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「記憶」の語り継ぎから、「記録」の議論の場へ——戦後75年を迎えていま考えたい「戦争」の実相〔後編〕

 戦後75年を迎え、現在では戦争体験者の声が聞けなくなりつつあります。しかし、そもそも戦争の実相は聞く者へ伝わってきたのでしょうか? 2020年6月25日に刊行されたNHK BOOKS『戦争をいかに語り継ぐか 「映像」と「証言」から考える戦後史』では、語り手と聞き手の関係を問い直し、膨大なテレビドキュメンタリー、若い世代の受け止め方の変遷、そして語りによる伝承を綿密に分析することによって、「戦争のリアル」を捉えるための現代的方法を探った、類例のない提言の1冊となりました。
 当記事では前後編にわたって、本書から「序章 「戦後」が終わる前に」を全文ご紹介するその後編です。 ※前編から読む方はこちらです。

「戦争」を抱え込んだ「知識人」

 成田龍一の『「戦後」はいかに語られるか』には、「あの戦争」という言葉が曖昧にしてきた対象に接近する手掛かりもある。それは丸山眞男への注目である。丸山は、知識人たちが戦後に形成する「悔恨共同体」(「近代日本の知識人」一九七七年『後衛の位置から』に所収)を批判する。「悔恨共同体」とは、かつての転向した左派論客、軍部へ順応した自由主義者、視野狭窄に陥った専門技術者、無知・無批判な学生たちが、立場を超えて「根本的な反省に立った新しい出直し」を志向した、自己批判による結びつき(115頁)である。そこにブレンドされた「開放感と自責の念」は、専ら感情的なムードに支えられ論壇を席巻した。丸山はこの「悔恨共同体」の限界を、官僚制が進む高度経済成長下での、戦争体験の風化を加速させる、「魂のない専門人」のタコツボ化であると言う(124頁)。
 この批判、どこかで読んだ気がした──それは清水幾太郎、「治安維持法への復讐」(『戦後を疑う』に所収)だった──「(治安維持法は)天皇制と資本主義制度とを守ることを目的とした法律で、敗戦までの二十年間、進歩的インテリを初めとする左翼的な人間は、同法に怯えながら生きて来た。敗戦後、同法が廃止された途端、今度は、『治安維持法への復讐』というのが新しい大義名分になり、天皇制を廃して共和制にする、資本主義国日本を倒して社会主義国日本や共産主義国日本を作るというのが、戦後思想の大前提となってしまった」(277頁)。
 清水も丸山も、私のように一九八〇年代に社会科学と出会った者にとっては、スターだった。清水といえばM・ウェーバー『社会学の根本概念』、E・H・カー『歴史とは何か』といった「必読書」の訳者であり、かつ『論文の書き方』などで知的手ほどきを施す、当時の大学生には最も身近な「知識人」だった。丸山の『日本の思想』も「必読書」のひとつであり、「タコツボ/ササラ」や「『である』ことと『する』こと」などの二分法は、若者が社会を批評するための格好の道具であった。しかし二人に関する近年の出版物を見ると『清水幾太郎の覇権と忘却』(竹内洋、二〇一八年文庫版)、『丸山眞男の敗北』(伊東祐吏、二〇一六年)、『丸山眞男の憂鬱』(橋爪大三郎、二〇一七年)等々──すっかり「過去の人」である。
