スパコン「京」:日本の競争力復活を賭け、挑んだ技術者たち――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』(8)
情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。
世界最速へ 技術者たちの頭脳戦――スーパーコンピューター「京」
1 開発前夜
熾烈を極めるスーパーコンピューターの開発競争
人間がハンドルを握らなくても、車が自動で走る。膨大なデータを学習し、生成AIをはじめとする人工知能が驚きの進化を遂げる。こうした新時代の技術を可能にしているのが、驚異的な計算速度を持つ「スーパーコンピューター」、略して「スパコン」。その計算性能の進化は著しく、その登場から30年で100万倍の進化を遂げたと言われる。
スパコンは、同時代の他のコンピューターと比べて性能がはるかに優れており、コンピューター界の「F1マシン」とも言うべき、国の技術力の象徴である。今も、世界的企業や国家による熾烈な開発競争が繰り返されている。
1970年代後半、日本はアメリカを追いかけるようにスパコン開発に乗り出した。その後、1993(平成5)年には、世界のトップマシン500のうち100台以上を、日本勢が占めるまでに成長した。しかし、その後は不況の煽りも受け急速に凋落し、ヨーロッパ諸国や中国にシェアを抜かれていった。2000年代初頭の日本はかつての隆盛を失っていた。
スパコン開発は国の産業の競争に関わる重要な技術。開発がひとたび断絶すれば、世界の潮流に二度と追いつけなくなってしまう。この危機を乗り越え、技術を未来に残すため、前人未到の開発に挑んだ者たちがいた。
「もう一度、世界一のスパコンをつくりたい」
技術者たちがその粋を結集させてつくり上げたのが、国産スーパーコンピューター「京」だった。
目指すは、まだ誰もがたどり着いたことのない「1秒に1京回」の計算スピード。開発にあたったのは、スパコン開発30年のベテランから未経験の若手まで、総勢1000人を超える研究者と技術者たち。おのれの頭脳だけを武器に、世界一奪還に挑む闘いが始まった。
日本のスパコンをけん引した先駆者たち
物語は2000年代初頭、日本経済の陰りの中から始まる。
バブル崩壊から10年、富士通は苦境に見舞われていた。1935(昭和10)年に通信機器メーカーとして始まって以来、さまざまなテクノロジーを世に出し、世界のコンピューター開発をけん引してきた。しかし、2001(平成13)年からの世界的なIT不況のなか、2万人を削減するリストラが断行されるなど、厳しい状況が続いていた。そして、この頃、社内で縮小に追い込まれていたのが、スーパーコンピューター専用機の開発部隊であった。
そもそも、富士通でスパコン開発の先陣を切ったのは、「ミスター・コンピューター」と呼ばれた池田敏雄 。1946(昭和21)年に富士通へ入社し、51年の生涯をコンピューターの進歩とともに歩んだ。
池田は型破りな人間で、新しいアイデアが浮かぶと何日も自宅にこもり、出社するのを忘れるほどだった。破天荒ながら後進の育成にも力を尽くし、部下たちにはこんな言葉を残した。
「挑戦者に『無理』という言葉はないんだ――」
独自のコンピューター開発に取り組み、富士通を通信機器メーカーからコンピューターメーカーに変貌させた。
1961(昭和36)年、トランジスタ式大型事務用計算機「FACOM222」を開発。7年後には初めてICを搭載した「FACOM230-60」を完成させ、日本はコンピューター界においてアメリカとほぼ同等のレベルに達した。常に最先端に挑み続ける姿勢とたぐいまれなる才能で部下たちをけん引したが、1974(昭和49)年11月、羽田空港で倒れ亡くなった。
池田は、亡くなる数年前から、この先はスーパーコンピューターが技術開発のカギを握ると予見していた。アメリカは早くからスパコンの開発に着手していた。1976(昭和51)年には1秒に1億6000万回計算できる「Cray-1」と呼ばれるスパコンが登場。広範囲の気象計算をはじめとした高度な科学計算を可能にし、圧倒的な力を見せつけていた。
このアメリカ一強の状況に敢然と立ち向かったのが、富士通やNEC(日本電気)、日立といった日本メーカーだった。日本のスーパーコンピューターは1980年代に急速に力をつけ、アメリカよりも安くて高性能を謳い、シェアを伸ばしていった。それゆえ、その開発力はアメリカの脅威となり、日米貿易摩擦の一因にもなった。
1989(平成元)年、アメリカは「スーパー301条」を発動。以後、日本メーカーのスパコンにはしばしばダンピング疑惑がかけられ、輸出には高い関税がかけられた。こうして日本のスパコンは世界需要の多くを占めるアメリカ市場から次第に締め出されていった。
それでも、各メーカーや大学、研究機関が「数値風洞」や「CP-PACS」、「GRAPE」、「地球シミュレータ」といった優れたスパコンを多く生み出した。しかし、長引く不況による財務悪化により、開発の厳しさは増していった。
なぜスーパーコンピューターは必要なのか?
