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心臓・血管修復パッチ:困難を極める開発を成し遂げた命のドラマ――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』(7)

情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。

技術よ 小さき命を救え――町工場 夢の心臓・血管パッチ開発


1 挑戦を決めた医師と町工場

魔法のパッチ

 生まれたばかりの赤ちゃんのおよそ100人に1人は心臓に病気を抱えている。心臓の壁に穴が空いていたり、血管が狭くなっていたりする「先天性心疾患しんしっかん」である。心臓の構造上の異常は手術でしか治療できないケースも多い。
 生後1~2か月の赤ちゃんの心臓はピンポン球ほどの大きさしかない。さらに、手術では4時間以上も患者の心臓を止めることもあり、執刀する医師には高度なメスさばきが要求される。
 そして、その手術は一度で終わるとは限らない。理由の一つは、心臓の穴をふさいだり、周囲の血管を広げる手術で継ぎ当てのように使う医療材料の「パッチ」だ。
 ピンポン球ほどの赤ちゃんの心臓は、体の成長とともに大きくなり、成人する頃には約8倍の大きさになる。一方、以前から使われている医療用パッチは伸びない。心臓の成長に合わせてパッチも大きくしなければ、手術箇所が狭窄きょうさくし、全身に十分な血液を行き渡らせることができなくなるなど、心臓にさまざまな症状が生じることもある。そのため、パッチを交換する再手術を何度も行う子どもたちが、今も全国に暮らしている。
 一度、手術をほどこした心臓は、胸骨など周囲の組織と癒着したり、パッチが異物反応を受け石のように硬くなる石灰化が起こりやすくなり、再手術は難易度を増す。当然、患者のリスクも高くなる。先天性心疾患の子どもたちにとって、再手術は多大な負担となっている。
 そんな中、先天性心疾患の外科治療に関する待望のニュースが報じられた。
 《修復パッチの承認取得 先天性心疾患に新選択肢》(薬事日報・2023年7月24日)
 従来のパッチとはまったく違う発想と技術で開発された新たな「心臓・血管修復パッチ」の製造販売を、厚生労働省は2023(令和5)年7月11日付で承認。目指したのは「伸びる」ということ。やがては自己組織に置き換わる「魔法のパッチ」になる可能性があると期待されている。
 生み出したのは、医師と、町工場と、大手繊維メーカーという異色のチーム。これは小さき命のため、垣根を越えて力を合わせた不屈の有志たちによるドラマである。

Academic Surgeonであれ

 2011(平成23)年。手術に追われる一人の医師がいた。大阪医科大学附属病院(現・大阪医科薬科大学病院)の小児心臓血管外科医、根本ねもと慎太郎しんたろうである。
 医学生時代、人の命に直結する心臓に興味を持った根本は、心臓弁膜症や先天性心疾患を解剖学的に治せるのは外科医だけだと信じ、心臓外科の道をこころざした。大学卒業後は東京女子医科大学・日本心臓血圧研究所でトレーニングを重ね、アメリカの大学での研究、そしてオーストラリアの病院でも研鑽けんさんを積んだが順調なことばかりではなかった。
 「研究も手術もできる外科医を目指し、意気揚々とアメリカに留学した。それが無残に散ったというか、現実の世界に叩き落とされて。日本では同期の医師たちがどんどん出世していく中で、焦燥感を覚えた時期もあったよね」
 飛び込んだ世界の舞台には、知らなかった現実が多々あった。だが、悩む根本に異国のボスはある言葉を教えてくれた。
 「慎太郎、"Academic Surgeon"であれ」
 Academic Surgeonとは、著名な脳神経外科医クッシングの言葉。技術はもちろん、研究や後進の指導などでも一流であれという意味だ。
 その言葉を、根本は「心臓を手に取れる外科医だからこそできる研究で未来を拓け」と受け取った。
 帰国後、新たに大阪医科大学に着任した根本は、附属病院で小児心臓外科医としての腕を磨き続けた。そして、院内で先天性心疾患の手術ができる体制をゼロから立ち上げた。正確なメスさばきで子どもたちの小さな心臓に向き合う日々。その過程で、次第に今なお解決できていない課題への挑戦を決意するようになっていた。
 毎年、根本の元には手術を受けた子どもの家族から写真入りの年賀状が何枚も届く。「元気に暮らしています」という喜びの報告。しかし、その中には将来的に再手術が必要になる子どもも大勢いた。
 「ニコニコ笑っている家族に冷や水を浴びせかけるような再手術は、やっぱり嫌だし、心苦しかった。再手術のとき、子どもがティーンエージャーに成長していれば、親と一緒にその子にも手術に伴うリスクを説明しなければならない。場合によっては、『命の危険もあるよ』と告げなければならないこともあるんです」
 再手術のために入院し、根本の前では気丈に振る舞っていた子どもが、病室で一人になるとずっと泣いていたと、看護師から聞かされることも度々あった。