 竹内洋は、この丸山と清水の関係に言及する。新進東大助教授と在野の批評家、寡作と多作、政治思想へのこだわりと雑食性。対照的な生き方をしていた二人が、戦後は足並みを揃えて進歩的論壇を牽引する。だがその名声は、安保闘争以降、それぞれに強いバッシングを受けて一気に沈んでいく。こうした「上げて、落とす」メディアのエコノミーの餌食になった点は、非常に似通っている。その末にたどり着いたのが「悔恨共同体」論、「治安維持法への復讐」論という「知識人批判」である。清水は、丸山の「近代日本の知識人」を強く意識していたと竹内は言う。すなわち「『悔恨共同体』の深層には『怨恨共同体』があったのだ」(324頁)と。
 両論発表後、彼らは再びアカデミズム全体からの返り討ちを受け、追い込まれる。清水は「右旋回」と厳しく糾弾され、一方、丸山の「悔恨共同体」論は左派にも右派にも相手を叩くアリバイを与えてしまう。清水や丸山の弱点とは何か── それは戦争を「自らの責任において語るべし」とした、プライドにあったと言えよう。それが他の「知識人」たちを刺激した。二人の使命感は、近代の理性主義に支えられている。だからこそ「知識人」たちが「悔恨」や「復讐」といった、本来「理性」とは対極にある感情・情動にほだされていたことが許せなかったのだ。だが丸山も清水も、批判を「知識人」に向ける際に、エモーショナルな物言いを抑えきれなかった。それが論争を泥沼化させたように思われる。
 だがもう一つ、後世から見れば彼らには重要な弱点があった。それは、彼らが知識の階層性を自明視していたことだ。丸山は「本来のインテリ」「疑似インテリ」と「大衆」を区別し、清水も「インテリとサイレント・マジョリティ」の二分法をベースに論を進めている。この「知識人(インテリ)」への過剰な期待こそが、彼らの自縄自縛につながる。当然、彼らの論争の空間から外された「大衆」「サイレント・マジョリティ」には、何が語られていたのかは聞こえてこない。つまり清水・丸山と戦前世代知識人とのもめごとは、大衆を「物言わぬ者」として切り捨てることで成立していた「コップの中の嵐」だったのである。これこそが丸山・清水といった個人に止まらない、知識人の「戦後」に対する「敗北」であった。
 清水と丸山が戦後史の中に埋もれていった要因として、この「知識人」と「大衆」の二分法、すなわち自らを理性の場に置き、感情・情動を大衆の側に追いやる思考から自由になれなかったことを考える必要はあるだろう。しかしそれは知識人側だけの問題ではない。『戦争の記憶をさかのぼる』で坪井秀人は、「サイレント・マジョリティ=大衆」が言葉を発しなかったのはある種のカタルシス(心の鬱積をなだめる手段)だったと指摘する(227頁)。だとするならば「知識人の悔恨・怨恨」と「大衆の失語あるいはモノローグ」は、感情・情動に支えられていたという意味では同じレベルにあり、一方的に発せられる言葉とそれに身を預ける沈黙は共犯関係にあったといえる。