現在、スーパーコンピューターは、気象予測や津波の被害想定、新薬の開発など、シミュレーションに多く用いられている。これまで膨大なデータがあっても処理しきれない、実験を行いたいけれどできなかった研究も、スパコンを使うことで進めることができる。
例えば、気象予測では大気の動きなどについて対象領域を格子に区切って計算するので、格子が細かくなればなるほど、正確な予報が可能になる。気象庁のスパコンは2024(令和6)年3月には2キロメートル四方まで細かく計算できるようになり、これまで困難とされてきた線状降水帯予測も可能になってきている。
また、地震発生時に沖合で観測される波形の情報から、浸水状況を3メートル単位の高解像度で予測できるAIモデルもつくられている。これはスパコンで作成した2万件の想定津波シナリオをAIが学習することで実現した技術だ。
さらに、タンパク質の構造解析も数千から数万個もの原子や、分子一つひとつに働く力を計算することで、コンピューターの中で実現できる。この計算能力が応用できるのが「創薬」の分野だ。候補薬の選定や構造計算にスパコンを活用することで、大幅な期間短縮とコスト減が可能になっている。
スパコンの性能を進化させていくことで、科学技術を飛躍的に向上させることができる。スパコン開発は技術革新や発明をもたらす、産業の要と言えるものなのだ。
しかし、最先端スパコンの開発には、莫大な資金が必要となる。部隊を維持するだけでも、年間100億円がかかっているとされる。バブル崩壊後の不況で、莫大な開発費は徐々に経営を圧迫し、メーカーだけで開発を続けるのは、もはや厳しい状況だった。「スパコン開発はビジネスにならない」と事業の見直しを進めるのも無理からぬことであった。
スパコンの灯は消さない! 立ち上がった者たち
厳しい状況のなか、富士通でスパコン開発の継続を訴える者たちがいた。その一人が、システムエンジニアの奥田基であった。大学時代にスパコンと出会った奥田は、その力に度肝を抜かれた。1977年(昭和52)年に富士通へ入社してからは、主にスパコンのシミュレーションアプリ(原子力、衝突解析、計算化学)を担当した。
プログラムを書いて計算すると、自然界の出来事を再現することができる。スパコンの中をのぞくと、これまで見えなかった世界が一気に見えた気がした。「スパコンは、未来を変えるものなんだ」。そう、確信を持っていた。そんな自分にとって夢のマシンであったスパコンが、今や会社のお荷物。奥田は歯痒かった。
「私は、スパコンが大好きでした。特に1990年代の終わり頃からは、使い方の幅が飛躍的に広がりました。スパコンは、これからの技術開発を根こそぎ変えると感じていました。ところが、開発事業は縮小し、スパコンをつくる技術のある人が苦しい立場に置かれました。スパコンのような高度で複雑な技術は、一度やめたら立て直すのは非常に難しいんです。継続して富士通の中でやってほしいと願っていましたが、社内にはその旗振り役がいない状況でした」
これまで紡いできたスパコンの技術を、ここで途絶えさせるわけにはいかない。奥田は動き始めた。
最初に始めたのは、社内の仲間づくりだった。集まったのはわずかなメンバーで、かつてのスパコンの営業担当や、新技術開発を担当する研究者だった。奥田に声をかけられた富士通研究所の木村康則(1981年入社)は、戸惑いを隠せなかった。
「正直なところ、あまり乗り気ではなかったです。スパコンは使われ方が特殊で、ビジネスとして考えた場合にどうなのかなという疑問がありました。また、私は研究所で最新のスパコンやコンピューターのアーキテクチャを研究し、比較や研究をしていましたが、大きなスパコンを開発した経験はありませんでした。そのため、『一緒にやりましょう』と言われても、どこまでやれるのかは自分でもわからない状況でした」
それでも奥田の熱意に押され、話を聞いているうちに「これは面白いかも」という思いが芽生えてきた。そして、こう思った。「技術者として何か次の世代につながるような、大きな仕事をしてみたい」。技術者としての意地が、木村を突き動かした。
もう一人、奥田が頼みとしたのが、渉外担当の堀越知一(1976年入社)。富士通入社後は大学・研究所関係のスパコン営業・販売推進を担当。2001(平成13)年には渉外担当部門に異動し、文部科学省をはじめとする各省庁との交渉や社内の調整役を担った。