根本の決意

 そして、わが子を何度も手術室に送り出さなければならない家族のつらさ。それは、根本自身が痛いほどわかっていた。アメリカ留学中に生まれた次男のさとし君は、難病を抱え、幼い頃に失明し、腎臓がんにもおかされた。
 「手術は9回やったのかな。眼球だけでなく、お腹から背中にかけて大きな手術痕があったんですよ。自分が医者なのに、この子のために何もできない。親としてどうだったのか? やる方なくて、気がついたら泣いていたこともあった」
 諭君は8歳で亡くなった。根本は、今も毎朝、仏壇の前で手を合わせることを欠かさない。
 「つぐないというわけじゃないけれども、頑張った諭の分まで自分も頑張らなきゃいけないという気持ちが強くなった。『さっちゃん、お父さんは世の中に貢献したよ』って言えることが、『ごめんなさい』に代わる言葉の一つかなと思っているんです」
 どれだけ手術の腕を磨いても越えられない壁。根本にとって、それが先天性心疾患の子どもたちが受けざるを得ない再手術だった。問題は、体の成長にパッチが対応できないこと。
 世界中で長い年月をかけて研究されてはいるものの、残念ながら決定打はいまだに出ていないと根本は言う。
 「最初は誰かがやってくれるだろうと期待したんだけれども、いつまで経っても出てこない。そのうちに、『お前、何やってるんだ』と思ったんです。ただ手術やってりゃいいわけじゃないだろう、と」
 病と闘い続けたわが子に胸を張れることを成し遂げたい。根本は、子どもの心臓の成長とともに伸びる医療材料の開発に挑むと決意した。

頼れるパートナーを求めて

 2012(平成24)年。まず根本が始めたのは、新たな医療材料の開発に賛同してくれる技術面でのパートナー探しだった。
 「世界中で研究された論文を読んでみると、どの材料もまったくダメなわけではなく、例えばこういう組み合わせでつくったらいいんじゃないかといったアイデアはいろいろ持っていたんです。そのアイデアを形にしてくれそうなメーカーを探して、あちこちに声をかけた」
 しかし、メールを送っても返信すら来ない。電話をしても、「心臓手術に使う」と聞くと、ほとんどの相手は「リスクが大きい」と尻込みをした。
 世の中、そんなに甘くはない……。そう感じていたある日。手術を終え、何気なく手にした新聞の記事に目が留まった。
 《北陸経済特集 繊維、先端分野に挑む》(日本経済新聞・2012年6月9日)
 見出しには《人工血管》と書かれていた。福井市の町工場が技術力を活かし、医療分野への挑戦を始めたという。
 「シルクで人工血管を編むことに成功したと書いてあって、すごい技術だなと思った。もうわらにもすがる思いで連絡をすると、向こうから『会いたい』という返事が来たんです」
 町工場の名前は福井ふくい経編たてあみ興業。
 開発を依頼する前に、技術をこの目で確かめたい。そう考え、根本は福井に飛んだ。案内してくれたのは、専務の髙木たかぎ義秀よしひで。工場の編機の発する轟音ごうおんに圧倒された。
 そこには根本が求めていたものがあった。
 「社員は少ないけれども、現場ではみんな丁寧に仕事をしていて、品質管理もしっかりしていた。実際に編まれた製品を見せてもらいながら、『大丈夫かな?』というクエスチョンが一つずつ消えていって、この会社の人たちはいろんなものがつくれるのだとわかったんです」
 保留していた言葉が、根本の口から自然にこぼれた。
 「論文を書くためじゃない、必ず実用化できるものを一日も早く開発したい。そのために、ぜひ力を貸してください」