既に知る者から、未だ知らざる者へ

「世代論」「悔恨共同体論」という重要なヒントを示しながら、『「戦後」はいかに語られるか』の成田龍一は、ここで立ち止まる。「世代」を「年代」に置き換え、丸山の以降の言説史を、古市憲寿らの新世代の著作にまで拡張することで、むしろ「戦争という対象に止まって」論じるべきその立ち位置を動かし、見失った感がある。そのせいか成田は、未来に期待をつなぐ「戦後の文法」の探求について、二〇一六年の段階では「身もだえするような状況が続いている」(198頁)という。
 しかし「平成の終わり」に直面した我々は、「語りの継承」自体が今後も続けられるかどうかに、率直に不安を覚えている。成田は体験者の語りが乏しくなる事態を戦時記憶の「歴史化」と捉え、検証対象とすべきと戦後第一世代に呼びかける──その声に対しては、同世代の最後尾を走る者として、素直に同意したいとは思う。だが、その輪はどう広げていったらいいのか。また知識人同士の叩き合いに終始してしまっては、我々も清水や丸山と同じ轍を踏んでしまうのではないかと危惧する自分がいる──それを回避するためには、未だ聞こえてこない声を聞き、見えない姿に目を凝らす必要がある。
 戦後の知識人たちの「饒舌」と「敗北」、戦争体験者の「モノローグ」の噴出、そして伝承が途絶えることへの危機感──これらの問題は、全て「戦争」に関わる語りの一方向性、聞き手との非対称性に根差し、「既に知る者と未だ知らざる者」の二分法がもたらすコミュニケーション不全の表れだったのだ。それは「戦中」「戦後」を通じて、意識の底に刻まれた社会構造そのものであり、一般に語られる「指導者による誤った判断」と「我々は思い込まされていた」という言い訳にも通じる。この二分法は知識人の驕りだけでなく、大衆の免罪意識をも下支えしてきたのだ。
 果たして「大衆」は、言われるほどに「無知」で「受け身」の存在なのだろうか。それには「無知」と言われてもそこに居座る大衆心理も加わってはいなかったか。いずれにしても我々は無意識のうちに、この「既に知る者と未だ知らざる者」の構図を保持したまま「戦後」を生きてきた──「大衆」をリードする戦中の「指導者」は、戦後の「知識人」へ。語り手と聞き手は、「戦争を体験した大人」と「戦争を知らない子供たち」へ。そう考えると「終わらない戦後」とは、この互いに相容れない関係が固定され続けた歴史であるようにも見えてくる。
 その固定化の徴候は、加藤陽子が『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(二〇一〇年)で、高校生に語り掛ける言葉の中にも感じられる。それを、同書文庫版の解説を担当した橋本治は見逃していない──彼は「叙述の形としては画期的に新しい」(493頁)と言いつつ、「しかし私は、〔この本で「聞き手」となった〕栄光学園のような偏差値の高い高校へ行けるような高校生ではありませんでした」と述べる。橋本は加藤の言葉に短く的確にリアクションをする高校生たちに、暗黙の裡に忍び込む教師と生徒の間の、「既に知る者と未だ知らざる者」の関係の再生産を読み取る。
 とはいうものの橋本は、この加藤の実験に、二分法の構図を崩す突破口があることも示唆している。その鍵は「膨大なディテール」情報の語り方にある──戦争特集などの「現在の評論の困難はここにあります。〔略〕膨大なディテールを語る人間は、平気でそれを語りますが、受け手はそれを消化しきれません。だからうっかりすると語り手は自分の語った膨大なディテールを、自分の都合のいい結論を出すための傍証にしてしまう」(495頁)と。そこで加藤はその危険を回避するために、「『戦争を考えるためには、どんな材料が必要か』というところから」始める──この橋本の指摘は、重要だ。そしてその「材料」はいったいどこにあるのか。語り手個人の能力に依存しない「方法」「場」を考えようと、橋本は呼びかける。
 赤坂真理もその突破口に気づいた一人である。話題となった小説『東京プリズン』(二〇一二年)で、アメリカの高校でのディベートという舞台装置を使って「天皇」という存在を問う果敢な挑戦を行った彼女は、『愛と暴力の戦後とその後』(二〇一四年)で、その解題を行う。そこで「研究者ではない一人のごく普通の日本人が、自国の近現代史を知ろうともがいた一つの記録」を残そうとする。動機は「それがあまりにわからなかったし、教えられもしなかったから」だ。だがそこで赤坂は古市憲寿のように「無知に居座る」のではなく、「もがく」行為に踏み出した。彼女もまた戦後第一世代の一人である。傍には対峙し語り合うべき相手として、体験者たる母がいた。そしてその肩越しの遠くに「天皇」が見えたというわけだ──「平成の終わり」を告げる「天皇の声」は、確かに目を凝らすべき対象に気づくシグナルになる。

