斎藤幸平×大澤真幸「脱成長コミュニズムは可能か?」――『なぜ、脱成長なのか』『新世紀のコミュニズムへ』刊行記念対談(前編)
コロナ下の状況で資本主義の弊害や問題点が明らかになった現在、そのオルタナティブとして注目されるのが「脱成長」であり、「コミュニズム」です。
ヨルゴス・カリスらによる翻訳書『なぜ、脱成長なのか:分断・格差・気候変動を乗り越える』の解説を担当した斎藤幸平さんと、新著『新世紀のコミュニズムへ——資本主義の内からの脱出』を上梓した大澤真幸さん。同時期に近しいテーマで書籍の刊行に関わった二人に、「脱成長コミュニズム」は果たして可能なのか、存分に語り合っていただきました(2021年5月28日、代官山 蔦屋書店)。対談の前半をここにお届けします。
人はコロナ禍で現実に目覚めた
斎藤 今日は、大澤さんのご著書『新世紀のコミュニズムへ』と、翻訳書『なぜ、脱成長なのか』の刊行記念として、二人で脱成長という視点から資本主義の未来について話していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
大澤 よろしくお願いいたします。
斎藤 『なぜ、脱成長なのか』は、スペインの研究者たちが書いた本で、タイトル通り、なぜ「脱成長」経済への移行が必要なのかについて、簡潔にまとめられています。日本語版の解説は、私が執筆しました。一方、大澤さんの『新世紀のコミュニズムへ』も、やはり「脱成長コミュニズム」に移行しなければいけないということが、明示的に書かれている本です。大澤さんの本では、私の『人新世の「資本論」』にも言及していただきました。その際、私の主張は正しいけれども、正しいだけでは社会を改革し、政治の世界を動かしていくことはできない。資本主義では、「独占」「競争」「成長」が当たり前になってしまっている。そのようななかで、いきなり「みんなシェアしよう」なんて言っても、「何言ってんだ、こいつ」という話にしかならない。大澤さんはそのことをふまえて、正しいことを実現できない社会のなかで、正しいことを実現していくためにはどうしたらいいのか、ということをさまざまな角度から論じている。私はこれを読んで、心強い大先輩の仲間を得たと思いました。
現在、このコロナ禍で本当に多くの人たちが非常に大変な思いをされていて、「こんな社会はおかしいんじゃないか」という声が出てきている。コロナ禍では、リスクが一部の人たちに皺寄せされている一方で、快適にテレワークをしている一部の富裕層は、ますます富を蓄えている。トップ50人の日本の超富裕層の人たちも、この1年間で資産を48%増やしているという話があります。実体経済はこれだけ落ち込んでいるにもかかわらず、株価だけはどんどん上がって、富める人はもっと富むようになっている。そんな社会でいいのかといえば、どう考えても正しくはないでしょう。
今はワクチンでコロナからの出口がようやく見えてきたと言われていますが、「コロナは悪夢だった。さあ皆さん、現実に戻る時ですよ! もっと働いてください。もっと消費してください」というような言説が、これからたくさん出てくると思います。私たちがそれで「さあ、悪夢なんか忘れて、元に戻ろう!」となってしまったら、この1年間で感じたことや学んだことが全部忘却され、無駄になってしまい、人類は破局への道を歩むことになるでしょう。
コロナ前の生活のほうこそ、むしろ「夢」なのです。グローバル化で何でも手に入るようになり、チャンスが世界中に広がって……という夢のような世界ではなく、格差がものすごく広がって、地球環境が破壊され、いろいろなところで紛争が起きている。そのほうが現実だと私たちは気がついた。言ってみれば今、私たちは「目覚めた」わけです。その瞬間にこうした「脱成長」や「コミュニズム」という議論が登場するのは、必然です。だから、こうした議論をこれからさらに活性化させていきたいし、そのうえで新しい実践を作りたいと思っています。
「脱成長コミュニズム」という選択肢
