歴史の忘却に抗するために——戦後75年を迎えていま考えたい「戦争」の実相〔前編〕
年月の経過とともに戦争体験者の声が聞けなくなりつつある現代。しかし、そもそも戦争の実相は聞く者へ伝わってきたのでしょうか? 2020年6月25日に刊行されたNHK BOOKS『戦争をいかに語り継ぐか 「映像」と「証言」から考える戦後史』では、語り手と聞き手の関係を問い直し、膨大なテレビドキュメンタリー、若い世代の受け止め方の変遷、そして語りによる伝承を綿密に分析することによって、「戦争のリアル」を捉えるための現代的方法を探った、類例のない提言の1冊となりました。
当記事では前後編にわたって、本書から「序章 「戦後」が終わる前に」を全文ご紹介します。戦後75年を迎えるいま、改めて「戦争」について考えてみるのはいかがでしょうか?
二つの天皇の声
二〇一九年、元号は「平成」から「令和」に変わった。元号の区切りを時代の括りとして当然のように報じるメディアの姿は、ちょうど三十年前、一九八九年一月の昭和天皇の崩御時の記憶を蘇らせるものだった。
昭和天皇は、「神格」と「象徴」という二つの地位を経験した天皇だった。健康状態が悪化した一九八八年秋からの、互いに人々の笑顔を監視し合うような自粛ムードは、日本国憲法によってその役割が変わったことを、一時、忘れてしまうほどの重苦しさだったと思い出される。それから二十八年後の二〇一六年夏、あとを継いだ「平成の天皇」(上皇明仁)は、自らの声で生前退位を訴える。八月八日、そのテレビ放送された「おことば」を述べる姿は、宮内庁のWebサイトにも上げられた。
振り返れば、天皇の肉声が初めて人々のもとに届いたのは、ポツダム宣言の受諾を知らしめる一九四五年八月十五日の「玉音放送」であった。そしてその後、「人間」であることを宣言した天皇一家の暮らしぶりを、人々はテレビを介して、まるで古くからの知人のように話題にするようになった。ラジオ、テレビ、そしてインターネット──天皇と我々との関係は、メディアが創り出す距離や情報の流れとともにあった。
戦争体験者に「玉音放送」について尋ねると、よく「難しくて、何を言ってるのかよくわからなかった」という答えが返ってくる。「戦争が終わる」ことを、解説放送で初めて理解したという人もいる。特に、子どもたちは大人たちの様子でやっと状況がわかったというのが実際のところだろう。つまり「玉音放送」とは、よくドラマなどで見るように、全ての人がラジオの前にひれ伏していたその瞬間の出来事ではなく、伝聞やお喋りなどの多くのコミュニケーションを介して、時間をかけて受容されたものだったのだ。しかしそのときのディテール(会話やものごとの動きの詳細)は多くの場合忘れられてしまっている。メディアはひたすら「タエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノビ」のフレーズを反復し、定型のエピソードとして、我々の記憶を上書きしていった。
実は「平成の終わり」でも、同じことが起こっている。「天皇が退位の意向を自らの言葉で表した」という事実は確かに衝撃だった。しかしなぜそれが衝撃だったのか、あるいはそこで何が発せられたのかについては、既にかなり「ぼんやり」とし始めている。「おことば」の理解のカギは「象徴」という言葉だった。しかしそのメッセージは、後のメディアや政府要人たちの発言に上書きされ、次第に「高齢によるご公務の負担」が退位の理由であると人々は受け止めるようになった。「平成の終わり」は時代の節目らしく、年末年始にも似た祝祭ムードに彩られ、「象徴」の意味を問う天皇の姿は忘れられていった。
終わらない戦後
「メディアを通じて届けられた天皇の声」をきっかけに節目が演出される──前者の「終戦」、後者の「平成の終わり」──「終」という文字が結ぶこの二つの出来事の重なりから、一つの問いが浮かび上がる。それぞれにいったい我々は「何を終えてきた」のか。「終戦」とは、端的には「戦禍」の終息を指し、その時点からこの国では戦争は「過去のもの」として扱われるようになった。そしてその戦後の始まりから四分の三世紀。いまや戦争を自らの経験にもとづいて語る言葉は少なくなった。やがてそれはなくなるだろう。上皇明仁も、またそうした言葉の持ち主の一人である──確かに一つの時代の「終わり」が見える。
