進むべき道に迷ったとき、生きがいを見失ったとき、自らを支える言葉と出会う「7つの授業」――若松英輔『14歳の教室 どう読みどう生きるか』より〔前編〕
気鋭の批評家であり随筆家の若松英輔さんが、中学生たちに7回にわたって行った講義を基に編み上げた『14歳の教室 どう読みどう生きるか』が7月27日に発売されます。本書では、「おもう」「考える」「読む」「対話する」など、素朴な動詞の意味を問いながら大切な言葉との出会いへと導いていきます。2020年で生誕60周年を迎える哲学者・池田晶子さんの傑作『14歳の君へ どう考えどう生きるか』へのオマージュを込めた、新しい「人生の教科書」。
当記事では、本書より第1講「おもう」を前編・後編の2回わたってご紹介します。
第1講 おもう
動的に考える
この授業を通じて、皆さんに一つだけお願いしたい「態度」があります。真面目に授業に参加してください、ということではありません。それは、物事を動的に考えるということです。
どういうことかというと、何かを考えるときに、物事が止まっているようにとらえるのではなく、動いているようにとらえようとすることです。
皆さんも教科書で読んだことがあると思うのですが、鴨長明(一一五五~一二一六)が書いた『方丈記』の冒頭には次のような一節があります。
ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。
(『方丈記』浅見和彦校訂・訳)
とてもよく知られている文章です。河の流れは止まることなく、動いていて、いつも異なる水が流れている。同じ水などというものはない、というのです。
「河」は、しばしば人生にたとえられます。この一節を深く味わえているとき、もう一つの「河」が私たちの心のなかで動くのが分かると思います。そして鴨長明がいうように止まることはありません。
しかし、私たちが「河」を「あたま」だけでとらえようとするとき、静止画のように「河」が止まってしまうことがある。止まった河を写真で見ることはできます。しかし、私たちが、本当に写真を味わうことができたとき、「河」はやはり動くのだと思います。
写真であっても、優れた一枚は、止まっている河を見せることによって、私たちの「動的感覚」を呼び覚まします。絵画も同じです。絵は止まっている。しかし、その止まったものを見て、私たちの心は、かえって強く動くのです。不思議なことです。でも、本当のことです。
君たちに求められること
私たちのなかには、さまざまな「感覚」があります。五感(見る、聞く、 嗅ぐ、味わう、ふれる)は皆さんもすでに知っていると思います。しかし、人間の感覚はこの五つだけでしょうか。生活を深く感じ直してみると、まだまだ眠れる感覚があることに気が付きます。
たとえば、「感じる」とはそもそもどのような営みなのかを考えてみましょう。現代ではあまり使いませんが、「感く」と書いて「うごく」と読みます。「感」は、目には見えない心が「うごく」さまを示す言葉なのです。
ここでいう「動的」とは、目に見えるものが動くだけでなく、目には見えないものが「感く」ことも含みます。なぜ、「うごく」ように考えるのが大切かというと、世界は一瞬たりとも止まることなく「うごいて」いるからです。
別の言い方をすれば、地球ができてから一度も経験されたことのない出来事が、実は「止まる」ということだからです。地球は常に動いているし、皆さんが寝ていても身体は動いていますよね。起きているとき、皆さんがじっとしていても、頭のなかにはいろんな思いが動いています。
世界は、止まっているように感じても常に動いています。だから、私たちは本当のことを考えようと思ったときに、静止的に、止まっているように考えるのではなくて、動的に考えなければいけません。
静止的ではなくて、動的に考える。だから、私が皆さんと深めていきたいのは、「考え」「思い」という静止的な名詞ではなく、「考える」「思う」という動詞なのです。つまり、考えるとはどういうことか、思うとはどういうことか、ということを深めていきたいのです。
「読む」ということは、皆さんにとって当たり前のおこないになっているかもしれません。でも、この授業では改めて、「何を読むのか」よりも先に「読むとは何か」という問いを深めてほしいのです。
問いの立て方に少し注意してみましょう。「何を食べるか」ではなくて「食べるとは何か」を問うのです。「何を見るのか」ではなくて、「見るとは何か」を考えるのです。
このように、動詞を自分のなかで育てていくということを、皆さんと一緒にこの授業で試みたいのです。
皆さんは生きることで、ひとつひとつの言葉を自分のものにしていきます。言葉は、自分で人生を生きることによって自分のものになっていきます。
そのような、皆さんが感じている言葉の意味は、辞書を開いても載っていないことがあるかもしれません。辞書を開いて、ある程度は意味が重なっているけれど、まったく重なることはない。
