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けれど大切にしてこなかったのだ。――「愛がありふれている #5」向坂くじら
いま、文芸の世界で最も注目を集める詩人・向坂くじらさん。「本がひらく」連載で好評を得た、言葉の定義をめぐるエッセイ「ことぱの観察」の次なる連載テーマは「愛」。稀有なもの、手に入りにくいものだと思われがちな「愛」はどのようにありふれているのでしょうか。向坂さんの観察眼でさまざまに活写するエッセイです。
マグカップにひびが入っていると気がついたのは朝、コーヒーを飲んでいるときのことだった。白い陶の側面に、うっすらと細い線が走っている。コーヒーがみるみる黒く染みていくように見えてあわてて飲み干すと、なおさら目が覚める気がした。たいへんだ。
そこまで持ち物にこだわるたちでもないけれど、ときどき猛烈に気に入るものがあって、このマグカップもそのひとつだった。買ったときのこともよく覚えている。七、八年前のことだ。東京の谷中にある小さな店で、一目惚れだった。上向きに広がる円柱型で、横から見るとおだやかな台形をしている。円周から持ち手の太さ、その重みまで、わたしの手にぴったりとおさまるようだった。当時のわたしにしては高い買いものだったこともあり、生き物を拾ったみたいにおそるおそる持ち帰った。それでわかったのは、店先でただ持っただけではまだそのカップの真価はあらわれていなかった、ということだ。真にすばらしいのは、その飲み口だった。薄すぎも分厚すぎもせず、唇を当ててもまったくいやな感じがしない。お湯を飲んでいるだけでも気分がいい。それから焼きものがおもしろくなっていくつか買ってみたけれど、はじめに買ったそのカップをしのぐものはなかった。
日常的に使うようになると、なにしろ使い勝手がいい。物体としての細かな魅力以上に、それが使いつづけているポイントだった。陶器なのに電子レンジにかけてもいいし、これだけ長く使ってもどこも欠けていない。肌が分厚く、一日使いつづけて濡れっぱなしにしていても大丈夫そうな頼もしさがある。使ううちに色あいは変わってきたけれど、それはそれでいい。
買い集めた陶磁器のなかには細かい世話を必要とするものもあって、飾っている分にはいいけれど、使うとなると遠慮してしまう。けれどそのマグカップは平気でレンジにかけ、あちこちにぶつけ、洗剤でがしがし洗い、自然乾燥に任せておく。だからほとんど毎日使っていられた。遠慮のない、悪く言うとその丈夫さにわたしのほうが甘えた、家族みたいな存在だった。
あんまり好きだから不安になってきて、その店をふたたび訪ねたこともある。もともと散歩の途中に偶然見つけた店だったから、たどり着くだけでもひと苦労だった。中には店主らしき男性がひとりで立っていた。おそるおそる話しかける。
「あの、すみません、お尋ねしたいんですけども、たぶん、七、八年前にこちらでマグカップを買ったんですけども、とても気に入っておりまして、なくなったらどうしようと思う感じになってしまいまして、その、できたら予備を買いたいんですけども……」
撮ってきたマグカップの写真を見せると、男性はすぐにそれが誰の作品か教えてくれた。「そのかたちのはもう作ってないと思うんだけど、一個だけ在庫があるはず」と言って裏へ引っこみ、間もなく本当に持ってきてくれたのは、台形のと違ってころんと丸い、けれど確かに同じ手ざわりの、ひとまわり小さなマグカップだった。それも買って帰った。それはそれでかわいいけれど、結局サイズが変わると用途も変わってしまい、予備にはなりそうもない。もとの台形のマグカップがたったひとつであることを、かえって強く分からされるだけだった。
それなのに、ひびが入ってしまった。
レンジの代わりに、小さな片手鍋で牛乳をあたためていると、ふちがふつふつとふくらんでくる。そんなに割れるのが怖いなら使わなければいいものを、ひびが入ったまま、こわごわと使い続けている。なにしろ代わりがないのだ。いろいろ調べてみたけれど、陶器のひびには「貫入」と言って、そのまま使っても問題のないものもあるらしい。見たところ、これまでになかった線が走ってはいるものの、隙間が空いているようすはない。実際、液体を入れても漏れはしない。ひょっとしたら、これまでと同じように使ってもなんら問題ないのかもしれない。けれど、レンジにかけるのはもうやめた。使い終わったら置きっぱなしにせずにすぐに洗うし、洗ったらすぐに拭いて風通しのよいところに置く。少なくとも心当たりのあるひびだった。もし本当に割れるとしたら、まぎれもなくわたしのせいだろう。心のうちでは大切だと思いながら、けれど大切にしてこなかったのだ。鍋のなかでゆれている牛乳と、隣に空のまま置いてあるマグカップを眺めながら、なにをしているんだろうかな、とちょっとだけ思う。使い勝手のよさをもって好んでいたはずのものを、それが失われてなお後生大事に扱っている。わたしがこのものを大切に思っていたその大切の、中心がいったいどこにあるのか、もはや分からなくなってしまった。
けれど、このものを使いつづけたいと思っている。わずかに揺れる白い水面を見ながら、自分とマグカップとの間に新しい関係が生まれてくるのを感じている。なんとなく、いろいろな人の顔が浮かんでくる。ついに連絡を返さないままになっている人、いつまでもそばにいてほしいと思っている人、久しぶりに会ったらお互いの関心のあることは何ひとつ話せなくなっていた人、もっと仲良くなりたいと思っている人、ずっと前にわたしが一方的に大切に思っていた人、ついぞんざいな誘いかたばかりしてしまう人、その口当たり。ひびが入る。
静かだった牛乳がいきなり沸騰して、あわてて火を止める。ぼんやりしているものに、鍋でホットミルクを作るのは向かない。そして、わたしほどぼんやりしたものはいない。
けれど、レンジにかけるのはもうやめたのだ。
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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)
1994年、愛知県名古屋市生まれ。2016年、Gt.クマガイユウヤとのポエトリーリーディング×エレキギターユニツト「Anti-Trench」を結成、ライブを中心に活動をおこなう。主な著書に詩集『とても小さな理解のための』、エッセイ『夫婦間における愛の適温』『犬ではないと言われた犬』(百万年書房)、『ことぱの観察』(NHK出版)など。2024年、初小説『いなくなくならなくならないで』(河出書房新社)が第171 回芥川龍之介賞候補となる。執筆活動に加え、小学生から高校生までを対象とした私塾「国語教室ことぱ舎」の運営をおこなう。