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【対談】大澤真幸×山本貴光「来たるべき破局を越えるために」(後編)

気候変動や分断をもたらす資本主義を超えて、コミュニズムに至る。それは、いかにして可能なのか? ──この問いに正面から向き合った大澤真幸さんの新刊『新世紀のコミュニズムへ——資本主義の内からの脱出』の刊行記念対談が、5月1日に行われました(NHK文化センター主催。オンライン)。ゲーム作家・文筆家の山本貴光さんと大澤さんが、パンデミック後に望まれる社会のありかたについて語り合った2時間におよぶ討議の、後編をお届けします。 ※前編を読む方はこちらです。

資本主義の本質と「未来の他者」

大澤 資本主義というシステムは僕らのデフォルトの設定になっています。『新世紀のコミュニズムへ』でも引用しましたが、フレドリック・ジェイムソンは——彼自身も別のところから引用しつつ——「世界の終わりを想像するより資本主義の終わりを想像するほうが難しい」と述べています。
 しかしよく考えてみれば、資本主義というのは本来、かなりマイナーなゲームでした。だからこそマックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本を書いたわけです。市場経済的なものはもちろんどこにでもある。でも僕らが今考えている意味での資本主義というのは、きわめて珍しい経済のシステムであって、それが西ヨーロッパというローカルなところで生まれた。それはなぜかというのがヴェーバーの歴史社会学的な問いだったわけですね。
 人類は別に資本主義用に作られているわけではないんですよ。明らかに、われわれのDNAには資本主義のための仕様はないと思います(笑)。基本、われわれはおおむね狩猟採集民用にできていますね。現代人の多くは生まれてから一度も狩猟採集なんかやったことがないでしょうけれども、DNAはそれ用にできている。だから資本主義が人間にとって全く自然なものではないということは、まず念頭に置いておかなければいけないと思うんですね。
 ただし「資本主義の内からの脱出」という、本書のサブタイトルにも暗に示している通り、僕は資本主義を超えるためには、資本主義の持っているポテンシャルを、否定するよりもむしろ活用したほうがいいと思っているんです。ただその活用の仕方が難しい。
 先ほどの、経済か命かという選択では、普通なら経済より命のほうが大切に決まっているはずですが、それなのに人は経済を取ることがある。なぜかといえば、それは「命」といっても自分の命ではなくて、これから後に生まれてくる人たちの命だからです。眼前に迫った経済破綻と、将来世代の命をてんびんにかければ、仮に気候変動などで将来世代に不利益をもたらすとしても、資本主義のもとで経済破綻を回避したほうが良いということになるわけです。僕は「未来の他者」という言葉をずいぶん前から使っていますが、それは将来世代というものをどう繰り込んで考えていくことができるか、という問いです。
 そのことを考えるうえで、実は資本主義はある意味、有利なのです。なぜなら資本主義ほど、未来が永続することを前提にしたシステムはないからです。考えてみると資本主義は、これほどしっかりしたシステムなのに、きわめて幻想的な仮定の上に立っている。資本主義の下で流通している貨幣は、実のところ、ほとんど負債、つまり「借金」です。借金は、ほんとうはマイナスの価値なのになぜ流通するのかといえば、それはいずれ返済されることになっているからです。しかし、同時に、資本主義の下にある負債は、実際には返されないわけです。たぶん人類が滅亡する日にも借金は清算されずに、残っているでしょう(笑)。現実には返済されない負債が、なお価値をもち、貨幣として流通できるのは、どの時点に対しても、より後続の未来がある、と想定できるからです。資本主義は、非現実的な無限の未来を前提として機能しているシステムです。だから未来に対して強烈に敏感な意識があるというのが、もともと資本主義の特徴です。
 そのことを、資本主義を乗り越えるためにも活用できないか、というのがねらっているところです。そこで今回の本では、資本主義における時間の観念に力点を置いて書きました。

サイバースペースにコモンズを樹立せよ!