「多くの人手や多額の費用を必要とするスパコン開発は、一度始めたら止めるわけにはいきません。どんなことがあっても撤退は許されないし、『富士通は逃げた』と言われるのは嫌でした」
堀越が中心となって最初に立ち上げたのが「UHPCプロジェクト室」。 目指すはウルトラでハイパフォーマンスなコンピューター。開発の準備のためにはまず部署が必要と、堀越は上司とかけあい、社内会議の場を設けた。さらに奥田と共に議員や役人、研究者のもとを訪ねては国家プロジェクトとしてのスパコン開発の必要性を訴え続けた。開発の灯を消すまいと、スパコン開発が手探りで始まった。
国家プロジェクトとしてのスパコン開発が始動
2003(平成15)年、アメリカが国家プロジェクトを続々と打ち出していた。民間企業だけではつくれない圧倒的なスパコンで、他国を一気に引き離そうとした。地球シミュレータ以降大きな開発計画のなかった日本も、競争力の根幹を失う危機に際し、国家プロジェクトを始動させることとなる。
2005(平成17)年3月、文部科学省は「第3期科学技術基本計画」を閣議決定。国が「国家基幹技術」としてスパコンを支える方向性を示した。そして翌年、国家プロジェクトとしてのスパコン開発が本格的に動き出した。開発の主体は理化学研究所で、各メーカーや大学から設計案を募ることになった。
理化学研究所は日本で唯一の自然科学の総合研究所で、創設は1917(大正6)年。略して「理研」と呼ばれることが多い。研究分野は物理学や工学、化学、数理・情報科学、計算科学、生物学、医科学など幅広く、スパコン研究は計算科学の範囲に含まれる。2006(平成18)年1月には「次世代スーパーコンピュータ開発実施本部」を設置し、プロジェクトリーダー、渡辺貞のもと新たなスパコン開発が本格的に動き始めた。
富士通も、理研を中心とする国家プロジェクトに参加することになった。しかし、そこまでの道のりも一進一退があった。
すでに2004(平成16)年にはペタスケールコンピューティング推進室を立ち上げ、富士通研究所の木村がトップになっていた。木村は、研究所の上司から「やめておけ」と忠告されたという。それでも木村が「やります」と答えると、上司はこう言った。
「スパコンやめろと言ったぞ。それでもお前は『やる』といった。仕方ない、手伝ってやるか」
一度は消えかけた開発を再興するという無謀な挑戦。それでも、一度やると決めた以上は諦めたくなかった。
「国家プロジェクトが始まる前から、すでに社内でいろいろと動いていました。働きかけは奥田さんや堀越さんがずっと続けて、道をつくってくれました。システムエンジニアだった奥田さんはソフトウェアの観点から、堀越さんは渉外の立場から、そして私は技術的な方面から動きました」
徐々に動き始めたプロジェクトだったが、ここで大きな壁が立ちはだかることになる。
2 「これが最後の開発」
次世代スパコンの計算速度目標は「10ペタフロップス」
スーパーコンピューターの評価の基準の一つが計算速度である。1秒間に浮動小数点演算を何回できるかで表され、単位を「フロップス(FLOPS)」という。1秒間に10回の演算ができるマシンは、「10フロップスの性能を持つ」と表現される。
スパコンの計算能力を比較する目的でつくられたベンチマークのうち、最も広く用いられている「TOP500」(毎年6月と11月に更新)が、スパコンの「計算速度世界一」の指標となる。1993(平成5)年に初めて公開されて以降、日本は航技研/富士通の「数値風洞」(1993年11月、1994年11月、1995年6月・11月)、日立の「SR2201」(1996年6月)と筑波大/日立の「CP-PACS」(1996年11月)、宇宙開発事業団、原研、海洋科学技術センター/NECの「地球シミュレータ」(2002年6月・11月、2003年6月・11月、2004年6月)などが世界一になった。
2002(平成14)年6月に世界一になった「地球シミュレータ」の計算速度は、1秒でおよそ35兆8600億回の計算をする35.86テラフロップス。それまで1位だったスパコンの5倍の性能を発揮した。そこで、アメリカは、1ペタフロップス(1秒に1000兆回の計算速度)を超えるマシンの開発を進めていた。