「戦争が終わった」感覚は、人によって異なる。国民学校の生徒として「終戦」を経験した人は言った。「夜、部屋の灯りをつけられるようになって、ああ戦争が終わったんだなと思った」。この「少年」にとっては、不自由な生活と時折訪れる空襲警報が「戦争」だったのだろう。だが、出征兵士を送り出した家庭は違う。八月十五日が過ぎても息子の消息はなく、その後「空の木箱」が帰ってきたとしたら、その母の「戦争」は終わらないまま続く。広島や長崎の被爆地では、八月十五日はまだその瞬間から十日もたたない「時が止まった」状況にあった。沖縄本島では、既に四月上旬から順次米軍の統治が始まり、その最中にこの日を迎える。満州ではむしろこの日から無政府状態が始まる。
「終戦」は、映画やテレビドラマが描くように、「天皇の声」をきっかけに一斉に迎えられたわけではない。でも我々は、こうした時差とそこに生じたディテールを長い間、済んだこととして棚上げしてきた。もちろん、七十五年という年月の間──特にこの四半世紀には、様々な資料が発掘され、また多くの人々が記憶を語るようになって、そこに光が当たるようになってはきた。佐藤卓己が『八月十五日の神話』で、報道がその「ひれ伏す」瞬間を描くに至った虚実を詳らかにし、坪井秀人が『戦争の記憶をさかのぼる』で、文学などから戦争を振り返る叙述を丹念に追ってみせたのが、戦後六十年のタイミングである。このあたりから、「戦争の終わり」を曖昧にし続けてきた「戦後」の性格に気づき始めた人々が、徐々に問いを投げかけるようになった。
その「戦後」も、「終戦」からわずか十年で早々に「終わり」が宣言される(「もはや戦後ではない」、一九五六年『経済白書』)。しかし当然の如く、現実は単純ではない。多くの人々はその後も「戦後」という言葉とともに「メモリアル(追悼)」を積み重ね、二〇〇五年には「戦後六十年」、二〇一五年には「戦後七十年」と言い続けている。その一方で都度「戦後は終わった」との物言いも繰り返されてきた。なぜこの「終わりそうで、終わらない」宙づり状態は続くのか。もしかするとそれは、我々が棚上げにしてきたものの大きさが、そうさせているのか。
「あの戦争」は、なぜ像を結ばないのか
「終戦」や「戦後」そのものを問う大上段の議論から少し離れて、これまで「戦争」はどのように語られてきたかを考えてみよう。すると──語り手たちに、あるフレーズが共有されていることに気づく。それが「あの戦争は……」という言い回しである。「あの」という言葉は一般に、遠くにある何かを指し示し、特定する。ゆえに、その言葉がきちんと解釈されるには、対象の共有と、それを可能にする聞き手との近しい関係が必要となる。
長い間、我々はこの「あの戦争は……」という言葉を上手く使ってきた。こう切り出すことによって、「アジア・太平洋戦争」なのか「大東亜戦争」なのか、はたまた「第二次世界大戦」なのかという概念的な輪郭は問われることなく、自らを中心に描いた世界の中で体験を語ることができるようになる。するとそれは、国とか社会的立場の次元から離れ、もっと遥かに些細な、個人の身の周りのことを際立たせる──「あの日」「あの出来事」「あの場所では」──例えば被爆地ヒロシマでは爆心地からの距離の上に、地上戦の沖縄では進攻する米軍の足どりに沿って描かれた想像上の地図の上に、各々の経験を語るべき位置が与えられる。しかしその語りは圧倒的な情報量の受容を聞き手に要求する、そこにアンバランスで非対称的な関係が生じる。それは特に年齢が離れた者には酷である。彼らは「頷く」か、話者の視界に収まる範囲の質問のみが許される状況に追い込まれる。
こうした語りは、対面のコミュニケーション状況だけではなく、一方向のマスメディアの中にもみられる。NHKで数々の番組制作に携わってきた桜井均は、佐藤や坪井と同じ戦後六十年(二〇〇五年)に『テレビは戦争をどう描いてきたか』を著し、テレビ・ドキュメンタリーの語りが、聞き手を顧みないモノローグ(独白)に囚われていた歴史を総括する。そして二十世紀末、一旦そこから脱し始めたように見えたものの、世紀をまたいで「時代は再びモノローグに戻りつつあるように思われる」(439頁)と嘆く。
