日記の醍醐味を知る――料理と食を通して日常を考察するエッセイ「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子
『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など、数々のヒット作でおなじみの小説家、柚木麻子さん。今月は柚木さんの「新たな習慣」についてです。
※当記事は連載の第14回です。最初から読む方はこちらです。
#14 死の恐怖
あくまでも個人的な体感なのだが、同業の友達と話していると、死に対して成熟した考えを持っている人がかなり多いと感じる。いつかは誰しも訪れる命が尽きる瞬間を冷静に見据えて、物語を書いている。小説と真剣に向き合っていたら、当然、そうなるだろうと思う――。
さて、私は……。40歳である。生死をさまよう大病も経験しているし、身近な人間の死に直面し、職業柄、本や映画にもかなり触れているし、仕事にも真面目に取り組んでいるつもりだ。しかしながら、死がめっちゃ怖いのである。
私、いつか死ぬの? ありえないありえない。怖い……!!
死の恐怖と向き合うと、眠れなくなるし、なにも手に付かなくなるくらいだ。小学生の頃、いつか死ぬんだな、と思うと急に、なんでみんな平気な顔してるんだ? と不思議になったり、暗闇が怖くなったりしたことがよくあったのだが、今なお完全にそれだ。おまけにいろんな知識が備わった分、恐怖がより具体的になった分、子どもの頃よりいっそうおびえて暮らしている。ニュースなどで知る不慮の死はもちろんのこと、推理小説での命が奪われる瞬間すら、細かいところまで想像して、何日もおびえている。
死の恐怖をあえてカジュアルに口にすることで、ハードルを下げようともしてみたが、かなりデリケートな話題なので、人を選ぶ。
冷静に分析すると、痛みはもちろんなのだが、自分の感情が消えてなくなることが、一番怖い。
怖いっていうか、勝手に命を与えておいて、あまりにも理不尽すぎやしないか、神。今、この瞬間、カタめの麺類が食べたいとか、子どものお迎えの時間や、カバンの中身がぐちゃぐちゃだと気にしているとか、そういった細かい記憶が全部ブラックボールに吸い込まれ、最初からなにもなかったことになるのが、一番怖い。
「誰かの記憶の中で柚木さんは生き続けるよ」「あなたが生きたこと、その事実だけで意味はあるんだよ」という言説は、私にはピンとこない。その視点は他者であり、あまりにも壮大な神のそれだ。
私は私の死に向き合いたいのである。他人とかどうでもいいし、森羅万象のすべてを一度肯定してみろとか、一番どうでもいい。あと、私が書いた本は残り続けるとか、そんなの死んだ私にはあまり興味が持てない事案である。この、絶え間なく続く私の思考が、それこそが私のもっとも大切な真実なのに、ぷっつり途切れて暗転すること。そしてこんなことを書いている間も刻々と終わりに近づいているなんて……。そしてそれが、来年や来週かもしれないなんて……。
そんな私が年々強まる死の恐怖対策として始めたのが、日記をつけることである。小学生の頃、親にせがんで買わせた鍵付き日記帳を一週間で放り出し、高校時代のグループの交換日記を自分で止めたこの私が、なんともう二ヶ月も続いているくらいだから、死への恐れは人類の行動動機として、なににもまさるという証明である。
書いてあるのは全部どうでもいいことだ。明日病院にいこう、とか、なになにさんから嫌われているかな? いや、勘違いかな、とか。このドラマがおもしろい、とか。実は書くこと自体は、さして楽しくない。義務感からしぶしぶ続けている面もなくはない。肝心なのは、記録ではない。三日坊主だったあの頃の私に教えてやりたいのだが、日記の醍醐味は読み返すことなのだ。自分のどうでもよい思考の波に触れていると、日常のささやかな気配やにおいが蘇る。堂々巡りしているかのようだが、後退しながらもほんのり成長していることがわかる。それを辿るうちに、私と日記が親密になってくる。すると、お返しのように幽玄な空間が生まれるのだ。私の思考を私自身が何度も辿ることは、限りある時間を、自由自在にあやつることができるに等しい。例えばオープンしたてのスーパーマーケットに行った記録からは、その時感じた華やぎや蘇った思い出などを次々に手繰り寄せることができる。私にしてみてはドクター・ストレンジの時空をあやつるパワーを手に入れたに等しい大発見だ。
え? 作家なのに今、それに気づいた? と聞かれたら、ああ、そうだ、遅いかい、とそこは真面目に返したい。
まだまだ日記初心者なのだが、死の恐怖の克服が、だんだん楽しみにかわっていく自分が、またおもしろいのだ。
FIN
題字・イラスト:朝野ペコ
新作短編集『ついでにジェントルメン』
ダメ出し続きの新人作家に話しかける菊池寛の銅像、デート仕様の鮨屋に子連れで現れた女性……柚木さん初の独立短編集が好評発売中!
プロフィール
柚木麻子(ゆずき・あさこ)
1981年、東京都生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。『ランチのアッコちゃん』『伊藤くんA to E』『BUTTER』『らんたん』など著書多数。最新短編集『ついでにジェントルメン』が発売中。
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