繊維業界に吹いた逆風

 福井経編は従業員約90名の中小企業である。1944(昭和19)年創業から今日まで、大手メーカーからアパレル用の生地を中心に「編む」仕事を請け負ってきた。
 髙木は地元出身。だが、福井の地場産業である繊維の業界にもともと関心があったわけではなかった。父は家庭裁判所調査官。父の強い勧めで法律関係の職に就こうと、東京の大学の法学部に進んだ。しかし、司法試験の壁は厚く、故郷に戻って就職する道を選択。大学の就職課から紹介されたのが、地元の地方銀行と福井経編の2社だった。
 「銀行なんて堅いところに勤められるタイプじゃないと思った」と髙木は言う。学生時代に百貨店でアルバイトをしていた経験から、営業なら自分に向いているだろうと思い、福井経編に就職。以来、40年間、営業一筋に歩んできた。
 「入社してすぐに、上司から『なんでこんな会社に入ってきたの?』って言われたことを覚えていますよ。ちょうど高度成長期が終わりかけの時期で、業績は右肩下がりになり始めていた。実際に営業で飛び回っていても、会社が大きく発展するようなイメージはまったく描けませんでした」
 繊維業界には逆風が吹き始めていた。
 髙木が生まれた1950年代初頭、福井県は繊維王国として活況をていしていた。ガチャンと織機が動くたびに、万のカネが稼げる。繊維メーカーは「ガチャマン景気」と呼ばれた時代を謳歌おうかした。しかし、時代は暗転。オイルショックが直撃し、バブルが崩壊すると、繊維メーカーは構造不況の泥沼に陥り始める。2000年代に入ると海外メーカーが台頭し、国内の繊維不況は一層深刻さの度合いを増した。およそ40年の間に、繊維メーカーの数も3分の1以下に減った。
 「空白の20年、30年と言われますけれども、その間にわれわれは何もしていなかったわけじゃないんですよ。一生懸命いいものをつくって頑張ったんだけれども、苦しい状況を打破することができずにいたんです」

培ったオンリーワンの技術

 リーマンショックに見舞われた2008(平成20)年。会社の業績が低迷する中で髙木は専務に抜擢される。営業とともに、会社の経営を立て直すことも髙木の使命となった。
 自社の技術力には自信がある。2010(平成22)年9月。髙木は販路を海外に見出そうと、フランスで開催される世界最高峰のファッション素材見本市「プルミエール・ヴィジョン」への出展を決めた。数名の社員をパリに引き連れ、世界の舞台で勝負に打って出た。が、福井経編のブースでは閑古鳥かんこどりが鳴いた。
 一方で、会場には常に人だかりができているブースもあった。それは、「他にはない技術」をアピールするメーカーのブースだった。
 「世界を相手に生き残るには、付加価値の高いオンリーワンの技術と商品が必要だということを痛感しました」
 髙木の目はアパレル以外にも向けられた。それが医療分野へと一歩を踏み出すきっかけになり、シルクを使った人工血管の開発へとつながった。
 福井経編が開発したシルクの人工血管は、東京農工大学を中心に共同研究でつくられたものだ。だが、医療材料として使えるまでには、解決しなければならない課題が山積していた。
 「必ず実用化できるものを一日も早く開発したい」という根本の熱い思いを、髙木もまた同様に抱いていた。子どもの心臓の成長とともに伸びる医療材料の開発に、髙木は社運をかけた。その決断を下したときの自身の心境を、髙木はこう述べる。
 「リストラという最悪のシナリオを想定したこともありました。景気はどんどん悪くなる。だけどその中で次の一手を打てば、生き残れるかもしれない」

2 突破口を探して

受け継がれてきた技術者魂

 多くのメーカーが尻込みをした、子どもの心臓の成長とともに伸びる医療材料の開発。その担当者として髙木が白羽の矢を立てたのは、「あきらめの悪い男」だった。工場には、どんな無理難題も、できるまでやる技術者がいた。それが山田やまだ英明ひであきだった。
 「小さい頃からおもちゃや時計が動かなくなると、自分で分解して直そうとしていましたね。結局、壊してしまって親に怒られることもよくありましたけれども」
 そう話す山田が、地元の工業高校の繊維科を卒業して福井経編に入社したのは1993(平成5)年。勉強は嫌いだが、ものづくりには興味があった。だが、給料日が訪れる度に、繊維業界の中小企業の厳しさが身にみた。
 「大きい会社に就職した同級生たちの中には、月に30万円とかもらっていたのがざらにいました。そういう話を聞いていると、この会社でよかったんかなと。仕事も最初は何一つできず、おつかいみたいなことばっかりで、楽しいとは感じられなかったんです」
 やりがいを見出せず、与えられた仕事だけを黙ってやる。そんな毎日を送っていた新人の山田が、技術者のあるべき姿を目の当たりにした出来事があった。
 会社が特殊な起毛生地の開発に取り組んでいた時のことである。上司の一人だった竹村たけむら吉崇よしたかが方眼紙に向かい、組織の編み方の設計と格闘していた。
 「竹村さんが頭を抱えながら一生懸命描いている横を通って、僕は『お先に失礼します』って帰ったんです。翌朝、出社してから『設計はどうなりましたか?』って聞いたら、『あれか? もうできた』と、竹村さんはあっけらかんとしていた。ネバーギブアップというんですかね、優秀な技術者は最後には何かをひねり出してくるものなんだなと思いましたね」
 独創的な商品を次々に生み出し、社内でも一目置かれていた竹村吉崇は、駆け出しの山田に目を掛けてくれた。
 「竹村さんから命じられた作業を前にして、『やったことがないのでできません』と言うと、『それをやるのが開発の仕事だ』って、いつも怒られました。若い頃の僕は、すぐに答えを教えてくださいと言うタイプだったんですが、まず自分で考えろということを竹村さんに叩き込まれたわけです」

