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愛が、あまって、あまって、しかたないのだ。――「愛がありふれている #3」向坂くじら

いま、文芸の世界で最も注目を集める詩人・向坂くじらさん。「本がひらく」連載で好評を得た、言葉の定義をめぐるエッセイ「ことぱの観察」の次なる連載テーマは「愛」。稀有なもの、手に入りにくいものだと思われがちな「愛」はどのようにありふれているのでしょうか。向坂さんの観察眼でさまざまに活写するエッセイです。


 「くじらさんは、推し、っていますか?」
 そうたずねてきた中学生のチーさんは、なぜか人目をはばかるようなひそひそ声だった。そのとき教室にはわたしとチーさんしかいなかったのに、だ。運営している国語教室の授業中のことだった。「いないかも。どうして?」と答える。
 「いや。そうですよね」
 「そうですよね、ってことある?」
 「いなさそうだなーって思ってたんで」
 「君は?」
 するとふたたび、なにか言いづらそうに、けれど力が抜けたようにはにかむ。
 「いないんですよねえ」
 実は、この種の相談を受けるのははじめてではない。「推し活」という言葉がメディアでも取り上げられるようになって数年は経つか。子どもたちの口から「推し」という言葉を聞くようになったのは、それよりさらに少し前のことだったような気がする。アイドルやアニメのキャラクター、アーティストやYouTuber。推しの話を聞かせてもらうことにも慣れた。ときにはグッズを買い集め、部屋の中に神事のようにディスプレイする「祭壇」や、缶バッジやキーホルダーで鱗のようにカバンを覆った「痛バッグ」を作っている子どももいる。なにより「推し」の話をするとき、子どもたちの声ははずみ、らんらんとエネルギーを放っている。いまや、「推し」は誰にでもいて当然である、という雰囲気さえあるらしい。
 「みんなが推しの話で盛り上がってても、別に話すことないんですよね」とチーさんは言った。
 「推し、誰? みたいな。え、いない、って言って、へんな感じになってみたいな」
 「たとえばチーさんのいつも言う、スヌープ・ドッグや、ボブ・マーリーは推しじゃないの?」
 いちおう聞いてみると、「ちが……くないですか?」と言う。言わんとすることはわかる。
 「じゃ、やっぱり、ただ音楽聴いてるとか、応援してるっていうだけだと、推しにはならん感じがするんだね」
 「そうですよね。もっとなんか、ガチ恋? みたいな?」
 「けど、ガチ恋じゃないけど推しはいる、っていう人もいるね」
 「そうなんですよね……」
 そうして、推しのいない子どもと大人とは、ふたりで考えこむ。「ちなみに、推しがほしいと思う?」とたずねると、「いや、べつに、いらないですね!」とチーさんは明るく答えた。

 反対に、小学生のミユさんは「推し友がほしいんですよね」と言った。
 「アニメの話とかグッズ交換とかしてみたいんですけど、同じアニメ見てる人がいなくて。ネットだったらいるんですけど、まだ年齢的に登録できないんで」
 「推し」という言葉の由来は、アイドルグループのうち特定のひとりを指す「推しメン(=いち推しのメンバー)」にあるらしい。おかげで、それまでは「好きなメンバー」とか「応援しているアーティスト」とかいちいち言わなくてはいけなかったものも、ただ「推し」と言えばよくなった。便利な言葉だ。
 そしてその便利さこそ、推しがここまでメジャーな言葉になった決め手なのではないか、と、わたしはひそかに推測している。つまり「推し」という言葉は、「推し」について誰かに語るためにあるのだ。推しがいなくて友だちの会話に混ざれない居心地の悪さと、推しはいるけれど「推し友」はいないもどかしさは、友だちと語ることができないという一点のうえで、わずかに重なっているのかもしれない。
 わたしもまた、誰かに自分の推しについて語ることができない。もちろん、好きな作家やアーティストや劇団はいて、それを推しと呼ぶことはできるかもしれない。けれどもし呼んでみたとしても、結局どこかで食いちがっていくだけだろう。「推しは命にかかわるからね」とは言わずと知れた宇佐見りん『推し、燃ゆ』の名言だが、そのような烈しさが、推しを持つ人たちにはあって、わたしにはない。だから、彼らが推しについて語ることでなにを得ようとしているのかも、ほんとうのところではわかっていない。