開発を率いていた木村は、当初、3ペタフロップス(1秒に3000兆回の計算速度)を目標にしていた。しかし、開発プロジェクトの主体を担う理化学研究所は、10ペタフロップスという目標を定めた。
10ペタフロップスとは、1秒間に1京回の計算スピードを意味する。
それはまだ、世界の誰も到達したことがない前人未到の計算性能。到達するためには、システム全体が滞りなく動かなくては目標の10ペタフロップスは到底出せない。しかし、開発を率いていた木村にはこれほどの規模のスパコン開発の経験はない。さらに、新たな開発チームは若手が中心で、必ずしも万全とは言えない。経験の浅い彼らを導ける歴戦のエンジニアが必要だった。木村には一人、心当たりがあった。スパコン開発を30年前から担ってきたベテラン、追永勇次である。
スパコン設計への異動
追永勇次は1951(昭和26)年、オホーツク海沿岸の北海道・紋別で生まれた。北海道大学理学部を卒業。物理学を専門としてきた。1974(昭和49)年に富士通に入社するまで、コンピューターなど見たこともなかった。配属希望を問われたときは、「SE(システムエンジニア)」などの横文字の職種は何だかわからず、漢字でわかりやすい「電算機課」を希望した。そこで待っていたのが、コンピューター設計の仕事であった。
マニュアルはなく、先輩たちの設計した回路図が頼りだった。小さな頃から、教わるよりも自分で答えを見つけることが好きだった追永。回路図を読み込み、自力でその原理を理解していった。
「設計をやっていると、コンと音がするんですよ。頭の中で回路がつながって、音がしたらそれで終わり」
入社5年目を過ぎたとき、追永の席に上司が来て、こう言った。
「スパコンが火の車だから、行ってくれ」
会社の花形だったメインフレームと呼ばれる大型コンピューターの設計部隊から、スパコンの設計への異動。追永は「左遷かもしれない」と思った。
スパコンは同時代のコンピューターの一番を目指して開発され、最先端の技術を試すテクノロジードライバーだった。初めて使う技術には、常にリスクとお金の問題がつきまとった。特に回路の設計はシビアな仕事で、一度製造に回してしまえば、不具合が見つかっても簡単には直せない。製造をやり直すことになれば、損失は億単位にのぼることもある。開発に莫大な予算がかかる一方で、その販路は研究用途がほとんどで商業的な利益はあまり見込めない。そのため、スパコン開発は社内で、「金食い虫」と呼ばれてきた。
追永自身も、課長になって開発全体の責任者を務めるようになると、回路設計が上手くいかず修正が重なり、1億円を使ったことがあった。そのうちに「1億円の男」というあだ名もついた。それでも、計算結果の間違ったコンピューターなどあり得ないと、すべてを背負う覚悟で開発にあたった。失敗を恐れ、多くの同僚が設計の現場を去っていくなか、追永はひときわ重圧がのしかかるスパコン開発という損な役回りを引き受け続けた。
「技術のかたまり」のような人
現在、富士通のスパコン開発の責任者である、先端技術開発本部本部長を務める追永の元部下・新庄直樹(1987年入社)は、その不器用な生き方を見てきた。
「世渡りダメ、口下手。だけど、ただ一心に最高の技術を求める『技術のかたまり』のような人です」
新庄は、追永からこんなことをよく言われた。
「『できない』と言うときは、世界中の技術者ができないと言うならいいよ。だけど、そうでなければ、簡単に『できない』と言ってはいけない」
日進月歩で技術のトレンドは変化し、他国も全身全霊をかけスパコンを開発している。実際、3台に1台は失敗するとも言われるほど開発は難しい。数年先の技術のトレンドを見通したシステム全体の設計ができなければ、世界のトップには立てない。その厳しさを人一倍理解していたのが、追永だった。
「ここはもう、追永さんしかいない」
スパコン開発の言いだしっぺである奥田、木村、堀越たちから、「開発を率いてほしい」と頼みこまれた。しかし、追永は固辞した。
「『いや、もういいよ。勘弁してくれ』と思いました。そのときはもう50代も半ばで、もう耐えられないよと。自分が出る幕ではないというのが正直なところでした」
報われることも少なく、泥臭くつらいことばかり。