サンプル室で得た刺激

 考えても答えが見つからず、途方に暮れることもあった。そんな山田を、あるとき竹村は「おもしろいもん、見せてやる」と言って、社屋の片隅にある小部屋へ連れて行った。サンプル室だった。そこには、創業時から開発されてきた10万点もの生地が保存されていた。糸の種類や、編み目の設計は、ほんのわずかな違いでがら(編み目模様)も手触りも伸び方も変わってくる。爆発的に売れた生地もあれば、市場に残らなかった生地もあった。自分が生まれる以前につくられた生地も残されているサンプル室は、山田には経編の「聖地」に思えた。
 竹村は言った。
 「編み方には、編む人の数だけ答えがある」
 無限の可能性に気づかされた山田は、それまで誰も編んだことがない自分だけの編み方を生み出したいという創造性を刺激された。
 「サンプルを見て、先人たちのアイデアをインプットして、自分なりにアレンジするということに没頭しました。自分としては、『経編の親父』みたいな竹村さんの手の上で踊らされていたのかもしれませんけどね」
 知らない編み方のサンプルを見つければ、生地を分解し、設計図を見て自分でも編んでみた。洋品店に買い物へ行っても、服を選ばずに生地ばかり片っ端から触って確かめ、友人たちから「山田、職業病が出とるぞ」と苦笑された。毎朝、出勤する山田に、母は「なんでそんなにうれしそうに仕事へ行くの」と言った。開発の虫となった山田の発想と技術は取引先の間にも伝わり、「山田さんにお任せします、好きにつくってください」という依頼も来るようになった。
 次第に、山田は福井経編の技術開発力の土台を支える存在となった。
 「私の前で、彼は一度も弱音を吐いたことがないんです」と、髙木も全幅の信頼を寄せていた。だからこそ、未知なる医療材料の開発を山田に託した。
 しかし、社命を受けた山田の心中は、じつは穏やかではなかった。
 「専務から『できるやろ?』と言われても、『できます』とは言えませんでした」
 社運をかけた開発を意気揚々と語る髙木に対して、山田は「頑張ってみます」と答えるのが精一杯だった。

縦横2倍に伸びる生地

 開発会議で根本が口にした一言に、メンバーたちは耳を疑った。
 「縦、横、2倍に伸びる生地をつくってくれ」
 子どもの成長に対応するため、根本は極めて高い性能をパッチに求めた。福井経編に入社して6年目の後輩、櫻井さくらいじゅんは言う。
 「経編の構造上、生地は引っ張っても縦横2倍には絶対に伸びません。現実離れしているというか、正直不可能でした。伸びる糸を使えば話は別ですが……」
 糸自体に伸縮性があれば、縦横2倍に伸びる生地は容易に編める。だが、「ストッキングをつくりたいんじゃない」と、根本が言下に否定した。「縮む」という性質は心臓に使う医療用パッチにとって致命的な欠陥になり得る。糸の性質ではなく、編み方で縦横2倍に伸びる生地を開発せよという難題を根本はメンバーに課した。
 山田は、言葉が出なかった。
 「一方向に伸びるとか、1.2倍に伸びるという話なら工夫もできましたが、縦横2倍というのは面積が4倍になるということです。もうアイデアも浮かばなかった。人の命に関わる開発ですから下手なことはできない。ハードル走がいきなり棒高跳びになったような気分でした」
 開発の意義を拒否するのではなく、技術的に取りかかる糸口すら見つけられない。会議室は重苦しい空気に包まれた。開発メンバーたちからは何の意見も出ない。全員が明らかに困惑していることは、根本にも伝わった。
 「暗い顔をしたまま下を向いて、誰も視線を合わせようとしなかった。ただ、みんな心臓手術のことを知らないから怖がっているんだろうなという雰囲気も感じたんです」
 根本は、開発メンバーたちを相手に心臓外科の講義を始めた。心臓の構造や働き、病気と手術の詳細、再手術がどれだけ子どもに負担を与えるか、さらに持参した手術のビデオを視聴してもらった。
 心臓の治療などに使う高度な医療機器のほとんどは外国製だが、根本は必ずできると信じていた。


続きは『新プロジェクトX 挑戦者たち 2』でお楽しみください。
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