大澤 僕の『新世紀のコミュニズムへ』は、斎藤さんの『人新世の「資本論」』への、いわば援護射撃的な意味もあります。『人新世の「資本論」』や『なぜ、脱成長なのか』の主張には、異論や反論はありません。「脱成長コミュニズム」は、まさにめざすべきものだと思います。その上で、そこに書かれていることへの道筋をどうやってつけるか、というのが僕の問題意識でした。
まず斎藤さんの問題提起を受けて言いますと、資本主義が人間の性(さが)に基づいているという考えは、間違いだということを押さえておく必要があります。資本主義の特徴は、価値の増殖や資本の蓄積への欲望が、無限になってしまうことです。でも動物は無限の欲望なんて持っていません。必要を満たしたら終わりです。ですから無限の欲望に駆られるというのは、きわめて非動物的なメカニズムなんですね。動物としての人間の本来的な性質を全面開花すると自然に資本主義になる、などということはないのです。
だからこそ、不思議なことだということに気づかなくてはなりません。資本主義が動物としての人間の本性に適ったシステムということなら理解できますが、明らかに非人間的なシステムなのに、グローバルなスタンダードになっており、しかもその外に脱け出すことすら難しくなっている。それが社会科学的には大きな謎です。しかし逆に言うと希望はあるわけです。つまり人間とはそういうものだ、とはならず、別の可能性があるということになるからです。
資本主義や経済成長が限界に来ているということは、ちょっと考えてみれば簡単に分かるでしょう。3%くらいのGDP成長率がなければいけないと言われていますが、しかし3%だって100年間続けていけば途轍もない数字になる。すでに飽和状態だし、不可能に決まっているわけです。ですから、経済成長を求め続けるのであれば、もうデッドエンドしかない。そうではないとすれば、どういう方向があり得るのかということです。
僕の今度の本は、2020年に新型コロナのパンデミックが起きた時に考えたことがきっかけになっています。コロナは破局の予行演習と言いますか、一種の先取りのようなところがあります。われわれは、いつかは脱成長へと舵を切らなきゃいけないし、資本主義の外に脱けなければいけないと分かっているのに、「それはまだ先のことだろう」と思いながら生きてきた。ところがコロナによって、それは「まだ」ではないということを、一瞬垣間見たわけです。今までは不可能だと思っていた選択肢を検討しなければいけない。その選択肢として、斎藤さんが提案している「脱成長コミュニズム」があるというわけです。
脱成長だって魅力的だ!
大澤 斎藤さんは別にコロナに触発されたわけではなく、「脱成長コミュニズム」についてそれ以前から考えておられました。僕としてはそれを応援しているわけですが、僕が重要だと思う課題は、「脱成長コミュニズム」における「自由」ということなんです。資本主義の最大の強みは、「自由」です。もちろん資本主義だって冷静に考えれば、決して人は十分に自由ではありません。「賃労働ってレンタルの奴隷じゃないか」とも思います。とはいえ、賃労働も一応は自由な契約に基づいているわけです。資本主義にも問題はありますが、それ以前のシステムに比べると、かなり自由があった。かつて冷戦において西側陣営が東側陣営に対して優位に立ち勝利したのは、やっぱり西側のほうが自由の価値を重要視していたからです。西側では、個人の自由は最も重要な理念だったけれども、東側ではそうではなかった。
だから僕としては、人間にとって、個人の平等な自由が最も重要な価値だということをまず押さえておきたい。それを抑圧するようなシステムは魅力にも欠けるし、実現しない。ですから問うべきは、「自由」と「脱成長コミュニズム」をいかに両立させるか、またそもそも両立は可能なのか、です。両立は不可能だと言う人もいます。しかし、僕は可能だと思っているんですね。