「開発が上手くいかないとき、寝ていると自分の体が宙に浮くような感覚になることがありました。追い詰められて、自分はどうなっちゃうんだろう、という不安がずっと続くんです」
定年まであと数年、やっとつらい毎日から抜け出せると思ったところでのプロジェクトへの誘い。追永は、どうしても前向きな返事をすることができないでいた。
世界一へのプロジェクトは切り札がいないまま、見切り発車で始まった。
8万台以上のCPUをつなげて同時に計算する
コンピューターの計算の仕組みは、「プロセッサ(CPU)」と「メモリ」、「I/O」(入出力装置)でできている。メモリはCPUの外にもある記憶装置の一つで、I/Oに接続されるハードディスクなどの外部記憶装置上のプログラムやデータを一時期に格納する場所である。
そして、CPUは「中央演算装置(Central Processing Unit)」のことを指す。CPUはデータや命令を処理する装置のことで、メモリに格納されているデータとプログラムを呼び出して、計算を行う。スパコンの性能を大きく左右するのは、コンピューターの頭脳であるCPUだった。
2006(平成18)年9月、スパコンの概念設計に進んだメーカーは、富士通、NECと日立。富士通は8万台のCPUをつなげて同時に計算させる「超並列」マシンの開発を目指した。
CPU開発には、100人を超えるエンジニアが投じられた。開発にあたった一人が、浅川岳夫(1986年入社)。高校、大学と野球一筋で、コンピューターのことは何も知らなかった。入社してCPUの設計部隊に配属された日、浅川は追永からこんなことを言われた。
「追永さんに初めて会った日、『設計は勉強ができる、できないじゃないから。センスだから』と言われました。そのときは、もうどうしようかと。この先やっていけるかな? と思いました」
しかし、その不安は一瞬で消えた。先輩たちの設計資料をひと目見て、こう思った。
「工夫と新しさのかたまりだ! これをやりたい!」
それ以来、浅川は設計一筋で走り続けてきた。
設計検討リーダーに抜擢された若手社員
CPU開発の最前線でキャリアを重ねた浅川には、頼れる若手がいた。1999(平成11)年入社の吉田利雄 、当時33歳。浅川の大学の後輩で、入社前のOB訪問で浅川が入社を勧めた青年だった。吉田の大学時代の専門は物理学。大学院に進学し、研究者の道を志したが、限界を感じて就職を決意した。自分はこの先何をしたいのか、先の見えない不安の中で出会ったのが、浅川だった。
「CPUの設計は楽しいぞ」
そう軽やかな笑顔に誘われて、吉田は富士通の門を叩いた。しかし、1年目の配属はCPU設計とは別の部署。「浅川さんと一緒に働きたい」。憧れのCPU設計への思いは募った。転機は吉田が2年目を迎えようとしていた頃に訪れた。当時アメリカで行っていた開発を日本に移すことになり、開発者の追加募集がかかった。吉田はすぐに、当時CPU開発のトップだった井上愛一郎に「CPU設計をやりたい」と直談判し、吉田は設計部隊に入った。
吉田は、自分自身にあるハードルを課した。自分が設計の技術をつかめるか、あえて1年という期限を自らに設定したのだ。1年でモノにならなかったら、別の道を進む覚悟だった。
「1年間真剣にやると、いろんなことができるような気がしていました。上手くいかなかったら、2年、3年とやっても一緒かなと。子どもの頃からこういう考え方だったので、特別というわけではありませんでした」
その言葉通り、みるみるうちに設計の腕を上げ、浅川から中心回路を任されるようになった。それから5年。腕を磨いてきた吉田のもとにやってきたのが国家プロジェクトのスパコン開発という大舞台だった。吉田は、CPU全体の設計検討を任されることになった。
「本格的なスパコンの開発プロジェクトということで、好奇心が湧き出るような気持ちでした。自分で大丈夫かなという不安もありましたが、それ以上に好奇心がありました。チームのメンバーもたくさんいたので、一緒に頑張ることで乗り切れるのではないかという思いもありました」
2006(平成18)年9月、吉田はCPUの設計者だけでなく、ソフトウェアの開発者などを交えた自主的な検討会を始めた。検討会の名前は、「目覚めの一杯」という意味の「ストロングコーヒー」。スパコンはどうあるべきかをひたすら話し合った。