大衆の「ことば」に目を凝らす

 私が大学に勤めるようになったのは、二〇〇三年、四十一歳の春からである。もともとは広告会社、インターネット企業で働くサラリーマンだった。メディアの現場で起こる様々な不思議な現象を読む理論の必要性を、ずっと痛切に感じていた。縁が重なり、老けた学生として大学院で「情報」の理論を学ぶことになり、それがきっかけで運よく職を得ることができた。
 折しも地上デジタル放送の開始年だった。「放送論」という授業を担当することになった私には、その動きをウォッチする毎日の中で、じきに「デジタル化」が、メディアの社会的布置を根こそぎ変えていく未来が見えた。その核心をネットワークとアーカイブが担うこと、それが我々の時間・空間的な認識基盤となるだろうことも仮説として描けるようになった。そして二〇〇五年の「戦後六十年」は、その具体的な実証の年となった。「戦争」という題材と「メディア」の問題の接近を図る中で、周回遅れでアカデミックの世界に入り、「知識人」という看板に馴染めないでいた私は、「戦争」と「メディア」を結ぶ鍵が、情報の「送り手」と「受け手」の関係を問う地点にあると気づくようになった。
 長く続いた「戦後」は、ひと言でいえば、様々な「戦争体験者」の言葉をめぐる攻防が繰り返されてきた時代だった。だが「攻防」とは言っても、ぶつかり合うことがなく、すれ違い続けた印象が強い。「知識人」による歴史解釈の独占はその大きな原因の一つであり、そこに非対称なコミュニケーションを支える力学が温存されてきた。そしてまた「体験者」の中でもそうした「言葉を持つ者」と「持たない者」との間に深い溝が刻まれていた。それは「戦争」について語るべきことがらの共有を妨げてきたのだ。
「戦後」は、戦争を語る人がいなくなったら終わるかもしれない。しかし、それは決してこの分断・対立を解消させるものではない。むしろその溝自体を忘却させ、見えなくさせてしまう──その「蓋」が閉じる──期限が迫っている。戦後第一世代とこうした危機意識を共有しつつ私は、メディアに表現されたものを読む作業を通じて、この問題にアプローチしたい。それは、マスメディアが現代の戦争と同じ二十世紀の産物であるということ。そして何より、ずっと排除され見下されてきた「大衆」の「ことば」(書かれた「言葉」に対し、書かれざるエモーショナルな表現やメタ言語までをも含む、「読まれうるしるし」)が、そこには記されているからだ。それは「戦争」に絡みつく様々な視聴覚的、身体的ディテールを拾いうる可能性にも開かれている。とするならば、「既に知る者と未だ知らない者」の後者の位置からの方が、それらは良く見えるだろう。だからこそ戦争の「語り部」に対して「聞き手」の重要性に着目するのであり、戦後ずっとその非対称なロールプレイに巻き込まれてきた「戦争を知らない子供たち」の立場に光を当てるのだ。
 しかしながら「大衆」の(あるいは「子ども」の)「ことば」は、長い間「読まれざるもの」だった。桜井均は、それを認識対象に引き上げるには、膨大な戦争を題材としてきたテレビ番組の集積(アーカイブ)が手掛かりとなることを唱えた。私もそこを起点に、映像や様々な感覚的なメディア表現に射程を広げていこうと思う。映像は往々にして撮り手が意識していないもの、被写体たる人々の無意識を、痕跡として残してしまう。それは書かれた「言葉」の一方向性を破り、「ことば」の共同性を見出すチャンスを与える。
 橋本治が言うように「膨大なディテール」の解釈は、決して個人では背負いきれない。そこには一方的に話を聞く人の集団ではなく、それぞれが自らの「ことば」を持ち、それを交換し合い、共に生きる空間・関係(=コミュニティ)が要求される。
「語り(記憶)の時代から、アーカイブ(記録)の時代へ」──歴史の「忘却」に抵抗していくために「材料」を探し、「場と方法」を創造する我々の作業は、その手掛かりとなる対象を直視することから始まる。

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本書の構成と主な内容

 本書では、序章と終章を含む全6章構成で論考を深めていきます。以下では第1章から第4章よりそれぞれ抜粋して読みどころをご紹介します。

第一章 戦争を「語る言葉」のもどかしさーー戦後六十年以降のテレビ番組から

……冒頭で加賀美アナは、原爆詩人・栗原貞子の逝去を伝え、「またひとり、平和を伝える人が、いなくなりました」と言う。その上で、高齢化で語れる人が減っていく困難な状況に焦点をあてる。〔中略〕

 番組は、広島の「語り部」たちが抱える悩みにフォーカスする。彼らの言葉が修学旅行生たちに響かないのだ──しかしそれを「無関心」「風化」と見なし、若い受け取り手側の問題として扱う。ゲストの大江健三郎は、「話は聞くけど、内面のものとして捉えているだろうか」と疑問を呈し、「過去の話として聴いているだけでは(心が動かない、それではだめで)自分がこれから経験するかもしれないこと」を想像すべきと諭す。