斎藤 そうですね。大澤さんも『新世紀のコミュニズムへ』の冒頭で、コミュニズムにはどうしても自由を制限してしまうという含意があるから、あまり魅力的とは思われないと書かれていたと思いますけれども、私は最近、ずっと「脱成長」について考えていたら、「脱成長」が本当に魅力的に思えてきたんですよね(笑)。
競争を煽ることとか、さまざまな資源を一部の人たちが独占してしまう不公正とか、経済的な格差の広がりとかをふくめて、もしこれらの事態が大幅に削減されるとすればどうなるでしょうか? その結果としてたとえば、労働時間が週25時間くらいになり、マックスの年収が3000万円くらい、平均で600万とか700万とかで、でも教育や医療は全部無償という社会になったとしたら、実はほとんどの人にとっては、どう考えても魅力的なのではないでしょうか。
「斎藤の言う脱成長コミュニズムって、あまり魅力的じゃないんじゃないの?」という声を定期的にいただく一方で、今回のコロナ禍でリスクを取りながらも働いている人たちにとっては、むしろ魅力的ではないか。今回の『なぜ、脱成長なのか』のような本が世界中で読まれ、グレタ(・トゥーンベリ)さんのような主張が若者たちの支持を集めていることを考えると、脱成長という考えを魅力的だと素直に受け入れる層が、地殻変動的に出てきたんじゃないか。そんな実感があります。
それは一つには、ソ連を知らない世代が増えていることもあります。資本主義の中で育ってきたけれど、資本主義に魅力を感じられない。先ほど「自由」が資本主義の魅力だというお話がありましたが、その「自由」さえもほとんど味わえない人たちが確実に増えてきている。
実際、コロナ禍では、テレワークができない仕事に就いている人は、命を守るために仕事に行くのをやめて、仕事がなくなって命が脅かされるか、リスクを覚悟で命のために働きに出かけて、命をリスクに曝すか、のどちらかです。どちらにしても結局、命をリスクに曝すという選択肢しかない社会になってしまうと、「私たちはまったく自由じゃない」となる。
でも、これこそが資本主義の本質なんです。スラヴォイ・ジジェクも書いているように、「資本主義は犠牲を本質としているシステムだ」ということです。これまでは外部化や転化によって、先進国においてはあまり明らかではなかったけれども、もはや自由なんて存在しないし、資本主義が自らを守ろうとしたら、結局中国みたいな不自由な社会になるしかない、ということが露わになってしまったのではないか。
僕はこの事実が明らかになったのが一番の出来事ではないかという気がしています。「資本主義って自由じゃないよね。脱成長、魅力的じゃない?」という議論がかつてないほどに高まってきているな、と感じています。
「未来の他者」に応答するということ
大澤 資本主義って輝かしくて魅力的かというと、たしかにどんどん色褪せてきている。とはいえ、資本主義を単独で見たときには魅力的ではないと感じたとしても、他のシステムと比べたらどうか、ということがあります。これが資本主義より魅力的なシステムだ、とたいていの人は自信をもって言えないという状況だと思うんです。
資本主義のシステムの中で、大半の人は、いやな思いをしています。所得も少なく、たいした資産もなく格差社会のボトムにいればもちろんですが、そうではなくて資本主義のもとで厚遇されているように見える人も、実は自分のやっている仕事がデヴィッド・グレーバーが言うような「ブルシット・ジョブ」(クソどうでもいい仕事)じゃないか、と思うようになってきている。それでも、資本主義より魅力的なやり方を示してみろ、と言われるとたいていできない。
つまり、チャーチルがかつて民主主義について言ったような、「資本主義は最低のシステムだ。けれども他のものはもっと悪い」というイメージが根強いのではないかと思います。そうではないということを確信させることが大事な気がするんですね。