 しかしなんたることか、そのわたしもまた、推しなるものになってしまった。つまり、わたしを推しと呼ぶおかしな人が、この世の中にはわずかながら存在するのだ。珍獣のような書きかたをするのはしのびない気もするけれど、しかしものめずらしさで言えばオカピなどと大差ない。イベントやなんかで人前に立つと、ときどき彼ら彼女らがあらわれる。そして、やっぱりなにかようすがおかしい。
 ときに、わたしにわけもなくものをくれる。自分では買わないようなハイソサエティなお菓子、わたしの本好きを見越してくれたようなブックカバーやブックマーク。お礼をいうとなぜか申し訳なさそうにする。そのふしぎな謙遜が、わたしをおぼつかなくさせる。ときに、なんとなくおそろしくなる。彼らが、というより、自分自身のことが。
 わたしは自分自身をまるで信用していない。まず、わたしを推す人たちがわたしをほめ、うやうやしく持ち上げてもてなしてくれるのを、やや分不相応だと思っている。買いかぶられていると思う。そしてなにより、わたしというものはうっかりそれを忘れて、ともするとその人たちに乗せられて、自分が本当にえらくなったかのように誤解しそうだ。
 だからつい、わたしのほうも過剰になる。結果、申し訳なさそうにくれた贈りものを、わたしもまた申し訳なさそうに、へりくだって、受け取ることになる。作品を売って暮らしている以上、お客さんに食わせてもらっていると言ってもいい身だからどうにも言いづらいけれど、しかしやっぱり、そこでなにかすれ違いが起きている気がする。
 主催するイベントの帰りに一緒になったのは、これまでも何度か来てくれたことのある女性だった。おそらく同世代で、いつもわたしの書いたもののことをとても、とても褒めてくれる。ターミナル駅までの数駅は同じ路線で、ふたりでホームに立って電車を待っていた。
 「今日、本当にありがとうございました」とその人は言った。
 「ジュースおごります。おごらせてください」
 「な。なんでですか。意味わかんなくないですか」
 彼女はすぐ近くにあった自動販売機を指し、「どれがいいですか」と言う。その気迫で冗談でないことがわかった。わたしもややまじめに答える。
 「いや、大丈夫ですよ、ほんとに」
 「そうですか。じゃあ、買うとかじゃなくて、この中だったらどれが好きですか?」
 「うーん。これとか、でもいらないですよ」と言いながらりんごジュースを指さすと、「でも」くらいでもう下のほうから「ピッ」と電子音がして、つぎの瞬間りんごジュースが取り出し口に転げ出てきた。
 「なんですか、いまの!? なにやったんですか!?」
 動揺しているわたしをよそに、彼女は自慢げにりんごジュースを取り、わたしにくれた。聞けば、あらかじめ構えていた電子マネーのカードをすばやく自動販売機にかざし、わたしがそちらに気をとられているあいだにりんごジュースのボタンを押したらしい。目にも留まらぬ早わざだった。すごすぎる。そうなるともう彼女の手腕に敬意を表したくなり、おとなしくもらって帰った。ジュースは濃縮還元で、パッケージを見て想像していたよりも、二倍も三倍も甘みが強かった。
 推し活をしている人たちを見ていると、ふとそのことが重なる。推し、というとき多くの人は、ただそのコンテンツを享受しているだけではない。推しになにかを返そうとするように、お金や時間を使ったり、ものをあげたり、プロモーションをしたりする。それが推しを支えることになるのだ、と言う人もいる。その意欲がときどき、あまってしかたないのだ、という訴えのようにさえ見える。愛が、あまって、あまって、しかたないのだ。
 わたしのようなものでも、その気持ちだったらわずかにわかるかもしれない、と思うのは、応援していた経験よりもむしろ、応援してもらった経験と照らしたときだ。ジュースやブックカバーをもらうとき、ありがたいと本心から思いながら、けれどどこか居心地悪く感じてもいる。自分の居丈高になるのがおそろしいから、ということもあるけれど、それだけではない。ただ受け取っているだけというのは、それだけで居たたまれない気持ちのするものだ。
 そしてひょっとすると、彼女たちも、そのほか推しのいる人たちも、同じ気持ちでいたのかもしれない。推しから多くのものを受け取っていると思えば思うほどに居たたまれなくなって、なにか返さなくてはいけないような気がするものなのかもしれない。なにかを人から受け取りすぎてしまうというのは、そのぶんだけ渇くことであるにちがいない。