彼らが戦後の「語り」の検証を世に問うた戦後六十年は、同時に戦争に関する「証言」がメディアの手を借りて社会にあふれ出すタイミングともなった。この時期多くの体験者が自分たちに残された時間を悟り、「このまま墓にまで持っていくわけにはいかない」という危機感をメディアが刺激したのだ。しかしこの体験者の焦燥は、彼らの語りに一層独白的なトーンを加えていく。
皮肉なことに、高齢化社会の到来は「証言」の枯渇に緩やかにブレーキをかけ、デッドラインを先送りさせて今日に至っている。とはいえそれももう限界だ。考えてみれば当然のことだが、二〇〇五年からの十五年で、証言の射程は大きく狭まった。例えば同じ「あの戦争」という言葉を用いても、終戦時点の年齢の違いは「実際に何を見たか」という点において決定的である。加えて聞き手側の労力の負担も、語り手との年齢差に比例する。例えば語り部が、戦跡で「あの場所」と言い、指さす方向に視線を飛ばしても、聞き手にはそこに「戦争のリアル」を見る感性がない。語る側がいかに熱を込めても、残念ながら聞き手には、そもそもその言葉につなぐべきイメージの素材がないからだ。
「戦争を語る」ときに、「世代」が極めて重要なフレームを成している点については、これまでもしばしば主張されてきた。『「戦後」はいかに語られるか』(二〇一六年)で成田龍一は、一九四五年を軸に「体験者」と「戦後生まれ」を細かく分類していく── 体験者は「敗戦」に立ち会った年齢で、戦前世代(一九〇〇─一〇年代生まれ)、戦中世代(一九二〇年代生まれ)、少国民世代(一九三〇年代生まれ)の三つに分かれる(57頁)。一方、戦後生まれも「親の戦争体験を一次情報として聞かされた」戦後第一世代と「学校教育やメディアを通して再編された戦争しか知らない」戦後第二世代との間に線が引かれる。これに親の年齢も加味するならば、さらに細分化されるだろう──それだけ、「異なる戦争像」がありうる。
その中で今日、重要な位置にいるのが戦後第一世代だ──実は私(一九六一年生まれ)もそこに属す者の一人である。私は一九二七年(昭和二年)生まれの父と一九二九年(昭和四年)生まれの母の間に生まれた。彼らに出征の経験はないが、徴兵検査や徴用の記憶を持ち、戦中社会の中で既に「大人扱い」をされていた。特に面と向かい、講釈然とした体験談を聞いたことはなかったが、父母の話には、日常とのリアルな地続き感を覚えていた。街角に立つ傷痍軍人の姿や、河川敷のバラックが生々しい「戦争」の残像の中で育った我々にとって、「あの戦争」という指示詞は、まだ親世代とのイメージ共有を支える機能を果たしていたのだ。
成田の著作には、そうした「橋渡し役」としての戦後第一世代の強い自意識を見ることができる。だから古市憲寿(『誰も戦争を教えてくれなかった』二〇一三年)ら新世代の「クールな戦争観」にも耳を傾け、また「東日本大震災」の経験や、「貧困」「ジェンダー」といった現代社会に構造化した暴力にも視野を広げ、そこに新たな「戦争像」を求めていく。それも重要だろう。しかしその前に素通りしてしまったことはないのか。体験者たちが「あの戦争は……」という言葉とともに指し示していたものを、果たして、我々は捉えられるようになったのか──と問われれば、少なくとも私はまだ、自信がない。
プロフィール
水島久光(みずしま・ひさみつ)
1961年生れ、慶應義塾大学卒業後、広告会社勤務を経て東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。東海大学文学部広報メディア学科教授。主として20世紀の映像メディアを研究対象とする。戦争体験者による語りの場や、中学生が戦争資料館を見学するツアーに学生を同行させるなどして、戦争の記憶の継承がどのように行われてきたか、また現在どのような形で実施され、若年世代にどのように受け止められているかを継続的に、精力的に調査・研究している。著書『閉じつつ開かれる世界――メディア研究の方法序説』(勁草書房)、『テレビジョン・クライシス――視聴率・デジタル化・公共圏』(せりか書房)など。
*水島久光先生のTwitterはこちらです。