山本 将来世代についての今のお話からも、また対談前半の若い人たちが将来に希望を感じないというお話からも思うところがあります。ひょっとしたら若い世代の人たちは、現在の社会の仕組みは所与のものとしてすでに出来上がっていて、自分はプレイヤーとして舞台に乗るけれども、舞台そのものを作ったり、作り替えたりする可能性を想像しづらい状態にあるのかもしれません。
 たとえば、私くらいの年代だと、インターネットが普及し始めた時のことを思い出すんです。1995年頃、あるいはそれ以前のインターネットは、無人の荒野みたいな場所でした。今のようにウェブサイトもなければ、各種の商売も行われていません。AmazonもGoogleもない時代です。コンピューターを用意して、ネットを経由してみんなと繋ぐのは、だだっ広い場所に小屋を建てるように感じました。それで、ファイルやデータを公開して、お互い自由に「持って行っていいですよ」と、まるで無人野菜販売所みたい(笑)。もちろん無料でやりとりしていました。そういう状況では、「仕組みって、自分で作っていけるんだな」という、ある種のフロンティア・スピリットのようなものもごく自然に感じることができたのですね。
 インターネットが普及して20数年経ってみると、どうなったか。縄張りができて、ここはアップル、ここはグーグル、ここはマイクロソフト、というように陣地が取られているような状況になっている。その中で自由に振る舞っているつもりでも、いつの間にかそこで活動した結果がデータとして吸い上げられ、資産としてGAFAと呼ばれるIT企業たちを肥え太らせていく、というデジタル環境になっている。
 今の若い人(と述べましたが、要するに年齢の問題ではなく、現代のようなネットになってから利用を始めた人びとと言うべきかもしれません)は初めからスマートフォンを手にして、既存のアプリをどんどんダウンロードして使う。そうしたお客さんの立場に慣れさせられてしまっているのかなと思います。その状況では、自分で新しいアプリを作ろうとか、仕組みを作ろうという動機自体、持つ必要を感じにくいとしても無理もないわけです。 

大澤 僕の本でも、サイバースペースにおける資本主義という、大きなポイントについて述べています。現在なぜこれほどの格差があるのかというと、お話のようにちょっと前までは無人の荒野だったところに、いつの間にか所有権が設定されてしまったからです。たとえばアマゾンは僕らに気前よくいろいろ使わせてくれるようでいて、実は僕らのほうこそアマゾンにさまざまな個人情報を贈与しているという、搾取の構造が生じているんですね。その「搾取」が合法化されているのは、かつての共有の荒野であったサイバースペースのある領域が、囲い込まれ、そこにアマゾンの私的所有権が設定されているからです。そこが一番、現代の資本主義の矛盾というか、問題が現れているところです。
 たとえば先進国で最も格差が広がる理由として、かつては大土地所有者という存在が大きかった。日本でもそうです。ところが日本では敗戦後に農地改革が行われて、極端な土地の集中がなくなったんですね。僕は戦後GHQ(連合国軍総司令部)が行った最も画期的なことは、憲法の押し付け云々よりも農地改革だと思います。これは日本人だけではできなかったでしょう。この農地改革のおかげで民主化が進んだわけです。
 僕はサイバースペースでも農地改革のような、「土地の再分配」をしなければいけないと思っています。今は少数の大地主に極端な収益が上がるようになっている。しかしこれはサイバースペースなので、想定上そうなっているだけです。つまり実際のリアルな土地ではなく、僕らが法的観念の中でそう思っているだけですから、技術的には現実の農地改革よりは簡単に再分配できるはずです。
 すでにフィックスされている格差を前提してしまうと、あまりにも希望がないと感じられるかもしれませんが、本来は無人の荒野であったということをふまえれば、何とかなるという感じがします。