 こうしてこの重要な問題提起は、冒頭の二十分ほどであっさり「べき」論に回収され、論点は国際動向に移る。〔中略〕果たしてこの番組で、はじめに掲げた「伝えたし、されど…」の問題の核心には迫れたのだろうか──〔中略〕

 忘れられないインタビューがある。引用された『伝えたし、されど…』の中で、「語り部」の話を聞いた直後の男子修学旅行生は言う──。

「なんか、わかりにくかったね。難しかった」(どんなところがわかりにくかった?)「えーやっぱね。てか、死体の話とかいろいろ出てたけど、想像がつかなかった」

 私は率直に思う。なぜ番組はここから先も「送り手のもどかしさ」に止まり続けたのか。この男子生徒の声を掘り下げ、その心情に寄り添おうとしなかったのだろうか。
 もう一度、この年に録画した戦争番組のリストを見直す。中央・地方制作を取り混ぜ、「原爆」「核」に関する論点は様々に提示されている。確かにそれは、元々高い問題意識を持つ人、既にその議論の輪の中に入っている人々には訴求力をもつかもしれない。しかし、最初からその外にいる人はきっと見向きもしないだろう。「語り部」たちの中にも同じ分断が生じている。彼らは、自分の言葉の一方向性に気づいていない。そしてこの時のテレビもまた、それに無意識に同調している自らの一方向性に気づいていない。

第二章 「戦争を知らない子供たち」について考える

「語り部」たちの一方向的な発話も、「聞き手」の沈黙によって支えられてきた。〔中略〕ともすると「語り部」の強く自信に満ちた話しっぷりは権威をまとい、「無知」な「聞き手」を不安に追い込む。シンボル化がもたらすそうした「都合のいい」操作の中で、「語り手」は、気づかずにステレオタイプに自己を投影し、語る内容の正当性も得る。それは「教育」が時にまとってしまう負の側面──「すりこみ」の強制とも親和性がある。

第三章 「空白」を埋めるーー映像で出会いなおす「あの戦争」

「一フィート運動の会」最初の上映会は、一九八四年五月十六日に行われた。沖縄タイムスの記事によれば会場の那覇市民会館は超満員で、急遽那覇市教育委員会ホールでもビデオ上映を行ったという。この熱気は、まさに「映像を持たなかった」人々の渇望の表れであった。この日は、前月末─五月一日に届いたばかりの、米国公文書館から購入した十二本の映像が上映された。〔中略〕

 この十二本には、「住民の移動」「戦争孤児たち」「食糧配給」「住民の収容」「首里の攻防」「金武掃討作戦」「那覇飛行場の壊滅」「日本兵の降伏」「日本兵の大量降伏(一)」「日本兵の大量降伏(二)」「捕虜のショー」「学校に戻った沖縄の子どもたち」というタイトルがついている──〔中略〕米軍が沖縄本島に上陸して一週間目、日本軍が早々に撤退していた本島中部では、この段階から米軍統治による所謂「軍政」が開始される。〔中略〕「鉄の暴風」ともたとえられる激しい地上戦の記録は、「首里の攻防」「金武掃討作戦」「那覇飛行場の壊滅」。そこには凄惨な死体映像も含まれ、観客にショックを与えたが、同時に投降する日本兵や住民、さらには彼らの収容所での様子が丁寧に描かれている。〔中略〕

 これらの映像群には「戦争」に距離を置いて見た眼差しではなく、当事者たちが自分たちの姿をその中に探すことができるコンテクストがある。特に、「降伏」を扱った三タイトルには、軍属も一般人も混然一体をなしていた群衆に、多くの住民の姿が確認できる(「白旗の少女」のシーンもこの中にある)。長時間カメラを回していた収容所のシーンは、その軍属と一般人を「分ける」手続きを記録したもので、沖縄の人々は、ある意味でそこを自分たちの戦後の「出発点」と位置づけることができる。また、「戦争孤児たち」などに見られる子どもたちの姿にも、戦争の「悲惨さ」の象徴というより、その「出発点」のイメージが託されているように映る。米兵からけがの治療や介護を受ける幼児や、新しく設けられた遊具で米兵と遊ぶ情景、また再開された学校で学ぶ子どもたちには、プロパガンダ的要素を割り引くなら、むしろ明るさすら感じる。