次の授業で詳しく話しますが、私たちは言葉を「記号の世界」と「意味の世界」という二つの大きな層で理解しています。
「記号」は誰が見ても同じです。しかし、「意味」は違います。君たちが求められているのは、世の中で使われている言葉というものを、「あたま」で理解することに加えて、自分で生きた言葉を「こころ」に刻んで、血肉化していくことです。血となし、肉となしていくことが求められているのです。
これからの君たちは、同じ言葉を読みながら、この二つの層を同時に生きることを求められます。
「これから」というのは、年を経て、皆さんが社会に出たら、ということです。社会とは、常にその大きな二つの層のなかで、同じ言葉を違うかたちで使っています。それがどういうことか、ということを、この授業を通して皆さんと考えてみたいと思うのです。
本当のことは易しい
まず、皆さんと読んでみたい本は、池田晶子(一九六〇~二〇〇七)という哲学者が書いた『14歳からの哲学 考えるための教科書』です。この人物は、二〇〇七年に亡くなりました。私は亡くなった日のことを今でも覚えています。
私は、彼女に読んでほしくて、文章を書き始めました。ある文学賞をもらったときに、「ああ、これで池田さんに文章を読んでもらえるな」と思ったら、その数カ月後に亡くなってしまったのです。ですから、今でも池田さんに向けて文章を書いているようなところがあります。
一般的に、池田晶子は「難しいことを易しく語った」といわれています。でもおそらく、池田さんが伝えたかったのは、そんなことではなかったと思います。彼女があるとき、気がついたのは、「本当のことは易しい」ということなのです。難しいことを易しく語ったのではなくて、本当のことは易しいという事実を、池田さんは私たちに教えてくれているんだと思います。
ただ易しく書かれているということと、それが簡単だということは違います。易しく書かれていることが簡単ではない。これは当たり前ですね。
たとえば、「大切なことは生きて、経験してみなければ分からない」、この一文はとても平易です。しかし、これを実践するために私たちはときに、ある時期、自分の全身全霊を賭してみなくてはなりません。
ですので、皆さんに池田晶子の言葉を読みながら感じてほしいのは、「あたま」で分かるということと、それが私たちの「からだ」に入ってくるということは別だ、ということです。「あたま」で分かったということと、それを本当に分かったということとは違う次元の出来事なのです。こうしたことをふまえながら、池田さんの言葉を読んでみたい、と思うのです。
「おもい」のちから
それではさっそく、読んでみましょう。
ひょっとしたら、誰かは気がついたかもしれない。生きていることが素晴らしいかつまらないかということは、つまり、その人がそう思っているということなんだろうか。その人が素晴らしいとかつまらないとか思っているから、生きていることは素晴らしかったりつまらなかったりしているんだろうか。つまり、自分がそう思っているから、そうなっているってことなんだろうか。
そうだ、その通りなんだ。生きていることが素晴らしかったりつまらなかったりするのは、自分がそれを素晴らしいと思ったり、つまらないと思ったりしているからなんだ。だって、自分がそう思うのでなければ、いったい他の誰が、自分の代わりにそう思うことができるのだろうか。
(『 14歳からの哲学 考えるための教科書』)
先ほどもいいましたが、こういう文章を読むときには動詞に注目して読んでみるのです。書かれている事実に注目するのではなくて、描かれている意味の「流れ」をつかむのです。
先ほど『方丈記』の動く「河」の話をしました。優れた文章は「動いて」います。ですから、それを「止めて」解析したり、分析したりすると深く読めなくなることがあります。
今の文章で試してみましょう。
この文章に「思う」という言葉があります。そこで「おもう」という言葉をなるべく多くの漢字にしてみてください。たとえば、「思う」のほかに「想う」という文字が思い浮かぶのではないかと思います。しかし、なるべく多くということは、もちろん、一つや二つではありません。このあとがなかなか難しいのです。
今、皆さんと考えているのは「おもい」のちからについてです。
今、「おもいのちから」とひらがなで書いています。これを「思いの力」と書くと、それは「おもいのちから」ではなくなります。漢字というのは本当によくできていて、その言葉の一つの側面をとてもよく表してくれます。そのいっぽうで、ある意味を強調する、ときには限定するというはたらきがあります。
逆にひらがなで書くとその「限定の壁」に窓が開くような感覚があります。漢字とひらがな、それぞれの意味を感じ分け、使い分けられるようになっていきましょう。
