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【対談】大澤真幸×山本貴光「来たるべき破局を越えるために」(前編)

気候変動や分断をもたらす資本主義を超えて、コミュニズムに至る。それは、いかにして可能なのか? ――この問いに正面から向き合った大澤真幸さんの新刊『新世紀のコミュニズムへ——資本主義の内からの脱出』の刊行記念対談が、5月1日に行われました(NHK文化センター主催。オンライン)。ゲーム作家・文筆家の山本貴光さんと大澤さんが、パンデミック後に望まれる社会のありかたについて語り合った2時間におよぶ討議の前編をお届けします。

出来事「そのもの」には尽きない感覚

大澤 今日は、僕の新著『新世紀のコミュニズムへ』の内容をふまえて、山本さんとさまざまなテーマについて議論したいと思います。
 この本はコロナ禍をきっかけに考えたことを、まずNHK出版のウェブマガジンに載せ、それをさらにバージョン・アップしたものです。僕はいままでも、社会学者としていろいろな事件や出来事に対応して考えたり書いたりしてきました。その事件や出来事がそれだけに尽きない、それ以上のものに感じられる時、もしそれについて何も語ることができなかったら、何のために社会学という学問があるのか、ということになりますからね。
 社会学の一つの特徴として、社会について語る自分自身も社会の中の一員であり、語られる対象と語る主体が地続きになっているということがあります。四半世紀前のオウム事件の時、文字通りそのことを実感しました。事件の社会的コンテクストの中に自分も組み込まれている、つまり自分自身も社会現象だとつくづく感じたわけです。
 10年前に起きた3・11の時には、すでに50歳を過ぎていた僕は、若い世代の人たちに申し訳ないと思いました。あの原発事故が起きるまで、原発について本当に深くは考えたことがなく、見逃してきたと感じたからです。
 ただし今回のコロナ禍については、これまでとは少し異なる感想を持っています。たとえばオウム事件の時は、十分に啓蒙された知的な若者がどうして不合理な新興宗教に惹かれ、無差別テロまで起こしたのかということが不可解であることは明白で、その不可解さに対して答えを与えるということでした。もちろん謎は深いので、答えは容易に見つからないけれど、それに対して「私はこう考える」と、それぞれの立場の人が何とか模索するということでした。ところがコロナ禍に関しては、現にいま、僕たちがリモートで話しているように、どう対応しなければいけないかという対策自体は明白です。つまり、これにどう対応しなくてはならないかという答えは、すぐに見つかり、しかもたくさんある。それらは、確かに正しい。正しいのだけれども、しかし、その答えをみると、どれも本当に欲していた答えではない、と思えてくる。何かもっと大きなことが起きていて、そうした答えだけには尽きない感覚がある。いま起きている出来事「そのもの」には尽きない感覚ですね。答えがないものに対して答えを出すのではなく、ある程度出てしまっている答えに対して、「それはまだ本当の答えではない。着地してはいけないところで着地している。もっと遠くまで行かなければいけない」という感じで、今回の本を執筆しました。

「資本主義の外」への想像力を刺激する

山本 この本のタイトルは、まさに現在という「新世紀」に、「コミュニズムへ」向かうという大きな構想を提示しています。たしかに資本主義という仕組みそのものがいろいろと困った問題を抱えていて、分かりやすくは貧富の格差を拡大するということは誰もが実感している。歴史を振り返ってみても、それに代わるオルタナティブな仕組みを考えようじゃないか、という発想がいろいろありましたね。そうした構想は、なるほど理想的なものかもしれないけれど、人間は頭でそう分かったからといって、さっさとそちらへ動いていけるか、という疑問がいつもつきまとうわけです。
 大澤さんのこの本は、その点に充分な配慮をしているように感じました。そうはいっても人間は現状からそうそう簡単に物事を変える方向へは進み出せないという前提を踏まえたうえで、それではさて、どうやってコミュニズムへ向かうかという議論をなさっています。どういうロジックや状況診断によって、読者が「たしかにコミュニズムは可能かもしれない」と、現実味を帯びた考え方として大澤さんの提案を受け取るように向かわせるのか。これがまず最大の関心事でもありました。
 昨今の状況で、脱資本主義や脱成長という話はさまざまに提示されています。それではたしてハッピーになれるかというと、魅力に乏しい面もある。そうすると、貧富の差は生み出すけれど、自由に物を売り買いして生活ができる現在の資本主義の仕組みの魅力には抗えなくて、変わっていくのは難しいのではないかと思ってしまう。そこに今回の大澤さんのご本は真っ向から切り結んでいる、というのが私の感想です。