 「推しについて、あれからわたしも考えてみたのですが」
 わたしがそう言うと、チーさんはおっ、みたいに身を乗りだした。チーさんを教えるようになって数年になるからわかる。またこのややこしい先生がなにかややこしいことを言おうとしているぞ、いっちょ聞いてやるか、というかまえである。
 「みんなが推し、と言うときには、だいたい、そのもののために自分のお金や時間を使えるとか、その人が作るコンテンツが好きとか、これからも作りつづけてほしいとか、あとやっぱり、理由はなんにせよ、自分にとって特別なものだと思ってしまってるとか、そんなことなのかな、と思ったわけですね」
 「はい、はい」
 「というわけで、推しを作ってみました」
 「おっ」
 「わたくしです」
 「はあ?」
 推しにまつわる問題で、複雑なことがもうひとつある。推しからもらったものを返そうとする、という直線でむすばれたような関係ならまだいいけれど、前述の通り、みんなお互いの推しについて話をしたがる。そうすると、推しにどれだけ貢献できたかということが、たやすく競争になってしまう。お金も時間も再生数も、みんなはっきりとした数字でわかってしまうから、なおさら始末が悪い。
 だから、チーさんがもどかしく思っていたのは、自分に推しがいないことそのものではないんじゃないか。推しがいないといけないという空気、さらに言えばそれが、なにかの役に立たないといけない、とか、人にくらべてすぐれていないといけない、というニュアンスを含みかねないことを敏感に感じとって、そっとわたしに打ち明けてくれたんじゃないか。
 「だってねえ、いい? わたし、自分にお金や時間を使うでしょ。あと自分の作品が好きでしょ。そしてこれからも作りつづけてほしいね。自分と自分だから、これ以上ないくらい特別な関係でしょ。だから、わたしの推しはわたくし、ということでいこうと思うのですが、どうですか?」
 チーさんは真意をうかがうような含み笑いで聞いていたけれど、やがて咀嚼するように何回かうなずいて、「それ、いいですね」と言った。
 「真似しよっかな」
 そういうわけで、チーさんの推しはチーさんに、わたしの推しはわたしになった。今後、推しを聞かれたらそう言ってみたい(チーさんにはいちおう、「けど聞かれても言わんほうがいいよ」と言っておいた)。チーさんを笑わせるための冗談半分ではあったけれど、あながち的外れでもなかったような気がする。受け取ることは、ときに与えることよりも重たく、居心地が悪い。だからと言って与えるほうを取ろうとするいたちごっこに参加するのは、きりがなくってばかばかしい。だからどっちも自分でやりながら、ちょっと練習をしてみるのはどうか、という考えだった。
 もしかしたらチーさんにもこれから、受け取るあまり、好きなあまりに居心地が悪く、なにか返したくてたまらなくなることがあるかもしれない。そういうとき、チーさんの推しが少なくともいっときチーさんであったことは、いくらかでも役に立つだろうか。まったく立たないかもしれない。差し当たり、わたしはわたしにクレープをおごってやる。しかもいちばんシンプルなバターシュガーのクレープである。けちけちしているように見えて、けっきょくこれがいちばんのぜいたくというものなのだ。
 「いいか、わたしの推しがわたしであるから、これが世に言う、推しに貢いどる! ということよ」
 そう申し開きをすると、夫はあきれたような目でわたしを見て、「無理して人間のまねをするな」というふうなことを言った。
 あんまりにもあんまりだ。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

1994年、愛知県名古屋市生まれ。2016年、Gt.クマガイユウヤとのポエトリーリーディング×エレキギターユニツト「Anti-Trench」を結成、ライブを中心に活動をおこなう。主な著書に詩集『とても小さな理解のための』、エッセイ『夫婦間における愛の適温』『犬ではないと言われた犬』(百万年書房)、『ことぱの観察』(NHK出版)など。2024年、初小説『いなくなくならなくならないで』(河出書房新社)が第171 回芥川龍之介賞候補となる。執筆活動に加え、小学生から高校生までを対象とした私塾「国語教室ことぱ舎」の運営をおこなう。

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