斎藤幸平、マルクス・ガブリエルを語る!
「西洋の知識人」としてのガブリエル
天才哲学者マルクス・ガブリエルのシリーズ本。今回のテーマは、タイトルにもあるように、「日本社会への問い」だ。ガブリエルが日本滞在の印象を通じて、私たちの暮らす社会の問題を分析していく。
正直、本書の問題設定の仕方に私はそれほど同意しない。ガブリエルが天才的な哲学者であることは間違いないが、彼は日本社会の専門家ではない。ガブリエルは日本に少なくとも5、6回は来ているが、あくまでも彼の知っている日本は、私や他の研究者、NHKのクルーが案内した日本にすぎない。その意味で、ガブリエルが語っている日本は、哲学的な用語で修飾されてはいるものの、どれほどオリジナルな日本論だと言えるだろうか? 例えば、「レイヤー」や「カット」といった話は、21世紀に『菊と刀』でも読んでいるような気分になる。
もちろん、問題関心は人それぞれだから、ガブリエルに好きなことを聞けるだろう。もし私が聞き手であれば、ガブリエルとは次のような問題を議論したはずだ。つまり、資本主義の格差、気候変動、戦争、右派ポピュリズムといった複合危機が引き起こしている西洋起源の「文明」の崩壊という本書冒頭で触れられる問題意識をもとにして、西洋の知識人としてのガブリエルがどのようにして応答するか、を聞きたい。
というのは、ガブリエルが西欧出身であるからだけでなく、資本主義や気候変動といった重要な問題は、現代における真に普遍的な現象になっており、ガブリエルがよりみずからの専門に引き寄せる形で展開することができるからである。それは、彼の「新実在論」と「新実存主義」、「新しい啓蒙」がいかにして、「倫理資本主義」という社会的民主主義の構想を基礎づけ、正当化するのかという、知的な問いにつながっていくはずである(こうした議論を実のある形で盛り上げるためには、ガブリエルの理論的著作を日本でも翻訳し、紹介していく必要がある。その意味では『超越論的存在論――ドイツ観念論についての試論』〔人文書院〕が刊行されたことを歓迎したい)。
本書では、「倫理的資本主義」という問題についての著作を日本の読者向けに準備していると述べられているものの、資本主義に「存在」を売り込むという提言は、依然として抽象的なままにとどまっている。本来であれば、今回の来日にあたっては、東京大学駒場キャンパスで開催された講演会に國分功一郎氏らとともに私も参加し、この問題について議論を行う予定であった。しかし、その直前に40度を超える発熱をしてしまい、参加することが叶わなくなってしまったのである。その意味で、「倫理的資本主義」の抽象性には私にも一因があるといってもいいかもしれない。
ここで繰り返すまでもなく、『大洪水の前に』から『マルクス解体』にいたるまで、私は一貫して、マルクスの再解釈作業を通じて、資本主義こそが格差のみならず、環境危機の根源的原因であり、究極的には、無限の資本蓄積と経済成長を求め続ける資本の論理にブレーキをかけなければ、この有限な地球、ならびにそこで暮らす人間の生活を守ることは不可能だと訴えてきた。それが、「脱成長コミュニズム」である。ここには当然、ガブリエルの主張とは相容れないものがある。
資本主義の定義は?