大澤 僕の場合、冷戦終結の時にはまだ高校生だった『21世紀の資本』のトマ・ピケティ(1971年生)や山本さんの世代とは、コミュニズムに対して持つ印象は異なるだろうと思います。僕にはやはりコミュニズムという言葉を使うのに複雑な思いや抵抗があるんですね。 
 本当は、「コミュニズム」とはっきり口にしない形で、資本主義の外に出られるという感じを出すことが理想なんですよ(笑)。マルクスも『資本論』では資本主義の分析に終始しているわけです。しかしこの本を読むと逆に、資本主義の外に出られるかもしれない、と思える。『共産党宣言』などよりもかえってそういう思いにさせるのです。つまりあそこまで資本のメカニズムを赤裸々に分析されると、その外への想像力が刺激される。
 僕としては、今回コロナのことがあって、現状のシステムに何か根本的な限界がありそうだ、と皆が生々しく感じている時なので、あえて思い切った言い方をして、資本主義のオルタナティブとして何がありうるかというサジェスチョンをしたつもりです。ただし、大きな変動は必ず予想外なことです。予想通りになったことなど、たいしたことはなかった。そこで、未来を予想するのではなく、現実に対する強い眼差しによって、逆にそこから外に出られるという想像力を刺激すること。これをねらいとしたわけです。

山本 コミュニズムに対するアレルギー的な反応については、世代によって違いがあるところでしょうね。

大澤 たしか哲学者のアラン・バディウだったか、東側諸国が倒れたことによる一番の被害者は、西側諸国の左翼だと言いました。言葉遊びで、現実のダメな社会主義の不在(デゼートル)は、西側左翼にとっての災難(デザストル)だ、とか言ってね。東側に間違った社会主義があるからこそ、それとは違う真の社会主義がありうると、その存在(エートル)の可能性を、西側の左翼は主張できたからです。しかしそれがなくなってしまうと、多くの人が資本主義を最後のオプションだと思うようになってしまった。ところが、いまやコロナ禍によって資本主義では立ち行かなくなっているということがはっきりと見えるようになりました。

日本の対応への失望

山本 この本の「まえがき」の最後に、「本書のねらいは、死んで幽霊になることにある」という印象的なフレーズがあります。つまり理想を掲げるに留まらず、それが満たされなかったことも銘記しておく必要がある、ということです。人を動かすためには重要なポイントですね。唐突に見えるかもしれませんが、その点はゲームにも似ていると感じます。ゲームでは、つねに遊ぶ人が手を加える余地を残します。いわば未完成だからこそ、遊びたい気持ちを誘うことができる。また、遊ぶ人も、前回は十分なプレイをできなかったという思い、残念があればこそ、また次も挑戦しようとするわけです。話を戻せば、死んで幽霊になるとは、死んだのちも幽霊として、満たされなかった理想が次の世代に取り憑く余地を残すということですね。そこにとても共感をおぼえます。

大澤 未来について語るときには、シニカルに語るのではなく、非常識でもあえてポジティブなことを言うようにしています。でも、一律給付金の例のように、コロナ禍のような例外的な状況でできることは、実は一般化してもできるはずなのです。

山本 この人類未曽有の危機に際して、アーサー・C・クラークのSF小説『地球幼年期の終わり』のように、人知を超えた強大な存在に対して(この小説の場合は、そのおかげもあって)、人類がそれまでの国境を越えて普遍的に連帯する段階へと進むことも可能なはずなのに、しかし実際そうならないのはなぜか、という問題があります。それは実は難問で、大澤さんの本のモチーフの一つでもありますね。