僕の尊敬する見田宗介先生は、『人新世の「資本論」』や『なぜ、脱成長なのか』ほど具体的ではありませんが、だいぶ前から「脱成長」に近いことを主張されていた。さらに、もっと前には、「コミューン主義」いうこともおっしゃっていました。それって「コミュニズム」じゃないかと思うんですけれど、「共産主義体制」を連想させる「コミュニズム」は避けたのです(笑)。その見田先生に、では「脱資本主義ですか?」と尋ねると、先生ははっきりと肯定はしません。どうしてかと言うと、先生はやはり、資本主義が自由なシステムだということを重視されているのです。20世紀の冷戦とその終結を見てきた世代からすると、自由の上にさらに別の理念や価値を掲げることには、大きな危険を感じざるをえないのです。自由を自由以外の理由によって制限したり、縮減したりするよりは、資本主義のほうを選択してしまうわけですね。
ところで、「脱成長」と聞いた時に、自由が制限されるような気がするのは、未来の世代の利益のために現在を生きる自分が我慢して、やりたいこともできなくなると考えるからです。他人のために自分が我慢していると思うと、自由が目減りしているように思ってしまう。
僕の本の一つのねらいは、「未来の他者」に自分たちが応ずるということは、決して自由の抑圧ではなくて、それ自体がもっと創造的な自由の発動なんだ、ということを証明することにありました。そうすると、資本主義以外のシステムに向かっていくことで、自由が減るのではなく、むしろ資本主義よりもいっそうわれわれは自由になるのだと、考えを転換することができるのです。
コモニングの実践をどう広げていくか
大澤 ただ一番難しいのは、たとえば『なぜ、脱成長なのか』を読んで「これからは脱成長だ!」と思っても、それをひとりで――あるいは単独のグループで――本格的に実行すると、倒産したり、失業したりして、この世界では生きていけなくなったりするということです。つまり単独でやるのではなく、十分に大きな集合的営みとしてなされないといけない。極論すると、世界同時革命的な方法しか、究極的には成功はありえないんですね。自分(たち)だけで実践しようとしても、社会の敗者になってしまうだけです。そのあたりの問題はどう考えていけばいいのでしょうか?
斎藤 たしかに、ひとりでやろうとしても限界があります。でも手軽にできることもあるんですよ。身近に過剰なものはたくさんあるので、たとえばファストフードやファストファッションをやめてみるとか、何でも買う量を半分にしてみるとか、そういうことは実はわりと簡単にできる。脱プラスチックにしても、ゼロにするのはしんどいことですが、3割、場合によっては5割ぐらいに減らすことは、意識の転換だけでも簡単にできてしまう。柄谷行人さんの言う、消費の次元でのストライキみたいな感じでしょうか。
もちろん、それくらいでは社会は変わらないよ、というのが「SDGsは大衆のアヘンだ」という話なんですが、そうしたなかから、世の中にはもっと徹底して、完全に脱プラ生活をやっている人たちとか、自分たちで古い家をリノベしてシェアハウスをやっている人たちとか、シェアカーのシステムを自分たちで作っちゃう人たちが結構います。ラディカルな試みが日本にもあるし、しかも彼らは楽しそうなんですよね。
そうしたクリエイティブな実践は、『なぜ、脱成長なのか』の言葉でいえば、日常の中にある小さな「コモニング」(コモン=共有の資源をつくり、維持し、享受していくプロセス)です。このコモニングの実践を広げていくことが、同時に資本主義に亀裂を入れていくことだと思うんです。
ただ、やはりそれを私たちが急に真似しようと思ってもなかなか難しいし、ひとりでできることにも限界がある。でも僕は、実際にそういう試みがあるのだから、それがもっと社会に広がるように、政府や自治体が支援すべきだと思っています。
僕がベーシック・インカムよりも重要だと思っているのが、労働時間の削減——週25時間、あるいは週休3日制の導入——です。また、日曜はお店を全部休みにしてしまうとか(ドイツでは「閉店法」という法律で商店はみんな日曜休みですが、生活に特に不都合はありません)、そういうことにも挑戦していくべきではないでしょうか。