山本 そうですね。大澤さんがご本のおしまいのほうで論じておられるように、どうやってもう一回、「社会的共通資本」あるいは「コモンズ」と呼ばれる、私有とは違う共有の形を取り戻すのか。すべてを一律にそうするというのではなく、社会の公共の利益にとって重要なことについては、コモンズという位置づけをあらためてしたほうがいいと指摘されています。現在のサイバースペースもそうだし、それからヒトゲノムのデータなどもそうですね。
 少し楽観的かもしれませんが、この課題とその意味さえ理解して共有できれば、技術的にはそもそも所有権という設定自体が人間の頭の中の産物ですから、うまく作り替えてテクニカルに実装・運用する方向へと向かっていけるとも思います。そのためには、大澤さんの言い方を借りれば、充分に現状の問題点を突き詰めて、可能性を最大限に考えつくし、そしてその先に突き抜ける、そういう取り組みをしていく必要もありますね。「まあ、これで回っているんだからいいじゃない」と言いながら、気づいたらみんな共倒れになるなんてのは、笑えない結末ですから。

大澤 いまお話に出たコモンズの問題ですが、少なくともある部分においてはコモンズを樹立するしか方法はないと僕は思っています。そこでこの本ではあえて「コミュニズム」という言葉を、そういう意味合いで使ってみました。

科学は、役に立たないから役に立つ

大澤 対談の前半でも少し話しましたが、コロナ禍への拙劣な対応が日本人に与えたダメージは大きいと思います。21世紀になってから日本人はすでに自信喪失気味でしたが、それでもまだ得意だと思っていたことも、実はそれほど得意ではなかったと分かってしまいました。これは大変なことになったな、と感じます。
 オリンピックが行われるのかどうかはまだ分かりませんが、パンデミックが生じる前は、オリンピック後にどうなるのかが懸念の対象でした。ところが現時点では、オリンピックよりももっと重要な問題に直面している。コロナ禍の前は「日本という国はオリンピックのために存在しているのか?」という感じでしたが、今やオリンピックは、当の日本人でさえ「不要不急」かもしれないと思うような目標になってしまったわけです。ということは、日本という国は、ほんとうに大きな危機、ほんとうにだいじな問題を前にしたときには世界中の人が「なくてもよいのではないか」と考えるようなことだけが、存在理由になっているような国だった、ということです。

山本 同感です。私は社会にとっても個人にとっても、ポジティブな方向に向かうには、そんなに大きなものではなくてもよいので、目標を設定するのが存外大事ではないかと思っています。食べていくためにお金が必要だという短期的な目標ももちろん必要ですが、できれば中期・長期の目標です。オリンピックが開催されるか否かとは別に、その先をどう思い描くかという想像や展望を持ちづらい状況ですね。
 パンデミックは地球規模の出来事で、それは健康問題のみならずあらゆる面に影響を及ぼしています。しかも大澤さんも書かれているように、「あらゆる面」についての専門家は存在しない。しかし私たちがより良い状態の日本や世界を構想するなら、個別の問題への対処のみならず、複合した状態をマッピングして捉え、複数の専門的な知を交えながら対処法を編み上げていく、そういった物の見方を共有していく必要があるのではないでしょうか。
『「役に立たない」科学が役に立つ』(エイブラハム・フレクスナー、ロベルト・ダイクラーフ共著)という逆説的なタイトルの本があります。プリンストン高等研究所の初代所長と現所長によるエッセイです。初代所長のフレクスナーが、ある資本家に「一番役に立つ科学者は誰でしたか?」と聞いたところ、「ラジオを発明したマルコーニですよ」と答えたそうです。それに対しフレクスナーは「マルコーニがかかわったのは実装の部分だけで、原理はマクスウェルの電磁波の研究です。でもマクスウェルは何かの役に立てようとして研究したわけじゃありませんよ」と言う。なんの役に立つかわからない研究が、あとで他の要素との巡り合わせによって役に立つようになる。こういう事例は山ほどあります。つまり、現時点での必要性を重視して未来を構想するだけでは、何か足りないのではないか。いまは自分たちの目に入っていないものがある、必要や有用というモノサシは時代によって変わってゆく。そういう視点が必要だと思います。