大澤 基本的には二つのベクトルがせめぎ合っていると思います。世界には災害ユートピア的に、近隣あるいはグローバルな連帯の動きもあることはある。ただし全体として見れば、逆のベクトルのほうが強い。連帯どころか、大国のエゴが剝き出しになっているわけです。それはどうしてかと考えると、僕らが、資本主義が持っている時間の構造をなかなか手放すことができず、それが連帯を阻んでいるのではないか、というのが僕の考えです。見田宗介(真木悠介)先生の『時間の比較社会学』を引きながら、そのあたりのことについて説明しているので、くわしくは僕の本を読んで考えてくださるとありがたいです。
 それともう一つ、本には書かなかったことですが、言っておきたいことがある。それは日本の対応についての失望です。日本人は何となく国民全体が、いざという時には秩序だった統制のもとに上手くやれるというつもりでいました。しかしPCR検査にしてもワクチン接種の問題にしても、上手どころかあまりにも下手すぎる。
 最近、映画『シン・エヴァンゲリオン』を観にいく前に、復習のために劇場版の『新世紀ヱヴァンゲリヲン』シリーズを観なおしました。その中に「ヤシマ作戦」という、日本中の電気を集めて危機に対処する場面が出てきます。強力な「使徒」の出現に対して、日本人はこんなことを短時間のうちにできてしまうんだ、と。でも今回のコロナ禍で、日本人にはこういうことはとてもできないことが判明しました(笑)。
 特に、現在焦点となっているワクチンについて、です。国産のワクチンがなぜできないのか。僕はそこに、イヤなものを感じます。「外国から買えばいいだろう」という発想が透けて見えるのです。これは国際関係における甘えでしょう。ワクチンが自前でできれば、自国民のみならず他国にも国際貢献ができるはずなのに、「世界のために」「人類のために」という意欲が全体として乏しい。しかも日本が「Go To云々」に使ったお金は、トランプ前大統領がワクチン開発のために「ワープ・スピード作戦」に注ぎ込んだお金より高いのです。日本の政治家は自国内の、しかも個別の損得のためにGo To云々を優先しました。国際的連帯以前の問題です。

山本 たしかにそうですね。この件で、思い出すゲームがあります。「Plague Inc.」(伝染病株式会社)というブラックジョークのようなゲームです。これはプレイヤーがウイルスなど病原体の立場になって、人類を滅ぼすと勝利するというもの(笑)。最初は特定の地域で発生するだけなのですが、人間たちの活動、ロジスティクス(物流)や交通によって人が移動するにつれ感染が増えていく。そのうち人間側も、ちょっとこれはまずいぞとなるとワクチンの開発に着手したり、交通を制限したりし始めます。それに対してプレイヤーは、変異のスピードや感染力を高めるなどしてワクチンに対抗する。今日もこの対談の前にと思ってやってみたのですが、世界をほぼ制圧したにもかかわらず、人の往来がほとんどなかったマダガスカル島だけ5000人くらい生き残って、結果的には負けてしまいました(笑)。これはもちろん感染症のパンデミックという事態を簡略化したゲームです。とはいえ、それでも一度プレイしてみれば、ウイルスに立ち向かうためには自国のことを見るだけでは立ち行かないという次第が子供でも理解できる。政治家の皆さんにもやっていただくといいと思います。

非日常が日常になる!

大澤 今回の災難の一番の特徴は、中心も周縁もない現象だということです。これは人類の歴史の中でかつてなかったことです。最初は中国の一地方の問題だと思っていたら、瞬く間に地球全体に広がり、人類70億人全体の問題になった。今のゲームのお話のように、現代では人間がよく移動するということですね。つまり空間的に限界がない。
 もう一つ思うのは、もしかしたらこのたびの危機は時間的にも文字通り終わりがないのではないか、ということです。新型コロナウイルスについては、ワクチンや治療薬によっていずれ季節性のインフルエンザ並になっていくかもしれませんが、現時点でも思ったより手こずっていて、去年の今頃、想定していたよりもずっと克服に時間がかかっています。しかもウイルスはこれだけではなくて頻繁に出現する可能性がある。現在のわれわれの生活様式や社会のあり方はウイルスに対して脆弱だからです。のみならず、人新世というコンテクストの中で、ウイルスだけでなく気候変動の問題も含めて、これに尽きない形でいつまでも終わらない危機が連続するのではないか、と僕は考えるようになりました。
「人新世」(Anthropocene)とは、人間の活動が地球のありかたに甚大な影響を与えるようになった時代ということです。この時代には、地球の生態系の破局にともなって人類へ多くのネガティブな影響がもたらされる。くわしくは、僕の本や斎藤幸平さんの本(『人新世の「資本論」』)を参照してください。
 かつて宮台真司さんがオウム問題に関して、「終わりなき日常」に戻りなさい、と言いましたが、このような状況ではもしかすると、もう本当の意味での「日常」には戻れないかもしれない。「終わりなき非日常」しかないかもしれないと思うんです。
 イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、近代社会とは理論的に、例外的な非常事態を常態化するところに成り立つと言いました。この主張はもともと、理論的に純粋化するための誇張でもあったわけですが、アガンベン自身もコロナ禍が始まったあとすぐに示唆していたように、コロナ危機は、この理論的な誇張がそのまま現実になったということです。しかし文字通り非日常が日常になるとするならば、状況を根本的に考え直す必要があります。たとえば経済活動を止めるのは一時的なら可能だとしても、それが常態化して元に戻らなかったらシステムはもちません。こうなると、現状のシステムを前提とすれば悲惨な状態になってしまう。悲惨な結末に至らないようにするにはどうすればいいかというと、前提のシステムそのものを見直さなくてはいけないというのが、僕の考えていることの全体的な流れです。