本書でガブリエルは、資本主義を私的所有、契約の自由、自由市場という3つの本質によって定義している。一方、社会主義を国有や計画経済といった形で特徴づけ、それが独裁となり、人々の反発を生み、結果として効率も悪いことを指摘する。重要なのは、ここでの資本主義の定義には、搾取も、格差も、環境破壊も含まれていないということだ。だからこそ、資本主義の本質から、今日のような格差を広げ、環境を破壊する資本主義が必ずしもでてくるわけではないとガブリエルは考える。つまり、今とは異なる、会社が課題を前にして、解決策を自由に提起し、より倫理的な次元を追求する資本主義は可能だという。それは日本でも「パーパス経営」と呼ばれるような社会のあり方を追求するものに近いのだろう。
ここでマルクスであれば、ガブリエルは資本主義の「本質」ではなく「現象」の次元にとどまっていると批判するだろう。つまり、まさに契約の自由の裏には、資本家と労働者のあいだの不等価交換、つまり、搾取が潜んでおり、自由市場こそが、人々を振り回す不自由を生むのだ、と。そして、「パーパス経営」などの「倫理」は、それが儲かる限りにおいてのみ行われるにすぎない。そうした資本主義を真に公正で持続可能なものにしようとする改革は、それが資本の飽くなき欲求に抵触したり、景気が悪くなったりすれば、容易に捨てられるのだ。
実際、資本主義の定義には、「倫理」や「パーパス」といったものも内包されていない以上、「倫理資本主義」が実現される保証はどこにもない。それどころか、歴史を振り返れば、資本主義は、搾取や抑圧、収奪によって特徴づけられている。そのような現状を変えるために必要なのが、経営者たちが「倫理」や「パーパス」についての理解を深めることで十分であるとするのであれば、それは、あまりにも楽観的だ。人々の意識や行動がこの自己増殖を続ける資本の運動によって、どれほど振り回されているか、その力を過小評価しているのではないだろうか。
「新しい啓蒙」とは何か
マルクスは、近代の資本主義社会を乗り越える必要があると考えた。近代の超克である。そのためには、社会システムの革命が必要となる。コミュニズムだ。それに対してガブリエルは、近代はまだ完成していないと考える。未完の近代だ。だから、完成に向けて改良していけばいいというのが、社会民主主義である。そして、そのような改良による前進を信じるのが「新しい啓蒙」の楽観主義に他ならない。
けれども、最近、ガブリエルの楽観主義に迷いが生じているように感じた出来事があった。それは、11月にハンブルクで開催されたワークショップに参加した際のことである。このワークショップでの発表で、ガブリエルはヘーゲルの喜劇と悲劇について論じていた。「喜劇」は近代を特徴づける。そこには主体性があるからである。その主体性が対立を乗り越えるからこそ、私たちは笑うことができるのである。それに対して、「悲劇」には主体性がない。『アンティゴネ』を思い出せばいいが、そこには対立を解消する方法は存在しないのである。
では、現代の気候変動の問題に、対立を乗り越える主体性を見出すことはできるだろうか。残念ながら、答えは「ノー」だ。自然は人間がいようが、いまいが気にしないのだから、人間と自然の対立を乗り越えることはできない。「人新世」の言説というのは、現在の自然環境が置かれた状況がどれほど悪いものであれ、それを少なくとも人間が作り出したと考えようとすることで、すべてを人間の主体性から説明しようとする近代思想の最後の試みに他ならない。けれども、この試みは失敗する。自然は人間が生み出したものではないし、自然が人間の歴史に解消されるものでもないという事実はけっしてなくならないのだ。
そしてここには、新しい「歴史の終わり」がある。もはや歴史の法則はなく、歴史の傾向性もない。そこには、偶然性に満ちたいくつもの歴史があるだけだ。当然、喜劇を可能にする解決策もない。あるのは、悲劇の脅威だ。
そんなガブリエルの講演の結論は、近代を完成させ、資本主義を倫理的にし、民主主義を通じて環境問題を解決するという、これまでの調和型の楽観主義とは、正反対のものであった。それは近代の失敗であり、人間の敗北である。もしかすると、ガブリエルは、本当はもっと悲観主義者なのかもしれない。それでも、公で発言する知識人として、世界を良くするために、楽観主義を装っているだけなのかもしれない。そんな二面性について、この本の楽観主義を読みながら、思いを巡らせたのだった。
ともあれ、前作『マルクス・ガブリエル 新時代に生きる「道徳哲学」』の紹介に際しても言ったことだが、政治的・社会的問題について知識人として発言するガブリエルへの、私の尊敬の念は変わらない。戦争、気候変動など受難の時代においてもヒューマニズムの普遍性を信じようとする彼の「新しい啓蒙」を、読者は本書のいたるところに読み取るはずだ。