さて、「おもい」のちからを考えるときに、「おもうとは何か」が分からなければ、「おもい」のちからを出しようがない。この「おもい」のちから、「おもう」ちからは私たちの人生を変えてくれます。
この「おもう」ちからというのは、皆さんがいま使っているものです。「おもうってなんだろう」と一生懸命考えている。あの人は何をいっているんだろう、と考える。思考のちからです。
つまり、「おもい」のちからとは、皆さんの「おもい」を遠くに飛ばしたり、もしくは過去のことを考えたり、今ここに存在し得ないことを考えるちからのことなのです。
素樸な言葉を感じ直す
ひらがなで「おもう」と書く。この、ひらがなのちからというのもすごい。私たちが「思う」と書くのと、「おもう」と書くのでは、意味が違ってきます。
私は新潟県の生まれです。そんな私が「いま新潟のことを思っているんです」と書く文章と、「いま新潟のことをおもっているんです」と書く文章では語感が違います。
過去のことを思うことを「懐古する」といいますよね。これも「おもう(懐う)」です。いたるところに「おもう」が隠れている。
こころに秘めた人を「恋う」。
大切な人の無事を「念う」。
人間を超えた者の存在を「惟う」。
十年前のあの日を今日のことのように「憶う」。
小学生だった頃を「顧う」。
あの人の心にある痛みを「忖う」。
これらはすべて「おもう」です。遠慮というときの「慮」も「おもう(慮う)」と読むという人もいます。
ここで大切なのは、「おもう」という漢字をたくさん知ることではありません。それよりも、「おもう」という日々使っているたいへん素樸な言葉についてさえも、あまりよく分かっていないという事実を感じ直すことです。よく分かっていないわけですから、「おもい」のちからを十分に用いることができていなくても不思議はありません。
「体感」を育てていく
そのいっぽうで、「おもう」というはたらきに私たちはとても助けられています。よく知らないものに助けられながら、毎日を生きている、この「不思議さ」について、池田晶子は次のように述べています。
いったい何が不思議なんだろう。その不思議な感じを、自分の中へ、ずうっと追いかけて行ってみてごらん。不思議な感じの出てくるところを、きっと見つけられるはずだから。
誰か見つけたかな。そう、不思議な感じの出てくるところは、「自分が、思う」というこのことだ。自分が思う、自分がそう思う、何かについて自分がそう思っているという、このことだ。この「自分が思う」ということは、いったいどういうことなんだろう。
この文章で注目したいのは、「いったい何が不思議なんだろう。その不思議な感じを、自分の中へ、ずうっと追いかけて行ってみてごらん」という一文です。池田さんは「感じ」という表現を用います。
ここでいわれていることはつまり、何かを考えるときには、まず体感していかなければならない、ということです。この「考える体感」をしっかり自分の中で育てていくことが「おもう」こと、あるいは「考える」ことの基盤になります。
「おもう」とき、頭だけで理解してはいけない。頭よりも、むしろ身体のほうが先に、自分に何かを教えてくれることがある。「おもう」とは、私たちの頭だけの仕事じゃない。全身全霊の仕事なんだ。そのことを忘れてしまうと、もったいない、というのです。
皆さんも実は、頭よりも身体のほうが先に働くということを日々経験しています。たとえば、自分以外の人が悲しんでいるとき、その悲しみを自分のことのように感じ、心が深く揺れることがあるでしょう。これは、皆さんの頭よりも身体が先に反応しているからです。だから心が揺れるんです。心が揺れるのは当たり前のことではない。皆さんがいつの間にか身につけていることです。
ほかのことでも身体で感じるのと、頭で理解するのは違う。ですから、「考える体感」が身につくまで「自分は分かっていない」という状態に身を置くことができるかどうかが大切なのです。なぜならば、人は分かったと思ったことをそれ以上深めることはないからです。
私は君たちと初めて会いました。それで、このあと五、六回会うと君たちのことが分かった、と私が思い始めるとします。「ああ、何となく中学生ってこういう感じだな」と。すると、君たちはそのことを敏感に感じます。「ああ、この人は私のことをまったく分かろうとしていない」と感じると思うのです。もし、私が君たちのことをずっと、ひとつの謎な人格だと思い続けることができれば、私と君たちはずっと対話を続けていくことができます。
分かったと思い込んでしまうことは、その人の分かるちからをどんどん小さくしていくんです。
「分かる」という言葉を考えるうえで大事なのは、分からなかったことが、次第に分かってくるということです。それを頭ではなく身体で体感していくことです。この人の話していることは分からない。分からないけど何かがある。こういった感覚こそが、人間を豊かにする、と池田さんはいうのです。