山本 歴史家のウィリアム・H・マクニールが『疫病の世界史』という素晴らしい本を書いていますが、そこでは疫病を人類の歴史の常数として念頭に置くべきだと指摘しています。人々は今回のパンデミックでも、破局はまだやってこないと考えて、対症療法的に振る舞っているけれども、このままでは破局は避けられないという現実を認識しないといけない。それが大澤さんの今回のご本の強力な主張の一つですね。

経済成長にしか希望を見出せない若者たち

大澤 この本の冒頭でキューブラー=ロスの、人が自らの迫りくる死にどう対応するかという、有名な「五段階」図式について述べました。簡単に説明しておくと、死が不可避となった人は、覚悟を決めるまでに五つの段階を経る。それらは、「否認」「怒り」「取引(バーゲニング)」「抑鬱」、そして「受け入れ」です。最後の「受け入れ」に至ったとき、逆に、死に対して覚悟ができ、前向きになって、考えるべきこと、なすべきことができるようになる。
 この図式との関連で言うと、今の段階は、僕らは主として「取引」の段階にいるのです。取引というのは、抜本的な解決ではなく、対症療法的なやり方で、何とか運命を回避できないか悪あがきすることです。どうして、「取引」の段階に留まるかというと、中途半端な希望をもっているからです。今、ほんとうに必要なのは、つまらぬ希望ではなく、絶望なのではないか。むしろ中途半端な希望をもつことによって、やるべきことができないのかもしれない。避けられない破局を本当に見つめた時には、普段できないような思い切った政策でもできる。破局がほんとうに到来してしまったとき、なぜ到来する前にやらなかったのか、とみんな後悔するわけです。言い換えれば、そのあとで「やっておけばよかった」と思うようなことを、実際、今、やらなくてはならない。そうしたことができるためには、破局の現実性を見つめ、まずはきっちり絶望することが必要ではないか。第4段階の「抑鬱」を経ることによってこそ、人は「受け入れ」の境地に達することができるからです。
 付け加えると、われわれ人類はもはや経済成長にしか希望を持てない状況です。18歳の若者を対象としたある国際調査があります。「今後あなたの国は良くなると思いますか? 悪くなると思いますか?」という質問に対して、豊かな先進国ではどちらかと言えばネガティブな答えの人が多いのに対して、いわゆる発展途上国では「良くなる」と答える人が多い。それはつまり、経済成長以外の方法での幸福を想像できないような状況になっているということです。これでは人新世の問題には対応できません。
 中でも中国は「良くなる」が97%くらいとずば抜けて多い。逆に日本は10%未満です。先進国では「良くなる」が平均してだいたい30%くらいですが、日本はその中でも極端にポジティブな見通しが少なく、「悪くなる」と答える若者の数がきわめて多いのです。
 こんなふうにしか先のことを見通せない現状がある中で、僕らは経済成長に頼らずに別の良いあり方を作れるかどうか。それが、これからの鍵になるでしょうね。

山本 そうですね。古来、東西の哲学や思想が扱ってきた、人間はどうあれば幸せなのかという基本中の基本の問題に立ち戻らないと、ままならないという気がします。
 ご指摘のように経済的な価値だけが希望の尺度になるという、このモデルがあまりにも根深く染みついていることを、いろいろな場面で痛感させられます。そうではない幸福の形も本来あるはずだと、探り直す必要があるでしょう。
 大澤さんは今回のご本の中でも、マルクスの『資本論』などを参照しながら資本主義のシステムをあらためて分析していますが、利潤の最大化を目的とするゲームのルールが大前提となってしまっている。お金を儲けることに対する部分的な最適化は、人類全体がどう生きられるかという全体最適化には必ずしも役に立たない。そのことがちゃんと見えるようにするべきでしょうね。

