり)
1995年2月生まれ。動物作家・昆虫研究家/慶應 義塾大学 SFC 研究所上席所員。これまでに『恋する昆虫図鑑~ムシとヒトの恋愛戦略~』(文藝春秋)、『LIFE―人間が知らない生き方』(文響社)、『サバイブ<SURVIVE>-強くなければ、生き残れない』(ダイヤモンド社)、『フムフム、がってん!いきものビックリ仰天クイズ』(文藝春秋)、『ネズミのおしえ』(徳間書店)などを出版。
バナーイラスト 平泉春奈
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