心の動きを豊かにするには
先ほどもいいましたが「感く」と書いて「うごく」と読みます。言葉をうまく実感できないときは熟語を複数、想い出すことです。「感」であれば、「体感」「感性」といった熟語が浮かびます。
ほかにも、「感」という字を使う熟語には「感情」というものもあります。感情というのは実はとても大事な熟語で、私たちの「情」が感いていくさまを表しています。世の中では「あまり感情的になってはならない」といわれることがあります。そこで意味されているのは「感情」ではなくて「激情」です。
激情と感情は違います。激情は「激しい情」と書きます。つまり激情とは、「あ、 廊下走っちゃダメだよ」と静かにいえば済む場面で、「廊下を走るな!」と怒鳴るような、心の動きを表しています。そんなときは怒鳴らないほうがいいに決まっている。人は激情的にならないほうがいい。
ですから、私たちは「感情」という心の動きはどこまでも豊かにして構わない。そして、「感」という字を「うごく」と読むことが分かれば、君たちは感動の経験を自分のなかで本当に愛しむことができるようになっていくのです。
本当のことがだんだん分かってくる
先ほど「体感」という言葉を挙げました。このときの「体」は、単に肉体を意味していません。「体感」していくことについて、池田さんは次のようにいっています。
だから理想を現実にすることは不可能なんだと、失敗した理由として人は言うけど、本当の理由はそうではない。目に見える現実だけを見て、目に見えない観念を見なかったからだ。この場合、人々の観念は、目に見える現実だけが現実だという観念だった。つまり、社会というものが何か目に見える物のようにあるように思い、そこに戦争や貧困や不平等があるのは社会のせいだという観念だ。
皆さんは、「心眼」という言葉を聞いたことがありますか。私たちには、目に見えるものを見る「目」のほかにもうひとつ、見えないものを観る「眼」があります。心眼とはこの、目に見えないものを、心の眼で観るちからのことです。
池田さんのいう「目に見えない観念を見」る眼とは、心眼のことです。
また、仏教では人間には開かれるべき五つの「眼」があると考えました。仏教では「眼」ではなく「眼」と読みます。「肉眼」「天眼」「慧眼」「法眼」「仏眼」です。世界には少なくとも五つの「見えない」層があるといいます。「肉眼」は見えるものを見る「目」です。しかし、「天眼」以降は、「見えないもの」を見る「眼」のことです。
今の文章に、「観念」という言葉がありました。観念の「観」というのは、「見る」というよりも「見えてくる」ということです。だんだん、だんだん、見えてくるということです。一方で「見る」は、いま見えることを表します。だから、観念とは、ぱっと分かるということではない。本当のことがだんだん、だんだん分かってくることを表すのが、観念という言葉なんです。ですから「人生観」というのです。
人生観とは、年齢を重ねることでだんだんと見えてくる人生の本当の姿のことです。生きていない人間に「人生観」はありません。
さらには、「観念」の「念」という字も「おもう(念う)」と読みます。では、この「念う」という字にはどういう意味があるのでしょうか。
たとえば私がある職人で、雑な仕事をしたとします。すると親方は私に、「念には念を入れてやれ」というでしょう。
「祈念」あるいは「念仏」という言葉が、この「念」という言葉の意味を感じさせてくれます。祈りも仏を念うのも、意識のはたらきだけではありません。それは意識をはじめ、心の奥深くにある無意識をすべて包みこむようなはたらきでなくてはならない、ということになります。
プロフィール
若松英輔(わかまつ・えいすけ)
1968年新潟県生まれ。批評家、随筆家。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選、2016年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞、2018年『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33回詩歌文学館賞詩部門、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)にて第16回角川財団学芸賞、2019年に第16回蓮如賞を受賞。著書に『イエス伝』(中央公論新社)、『生きる哲学』(文春新書)、『悲しみの秘義』(ナナロク社、文春文庫)、『種まく人』『詩集 愛について』(以上、亜紀書房)、『詩と出会う 詩と生きる』『NHK出版 学びのきほん 考える教室 大人のための哲学入門』(以上、NHK出版)など多数。
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