とはいえ、失業者が増えては困るので、トマ・ピケティや、あるいはMMT(現代貨幣理論)の人たちが言っている「完全雇用プログラム」で雇用を保障して、なるべく環境にいい仕事(空き家の管理でもシェアハウスでも太陽光パネルの設置でも)に、政府主導で雇用を作り出す。それを時短とセットにすれば、いきなり週25時間は難しいとしても、週30時間労働ならば、1日休みが増える分、その時間を使って人々はもっと活動的な、新しい試みができるようになっていく。そうすれば、今までは相当の覚悟か余裕のある一部の人たちにしかできなかった社会運動や政治活動が、はじめて多くの人たちにもできるようになるのではないか。
やはり労働時間を減らしていくことを通して、さまざまな試みをする余地が生まれる。それができれば、今も日本中にあるコモンの種(たね)が、広がっていくのではないか、と思います。
純粋主義に徹すると失敗する
大澤 完璧なことをやろうとすると何もやらないことになってしまうので、やはり何かを少しずつ始めていくことが重要になる。その通りだと思います。
『なぜ、脱成長なのか』には「言行不一致」とか「偽善」という問題についても書かれています。それらはたしかに良くないことでしょう。しかし、僕はそうしたことをあまり恐れてはいけないと思うんです。現在の基本のシステムは資本主義なので、その中で生きている以上、いきなり完璧に100%の実践はできません。脱成長コミュニズムを信奉している一方で、どこかの企業に勤めて利益を上げるべく働いているとしても、それをいけないこととは思わないほうがいい。そういう不一致は許容されると考えたほうがいい。
このあいだ「NHKスペシャル」で、『ビジョンハッカー 世界をアップデートする若者たち』という番組を観ました。スマホなどを使いながら、格差や医療、教育などに問題意識をもって、社会改革をしようとしている革命的なポテンシャルを持った若者たちが、日本にもいるし世界中にいるという番組でした。でも、それをするにはお金がかかるので、ビル・ゲイツをはじめ、日本の外資系企業に勤めている投資家のような人たちが、何億円もお金を出してその活動を支援するわけです。
それを観ると、ちょっと変な気がしてきます。格差問題を解決するために、格差の原因の大元をつくっているような人たちから援助を受けているわけですからね。そのため、ビル・ゲイツがやっていることは、ちょっと偽善的に見えてしまったりする。とはいえ、ではビル・ゲイツは何もしないほうがいいのかと言ったら、そんなことはないでしょう。格差に対抗する運動にはお金がかかります。お金をもらえればその活動ができるのです。
純粋主義に徹すると、かえって失敗するんですね。最終的なゴールに至るのがいつになるのか分かりませんが、資本主義だって定着するには、少なくとも2世紀くらいの長い時間がかかったように、脱成長コミュニズムだってもしかすると、22世紀の終わりくらいには定着しているかもしれない。
でも、現状はどうしても不純な状態になりますから、それを恐れないことが重要だと思います。
SDGsの現状をどう見るか
大澤 僕は今日の対談で、斎藤さんがどう考えているか、聞きたいと思っていたことがあります。それは斎藤さんの『人新世の「資本論」』でも、今回の2冊でも触れられているSDGsのことです。「SDGsなんて甘いぞ」というのは確かにその通りですが、その水準だって、何もやらないよりははるかに有意義なことでしょう。
斎藤さんの本が売れているので、日本も捨てたもんじゃないぞ、と少しは安堵する一方で、SDGsレベルで日本は非常に遅れていると言いますか、意識が低いと言いますか、考えている人も行動している人も、豊かな国の中では異様なほど少ない。たとえばトランプ大統領の時にパリ協定からの離脱を表明したアメリカだって、日本よりは環境問題や気候変動問題に関してセンシティブです。それに比べると日本は脱成長コミュニズムの一歩手前どころか、百歩くらい手前になってしまう。どうしてそんなことになっているのか、斎藤さんはどのようにお考えですか?