「生命か経済か」というジレンマ

大澤 人が幸せかどうかという問題は主観的ですから、結局本人に聞くしかないでしょう。「私は幸せです」と言う人がたくさんいれば、基本的にはいいんですけれども、ただしそれだけでは怪しい。人はできるだけ現状を受け入れたいと思って、かなりひどい状態でも自分が幸せだと言って我慢する傾向があるからです。逆に、もっといい状態を望んで相対的に不幸だと感じることもある。でも、それはむしろ良いものにできるだろうという現実的な希望をもてたり、現実味のある理想を抱いたりできる時です。幸せと感じるかどうかということ以上に、現実味のある未来の理想的な状態を描けるかどうかのほうが重要だろうと僕は思います。
 18歳の若い人が「これから日本が良くなるとは思えない」と言うのは、まずそれより上の世代であるわれわれに責任がありますね。それからもう一つ、「これから日本が良くなるかどうかは、実はあなた方にかかっている」とも言えるわけです。しかし自分たちの力で、状況を良くすることができるとは思っていないんですね。ですからやはり、18歳くらいの人が、良くなるという展望を持てるような社会じゃないといけないと思います。
 それからもう少し本質に関することを言うと、一番重要なのは結局「自由」なんですね。それが経済成長の背後にあるもっとも重要な問題です。最初に山本さんが言われたように、資本主義というシステムが、限界があるように見えるにもかかわらず強いのは、人類がいままで作ったシステムの中で最も自由の度合いが高いからです。もちろん、資本主義のもとでも、いろいろな抑圧があったり貧困があったり搾取があったりして自由が制限されています。賃労働だって、部分的には奴隷になることだ、と言えなくもない。しかし、それでも、人類が構築してきた他のどんなシステムよりも、資本主義は自由なわけです。
 これが20世紀の冷戦にあって、東側が敗れて西側が残った一番の理由ですね。100年くらいかけて、人間は自由というものを社会のベースにしなければならないと学んでいるわけです。ですから「資本主義の向こう側」と言われても、それがいま、僕らが享受している自由を放棄することに結びつくとすると、先に言われたように魅力のないものに映るんですね。いかにして自由を放棄せず、かつ気候変動問題を含む、来るべき破局を乗り越えることができるかが最大の問題で、この本の最後のほうでは主にそのことを考えています。

山本 ご本を読みながら私が思い出したのは、カレル・チャペックが1937年に発表した戯曲『白い病』です。「白い病」というのは黒死病のパロディで、しかも50歳以上の人がかかり、確実に死んでしまう。パンデミックによってその疫病が蔓延する世界の話です。
 ある外国出身の町医者が、特効薬を開発します。彼は、貧しい人は無条件にその薬で治療しますが、お金持ちや権力者には、戦争を二度とやらないと誓約すれば治療するという条件を課す。はじめは他人事だと思っていた資本家や、ついには軍人の独裁者までが病にかかります。軍需工場の製造を停止して、戦争をやめますか、とその医者に聞かれた彼らは、それはできないと言う。しかし死にたくはない。そんな皮肉な状況を描いた示唆的な戯曲です。
 何が言いたいかというと、「生命か経済か」というジレンマのことです。ご本の中で大澤さんは、『ソフィーの選択』という小説あるいは映画を引き合いに出して、どちらを選んでも痛みを伴ういわば「究極の選択」の状況にどう向き合うかという話をなさっていますが、チャペックの場合はそれでもなお、命よりも資本や権力を選ぼうとする人間の姿を描いているわけです。そういう人間の本性を前にして、どう考えたらいいのか。簡単に答えが出るような問題ではありませんが、ちょっと紹介してみました。

大澤 面白いですね。チャペックの想像力は、僕らの現在を予見しているようなところがありますね。それは個人の価値観ではなく、システムがどういう価値観を持っているかに関わる問題になるだろうと思います。

6月2日公開の後編へ続く

(2021年5月1日 NHK文化センター主催オンライン講座より 構成:福田光一)

プロフィール
大澤真幸(おおさわ・まさち)

1958年生まれ。社会学者。専攻は理論社会学。著書に『ナショナリズムの由来』『<世界史>の哲学』(講談社)、『社会学史』(講談社現代新書)、『自由という牢獄』(岩波書店)、『自由の条件』(講談社学術文庫)、『「正義」を考える』(NHK出版新書)など。

山本貴光(やまもと・たかみつ)
1971年生まれ。文筆家、ゲーム作家。慶應義塾大学環境情報学部卒業。吉川浩満氏と「哲学の劇場」主宰。著書に『文体の科学』(新潮社)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌)、『記憶のデザイン』(筑摩選書)など。

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