大澤 いい話ですね。先ほどの「未来の他者」の話は、マクスウェルみたいなイメージを念頭に置いているんですよ。マクスウェル自身は自由に好きなようにやっているだけですが、その結果として「未来の他者」の必要に応えている。そこに矛盾が生じない。
 科学なるものを成り立たせている衝動にはポジティブなものを探し出すヒントがあるだろうと僕は思っています。この本でもちょっとそういうことを書きました。

「知」を軽視する国・日本

大澤 僕は日本を念頭に置いて本を書かなくてはいけないと考えていますが、同時に苦しい思いもあります。喩えていえば、日本はもう高校受験をしなければいけない中学生なのに、現状はといえば、小学校の勉強も終わっていないような感じがするのです。

山本 最近たまたま、日本では哲学をどう教育してきたかを調べる機会がありました。現在は「公民」の選択科目として「倫理」があり、その中に「哲学における対話的手法を使う」と出てくるだけなんですよ。本来、倫理は哲学という営みの一部です。世界とはどのような場所か、人はなにをどこまで認識できるか。そんなふうに問題をきちんと問い詰めてとことん考えるための哲学というエンジンを抜きにしたまま、「いかに良く生きるか」という倫理だけを教えるとすれば、それは戦前の修身と同じようになってしまうでしょう。世界を変えていくアイデアを考えようとか、そういう気持ちが生じにくくなっているように感じると先ほど述べましたが、哲学の欠如もそうした状況の遠因ではないかと思ったりもします。

大澤 日本って知性を尊重しない国なんですよ。 
「反知性主義」という言い方がありますが、この言葉については、本来アメリカで使われているコンテクストと、日本での使われ方は逆なんです。アメリカでは、学歴などで出世が左右されてしまうような、知性の領域での差別に反対して、むしろ誰にでも知性があるという議論です。知性そのものに反対しているのではなく、むしろ知性を尊重しているわけです。それに対して日本では、知性そのものが馬鹿にされ軽視される構造になっている。 
 この対談の最初(前半掲載)に述べたように、僕は社会学という学問をやりながら、アクチュアルな出来事に応答していきたいという気持ちがあります。学生に対しても、現在生じている問題を解きほぐすうえで、学問というものがいかに有効かということを示してきたつもりです。
 今回の本でも、終わりのほうにはヘーゲルが出てきます。僕らがいま、世界に対峙するためにヘーゲルが、あるいは哲学や社会学の知が必要だと知ってほしいんですね。

山本 先人たちが格闘の末に生み出した、考えるための「型」を知っておくこと、たとえば大澤さんが今回援用しているヘーゲルの「絶対知」という発想をある程度理解しておくのも、重要ですね。

大澤 いわゆる「物知り」になる必要はありません。自分がいま生きて、世界と格闘していく中で、抽象的だった「知」が具体的な出来事を深く理解するための道具へと受肉していく。それを経験することが必要なんですね。しかし、それが日本ではあまり成功していないのかもしれません。
 われわれは、この世界の中で生きている。しかし日本という国には、この世界を変えようという気概が見られません。残念で、悲しいことです。それも、日本人の自信喪失に繋がっていると僕は思う。

山本 大澤さんのご本に登場した図式を借りて言うなら、「無知の無知」の段階、つまり自分が知らないでいることを知らない状態から、いかに「無知の知」の自覚に至るかがポイントですね。