斎藤 僕は、SDGsの理念は素晴らしいと思っているんですね。けれども、SDGsの理念を本当に実現しようと思うのであれば、資本主義そのものを超克しなくてはいけないということです。
けれどもSDGsの17項目の中に、資本主義を超克するモメントが入っていない。その結果、SDGsはその理念の素晴らしさにもかかわらず、特に日本の企業によって、完全なお飾りになってしまっている。日本でこれだけSDGsという言葉が広がって、あらゆる企業がお題目のように唱えているわけですが、これまで何十年もさんざん海外で不法労働や搾取を行い、自然環境を破壊し、国内でもさまざまな違法労働を放置してきた国が、いきなりSDGsなんてできるわけがない。むしろその9割はお飾りになっている。
まさに今、大澤さんがおっしゃったように、一見しっかりとやっているように思えるヨーロッパやアメリカですら、環境団体やグレタさんたちにその生ぬるさを批判されている。ましてや現在の日本の状況は、世界的に見ればお話にならないくらい遅れている。
最近だと、2030年までの二酸化炭素の排出量をどれだけ削減するかが話題となっていました。これまでの26%という日本の削減目標では話にならなくて、結局日本は46%削減としたわけです。一歩前進と感じるかもしれません。けれども、ここでの問題は、数字のゲームに私たちの意識が行ってしまうことで、50%なのか46%なのかで未来は変わるみたいな幻想に捉われてしまうことです。数値がいくつになるかが大きな焦点になってしまうと、今のコロナについてもそうですが、日々の感染者数ばかりに気を取られて、そもそも社会全体で医療保険体制がこれだけ脆弱になったのは何のせいかというような、危機の全体像が見えなくなってしまいます。
気候変動の問題に戻れば、実際に排出量を何%減らせるかということが重要なのに、現状はといえば、実は2021年はリーマン・ショックの後と同じくらい、二酸化炭素の排出量が世界的に増えると予測されているんです。つまり、現在の経済回復というのはまったくグリーンではない。各国が野心的な削減の数字を出しているけれども、内実がまるで伴っていない。
私たちは、SDGsでも2030年までの削減目標でも石炭火力の廃止でも、目先の問題に気を取られてしまっているけれども、もっと大きな問題を見なければいけない。だから、『人新世の「資本論」』とか『新世紀のコミュニズムへ』という大きな話が必要なのです。
今日の最初の話に戻ると、資本主義に代わるようなヴィジョンがない限りは、資本主義ではない社会と言われても、何となくつまらなそうなイメージしか持てない。でもとりあえずベーシック・インカムでもMMTでも、いろいろな議論が出てくる中で、やっとそこに亀裂が入りつつあります。その亀裂をもっとわれわれが広げていく必要があります。
その際重要になってくるのが、思想の力です。思想の力によって、歴史上のさまざまな事象も自在に振り返ることができるし、さしあたりの政策の現実性などについても、歴史的な制約を飛び越えるような形で、われわれの想像力を広げてくれるようなヴィジョンを示すことが本来はできると思います。近年、この力が後退してきたなかで、「脱成長」とか「コミュニズム」といった議論がここ最近になって、ようやく盛り上がってきました。さまざまな遅れはあるけれども、日本にもようやくポスト資本主義のトレンドが到来したと感じています。
(2021年5月28日 代官山 蔦屋書店主催オンラインイベントより 構成:福田光一)
プロフィール
斎藤幸平(さいとう・こうへい)
1987年生まれ。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。専門は経済思想、社会思想。30万部を超えるベストセラー『人新世の「資本論」』(集英社新書)で「新書大賞2021」を受賞。
大澤真幸(おおさわ・まさち)
1958年生まれ。社会学者。専攻は理論社会学。著書に『ナショナリズムの由来』『<世界史>の哲学』(講談社)、『社会学史』(講談社現代新書)、『自由という牢獄』(岩波書店)、『自由の条件』(講談社学術文庫)、『「正義」を考える』(NHK出版新書)など。