 戦争のむごたらしさ、理不尽さを著書で強く訴えていた大田が、「一フィート運動の会」では、どうしてこの十二本を最初の映像群として収集したのか──〔中略〕体験者が「聞き手(戦後の子どもたち)」と共にスクリーンを指し示し、互いのアイデンティティを確認しながら語る状況づくりのための映像。それをまずは手に入れようとしたのではないか。新聞に掲載された、上映会に参加した人々の感想は、その様子をよく伝えている。

第四章 語り継ぐ条件ーー対話への階梯

 二〇一九年の八月の戦争番組の主役は、再発見された映画『ひろしま』であった。もちろんこの映画の存在は古くから伝説的に語られてはいたが、こうやって日の目を浴びてみると、まだまだ「資料」は出て来るものだとの感慨がある。

『ひろしま』は、一九五一年に長田新が編集し、平和教育の契機ともなった文集『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』を原案とし、一九五三年に八木保太郎脚本、関川秀雄監督で制作された作品だ。〔中略〕一九五五年に第五回ベルリン国際映画祭長編映画賞を受賞するなど高い評価を受けたが、反米色の強い台詞に及び腰となった配給会社が降り、刺激の強い描写に大阪府教育委員会も推薦を見送るなどして、次第に「忘れられた作品」になっていった。〔中略〕二〇一八年には欧米、アジアの十カ国で上映。サーロー節子(二〇一七年、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」のノーベル平和賞受賞スピーチを行った)やオリバー・ストーンがリコメンドするまでになった。

 NHKが二〇一九年の夏の編成の目玉にこの映画を据えたのは、間違いなく広島平和記念資料館のリニューアルを意識してのことだ。〔中略〕十六日深夜にEテレにて全編が放送される。
 そのインパクトは何と言っても八万八千人の市民参加であり、様々な資料を基に忠実に再現された、三十分を超える当日の惨劇のシーンであろう。特に印象的だったのは、被爆者たちのボロボロの服、真っ黒な顔と逆立った髪で両手を前に突き出してよろよろと歩く姿である。それは撤去された旧資料館の人形の造形そのものだった。

 この映画と今日「出会い直す」べき意義は、何よりも被爆からわずか八年で、市民たちの手によってこの映画がつくられたという事実である。参加した八万八千人の全てが被爆者ではもちろんない。原爆を知る者と知らない者の協働がこの映画を介して成立していたのだ。被爆者にとってはおそらく一人では封印したい記憶の想起体験として、そして遠くで報道を聞いた人々にとっては、初めての疑似体験として。ロケは〔中略〕被爆者や遺族から提供された遺物を用いて行われた。出演者の中には『原爆の子』に作文を収めた当事者もいた──これは、まだ手の届く距離に対象があるうちに、戦争を語り合うコミュニティを生み出そうとした、壮大な実験だったと言える。

 とはいえ、この映画が六十五年もの間、人々の記憶から消え、埋もれてしまっていたという現実は、その「実験」は失敗したということを意味する。〔中略〕理由はいくつか考えられるが、総じて言えば、「総力戦」を引き継ぐ戦後の社会システムが陰に陽にブレーキをかけてきたであろうことは、想像に難くない。

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プロフィール
水島久光(みずしま・ひさみつ)

1961年生れ、慶應義塾大学卒業後、広告会社勤務を経て東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。東海大学文学部広報メディア学科教授。主として20世紀の映像メディアを研究対象とする。戦争体験者による語りの場や、中学生が戦争資料館を見学するツアーに学生を同行させるなどして、戦争の記憶の継承がどのように行われてきたか、また現在どのような形で実施され、若年世代にどのように受け止められているかを継続的に、精力的に調査・研究している。著書『閉じつつ開かれる世界――メディア研究の方法序説』(勁草書房)、『テレビジョン・クライシス――視聴率・デジタル化・公共圏』(せりか書房)など。
*水島久光先生のTwitterはこちらです。

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