無力感を乗り越えるために

大澤 最後に、すこしテーマを広げてみましょう。資本主義と民主主義の関係について、です。
 両者の関係は、大問題中の大問題です。長い間、当たり前のように、民主主義国家でなければ資本主義は成功しないだろうと思われていました。だから、貧乏から脱却するためには民主化しなければいけない。これが前提でした。
 ところが21世紀になってから、民主主義国家ならざる中国が資本主義的に成功したことで、もしかしたら民主化と資本主義は別問題かもしれない、あるいは民主化は、場合によっては資本主義的な離陸にとっては障害になるかもしれない、とさえ人々が思うようになってきた。
 そうした感覚が、今回のコロナで助長されてしまいました。新型コロナウイルスが中国で発生した時、当初はまさに非民主的な対応で、情報公開を渋ったために致命的な失敗となったわけです。にもかかわらず、中国のその後の対応はどこの国よりも強烈だったために、逆に「非民主的な国はこういう時に強い」となってしまった。民主主義への信頼が揺らいでいる。これがいま、世界中の人にとっての最大の不安でしょう。
 ところで、日本の民主主義は危機に瀕していると言われます。なぜかというと、国際関係に関わる一番重要なことは、この国では自ら決められないからです。自国で開催するオリンピックをどうするかでさえ、自分では決められない。
 つまり、肝心なことは日本の有権者が決めるべきだと政府は思っていない。また、有権者の意志と異なることをやっても、政府の支持率にはストレートに影響しない。恐ろしいことです。日本人は直面する重要な課題について、自分たちで解決できるとは思っていないでしょう。
 たとえばいま、喫緊の課題になっている米中関係、あるいは中台関係についても、アメリカが解決するべき問題だと思っている。考えてみれば、中国や台湾で有事があった時、大変なことになるのは、アメリカ以上に日本のはずなのに、自分たちではどうせ解決できないと考えてしまう。
 しかし、自分たちで解決できるようにならないと、民主主義は生きてこないでしょう。若い人たちが選挙に行かなくなるのも無理からぬことです。「誰を選んだところで、どうせつまらないことしか決められないだろう」という感じがするんでしょうね。どうでしょうか。

山本 今回の新型コロナウイルスのパンデミックは、それこそ世界規模であったこともあり、同じ問題への対処の明暗が、試験結果のように比べられる状態です。ご指摘のことがいま、若い人たちが希望を持てない原因だろうと思います。また、それにもかかわらず、政治の中枢をよりましなものへ刷新するという希望も持てない。変な言い方になりますが、次の世代が主役になるときに、今よりはましな社会になっているためにはいま、どうしたらいいのか。たとえば、政策決定に科学の助言を適切に反映する仕組みはどうしたら実現するか。世代交代を待ちながら、未来のためにできることを考えて備える。問題の先送りにも見えますが、これこそが当面の解決策かもしれません。選挙に行ったところで実りある結果には結びつかない。こんな無力感を人々がおぼえているのも、たしかだと思います。

大澤 その無力感があるので、未来のことも考えなくなってしまうのかもしれません。日本人ほど「未来の他者」のことを考えない人たちはいない。いろいろなデータを調べてもそのことが分かります。それがどうしてなのかを基層の部分から考えていくことが、今後の僕の課題の一つです。

山本 言い換えると、シミュレーションが下手なのだろうと思います。もしこうなった場合はどうするか。そうではない別の状態になったらどうするか。たとえば、制度や仕組みを決めるとか、オリンピック開催やウイルスのパンデミック状態のような問題への対処を見ていても、本当に事前に各種の可能性を想定して詰めたのかと驚くようなことが多々あります。どのようなシミュレーションを行ったのか、それに対していまはどのようなステータスなのか、それをどう判断するのか。こうした当たり前のことを実現できるようにするのが先決だと思います。大澤さんのご著書を読み、今日のお話を伺って、その思いをいっそう強くしました。ありがとうございました。

(2021年5月1日 NHK文化センター主催オンライン講座より 構成:福田光一)

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プロフィール
大澤真幸(おおさわ・まさち)

1958年生まれ。社会学者。専攻は理論社会学。著書に『ナショナリズムの由来』『<世界史>の哲学』(講談社)、『社会学史』(講談社現代新書)、『自由という牢獄』(岩波書店)、『自由の条件』(講談社学術文庫)、『「正義」を考える』(NHK出版新書)など。

山本貴光(やまもと・たかみつ)
1971年生まれ。文筆家、ゲーム作家。慶應義塾大学環境情報学部卒業。吉川浩満氏と「哲学の劇場」主宰。著書に『文体の科学』(新潮社)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌)、『記憶のデザイン』(筑摩選書)など。

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